二十八話 思い出
春の日差しが心地よく、歩くだけでも気分が晴れる昼下がり。領地にある湖へと続く並木道を馬車がのんびりと進んでいた。
馬車のなかには公爵と夫人、ロデリック、リネアの四人だ。今日は夫人の提案によりピクニックを、家族四人で迎える初めての遠出である。
「今日はいい風が吹いていますね」
「ピクニック日和ですね」
窓の外を見やった夫人に、リネアはうなずく。
ふと、ロデリックがリネアの手をとった。手袋越しに合わせた指先に胸が躍る。言葉にしなくても、今日という日が大切な日になることを互いに感じていた。
「足元に気をつけるように」
しばらくして馬車が止まり、四人は湖畔へと降り立つ。夫人は公爵の、リネアはロデリックの手を借りた。
太陽の光が湖面に反射し、きらきらとか輝いている。爽やかな風が草木を揺らし、どこまでものどかな風景が広がっていた。
「まずはお昼にしましょう」
従者たちが木陰に手際よく絨毯を広げ、さらにテーブルと椅子が並べられていく。軽いものを想像していたリネアが呆気にとられているうちに料理の籠まで用意されていた。
「今日も夫人の好きなものを用意した」
「まあ、うれしいです。リネアも気に入ってくれるといいのですが」
「楽しみです」
籠のなかから取り出されたのは、春野菜たっぷりのキッシュとハーブが香る鴨肉のロースト、パイ包みのスープなど、あとはチーズの入ったサラダにパンとかなり豪華な昼食だ。
「母上の、好物」
「さあ、いただこう」
ぼそりと横からなにか聞こえたが、それは公爵の号令によってかき消されてしまった。
「ロデリック、どうかした?」
「いや、気にするな」
声を潜めて尋ねると、ロデリックは小さく首を振ってカトラリーを手にした。
「エルフィーナは昔からキッシュが好きだったな」
「ええ。覚えていてくださってうれしいです」
公爵が手ずから皿に乗せ、夫人の頬が綻ぶ。
――あれも公爵の言う、愛なのね。
仲睦まじい姿に自然とリネアも口角が上がる。
「母上は昔からこのキッシュが、好きでしたか?」
「ええ。私が入院する前は、キッシュをよく食べていたでしょう?」
「それは、そうですね」
ロデリックは切りわけられたキッシュが乗る皿と向きなおっても、しばらく手をつけなかった。
リネアはそれに気づき、それとなく声をかける。
「苦手な野菜が入っていたの?」
「俺は好き嫌いをしない」
「それはいいことね。それじゃあ、どうして食べないの?」
「考えごとをしていただけだ」
ロデリックはちらりと夫人の皿に目を見やり、少し遅れてキッシュにナイフを入れる。その手つきは見惚れるほど丁寧で、けれどどこか慎重さがあった。
「リネア、口に合いますか?」
「はい。鴨は幼いころよく食べていたので、とても懐かしいです」
鴨の上には香草のソースがふんだんにかけられ、風が吹くたびに淡く鼻腔をくすぐった。
「母上は香草が苦手ではありませんでしたか?」
「昔はそうでしたね。ですがオルニクス帝国でいただいてみたら、とてもおいしくて驚きました。もしかしたら、病で味覚が変わったのかもしれません」
「……そうですか」
「ロデリック、少し顔色が悪い。体調が優れないなら馬車で休むといい」
「いえ、大丈夫です」
白い陶器にかぶさる、こんがりときつね色に焼きあげられたパイ。ナイフの先でそれをつつくロデリックの手元を、リネアはふと見つめる。
ざくり、静かに響く小気味よい音。その音につられ、全員がスープに手をつけた。
――ロデリック、大丈夫かしら?
ずっと、ロデリックの様子がおかしい。体調が悪いわけでも、機嫌が悪いわけでもなさそうなのに。珍しい態度に胸のうちがかきたてられる。
「冷めないうちに」
ただパイを崩していたリネアにロデリックがそっと耳打ちし、ふわりと微笑む。気にしていることを気にし、気遣ってくれたのだろう。
「ええ」
リネアはパイと一緒にスープをすくい、静かに口へ運んだ。
それから歓談しながらもロデリックは終始、どこか上の空だった。
「ねえ、ロデリック。湖の周りを散歩してみない?」
「行こう」
「けれどまだ、デザートが……」
「いいじゃないか。歩けばまた腹も減るだろう」
さすがに少し歩いたくらいでは空腹にならないが、デザートを入れる分は確保しなくてはならない。
「この湖、水がとても綺麗ね。澄んでいるから、浅いところなら湖底が見えるわ」
ロデリックから返事はない。互いの足音に湖面のさざめきが寄り添うように響いている。
リネアはちらりとロデリックの横顔を盗み見る。赤い目に湖が反射し、揺らいでいるように見えた。
「なにを考えているの?」
「……え? すまない、考えごとをしていて」
「だから、その考えごとがなにかを聞いているのよ。ね、教えて。できるなら、私も一緒に考えたいの」
ロデリックは足を止め、わずかに視線を下ろす。
「少し、恐ろしい」
ゆるりとこちらを向いた目には、普段の静けさを保ちつつもどこかもろい光を帯びていた。