六話 花瓶
「カルデロン公子、リネアです。入ってもよろしいでしょうか?」
ノックのあと、了承の声が届いた。
「失礼します。念のため、扉は開けたままにしておきますね」
道中でサフィと出会わず、リネアは一人でロデリックのもとまでやってきた。
男女が密室で二人きり、なんて状況にならないためのせめてもの措置である。
「なにかあったのか」
「いえ、そういうわけでは……」
「それは?」
ロデリックの赤い目はリネアが抱える花束に向いていた。
「庭に咲いている花をお持ちしました。色や形がいいものを庭師が選んでくれたので、公子にお贈りしたくて」
手紙の内容が頭をよぎった。まるで振り向いてほしくて花を持ってきたようで、リネアは罪悪感と恥ずかしさに襲われる。
――少しでも軟膏のにおいをごまかせたらと思ったのだけれど。
今日もつんとしたにおいが部屋に充満している。窓を開けていないから余計にこもってしまうのだろう。
「それはどうするんだ?」
「公子さえよければ飾ろうかと思ったのですが」
言いながら気づく。
「……花瓶を忘れてしまいました」
「そうか」
「ですので、今日は目と鼻でお楽しみください」
「鼻?」
「はい。ほんのりとした甘い香りが軽やかで、優しい気持ちになれます」
ロデリックは視線をさまよわせ、申し訳なさそうに口を開いた。
「悪いが、あなたの言う花の香りは感じられない」
ふるふると頭を振るロデリックにリネアは花束を差し出す。戸惑いをにじませながらもロデリックは受けとってくれた。
「窓を開けてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
リネアが腕を伸ばして窓を開けると、ふわりと風が舞いこんできた。窓から扉へ、風が通り抜けていくのを感じる。
「換気のためにも、薬を塗ったあとはこうして窓と扉を開けておくといいかもしれません」
「たしかに空気が澄んだな」
すう、と息を吸う音が聞こえた。ロデリックは目を閉じ、深呼吸を繰り返している。
「包帯のせいで感じにくいが、ここに置いておく」
窓辺に置かれた花束が静かに揺れる。風が吹くたび香りが運ばれた。
「スーウェンに面しているわりに、バーニー領はのどかだな」
「え? ああ、そうですね。すべての村に必ず兵を配置していますから、小競り合いさえなければ治安はいいと思います」
少し間を空けて、リネアは尋ねる。
「カルデロン領はどんな場所ですか?」
「人が多く、活気に満ちている。腕に自信のあるものが多いが、それを狙って計算高いものも集まりやすい」
「計算高い?」
リネアが小首を傾げると、ロデリックはこくりとうなずいた。
「商機を逃さないというべきか。それぞれが利害を追求した結果、商人が増え続けている。そのおかげで経済がよく回っているが」
騎士や兵士には戦うための装備や身体を育てるための食事など、利益を追求すればするほど発展していくのだろう。
「いたるところで市場も賑わっている」
「カルデロン公子も市場へ?」
「いや、今はもう行っていない」
「昔は行かれていたのですね」
話している間、必ずと言っていいほど目を合わせていたロデリックは窓の外へ顔を向けた。
「興味のない俺を連れ出していた人は、今は遠くにいるからな」
「そ、れは……なんと申し上げていいか」
ロデリックが眉間にしわを寄せて振り返った。
「死んでいないぞ」
「えっ!?」
意味深に遠い空を見上げたものだから、てっきりそうなのだと勘違いしてしまった。
「数か月前からオルニクスで治療を受けている。手術はもう終わったが、王国の状況と体調を鑑み、向こうの病院に長期入院しているんだ」
「そ、そうなのですね。……失礼いたしました。早く再会できるといいですね」
「ああ、本当に」
いつになく優しい声音に、こんな一面もあるのだと胸が静かに高鳴った。
――もしかして、友人とか、想いを寄せている方なのかしら?
聞いてみようか迷っていると、廊下から声が響いた。
「どうしてここの扉が開いて……っと、令嬢もおられたのですね。なるほど。二人でなにをお話しされていたのですか?」
「ごきげんよう、マーキーソン子爵さま。公子にカルデロン領がどんな場所かを聞いていました」
「そうでしたか。令嬢もいつか、ぜひカルデロンへお越しください」
「機会があれば、ぜひ」
社交辞令だとしても、いつか本当に行けたらいいなと思う。
「本日は雰囲気が違いますね」
「髪を結い、まとめてみたのです。変ではないでしょうか?」
「変だなんてそんな。普段もお美しいですが、今日はどことなく凛としていて違った魅力があります」
「あ、ありがとうございます」
こんなに褒めてもらえるとは思っておらず、リネアは素直に照れてしまう。
「で、では……長居しすぎてしまわないよう、私はそろそろ失礼します」
「そ、そうおっしゃらず、もう少しお話をされては……」
「無理に引き止めるものでもない」
ロデリックにたしなめられたサフィはあからさまにしゅんとしていた。
リネアは微笑みを、小さく礼をして踵を返した。
「お二人とも、どうかご自愛ください」
「令嬢」
扉を閉めかけたとき、ロデリックに呼ばれる。
「なんでしょうか?」
「次は、花瓶も忘れないよう頼む」
「――」
包帯で表情はわからない。しかし、わずかに下げられた目尻に、笑まれたと感じた。
「はい。次は違う種類のお花と、私も選んでみます」
「ああ」
リネアはそっと扉を閉め、いつになく軽い足取りで兵舎をあとにした。
本邸へ戻ってきたリネアに、玄関ホールでうろうろしていた数人の侍女が駆けよってくる。
「なにかあったの?」
「そ、それが、アマリスさまと執事長が揉めていて……っ」
「執事長と? どこで?」
「アマリスさまのお部屋の前です!」
リネアは急いで現場へと向かう。階段を上がっている最中にも、アマリスの荒だった声が響いてきていた。
「ですから、私には商人を呼ぶ権限はありません」
「嘘よ! 今までは呼びつけてたじゃない!」
「なにを騒いでいるのですか」
今にも執事長に掴みかかりそうな勢いだったアマリスは、口を挟んだリネアをきっと睨みつける。
「この役立たずが仕事をしないのよ! 私をバカにしているんだわ……お父さまが私を貴族にしたのに、私は辺境伯の娘なのに! この無礼者!」
リネアは額に手を添えてため息をつく。こうして癇癪を起こす姿はどうしても慣れない。見ているこちらが恥ずかしくなり、顔をそむけてしまいたくなる。
「お父さまの言いつけを忘れたわけではありませんよね?」
「だからこうして頼んであげてるじゃない!」
「屋敷の管理は私に一任されています。執事長の言うとおり、彼だけの判断では商人を呼べません」
「……だったら、リネアが呼びなさいよ!」
「うっ」
アマリスにがしりと肩を掴まれ、リネアはうめき声をもらした。
「姉には優しくするべきでしょう? どうして私を悲しませるようなことをするの!?」
「お嬢さま!」
ぎり、と肩を掴む手に強い力がこめられた。割って入ろうとする執事長に首を振り、手を出さないように伝える。
「なによ、私を無視するの!?」
「商人は呼びません。これから訪れる冬に向けて備蓄を進めなければなりませんし、なにより今はカルデロンのみなさまがいらっしゃいます」
「だったらさっさと追い出しなさいよ!」
リネアと執事長、そして少し離れた場所から見物していた使用人たちが一様に絶句した。
数か月も続いた戦を終わらせたカルデロンはまさしく英雄だ。そんな彼らを邪険にするなど恩知らずも甚だしい。
「不満があるのなら、アマリスさまが出ていけばよろしいのではなくて?」
気づけば、限界を迎えていた。