水槽
2009年 8月にコミケで無料配布本として発行
夏のホラー2025企画参加用
硝子に遮られた、ちっぽけな世界。
たくさんの成魚。
たくさんの稚魚。
たくさんの老魚。
息苦しいほどに、水より多いのではないかと疑いたくなるほど、私たちは考えなしに、増えてゆく。
栄養の高い餌はあった。
新鮮な空気は送られてきた。
だから私達はなんの遠慮もなく、ただ増えた。延々と増えた。
もういけないのではないかと、私は思って口にしたが、硝子向こうの目がなんとかしてくれるのだと、みんなは答えた。
答えながら、次第に仲間たちは神経質になっていった。
この過密な世界で、自分の稚魚を守ることで精一杯。自分の稚魚さえ、食べてしまうものも出て。
ああ、このちっぽけな世界は、あまりにも息苦しい。私が生まれた時、ここはとても広く、十分な広さだったのに。
老魚に対して、邪魔だ死ねと冷たい台詞を投げつける若い魚たち。肩身の狭い、もはや老いた私たち。
それでも私達は、増えつづけた。互いの背びれがぶつかるほどのぎすぎすした世界で。
呼吸にすら難儀しながら。
ある日、限界点を超えてしまった。
ぎしぎしと詰まった私達に疫病が発生したのだった。
それは、狂った成魚が、老魚を食い殺したことから始った。
老魚の死体は日に日に腐り、水はねばねばした体液で汚染されていく。そして疫病が発生した。
それは瞬く間に広がって、体力のない稚魚と老魚がばたばたと死んでいった。
絶望しながら、私達は硝子の向こうにいる、大きな何かを見る。期待する。
いつも行なってくれていた、浄化を期待する。薬をくれた。水を替えてくれた。死体を取り除いて、この世界をキレイに保ってくれた。
だが、当たり前の、いつもの奇蹟は降り注がない。
硝子の向こうの目はこの惨劇を眺めているだけだ。
『もっと頭がいい魚かと思っていたが、ダメだったな。空間認識と個体数の調整ぐらいは本能的にできるかと思ったのに』
『このまま放置しますか?』
『替わりはいくらでもある。この末期の、疫病や個体の免疫に関するデータは欲しい。だから、この水質のまま継続する』
何故ですか。
私達は貴方という存在を、この硝子ごしからでも感知し、愛し、信じていたのに。
なのに、この仕打ちですか。
私は硝子の向こうの目を憎んだ。伝わればいい、この憎しみと、この恨みと、のろいが。
硝子を私達はこえられない。
私の仲間たちは貴方が救ってくれると、信じていました……。それが罪でしたか?
生臭い水の中で、もう最後の何匹かとなりながら、私は慟哭した。
男は水槽の中の死体を炉に捨てて、水槽を消毒した。
その目には面倒くさいという感情と、新しい魚を入れられるという次の好奇心と希望しかなかった。
無論、この大量死の教訓は生かすつもりだったが。
炉を覗くと、まだ魚が一匹、びくびくと痙攣しながら、口をパクパクとさせて生きていた。老魚だった。
男は手を止めて、思案する。
だが、すぐにそのまま、マッチを擦って火を投げ込んだ。
火は炉の中を駆け巡った。
「もう助からないだろうしな。あ、せめて頭を砕いて、楽にしてやってから……、もう遅いか」
男は知らない。
魚に個性があったことも、魚たちが彼を崇拝していたことも、信じていたことも、彼が行なう奇蹟を待ち焦がれていたことも……。
知っていたとしたら?
知っていたとしても、彼はすぐにその事実を忘れたことだろう……。