二十四話 特別
陛下の宣言のあと、空気が一気に華やいだ。大広間では音楽が響き、再び貴族たちの歓談が始まった。
「リネア、リネアよね?」
「お母さまのことは残念だったけれど……元気そうで安心したわ」
「あ……」
陛下の前からゆっくり下がると周囲にはあっという間に人が集まり、三人は自然とばらばらになった。
「みんな、久しぶりね」
以前、パーティーで同じ時間を過ごした令嬢たちだ。その懐かしい顔ぶれに、リネアはほっと息をついた。
「ねえ、どうしてカルデロン公子と?」
「まさかあの話は本当だったの?」
「話……?」
リネアが頬を固くすると、令嬢たちは苦い顔をして顔を見合わせた。
「彼女が……アマリスがあなたと懇意にしていた家門に手紙を送ったみたいなの。もちろん私のところにも来たわ」
新しく届いたものか保管していたものか、どちらにせよリネア宛ての手紙を漁ったに違いない。
「なんと書かれていたの?」
「それが……あなたが破門されて、カルデロン家の養子に入ったという話よ。要約するとね。手紙があったら見せたかったけれど、書かれていることは本当にひどかったわ」
同様に手紙を受けとったらしい令嬢たちがうなずく。
「辺境伯になるのはリネアではなく自分だから、これからはパーティーの招待状はアマリスに送るようにとも」
「ねえ、彼女の言っていることは嘘よね?」
「そうでなければ……」
どれだけ家門の格を下げ、恥をかかせれば気が済むのか。リネアは頭を抱えたくなった。
「もちろん、でたらめよ」
言いながら、リネアはふと引っかかることがあった。
――バーニーから籍を抜かれているはず……なら、私の立場は?
養子に入るため、バーニーから籍は抜かれているはずだ。しかしリネアはカルデロンの養子にはならず、ロデリックの婚約者となった。
「それじゃあまさか、婚約を……!?」
「カルデロン公子と入場されたもの! きっとそうだわ」
一度は養子として迎えられたこと、今は婚約者という立場にいること、そのどちらも世間には公表されていない。
――平民が公爵家に嫁げるのかしら?
公爵とロデリックは婚約を広める機会だと言っていたが、リネアは不安を覚えながらも微笑みをたたえるだけにとどめる。
――公爵さまに聞いてみなくちゃ。
無意識に公爵を探そうと視線を泳がせたときだった。
「――フィルティア?」
その声は少し離れた位置から、けれどはっきりと聞こえた。
リネアが振り返るよりも早く、周囲の空気が凍りつく。
「ああ、そんな、そんなはずは……、だってフィルティアは、もう……っ」
金細工が施された扇子を片手に、年配の女性がこちらをじっと見つめていた。その目を見開き、顔を青くして。
「夫人!」
夫人の手から扇子が落ちていく。
リネアと目が合った瞬間、夫人の膝が揺らぎ、倒れかける。周りの貴婦人がとっさに伸ばす手を、夫人はそっと返した。
「……失礼。年のせいか、めまいがしてしまいましたわ」
声は少し震えていたが、夫人はメイドから扇子を受けとるとばさりと口の前に広げた。倒れかけた姿などみじんも感じさせず、優雅にこちらへ歩みよる。
「あなたは……リネアね? 私のことは覚えているかしら?」
「はい。幼いころ、母とすごす夫人の所作をまねたこと……今でも鮮明に覚えております」
夫人が口にした『フィルティア』は母の名だ。そして目の前の女性は、母ともっとも交流のあった夫人であり、リネアもよく気をかけてもらった。
リネアは落ち着いて答えたが、目の奥が熱くなっていた。
「そのドレスは、フィルティアのものね」
「は、い」
言葉が喉につまり、リネアは小さくうなずく。気を抜けば涙があふれてしまいそうだった。
「まるで、あの日の彼女を見ているようだわ。驚くほど、よく似ていらっしゃる」
夫人の目尻が下げられる。同じだった。夫人もまた、目を潤ませていた。
リネアは夫人を通して母の思い出を、夫人はリネアを通して『フィルティア』を。脳裏に描かれる人物は一人だけ。
「立派な淑女になられましたね」
成長への称賛と、わずかな哀惜。
――ああ、だめだわ。
涙をこぼしそうになったとき、夫人がふわりと笑みを浮かべた。
「あまりにそっくりだから、フィルティアの幽霊が出たのかと思ったくらいよ」
「ええ、実は私もよ」
「本当に似ているわ。その愛らしい顔をよく見せてちょうだい」
夫人たちの明るい雰囲気に救われる。
リネアを囲む人は令嬢から貴婦人へ。騒ぎは賑わいへと戻り、リネアは夫人たちと人の流れから外れた壁際に移動した。
「それにしても、今年のワインはなかなかのできですわね」
「どこのワインかしら?」
「カルデロンではなくて? 王家御用達のお店が数多くありますもの」
夫人たちはグラスを傾け、楽しげに談笑する。ときおりリネアも話に混ぜてもらいながら穏やかな時間をすごした。
「ところで、リネアはどうしてその一着を?」
「え?」
ふいに夫人がリネアに話を振る。全員の視線がドレスに吸いよせられ、空気がわずかに変わったのを肌で感じた。
「これは……私が手元に残しておけたお母さまのドレスの一つです」
かすかな異質さがにじむ『残しておけた』という響き。目敏い貴婦人たちは静かに視線を交わし、あえて口を噤んだ。
「私はこのドレスをまとった母の姿を見たことはありません。ですが今日は国中の貴族が集まる場ですから、お母さまを知る方に見てもらいたかったのかもしれません」
リネアは目を伏せ、胸元にそっと手を添える。
「リネアが見たことないのも仕方がないわ」
「ええ、ええ。それは特別なドレスだもの」
「リネアは、知らないのね」
貴婦人たちは温かな目配せを交わす。誰が話すか、楽しんでいるようだった。
「そのドレスはね、フィルティアがアルタスさまの求婚を受け入れた証なのよ」
「求婚を受け入れた、証?」
リネアは目を瞬かせる。
「フィルティアは当時の王子殿下も目にかけるほど人気者だったのよ」
「まさに社交界の華。誰もが憧れたわ」
「それがまさか、あの堅物を選ぶなんて。誰が予想できたかしら?」
「ちょっと、リネアの前よ。堅物だなんて失礼じゃない。事実であってもね」
ころころと笑う貴婦人たち。母と父の昔話を聞けてうれしいはずなのに、どこか素直には喜べなかった。
「アルタスさまが『自分を選んでくれるなら、このドレスを着てきてほしい』と贈られたのよ」
「フィルティアのデビュタントでね!」
「ではお母さまはデビュタントという晴れ舞台で、このドレスを……?」
なにも知らずに袖を通したこの衣装がそれほど特別なものだとは思っておらず、心が追いつかない。
「私……そんなにも大切なドレスだったなんて……」
いまだに姿の見えぬ父は、なにを思っただろうか。なにかを、思ってくれただろうか。
「フィルティアが生きていたら、泣いて喜んだかもしれないわね」
「きっと主役はカルデロンではなく、フィルティアとリネアの二人になっていたに違いないわ」
貴婦人たちの思い出話をよそに、リネアは指先でドレスの刺繍をなぞる。
「ご歓談の途中、失礼いたします」
少し距離を置き、こちらに挨拶をする青年の姿があった。