八話 勘違い
リネアは頬のガーゼをそっと撫でる。先ほど、夫人に扇子でぶたれたときに小さな切り傷ができてしまったからだ。
そんなに痛みもなかったが、血はそれなりに出ていたらしい。急ぎ足のヨーランが出会い頭に血相を変えたのを見るに、深手だと思われたようだ。
「まさか夫人が兵舎にまで来るなんて思ってもみなかったわ。癇癪を起したアマリスをそのままにしてきたのが間違いだったわね」
アルタスがいないこともあり、夫人はかなり強気に振舞っている。使用人から主人として認められていなくとも、逆らえないことを知っているからだろう。
「このままでは不和が広がるばかり。今からでも二人を別邸に住まわせるべきだと提案しなくちゃ。早く、お父さまが帰ってきてほしいと思うことがあるなんて」
言いながら、つきりと胸が痛む。ただ純粋に父の帰りを心待ちにできたらどれだけよかっただろう。
――いっそのこと、私が出ていけばいいのかしら?
花瓶を抱える腕に力が入る。
「令嬢! ああ、よかった。探しにいこうと思っていたところでした」
「あ……マーキーソン子爵さま。私になにかご用でしたか?」
ロデリックの部屋を前にした瞬間、扉が開かれる。
「そちらは私がお持ちいたします。ああ、令嬢になんとお詫びすればよいか」
「え?」
話の流れが読めず、リネアは目を瞬かせる。
「まずはどうぞ、お入りください」
サフィのエスコートはいつもより丁寧に感じられた。
「――」
戸惑いながらも入室したリネアの足が止まる。
――なんて、綺麗な顔。
柔らかなベージュ色の髪は日の光に照らされていつもより輝いて見える。カルデロンを象徴する赤い目は鋭いが、震えるような冷たさはない。
そしてなにより、包帯に隠されていた顔は天使のように美しい。無機質な表情は彫刻というほうがしっくりくる。
「えっ」
ロデリックがおもむろに頭を下げ、リネアは声をもらす。
「な、なにを……顔を上げてください」
サフィといいロデリックといい、いったいなにがあったのか。
「令嬢には度重なる無礼を。謝罪させてほしい」
「公子がなにをおっしゃられているのか、私にはわかりません。無礼など一度も……」
「あなたをバーニー家の令嬢ではなく、侍女だと思っていた」
思ってもみない勘違いにリネアは目を見張る。
「ちなみに、カルデロン公子が謝罪したいというものは具体的にお教えいただけますか……?」
「兵士たちの話し相手をさせたり花瓶を運ばせたり、雑務を頼んだことなど……令嬢に任すようなことではなかった」
「兵士のみなさんの様子を見ていたのも、こうして花瓶を用意したのも、すべて私がしたくてやっただけのことです。ですから、公子が謝罪することはございません」
「だが……」
「まあまあ、立ち話もなんですからまずは座りませんか? こうして令嬢を立たせたままということが失礼ですよ、ロデリックさま」
ロデリックはベッドに、リネアは椅子へとそれぞれ腰かける。
「その、なぜ私を侍女だと思っていたのですか? 初日に挨拶をしたはず、なのですが」
アマリスの失言は忘れたくても忘れられない苦い記憶だ。なかったことにしてくれたとはいえ、リネアの心には引っかかり続けるだろう。
「あの日、高熱で朦朧としていてあまり記憶がないんだ。目も耳もぼんやりとしか情報を拾えていなかった」
ふらふらとしていたのは疲れだけでなく、高熱にうなされていたからだといまさらながらに知る。
「挨拶だけでもサフィとともに向かったのだが、それすらもできなかった」
「いえ、そんな……体調が優れないにもかかわらず……謝罪したいのは私のほうです」
「なぜ令嬢が謝る?」
リネアとアマリスの区別もつかないほど意識が朦朧としていたのならば、アマリスの失言も覚えてはいないのだろう。
――だからこそ、マーキーソン子爵さまも『なかったことに』とおっしゃってくださったのね。
リネアはうかがうようにサフィに目配せをする。リネアがなにを伝えたいのかサフィはすぐにわかったようだ。じっと目を合わせたあと、静かにうなずいた。
「公子は覚えていないかもしれませんが、あの日、アマリスさまが公子や子爵さまに無礼を働いたのです。子爵さまのご配慮により大事にはなりませんでしたが……」
「そうか。それならなにも言わなくていい。あなたが謝る必要もない」
「ですが」
「ではサフィの顔を立てるため互いに水に流そう。これ以上の言及はひかえるように」
「ええ、私もそうしていただけると助かります」
二人にそう言われては、リネアはもう引き下がるしかない。
「それより、その頬について聞いてもいいか」
「あ……少し、ぶつけてしまいまして」
ガーゼをつけなくてはならないほど顔をぶつけるなど、どこのおてんば令嬢だろうか。けれど正直に話すわけにもいかない。
「そうか。それは災難だったな」
苦しまぎれだとわかるだろうに、ロデリックはあっさりと納得してくれた。だが、見据えられるような視線が刺さり、なんとも居心地が悪くなる。
「あと十数日もすれば辺境伯が帰ってくると耳にしたのだが」
「あ、はい。その予定だと私も聞いています」
「もうしばらく世話になっている。辺境伯と挨拶を交わしてから帰還しようと考えているんだが、晩餐をともにする場を設けてはもらえないだろうか」
「晩餐、ですか」
少しだけ顔を歪めてしまった。
「不都合がありましたら無理にとは言いません。カルデロンとして辺境伯の謝意を述べたいだけですので」
「いえ、不都合というか……晩餐となると、夫人やアマリスさまもおられますので」
二人に席を外すように言っても、アマリスはともかく夫人は必ず出席するだろう。
「……むしろ好都合だ」
「はい?」
ロデリックがなにかぼそりと呟いたが、リネアは聞きとれなかった。
「あなたの献身には必ず報いよう」
「そんな、大げさです。私は当主代理としての責務を果たしただけですから。むしろみなさまには冬の備えまで手伝っていただいて……」
「謙遜をする必要はない。辺境伯が不在のなか、令嬢一人でよくやってくれた」
「ありがとう、ございます」
こうも純粋に褒められたのはいつぶりだろう。曇りのない目を向けるロデリックと、そのそばでうなずくサフィにリネアは気恥しさを覚える。
――なんだか、そわそわしてしまうわ。
アルタスに手紙を出すと足早に部屋を出ていったリネアの足音が聞こえなくなったころ、ロデリックが無言をやぶる。
「辺境伯の妻となった女性と、その娘を調べろ」
「もとは娼婦という話でしたから、素性ならすぐにわかるかと」
「素性はいい。辺境伯もそこまで愚かではないだろう」
「では、なにを……?」
すっと細められたロデリックの目に、サフィはぞくりと体を震わせる。リネアに向けられていた目と同じとは思えないほど冷えきっていた。
「令嬢が受けてきた理不尽を、詳しく知る必要があるようだ」
「バーニー家に仕える使用人と親交を深めたものが数人いますので、それとなく聞き出すよう伝えます」
サフィの出ていった部屋で一人、ロデリックは遠くの空を見つめる。
「母上も、心を痛めるに違いない」