二十七話 心臓
長い冬がようやく幕を下ろした。雪が積もっていたカルデロンにも柔らかな陽が差しこみ、土の香りとともに新たな命が芽吹きはじめている。
髪をさらう風もほんのりとぬるく、冬の名残と春の兆しが感じられた。
「いよいよね」
淡いすみれ色のドレスは公爵夫人からの贈りものだ。品のよい装飾に細やかなレース、袖の透ける絹地が春の装いにぴったりである。
「準備できたか?」
ノックのあと、扉の向こうからロデリックの声が聞こえた。
「待たせてしまったかしら?」
返事をしてから扉を開けば、ロデリックにじっと見つめられる。
「むしろ、待ったかいがある」
「え?」
「よく似合っている」
「ありがとう。おかしなところはないわよね?」
リネアは緊張をほぐすようにあえて笑う。
「おかしなところなどあるわけがない。それでは、行こう。父上と母上もそろっているはずだ」
昨日、公爵夫人は数年ぶりにカルデロン領へと帰ってきた。体調に問題はなく、健康そのものだそうだ。
そして今日、リネアは初めて顔を合わせることとなる。
「待って、深呼吸だけさせて」
リネアは食堂の前で大きく息を吸い、長く吐く。それからうなずくと、ロデリックが扉を開けてくれた。
「来たか」
長いテーブルの向こう、公爵がこちらに向かって笑む。そしてその隣、公爵夫人が静かな気品をたたえて佇んでいた。
――ロデリックの面影がある方だわ。
丁寧に結われたベージュ色の髪はうなじをなぞるように背へと流され、藍色の目は冬の夜空を思わせるほど澄んでいる。
ふわりと広がる薄紅のドレスに、肩にかかった上質なレースのショール。優しく閉じられた口元にはどこか懐かしさを感じる微笑みが浮かべられている。
「このときを待ちわびていました」
凛とした声音、けれどたしかな温かさを帯びていた。
「初めまして、リネアと申します。私もずっとお会いしたかったです」
リネアが会釈をすると、ロデリックの手がそっと背中に添えられた。視線を交わせば、ロデリックはなにも言わずに小さくうなずいた。
「かけようか」
公爵の言葉に導かれ、四人は席に着く。
「まずは食事を。今日は夫人の好きなものを用意させた」
料理の香りと器の優しい音が満ちるなか、四人――というより、ロデリックと公爵の政務に関する会話が続いていた。
春野菜のスープに、焼きあげた鶏肉と香草の皿が運ばれてきたころだった。ふと、夫人がナイフとフォークを置いてこちらを見つめていることに気づく。
「リネア、と呼んでもよろしくて?」
「はい、もちろんです」
リネアも自然とカトラリーを置き、はす向かいに座る夫人のほうへ体を向けた。
「こうして面と向かってお会いするのは初めてですけれど、ずっとあなたにお礼が言いたかったのです」
面と向かって、その言葉にかすかな引っかかりを覚える。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
「オルニクス帝国の病院で、何度かお見かけしておりました」
リネアはわずかに目を見張る。
――ついに。
『恩人』について、話してもらえるときが来たのかもしれない。リネアは無意識に背筋を伸ばし、話を聞く姿勢に入っていた。
「私がこうして生きて戻ってこられたのは、リネアとフィルティアのおかげです。感謝してもしきれません」
「母はともかく、私はなにも……した覚えが、ありません」
夫人の目には言葉では言いつくせない感情が宿っていた。
「フィルティアとは入院生活のなかで出会いました。ともにリーバニア王国の出身、ともに貴族の出ということもあり、私たちには絆が芽生えたのだと思います。そのころ、私はすでに余命宣告をされておりましたが」
「――」
「ですが、フィルティアは病に侵されているとは思えないほど明るい方で。幾度と私を励ましてくれました。生きる希望をともに探してくださいました」
藍色の目が細められる。
「リネアのことも、よく話してくれましたよ。誇らしげに、でも少し心配そうに。私もついつい、ロデリックの話をしたものです」
目を伏せた夫人は言葉を選ぶように息を整える。
「フィルティアは私に多くのものをくださいました。諦めない心、生きたいという渇望、愛するものたちを残していく未練――そのなかでも、フィルティアから最後にいただいたものが、今も私の胸のなかにあります」
夫人は胸元にそっと両手を添えた。ベージュの髪が、肩先に滑りおちる。
「――この心臓は、リネアのお母さまのものです」
部屋の空気が静かに沈む。
リネアは息を呑み、夫人の言葉を理解するために数拍の時間を要した。
「そん、な……まさか」
掠れた声が唇からこぼれる。
心臓の上に添えられる手に力がこもり、夫人はこちらをまっすぐと見つめる。
「この事実をあなたにどう伝えればよいか、何度も迷い、悩みました」
にわかには受け入れがたく、信じられない話に、うまく息ができない。言葉にならないものがのどをせき止めているようだった。
「な、なぜ……もっと早く、それが事実なら、なぜ、もっと……早く、教えてくれなかったのですか……?」
動揺を隠しきれず、支離滅裂な物言いになってしまう。
「そ、そもそも……家族の許可なく、そのようなことが……っ」
声が震え、責めるような響きになる。
「許可したのは、君だ。リネア」
「は、い?」
リネアは公爵のほうを向く。
「たしかに、君にはその事実は知らされなかった。しかし、手術の同意書に、君はサインをしている」
母の生前、見舞いに来る兆しのない父の代わりに、リネアが医者とやりとりをしていた。医者から、母からサインを求められることも多々あった。
母の命に関することだ。一言一句、文章を読みこんで、納得したものに許可を出していた。
しかし、一度だけ。母にサインだけを求められたのを思い出す。治療に必要なことだからと押しきられ、結局は母の言うままにサインしたことがあった。
――あれが……?
リネアははっとし、口元を手でおおう。
「フィルティアはリネアになにも背負わせないよう、秘密にしていたのです」
その言葉に、リネアは顔を伏せる。
知らなかったとはいえ、いつものようにさらりと書いたサインが、命をつなぐ契約だったとはあまりに重い。
「先ほどは、取り乱してしまいました。責めたいわけではないのです」
リネアは胸のうちを落ち着かせた。
「たとえ、その事実を知っていたとしても……私はきっと、サインをしたと思います。それが、お母さまが望んだことなら」
心の奥にある悲しみと痛みを押し隠しながら、言葉を重ねる。
「だからどうか夫人も、申し訳ないなどと思わないでください。絶対に」
夫人は一つ二つとうなずき、目の端から涙をこぼした。それでも毅然とするリネアを見逃すまいとしている。
「夫人が生きていてくださって、よかったです」
母の心臓が、こうして誰かを生かしている。その事実はすぐに受け入れられなくても、ゆっくりと咀嚼し、消化できる日は必ず来る。
リネアはそっと、自分の胸に手を添えた。