十七話 まだ間に合う
「ま、まだ間に合います!」
「へ!?」
サフィの声はこだまするほどよく響いた。
「手続きの関係上、リネアさまはまだ正確にはカルデロン家の籍には入っておりません」
やや早口になるサフィにリネアは目を丸くするしかできない。
「まずは婚約になりますが、それには陛下の承認を得なければなりません。が、こちらはジオフリーさまが」
「こ、婚約!?」
思わぬ進展に声が裏返る。
リネアとサフィは互いに焦りすぎたと顔を見合わせ、苦い笑みをこぼした。
「まずは謝罪させてください。リネアさまが婚約者ではなく養子として迎えられたのは、私が判断を誤ったからです」
「――」
「バーニー家の世話になった際、リネアさまがロデリックさまに好意を抱いているとは思わず……あっ」
あけすけに言うサフィにリネアは恥ずかしさからうつむいてしまい、それを見たサフィも口をふさいだ。
「ど、どうぞ構わず、続けてください」
「申し訳ありません。それで、えっと……リネアさまの人生が結婚で縛られぬよう養子として迎える決断にいたったのです」
リネアとて恋心を自覚したのはつい先ほどだ。それまでは敬うべき相手として接していたから、サフィがわからなくても仕方ない。
「ジオフリーさまが帰り次第、婚約の準備を――」
「ま、待ってください」
今にも踵を返しそうなサフィを慌てて止める。
「私は……」
このままでもいい、と言いたいはずなのに。
――ああ、こんなにも。
リネアはすっと口を閉じる。このままでいいわけがない。諦めたくないと、そう思ったからサフィに打ち明けたのだ。
「まずは、ロデリックの意思を確認したいです」
「断らないと思います」
「ええ、そうでしょう。私が恩人だから、ロデリックは断らないと思います。断れないと言ったほうが正しいでしょうか?」
「いや、そうではなく……」
「とにかく、私はロデリックの気持ちを無視して、私の気持ちだけを押しつけるようなことはしたくありません」
ロデリックが不幸なら、それはリネアにとって幸せではない。
「だから、養子縁組の手続きが終了していないなら……時間稼ぎを、お願いできないでしょうか?」
「承知しました。このサフィにお任せください」
にこりと笑うサフィは本当に頼もしい人である。
「それでは早速、ロデリックさまのもとへ向かいますか?」
にこやかに続けられ、リネアはきょとんとしてしまう。
――今から、ロデリックに会いに?
すなわちそれは、好意があると伝えにいくということで。
「きょ、今日は……やめておきます」
「早いほうがよろしいのでは?」
「か、かもしれませんが……心の整理をしたいので。どう伝えるかも考えなくてはなりませんので」
「さようですか」
なにかと理由をつけるリネアはその後、無事に部屋へと戻ることができた。
「――とっくに両想いだと思いますがね」
少し呆れたようなサフィの声は、誰の耳に届くこともなく廊下に消えていった。
◇◇◇
要塞のようなこの屋敷で迷子になっていたであろうリネアを部屋へ戻したあと、サフィは騎士団の訓練場へと足を運んだ。
活気あふれるかけ声が響くなか、訓練場の端でぽつんと剣を振っているロデリックが目についた。
「ロデリックさま」
「戻ったのか」
「はい、先ほど。ジオフリーさまは近隣の村へ行かれました」
「相変わらずだ」
「寂しいですか?」
タオルで汗をぬぐうロデリックに睨まれる。
「なにか用があるのか」
それなりに息が上がっている。何人かと剣を交えたあとなのだろう。
――さて。
どうしたものかとサフィは口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「なにを笑っている」
ロデリックが浅く息を吐いたとき、サフィは屋敷の窓にふっと顔を向けた。ロデリックもそれにつられて同じほうへ視線を上げる。
残念ながら訓練場から書斎は見えない。むしろ遠い。
「先ほど、リネアさまにお会いしました」
どれかの窓を見ていた顔がすぐにこちらを向く。
「バーニー家で過ごしていたころよりも雰囲気が明るくなったとは思いませんか?」
「……そうか」
「さぞ注目を集められることでしょう」
「なに?」
サフィはいけないと思いつつも笑みを深めてしまう。故意ではない。けれど、短くない時間を見てきたあのロデリックがこうも面白い反応をしてくれるとは。
「顔立ちはもちろんのこと慈悲深い性格に聡明でいらっしゃる。公爵家の一員になったのですから、求婚も増えるのではないでしょうか?」
次第にロデリックの顔が険しくなっていく。
ただならぬ空気を感じとったのか、遠巻きにこちらを見ていた騎士たちがさらに離れていった。
だが、それも好都合だ。
「リネアさまは選ぶ立場にありますから、心配もいらないでしょうね」
言いながら、サフィの背筋がぞくりと震える。
――殺気も混じっていないか?
少し心臓のあたりが痛い。
「ロデリックさまはどう思われますか?」
しん、と静寂が広がる。
――もう一押しか?
今日が命日にならないことを祈りながら、サフィは言葉を重ねた。
「リネアさまにならすぐ婚約者ができると思いませんか?」
これだけ焚きつけたのだ。
――いい加減、自覚したよな?
恋心など知らないであろうロデリックも、リネアに抱く己の感情が特別なことくらい判別できるはずだ。
「そうか」
「……は?」
「話はそれだけか?」
「それだけ……って、それはこちらの台詞ですが!?」
「叫ぶな」
鬱陶しそうに大きなため息をつきながら、ロデリックはくるりと踵を返した。それからまた剣を振りはじめる。
「話はまだ終わっていません!」
「っ……危ないだろ。むやみに体に触れるな」
「それは、申し訳ありません。ですが勝手に会話を終わらせるのはいかがなものかと思いますが?」
ロデリックが手にしているものは真剣だ。たまらず肩を引いてしまったことは反省しなくてはならない。しかし、それはそれだ。
「なにをそんなに苛立っているのです」
「苛立ってなど」
「殺気を放っておいて苛立ってないなど言えませんよ。ただの世間話ではありませんか? ロデリックさまのご家族の、妹君についての」
すっと赤い目が細められる。
――ああ、恐ろしい!
お節介だとはわかっている。いくらなんでも踏みこみすぎだということも。
しかし、リネア・バーニーには報われてほしい。母を病で失い、抗いようのない屈辱に耐え続けた少女の肩を持つことくらい、許してほしい。
彼女と、彼女の母と出会っていなければ。
――カルデロンも、壊れていたかもしれない。
サフィはロデリックの肩を掴む手にぐっと力を入れる。
「まだ、間に合います」
赤い瞳の奥でなにかが、たしかに揺れた。