二十二話 冬の夜
冬の夜は静かで、深く冷たい。
「やめるか?」
背後からロデリックの声が響いた。
リネアの目の前には石造りの螺旋階段がある。それは尖塔の頂上に続くもので、見上げると途方もなく思えた。
「いいえ。ここを発つ前に、カルデロン領を見ておきたいから」
数日前、戦勝パーティーの日取りが決定された。年を越えたまだ先のことではあるが、王都へは年を越す前に向かうことになっている。
「公爵夫人は春先に戻られるのよね?」
「ああ。もう体調は安定しているが、父上が春を待つようにと」
「今年は暖冬だけど、寒いことに変わりないから仕方がないわ」
靴音が反響し、白い息が空気に溶けていく。
リネアの息があがりかけたとき、ようやく最後の階段を踏みしめた。
「私が開けてもいい?」
「ああ」
古びた木扉、錆びた取っ手に指先をかける。金属の冷たさが手袋越しに伝わり、ゆっくりと押し開けた。
びゅう、と風が全身を撫でるように吹き抜けていく。よろめきはしなかったが、そっとロデリックが支えてくれた。
「――」
平らな石畳の上に雪が積もっていた。深くはなく、けれどふかふかと柔らかい。
夜空には無数の星々が瞬いている。雲一つない空は果てしなく澄みわたり、目を奪われるほど雄大な天の川が流れていた。
「わかっていたことだけれど、カルデロンはこんなにも広いのね」
足元には雪におおわれたカルデロン領が広がる。
家々の屋根には雪が積もり、遠くの街道まで白く染まっていた。瞬きするたびに、白銀の世界が街灯や窓からもれる灯りにきらめく。
「あのものたちに会いたくなければ、ここに残ってもいい」
「え?」
「ふた月ほど離れることにはなるが、リネアが傷つく姿を見るよりもましだ」
王室が主催する戦勝パーティーともなると、王国中の貴族が集まることになるだろう。
カルデロンが介入するまで前線を押しとどめていたのはバーニー筆頭の兵力でもある。まず間違いなく出席は決まっている。
「私なら、大丈夫よ」
「……そうか」
「特に辺境伯とは話をしたいと思っていたから。むしろ好都合だわ」
「あなたは、強いな」
「ロデリックほどじゃないわ」
家を出てから連絡は一度も来ていない。リネアから手紙を出すようなこともなく、現状をまったく知らない状態だ。
残してきた使用人や領民が心配だが、リネアにはもう関係のない人たちである。そう割り切るしかない。
「公爵夫人はどんな人?」
「唐突だな」
「知る機会がなかったから。私のお母さまになる人のこと、知りたいの」
「無理に母と呼ぶ必要はない」
その気遣いに、リネアは微笑みで答える。
「そうだな……まじめが服を着て歩いているような人だ」
「ま、まじめ?」
「ああ。なぜそんなに驚く? リネアは母上のことを知らないんだろう」
「だって、前に話してくれたじゃない。ロデリックを市場によく連れだしてくれたって。だから……勝手に快闊な人を想像していたの」
リネアの想像していた公爵夫人像が崩れていく。
「市場へ連れていかれたのは、領民の生活を知るためだ。あとは市場の流れを把握するためでもあったが、民を理解することが主な目的だと言っていた」
「いずれ、ロデリックが治めていくものね」
「あなたもその隣に立つことになるんだが、ずいぶんと他人事だな?」
横からじとっとした目を向けられ、リネアは慌てて話題を変える。
「この髪色は、夫人譲り?」
「……ああ」
ロデリックがよくするように、耳あたりの髪の毛に触れる。
すり、と手のひらにロデリックが頬を寄せた。可愛らしい仕草に胸が高鳴り、リネアはそっと頬を撫でてみる。
「犬じゃないんだが?」
そう不満そうに言いながらも、離れようとはしない。むしろ手に寄せてきた。
「頼もしい番犬だったらよかったのに」
「あなたという人は」
ふ、と目を細めたロデリックはぎゅっとリネアを抱きよせた。
「俺にこんなことができるのはリネアだけだ」
「あ、危ないわ」
「支えているんだから、なにも危ないことはない」
二人の白い息が混ざって消える。
「――私のお母さまは、とても明るい人だったわ」
そう切り出すと、ロデリックは静かに耳を傾けてくれた。
「出かけることも好きだったし、よく歌を歌ってくれたの」
「歌を?」
「そうよ。即興の歌をね」
母の鼻歌は頭のなかに浮かんだメロディーをそのまま口に出すものだったが、リネアはそれらを聞くのが好きで、大切な思い出だ。
でも一つ、不満があった。
「気に入った歌があっても、もう歌ってくれないの。お母さまが忘れてしまうから」
たまに同じ歌を口ずさむこともあるが、だいたいは母の気まぐれでリクエストが通ることはなかった。
「……リネアの目は、母君譲りか」
「ええ、そうよ。私はお母さまの若いころにそっくりらしいの。肖像画を見ても、私もすごく似ていると思ったわ」
母の話をしたのは久しぶりだ。
父は母の話題を避けるようになり、母を知る侍女たちも少なくなり、自然と口に出すことはなくなった。
――大丈夫。お母さまは、私のなかで生きている。
母の声を忘れても、歌を思い出せなくても、たくさんの思い出が残っている。残してくれた。
――だから、バーニーと決別できる。
カルデロンで生きていく。未練を断ち切る、その覚悟がリネアにはある。
「そろそろ戻ろう。体が冷える前に」
「ええ。この景色を見せてくれてありがとう」
リネアはロデリックの背中を追うように一歩踏み出した。
風がない分、塔のなかは寒さが和らぐ。雪でぬれた靴底をすべらせないように気をつけながら、慎重に下りていった。
翌朝、リネアはカーテン越しに差し込む光で目が覚めた。昨晩のすべてがまるで夢のようで、けれどたしかな記憶として胸に残っている。
「……ロデリック」
窓の向こうを見つめながら、ぽつりと名前を呼んでみる。遅れて、頬がわずかに熱を帯びたのがわかった。
「王都へ向かう準備をしなくちゃ」
これから数日、王都に滞在するための準備で忙しなくなるだろう。
王都で父と顔を合わせることに不安がないと言えば嘘になる。けれど、どうしても話がしたかった。
――もう、逃げない。
あの日、築きあげてきたものを手放したことに後悔はない。でも、父との対話を諦めてしまったことは、心残りになっているかもしれない。
――諦めない。
リネアは父と向き合い、けじめをつける覚悟を胸にベルを鳴らした。