五話 仕方がない
「崩れないようにお願いね」
「お任せください! 太陽のように輝くお嬢さまの髪は飾らなくても充分に美しいですが、今日は誰もがお嬢さまの可憐さに目を奪われるでしょう」
いつもは下ろしている髪を今日は三つ編みにして、さらにお団子にまとめてもらう。普段はくしですくだけだからか、侍女の気合いの入りようが違った。
――風になびく髪が邪魔なだけだったのだけど……。
鏡に映る侍女の顔は楽しげだ。わざわざ水を差すこともなく、リネアは身をゆだねた。
「なんだか頭が軽い気がするわ」
そう複雑ではない髪型は想像よりも早く仕上がった。鏡の前で角度を変えながら確認するリネアの姿に侍女も満足げである。
「アクセサリーはどうなさいますか?」
「つけなくていいわ。それより、あの二人の様子はどうかしら?」
「夫人とアマリスさまは使用人に対しての横柄な態度が目にあまります。目を赤くするものが毎日あとを絶たず……このままでは旦那さまにまで不和が広がってしまうかもしれません」
好き勝手に商人を呼べなくなり、散財できなくなった二人のフラストレーションはたまるばかりだろう。
「本邸に住まわせる時点でお父さまの落ち度だわ。せめて娘にだけでも教育を施せたらいいのだけれど」
「家庭教師はすぐにやめてしまいます。このままではバーニー家の威信も落ちてしまいかねません」
リネアと侍女は顔を見合わせ、肩を落とした。
名のある家庭教師の大半は貴族夫人である。貴族としてのマナーや教養を学ばせようにもアマリスはそれを拒否する始末。そのくせ、社交界には興味津々なのだから笑えない。
「執事長と話がしたいわ」
朝食のあとにでも話をしたかったが、業者の対応に時間がかかっていたために執事長と顔を合わせたのは昼前となった。
兵士たちを受け入れたことで食料などの搬入が増えたこと、後任育成のために若人を付き添わせていたことで時間もかかっていた。
「お待たせいたしました」
庭園のガゼボでお茶をしていると、執事長がやってきた。激務だろうにその顔には一切の疲れがなく、むしろ心配になる。
「いくつか確認したいことがあって呼んだの。お父さまはいつごろ戻られるかしら?」
冬に備え、辺境伯は領地の視察を行っている。貯蓄が足りない村に支援を検討するだけでなく、帝国からの侵入者を警戒するためにも定期的に回る必要があった。
「あと二週間ほどで戻られる予定です。それと、つい先ほど旦那さまからお嬢さま宛てに手紙が届きました」
リネアは手紙を受けとり、すぐに封を切った。
「アマリスさまがしでかしたことをお父さまに伝えたのね」
「家門に関わることですので、私から報告した次第でございます」
手紙にはアマリスの躾を厳しくする旨が淡々と綴られていた。温かみもない事務的な文章。読み進めていたリネアの表情が曇っていく。
「……執事長から見て、お父さまをどう思う?」
「どう、とは?」
「私、お父さまのことがよくわからなくなってしまったの」
執事長は体を固くし、わずかに目を伏せた。
「旦那さまは……戻られたように思います」
「戻った? どういうこと?」
「先代夫人が病に伏せ、オルニクス帝国に滞在してからはひどく憔悴しておられました」
「それじゃあ、どうしてお見舞いに来なかったの? 来なくなったの?」
「時期が悪かったのです」
フィルティアが病に倒れて間もなく、スーウェン帝国からの侵攻が激化したのだ。多くの兵が招集され、スーウェンと隣接するバーニー家も例外ではなかった。
「先代夫人だけでなく、お嬢さまも家を空けられ……旦那さまは孤独とも戦っていたのでしょう」
リネアも身の安全を確保するため、フィルティアとともにオルニクス帝国へと渡った。それでも手紙は送り続けていた。
「だったらなおさら……!」
「国防を放棄し、オルニクスへと向かうことなど誰が許してくるでしょう」
リネアは口を噤む。
「……甘言にかどわかされ、旦那さまは過ちを犯しました。あのときは、仕方がなく」
「仕方がない? 本気でそう思うの?」
ここで執事長を責めても意味などないのに、きつい口調になってしまう。
「気の迷いで、あんな二人を迎え入れたの!? 私がお母さまと帰ってきたときにはすでに、あの二人を別邸に住まわせていたじゃない。葬儀を終えたらすぐに本邸へ呼びよせて!」
なにも言いたくないのに、口にしてはいけないと思うのに、ふたをして隠していたものがどんどんあふれてくる。
「お母さまが病にかかって、遠くへ行ってしまったから仕方なく代わりを探した? 関係を持ってしまったから、仕方なくあんな女性を妻にした? ふざけないで! どれだけお母さまを侮辱すれば……っ」
目の奥が熱くなる。
つらそうで、苦しそうに、けれどリネアの怒りをただ一身に受けとめる執事長の姿に溜飲が下がっていく。
――執事長にあたりたいわけじゃないのに。
気を抜けば涙がこぼれてしまいそうで、リネアはぎゅっと唇を噛む。
「そう強く噛んでは切れてしまいます、お嬢さま」
「あなたを責めたいわけじゃ、なかったの……ごめんなさい」
「ええ、わかっておりますとも」
執事長は静かに目をつむり、うなずいた。
リネアの紫紺の目から一粒の涙が落ちる。
「帰宅した先代夫人とお嬢さまと再会した旦那さまは、我に返られました。己を律し、今は……務めを果たしておられます」
迎えてしまった以上は仕方ない。妻子ある身でありながら別の女性に救いを求めた父のことを許すことはできないが、仕方がないのだろう。一時の気の迷いで、二人を養う義務が生まれてしまったのだから。
リネアは短く息を吐き、ごしごしと目元を拭った。
「それじゃあ、お父さまがアマリスさまを後継者にとは考えられていない……そう思っていいのよね?」
「はい?」
執事長は目を見開いた。
「手紙には、私がカルデロン公子に気に入られるようにと書かれているわ」
アマリスの失態に失望し、アルタスは候補を絞ったようだ。
「もし私が家を出たら、誰がバーニーを継ぐの? まさかアマリスさまを後継者にしようと考えているなんてこと……」
「それは、ありえません」
一瞬言いよどんだ執事長に不安が揺らめく。
「傍系にも優秀な子どもたちはおりますから」
リネアと同年代のいとこたちは数人いる。もしものとき、アルタスが彼らからのなかから後継者を選んでくれることを願う。
「すぐに新しい家庭教師を手配して。一から身の振り方を学ばせるためにも、なるべく厳しい方がいいわ」
「旦那さまからの指示もあり、そちらはすでに選考を始めています」
「あ、それともう一つ。バーニー家がカルデロン家から特別視されるようなことって、過去にあったかしら?」
「いえ、存じません。軍事的な交流は多少ありますが……親交が深い話は聞いたことがありません。お調べしましょうか?」
隠しごとをしている様子もなく、執事長ですら心当たりがないようだ。サフィはなにを知っているのか。謎はまずまず深まるばかりである。
「そうよね……いえ、結構よ。それより庭師を呼んでちょうだい」
「かしこまりました」
執事長が下がったあと、リネアはすっかり冷めた紅茶を飲み干した。