表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公爵家の心臓  作者: 綾呑
29/29

最終話 鼓動

「話し方や姿形は同じなのに、昔の母上とは違うように思える。あれでは、まるで――」


 リネアはロデリックの袖口に指を添えた。それに気づいたロデリックはすぐに指を絡めるようにし、手をつなぐ。


「まだ……実感がわかない」


 困ったように笑うロデリックは少し寂しそうに見えて、リネアはつないだ手にぎゅっと力を入れる。


「私も、ずっと思っていたことがあるの」


 ロデリックの告白に、隠したはずの疑念がリネアのなかでもふつふつと顔を出していた。


「……聞かせてくれ」

「――夫人のなかに、お母さまがいるみたい」

「あなたがそう感じるのなら……」


 答え合わせに、ロデリックはとてもゆっくり目を伏せた。


「もし、そうなら――」


 続きを言葉にすることはできなかった。もし否定されたら。とたんに怖くなって、なにも言えなくなってしまった。


「それが悪いことだとは思っていない。だが、記憶のなかの母上と今の母上との齟齬に、俺は戸惑っているのだと思う」

「公爵夫人は公爵夫人よ」

「わかっている」


 さあ、と二人の間に風が通り抜けていく。


「リネア」

「なに?」

「抱きしめてくれないか」

「もちろんよ」


 リネアはそっとロデリックの背中に手を回し、大切なものを包みこむように抱きしめる。


「心臓は、誰かの命とともに動くものだ」

「――」

「そこに宿っていた感情や記憶が、影響を及ぼすことがあるのかもしれない。きっと、ありえることなのだろう」


 ロデリックはゆっくりと、けれどたしかに言葉を紡いでいく。


「母上に、あなたが母君の面影を感じられるなら――それも、悪いことではない。むしろそのほうがいいとさえ思える」


 その言葉の余韻を乗せるように、湖面で魚が小さく跳ねる。


 それを見つめているうちに、リネアの胸の奥にも似たような波紋が生まれた。それは音もなく、穏やかに広がっていく安堵。


「いやじゃ、ない?」

「いやなものか。あなたが言ったのだろう。母上は母上だと」


 ロデリックの腕のなかで、リネアは肩の力が抜けていくのを感じた。強張っていた体は張りつめていた糸が切れたかのように軽くなる。


「母君はとても強く、優しい人だったんだな」

「どうして……?」

「あなたとの思い出を、あなたを愛した記憶を、最後まで手放さなかったのだから」

「――」

「そろそろ戻ろう。父上と、母上のもとへ」


 湖に背を向けて、二人は並んで歩き出す。言葉は少ないが、先ほどよりも足取りは軽くなっていた。


 木陰のテーブルで団らんする二人は相変わらず穏やかで、ときおり公爵が目を細めていた。その表情は慈愛に満ちていて、こちらも微笑ましくなる。


「なにを話しているのかしら?」

「さあ」

「もう少し興味を持ったらどうなの?」

「あの二人のことよりも、俺はリネアのことを知りたい」


 さらりと言ってのけるのだから、油断ならない。思わず口を噤んだリネアに、ロデリックはいたずらっぽく口角を上げた。


「――」

「どうした?」


 ふと、リネアは足を止めた。木漏れ日に照らされる夫人の背中を凝視したまま、リネアはその旋律に耳を傾ける。


「……ぁさま」


 リネアの頬を一筋の涙が伝う。にじむ視界に夫人の肩が揺れている姿をしかととらえる。


「リネア、まさか」


 ロデリックが声をかけるよりも早く、リネアは動いていた。


「あら、戻ってきたのですね」

「もう一度……もう一度、口ずさんでいただけませんか?」

「今の歌を? そうしたい気持ちはあるのですが、もう忘れてしまい――」


 言いおわる前にリネアは夫人の胸に飛びこんでいた。


 幼いころの記憶が蘇る。母が歌っていた鼻歌を、夫人が歌っている。


「お母さま、お母さま……っ」


 リネアは夫人の胸で、声を上げて泣いた。


 いきなりのことでひどく驚かせてしまったことだろう。それでも夫人は優しく抱きしめてくれて、背中を撫でてくれた。


「そこに、いてくれたのね……!」

「――ええ。ここにいますよ」


 心臓の音が、鼓動が聞こえる。夫人のなかで、それは規則正しく機能している。


 うれしくて、切なくて、耳を離すことができない。叶うなら、この温かい音をずっと聞いていたかった。


 ――動いている。お母さまはまだ、生きているわ。


 母が亡くなったことも、もう戻らない人であることもリネアは痛いほど理解している。けれど母の心臓はこうして動き、今も一人の人を生かしつづけている。


「――」


 公爵とロデリックはその光景を、少し離れた場所から見守っていた。


「やはり、そうだったのか」

「父上は……気づいておられたのですか」

「気づかないはずがない。だが表情や好み、なにが変わろうと、エルフィーナには変わりないからな。どんな彼女だろうと愛している」


 公爵が二人に近づき、ロデリックもそれに続く。


 夫人の胸に包まれるリネアの背中を公爵が支える。ロデリックもまた、寄り添うように腕を広げた。


「泣かないでください、リネア。あなたは笑顔が一番似合いますもの」

「は、い……夫人。取り乱してしまい、すみませんでした」

「もう、母とは呼んでくださらないの?」


 リネアは赤くなった目をこすり、くしゃりと笑う。


「――ありがとうございます、お母さま」


 名残惜しくはあるが、リネアは立ちあがる。


「公爵さま――いえ、お父さまも。二人の時間を邪魔してしまい、すみませんでした」

「これほど大切な時間を過ごせたのだ。謝ることはなにもない」

「この日のために、特別なデザートを用意したのですよ」


 夫人が合図を送ると、従者たちが器を並べていく。透き通ったガラスの器が、きらきらと輝いていた。


「リネアはこのゼリーが好きだと思ったのですが、いかがですか?」


 幾重にも重ねられた、色とりどりの層。母が作ってくれた記憶のなかのゼリーがそこにあり、止まったはずの涙がまたあふれそうになる。


「はい、好きです。大好きです」

「いただこう」


 静かな湖畔に、ただ一つ。穏やかな家族の形があった。


 血を越えて、命を越えてつながって、心は受けわたされた。そう信じられる今日があることが、なによりの贈りもので。


「リネア」


 そっと耳打ちしたロデリックに、リネアは顔を向ける。


「愛している」

「えっ」

「どうしても、今、伝えたかった」


 ふわりと微笑むロデリックに、リネアは顔が赤くなる。それを冷ますように、リネアはゼリーを頬張った。


「あなたは?」

「――私も、愛しているわ。あなたに出会えたことが、なによりの幸せよ」


 口のなかでほどけていくその思い出は、漠然と抱えていた不安さえ、優しく溶かしていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ