十五話 おもしろくない
少しずつ緊張もほぐれて、しばらく世間話が続いていた。相変わらず『恩人』については探りを入れても華麗にかわされるが、それでもいいかと思うほど公爵は温かい人だった。
「公爵さま。一つ、うかがってもよろしいですか」
「ああ、もちろん」
「この養子縁組を……公子はどうお考えでしょうか?」
「ロデリックか?」
「家族になるといっても、私は赤の他人です。周りの方々から変に勘繰られる可能性もあって、カルデロン家のみなさまのご迷惑にならないか、私は……っ」
また追い出されるのではないか。底知れない恐怖がのどをふさいだ。
「リネア、手をにぎってもいいか?」
差し出される手に、リネアはおずおずと手を重ねる。
「妻はスキンシップが好きな人だった。誰かが感情に揺れるとき、よく抱擁を交わしていた。……まだ私が君を抱きしめるわけにはいかないからな」
ぎゅっと大きな手に包まれて、じんわりとした温かさが伝わってきた。
「周りのことなど気にしなくていい。迷惑など、誰が思うものか。むしろ、我々の身勝手な願いが君の、辺境伯としての未来を奪ってしまったことを心苦しく思う」
そんなことはない、とは言えなかった。
「すまない。君にとってこの縁組は本意ではなかったかもしれない」
手を包む温もりと、こちらをまっすぐ見据える目に、リネアはこくりとうなずいた。
「でも私は、ここへ来る準備の手を止めはしませんでした」
「――」
「私は、私が……自分の意思で、選んだのです」
バーニー家に残っても自分の居場所は少ない。なんとか確保していても、これからもっと狭く、最終的にはなくなっていたかもしれない。
だから完全に心が折れてしまう前に、自分で新しい居場所を見つけて飛び出したのだ。
「私たちは君を家族として受け入れ、愛する準備ができている。しかし、そう重くとらえなくてもいい」
公爵が穏やかに、それでいて寂しげに眉を下げた。
「君が望むなら、この家を出て好きに生きてもらって構わない」
「――」
「もちろん、成人するまでは面倒を見させてもらう。大人として認められ、ここを巣立ちたいと思ったならば、私たちは支援を惜しまない」
にぎられていた手が解かれ、ふわりと軽くなる。
「それでもいつか、父と呼んでくれたら嬉しい」
どうしてそこまで、と聞いてもきっと、答えは『恩人だから』としか今は返ってこないだろう。
「ロデリックを兄と呼んだら、おもしろいかもしれない。家族という実感を持つためにも、まずは呼んでみてはどうだろうか?」
別れ際、公爵はいたずらな笑みを浮かべた。
――公子を兄だなんて……。
名前ではなく敬称で呼んでいるというのに、兄と呼んだらきっと顔をしかめられるに違いない。
部屋に戻ってからというもの、リネアは暇を持てあましていた。カルデロン邸はまるで迷路のようで一人で歩くにはまだ不安が大きいためだ。
「リネア、いるのか?」
ふいにノックの音と、懐かしさを覚えた声が届いた。
「こ……はい、います」
呼び方について考えていたため、ためらいが生じる。
「父上と昼食をとったと聞いた。もう大丈夫なのか?」
「え?」
なんの話かわからず、リネアは無意識のうちに扉を開けていた。
驚きつつも安心したような顔が新鮮だった。
「顔色は悪くなさそうだ」
「体調は悪くありませんが……」
「昨夜、夕食をとらなかったと聞いた」
「そう、ですね?」
疲れて眠ってしまい、気づいたら朝だった。
「食事がのどを通らなかったほど体調が悪かったんだろう」
「えっ」
どうやらロデリックは勘違いをしているようだ。
「昨日は寝過ごしてしまっただけで、体調に問題はありませんでした」
「……そうか」
じっと見つめられ、いたたまれなくなる。
「あ、あの」
ロデリックの言葉を待てばよかったのだが、急いて先に口を開いてしまった。
「なんだ」
「これから、私は……その、家族……妹、に」
自分でも驚くほどしどろもどろだが、ロデリックはなにも言わずにただ待っている。
「お……お兄さま……?」
「――」
勢いのままに呼んでみる。
眉間にしわこそよらなかったものの、剣幕は鋭くなった。細められた目に見下げられ、リネアの心臓が大きく跳ねる。
「も、申し訳ありません。忘れてくだ――」
扉を閉めようとするリネアだったが、ロデリックに阻まれる。
――公爵さま、なにもおもしろくない……怖い!
がっとつかまれた扉はびくともせず、息が抜けるようにのどが鳴った。
「兄とは、呼ばれたくない」
「は、はい」
「ロデリック」
「……はい?」
「ロデリック」
つまり、名前を呼べばいいのか。
「――……ロデリック、さま」
「敬称はいらない」
「そ、そういうわけにはいきません」
「敬語もいらない」
リネアはきゅっと口を結ぶ。
「やり直しだ」
リネアは観念し、扉を閉めようとするのをやめる。それに合わせてロデリックもゆっくりと腕を下ろした。
「――」
何度か口をぱくぱくとさせたリネアはぎゅっと目をつむる。
「……ロデリック」
「ふ」
頭上から空気がこぼれたような笑い声が聞こえた。
「それでいい」
笑っていたであろうロデリックの顔はもう無表情だ。その顔が、すっと斜め下に向く。
「これを」
「花束?」
差し出されたのは赤色の花で作られた花束だった。
「傷病人には花を贈るのが慣例だろう」
お見舞いに選ばれるのは花が多い。
――私のために?
わざわざ街に出かけてまで買ってきてくれたのか。
「ロデリックも私が『恩人』だから、こうして気にかけてくれるのですか?」
「違う」
「ではどうして」
「恩人には違いないが……なぜだろうな」
ロデリックも答えを探しているのか、じっと動かなくなる。
「俺にも、わからない」
強いて言うなら、と静かに続けたロデリックにリネアは開きかけた口を噤む。
「リネアだからとしか言いようがない」
ぶわりと顔が熱くなる。
ロデリックはあまりにまっすぐだ。
「こ、こちらは部屋に飾らせていただきます」
「ちょっと待て」
受けとろうとした花束がひょいっと避けられる。
「なにか忘れていないか」
「え?」
空を切った手の行き場がなくなり、リネアは目を瞬かせる。
「あ、ありがとうございます……?」
「違う、敬語だ。いったい、なにがそんなに難しいというんだ」
ロデリックに呆れたような目を向けられる。
「俺に使われる敬語はあいつらに使うものとは異なるとわかっているが、わかっているからこそ気分がよくない」
「――」
ロデリックの指摘に息がつまった。
「わかるやつにはわかる」
リネアがアマリスとクラリッサに敬語を使っていたのは、立場を重んじていただけではない。
拒絶。その現れである。受け入れることはなく、壁を作って接する。踏み入らず、踏み入れさせることもない。
「そんな顔をするな。俺以外に気づいたものはいないだろう」
ばさ、と胸元に花束を差し向けられ、反射的にリネアはそれを受けとる。
「今後ばれることもない。もう関わることはないのだからな」
「関わることは、ない……」
ロデリックの言うとおりだ。
「そう、ですね。ありがとう――」
「敬語」
間髪入れずの指摘に、リネアは柔らかく目尻を下げた。
「ありがとう、ロデリック」
ロデリックは満足げに口角を上げた。