二十一話 父
「ロデリック!」
「行儀が悪いぞ、ロデリック」
血相を変えて食堂を出ていこうとするロデリックが、公爵の声にぴたりと止まる。
「命令だ。戻れ」
「今すぐに追わなければ、間に合わなくなります」
「なんの話だ?」
「書類を取り戻さなくてはなりません!」
声を荒げるロデリックに公爵は再度、席に着くように言う。ロデリックは迷いを見せたが、命令に従った。
「心配しなくとも、書類に不備はない」
「そういう問題ではありません」
ロデリックは声を低くする。
「ではなぜだ? リネアを養子にすることにお前も納得しただろう。それになにより、エルフィーナがそれを望んでいる」
「リネアも俺も、望んでいません」
公爵の顔から笑みが抜け落ち、リネアはびくりと体を震わせた。
「しかし、書類はすでにここにはない」
「だからそれを!」
「待って、ロデリック。落ち着いて」
二人が言い争いをする姿は見たくない。それが自分を取り巻くことが要因ならば、ことさらロデリックだけに任せるわけにはいかなかった。
「私から話をさせてくださいませんか?」
「ああ、もちろん。聞かせてくれ」
公爵の顔に笑みが戻り、内心ほっとする。
「まずは、私の幸せを願い、公爵家の養子として迎え入れてくれたことに深く感謝しています。みなさまは私を『恩人』とおっしゃりますが、私もカルデロン家には多大な恩を受けました」
リネアは大きく息を吸い、深く吐く。
「ですが……私はロデリックを兄と、公爵さまを父と呼ぶことはできません」
空気が張りつめる。公爵の表情は変わらない。それでも重くのしかかる沈黙に耐え、リネアは公爵の目を見続ける。
「私は、ロデリックのことを好きになってしまいました。――心から、恋い慕っております」
声は震えなかった。ロデリックへの気持ちは本物で、怖いことなど、怯えることなどないのだから。
「父上。俺からも申し上げたいことがあります」
「言ってみろ」
冷静になったロデリックに公爵は静かに答える。
「父上がリネアを養子にすると決めたとき俺は……なにも思いませんでした。ただカルデロンに名を連ねるものが増えるだけ、それだけのことでした。貴族とはそういうものとも心得ていましたので」
リーバニア王国の貴族社会では損得で苗字が変わることはよくあることだった。リネアもそれをそういうものと心得ていて、そこに当人の意思が必ずしも反映されるとは限らないとも理解している。
「ですが、リネアに兄と呼ばれたとき……とても不快になりました。それがなぜかわからず、戸惑いもしました。そのせいでリネアを避けたこともあります」
わずかに伏せられていた顔が、静かに持ち上げられる。
――ああ。
出会ったばかりのロデリックは寡黙で、包帯でぐるぐる巻きだったから仕方ないのだが、気づけば少しずつ交わす言葉も増えていて。
――こんなにも。
言葉を尽くしてくれるなんて、思ってもみなかった。
「――」
赤い目にはたしかな熱と光が宿っていた。視線が重なり、リネアとロデリックは自然と微笑み合う。
「俺もリネアに恋をしています。この先、リネアの隣に立つただ一人は俺でありたい。ほかの誰にも渡すつもりはありません。俺はリネアを妹としてではなく――妻として、家族に迎えたいです」
公爵の目には深く見定めるような鋭さと、揺るぎない威厳があった。
「本気なのだな」
「はい」
リネアとロデリックの声が重なり、公爵はふいに目を閉じた。まるで長い歳月を振り返るように。
「この感情はまだ、父上と母上のような愛と呼べるものではないのでしょう。けれど、俺は……俺が、リネアを幸せにしたい。大切にしたいと、心からそう思っています」
ロデリックが椅子を引き、公爵のすぐそばに立つ。
「いずれ、この想いは愛になります」
すっとロデリックは頭を下げる。
「だから、認めてください。――行かせてください」
体の横でこぶしがぎゅっと握られた。今すぐにでも駆けだしたい気持ちを抑えているのが伝わってくる。
「父上」
沈黙を保つ公爵を急かすようにロデリックは呼びかける。
「公爵さま、私からも――」
すっと公爵が片手をあげた。
「その必要はない」
「父上……っ!」
「養子縁組に関する手紙はまだ、陛下のもとに届けていないからな」
「――は?」
ぽかんとするロデリックとは対照的に公爵はにこやかで、リネアも思わず息を止めてしまった。
「で、では書類は」
「記入はしたが、私の執務室に大切にしまってある。だからお前が飛び出したところで意味がない。追うべきものは存在しないのだから」
空気が一転、公爵がからからと笑う。
「なに、少し意地悪をしてやりたくなっただけだ」
「戯れがすぎます」
「そうか? 手をつないで入ってきたかと思えば、二人とも神妙な顔をしていたじゃないか。からかいたくもなるだろう」
公爵に指摘され、いまさらながらに恥ずかしさを覚える。
「おかげで、二人が本気だということは十分に理解した」
だから、と公爵がこちらを向いて、にこりと微笑んだ。
「認めようじゃないか。互いに想い合っているならば、二人の未来を祝福しよう」
リネアは心から安堵し、ほっと胸を撫でおろした。
「しかしリネア、一つ訂正するべきところがあるだろう」
「え……?」
「たしかにロデリックのことは兄とは呼べないが、私のことは父と呼べるのではないか?」
ロデリックと結婚すれば、リネアは自ずとカルデロンの姓となる。公爵の娘になることに変わりはない。
「はい、そうですね。心の整理がつけられたら、呼ばせてください」
「ああ。前にも言ったが、私たちはお前を愛する準備ができている。ところで、小腹はすいていないか?」
「祭りのために夕食も軽いものでしたので、すいています」
「私も、少し……」
正直、公爵を『父』と呼ぶことを明確に求められることなく、話題が変わったことに安堵する。
今のリネアにとって父親という存在は繊細に扱わなくてはならない問題だ。たとえ家を追い出されようと、過去のことだとすぐに割り切ることなどできない。
――いつかちゃんと、話をしないと。
ほどなくして、公爵の待っていたものが運ばれてきた。
「あれは――」
「リネアが教えてくれたレシピをもとにゼリーを作らせた。ともにいただこうじゃないか」
ワイングラスのなかに宝石をちりばめたようなゼリーが何層にも重ねられていた。
――角切りにされた果物も入っていて、いったいどれだけの時間をかけてくれたのかしら。
層は水平ではなく斜めに傾いていて、グラスを回すたびに光を反射して表情が変わる。
「美しいものだな。それに角度をつけて固めるとは、なかなか手が込んでいる」
公爵がグラスを光にかざし、目を細めた。
「リネアはこれを、どのようにして食べていたんだ?」
ロデリックはゼリーにスプーンを入れるのをためらっていた。これほど華やかなゼリーだ。崩してしまうのがもったいないという気持ちはよくわかる。
「私が食べていたゼリーの層は水平だったけれど……順番に食べても、混ぜて食べても楽しかったわ」
リネアは一番上の層をすくい、口に運んだ。ひんやりとしたゼリーが舌の上でほどけ、果実の食感が折り重なって広がる。
高ぶった熱を冷ますにはぴったりの冷たさだ。
頬を綻ばせたリネアに公爵とロデリックも続いた。
「これならば夏場の茶会でも涼しくすごせるだろう」
「甘いものが苦手なものでも進みそうだ」
グラスの底が見えても、会話はとぎれない。柔らかな甘みと笑顔の余韻を残しながら、三人の穏やかな夜が更けていった。