二十六話 愛する家族
「すまなかった」
開口一番、耳を打ったのは謝罪であった。
息が詰まる。言いたいことがたくさんあった。聞き入れてもらえなければ、一方的にぶつけることも考えていた。
だというのに、いとも簡単に口にされたその言葉にいろんな感情がぐるぐると渦巻いた。なにより、その一言で救われてしまいそうな自分がいることに気づき、怖くなる。
「なにに対しての謝罪ですか」
リネアも背筋を伸ばし、大丈夫だと自分に言い聞かせた。カーテンに隔たれようとすぐ後ろにはロデリックがいてくれるのだから。
「……」
アルタスはなにも言わない。無視しているのではなく、言葉を選んでいるようだった。
「死から逃れられないフィルティアのもとへ行かなかったこと、クラリッサとアマリスの態度を容認したこと、お前を……無視したこと」
独白のように、静かな声が響いた。
「深く、後悔している。なにもかももう手遅れで取り返しのつかない失敗だということはわかっている。それでも、いまさらであっても……謝りたかった」
藍色の目が揺らいでいる。
「弱っていくフィルティアの姿を見るのがつらく、私は家族ではなく戦場を選んだ。死に目に会わず、お前から届く手紙に罪悪感ばかりが募った」
目が合っているはずなのに、アルタスは遠くの誰かを見ているようだった。その誰かが誰であるかは、言わずともわかる。
「日に日にフィルティアに似ていくお前に、その紫紺の目に見られると……彼女に責められているような気分になった」
吐露された感情はあまりに自分勝手なものだった。
「お母さまは、あなたをずっと待っていました」
びくりとアルタスが肩を震わせる。
「いつあなたが来てくれるかと、お母さまは何度も私に尋ねられました。私は答えられませんでした。だってお父さまが手紙の返事をくれたことなんて、最初の数通しかありませんでしたから」
アルタスからの手紙が途絶えてからは、執事長が近況を報告する手紙をよこしてくれた。そこに愛人の話がなかったのは、彼なりの気遣いだろう。
「弱っていくお母さまの姿を見るのがつらかった? 本当につらかったのはお母さまです!」
語気が強くなる。
また沈黙が落ちる。リネアは高ぶった感情を落ち着かせ、今度は自分から目をそらした。
「お母さまの気持ちを踏みにじり、裏切っておいて……どの口が」
言葉が続かない。胸の奥が焼けるように痛く、視界がにじむ。
「すまない、すまない……っ」
アルタスは片手で顔をおおう。
――そんなにすんなり謝罪するなら……っ。
毎日、目をつむって微笑む最期まで、閉じた扉の向こうを見つめていた母の姿が脳裏に浮かんだ。
リネアはカーテンを振り返る。けれどそれも一瞬。ゆっくりと視線を戻した。
「ああ、フィルティア――!」
まるで祈りのように、あるいは懺悔のように。
「――」
アルタスの指の隙間からぽたぽたと涙が落ちる。物言わぬまま、絶え間なく。震えながら嗚咽を飲みこんでいた。
「お父さま」
返事はない。しようにも、できないだろう。だからリネアは構わず続ける。
「私、カルデロン家の養子ではなく、ロデリックの婚約者となりました」
ゆっくりと、なんの感慨もないように伝える。
「もうバーニーの人間ではない私の身の上など、あなたにとってはどうでもいいかもしれませんね」
父の反応を待たずして踵を返す。
「だからこれは、娘としての最後の言葉です。ここまで……育ててくださりありがとうございました」
カーテンに手をかけようとしたとき、背中に声がかかった。
「お前の籍は、バーニーから抜いていない」
「……え?」
リネアの指先が宙にとどまる。
「ある日、カルデロン公爵が私のもとへやってきた。養子縁組に関する書類はすべて、記入したうえで公爵に預けてあった。が、公爵はそれを……私の前ですべてやぶり捨てた」
まったく知らない話である。
バーニーとカルデロンは王国の領地のなかでもほぼ正反対に位置する。馬で駆けたとて数日はかかるはずだ。
「私がお前を養子に出した事実はない。なくして、くださった」
リネアは息を呑む。悲しみとも怒りとも違う。けれどたしかに胸の奥を締めつけるような感情が押しよせてくる。
「ただ、辺境の令嬢が公爵家に嫁ぐだけ。その事実しか、残らない」
内々でごたついた話はなくなり、なにごともなかったかのように簡潔な事実のみが残る。
リネアが懸念したことを、公爵は先んじてとりのぞいてくれていた。母が愛した父とバーニーの体面も、守られる。
「それと、あの二人は別邸に住まわせることになった」
いまさら、という言葉は飲みこむ。リネアにはもう関係のないことだ。どうでもいいことだ。
「後継者にはキトラを据える。これが私にできる……父としての最後の報告だ。本当に、すまなかった」
布のこすれる音に、アルタスが深く頭を下げたのだとわかった。
「――」
胸元に手を添える。あるのは、母からもらったダイヤモンドのネックレス。リネアはその留め具に指をかける。
「私は母を失いました」
リネアは踵を返し、頭を垂れたままのアルタスの前に立つ。父の背はいつになく小さく見えた。
「けれどあなたも妻を……愛する家族を失ったのは同じでした」
首元に鎖を回し、母のネックレスをつける。アルタスの喉元で小さなダイヤモンドがわずかに光を宿した。
リネアはそっと後ずさり、なにも言わず、視線を落とすことなく背を向けた。
――さようなら。
ドレスの裾は音もなく揺れる。足音すら残さず、その場を去った。
「リネア」
重い布をかきわけ、きらびやかな大広間に再び足を踏み入れる。シャンデリアの眩しさが目に沁みた。
「ロデリック。待っていてくれてありがとう」
ロデリックの差し出す手に、リネアはすぐに手を重ねる。
「キトラ」
「なーに?」
キトラは小首を傾げ、穏やかに微笑んでいる。
「バーニーをお願いね」
「もちろん。僕に任せて。……元気でね、リネア」
「ええ、あなたも」
キトラはバルコニーに、リネアとロデリックは光のなかに歩み出す。
「ロデリック、リネア」
人の波をかきわけるように公爵がこちらへ向かってくる。公爵はリネアの顔を静かに見つめたあと、ただ静かに微笑んだ。
「父上、そろそろ帰りたいのですが」
「ああ、そうだな」
「え? 今日はカルデロンが主役なのに、帰ってもいいのですか?」
「ここは騒がしくて疲れるからな。もういいだろう」
絶えず人に囲まれていただろう公爵がため息をこぼす。
それから三人はひと気の少ない扉から外に出た。回廊を抜け、先に待たせていた馬車に乗りこむ。
緩やかに車輪が回りはじめ、外の景色がゆっくりと流れていった。
王宮が遠ざかっていくのを見ると、胸の奥からなにかがこみあげてくる。
唇を噛んでも、肩を震わせまいとしても、頬を伝う涙は止まらなかった。この涙がなにに対してのものか、自分でもよくわからない。
「――」
ロデリックの手がそっと背中に回される。それは迷いのない仕草で、リネアも素直に身を預けた。
胸元に顔をうずめるようにすると、ようやく呼吸ができたような気がした。
「――」
ロデリックも公爵も静かに目を伏せたまま窓の外を見つめている。リネアは涙をぬぐう代わりに、そっと目を閉じた。
馬車の車輪が石畳をすべる音だけが響き、けれど三人を包む沈黙は優しく温かいものだった。