最終話 鼓動
「話し方や姿形は同じなのに、昔の母上とは違うように思える。あれでは、まるで――」
リネアはロデリックの袖口に指を添えた。それに気づいたロデリックはすぐに指を絡めるようにし、手をつなぐ。
「まだ……実感がわかない」
困ったように笑うロデリックは少し寂しそうに見えて、リネアはつないだ手にぎゅっと力を入れる。
「私も、ずっと思っていたことがあるの」
ロデリックの告白に、隠したはずの疑念がリネアのなかでもふつふつと顔を出していた。
「……聞かせてくれ」
「――夫人のなかに、お母さまがいるみたい」
「あなたがそう感じるのなら……」
答え合わせに、ロデリックはとてもゆっくり目を伏せた。
「もし、そうなら――」
続きを言葉にすることはできなかった。もし否定されたら。とたんに怖くなって、なにも言えなくなってしまった。
「それが悪いことだとは思っていない。だが、記憶のなかの母上と今の母上との齟齬に、俺は戸惑っているのだと思う」
「公爵夫人は公爵夫人よ」
「わかっている」
さあ、と二人の間に風が通り抜けていく。
「リネア」
「なに?」
「抱きしめてくれないか」
「もちろんよ」
リネアはそっとロデリックの背中に手を回し、大切なものを包みこむように抱きしめる。
「心臓は、誰かの命とともに動くものだ」
「――」
「そこに宿っていた感情や記憶が、影響を及ぼすことがあるのかもしれない。きっと、ありえることなのだろう」
ロデリックはゆっくりと、けれどたしかに言葉を紡いでいく。
「母上に、あなたが母君の面影を感じられるなら――それも、悪いことではない。むしろそのほうがいいとさえ思える」
その言葉の余韻を乗せるように、湖面で魚が小さく跳ねる。
それを見つめているうちに、リネアの胸の奥にも似たような波紋が生まれた。それは音もなく、穏やかに広がっていく安堵。
「いやじゃ、ない?」
「いやなものか。あなたが言ったのだろう。母上は母上だと」
ロデリックの腕のなかで、リネアは肩の力が抜けていくのを感じた。強張っていた体は張りつめていた糸が切れたかのように軽くなる。
「母君はとても強く、優しい人だったんだな」
「どうして……?」
「あなたとの思い出を、あなたを愛した記憶を、最後まで手放さなかったのだから」
「――」
「そろそろ戻ろう。父上と、母上のもとへ」
湖に背を向けて、二人は並んで歩き出す。言葉は少ないが、先ほどよりも足取りは軽くなっていた。
木陰のテーブルで団らんする二人は相変わらず穏やかで、ときおり公爵が目を細めていた。その表情は慈愛に満ちていて、こちらも微笑ましくなる。
「なにを話しているのかしら?」
「さあ」
「もう少し興味を持ったらどうなの?」
「あの二人のことよりも、俺はリネアのことを知りたい」
さらりと言ってのけるのだから、油断ならない。思わず口を噤んだリネアに、ロデリックはいたずらっぽく口角を上げた。
「――」
「どうした?」
ふと、リネアは足を止めた。木漏れ日に照らされる夫人の背中を凝視したまま、リネアはその旋律に耳を傾ける。
「……ぁさま」
リネアの頬を一筋の涙が伝う。にじむ視界に夫人の肩が揺れている姿をしかととらえる。
「リネア、まさか」
ロデリックが声をかけるよりも早く、リネアは動いていた。
「あら、戻ってきたのですね」
「もう一度……もう一度、口ずさんでいただけませんか?」
「今の歌を? そうしたい気持ちはあるのですが、もう忘れてしまい――」
言いおわる前にリネアは夫人の胸に飛びこんでいた。
幼いころの記憶が蘇る。母が歌っていた鼻歌を、夫人が歌っている。
「お母さま、お母さま……っ」
リネアは夫人の胸で、声を上げて泣いた。
いきなりのことでひどく驚かせてしまったことだろう。それでも夫人は優しく抱きしめてくれて、背中を撫でてくれた。
「そこに、いてくれたのね……!」
「――ええ。ここにいますよ」
心臓の音が、鼓動が聞こえる。夫人のなかで、それは規則正しく機能している。
うれしくて、切なくて、耳を離すことができない。叶うなら、この温かい音をずっと聞いていたかった。
――動いている。お母さまはまだ、生きているわ。
母が亡くなったことも、もう戻らない人であることもリネアは痛いほど理解している。けれど母の心臓はこうして動き、今も一人の人を生かしつづけている。
「――」
公爵とロデリックはその光景を、少し離れた場所から見守っていた。
「やはり、そうだったのか」
「父上は……気づいておられたのですか」
「気づかないはずがない。だが表情や好み、なにが変わろうと、エルフィーナには変わりないからな。どんな彼女だろうと愛している」
公爵が二人に近づき、ロデリックもそれに続く。
夫人の胸に包まれるリネアの背中を公爵が支える。ロデリックもまた、寄り添うように腕を広げた。
「泣かないでください、リネア。あなたは笑顔が一番似合いますもの」
「は、い……夫人。取り乱してしまい、すみませんでした」
「もう、母とは呼んでくださらないの?」
リネアは赤くなった目をこすり、くしゃりと笑う。
「――ありがとうございます、お母さま」
名残惜しくはあるが、リネアは立ちあがる。
「公爵さま――いえ、お父さまも。二人の時間を邪魔してしまい、すみませんでした」
「これほど大切な時間を過ごせたのだ。謝ることはなにもない」
「この日のために、特別なデザートを用意したのですよ」
夫人が合図を送ると、従者たちが器を並べていく。透き通ったガラスの器が、きらきらと輝いていた。
「リネアはこのゼリーが好きだと思ったのですが、いかがですか?」
幾重にも重ねられた、色とりどりの層。母が作ってくれた記憶のなかのゼリーがそこにあり、止まったはずの涙がまたあふれそうになる。
「はい、好きです。大好きです」
「いただこう」
静かな湖畔に、ただ一つ。穏やかな家族の形があった。
血を越えて、命を越えてつながって、心は受けわたされた。そう信じられる今日があることが、なによりの贈りもので。
「リネア」
そっと耳打ちしたロデリックに、リネアは顔を向ける。
「愛している」
「えっ」
「どうしても、今、伝えたかった」
ふわりと微笑むロデリックに、リネアは顔が赤くなる。それを冷ますように、リネアはゼリーを頬張った。
「あなたは?」
「――私も、愛しているわ。あなたに出会えたことが、なによりの幸せよ」
口のなかでほどけていくその思い出は、漠然と抱えていた不安さえ、優しく溶かしていった。