十三話 会いたい
「もっと早くこうしていればよかったわ」
アルタスたちとの食事を拒否してから十数日、快適な日々が続いていた。
朝からアマリスやクラリッサから嫌味を言われることもないし、アルタスの顔色をうかがいながら話を進めることもない。
そして誰も部屋に訪ねてくることはなく、執務にも集中して取り組むことができていた。
「辺境伯がお呼びです。至急、執務室へ来てほしいとのことです」
ある日の食後、そうして呼び出されるまでは。
「なんの用?」
「そこまでは。ただ、カルデロン家からの書状を読んでおられました」
戦勝パーティーの招待には早い。思い当たる節といえば、アマリスのことだろうか。ロデリックが許しても、カルデロン公爵が許容しなかった可能性もある。
――レシピのお礼を伝えたかっただけかも。
わざわざ書状として送るとはとても思えないが、希望的観測くらいしてもいいだろう。
「急ぎなの……って、至急と言っていたわね。準備したらすぐに向かうわ」
執事長を下がらせ、身支度を整える。
アルタスの執務室にはクラリッサの姿もあった。しかし挨拶などはせず、横目でこちらを見ただけである。
「カルデロン家から書状が届いたと聞きました」
「ああ」
どこか勝ち誇ったかのような笑みを浮かべるクラリッサが気にかかる。
――アマリスがいないということは、抗議の手紙ではないということよね?
リネアは続きをうながすようにアルタスを見つめる。相変わらず目は合わない。
「カルデロン家より……リネア、お前を養子にしたいという申し出があった」
「――はい?」
「ともに剣を振るう家門として、結びつきを強固にできたなら王国にとっても喜ばしいことだろう。だから」
「ちょ、ちょっと待ってください。まさかカルデロン家の提案を受け入れ、私を養子に出すとお考えなのですか!?」
リネアの手がテーブルに当たり、背景の一部となっている三つのカップが揺れた。
――本気なの……?
大事な話だというのに、目も合わせてくれず淡々とした様子で話すアルタスに動揺を隠せない。
「後継者は、どうするのですか。私は今まで……領地のために、王国のために、後継者としての教育を受けてきました! それなのに……っ」
「後継者なら心配いらないわ。だってアマリスがいるんだもの」
安心などできるわけがない。むしろアマリスを後継者に据えるなどバーニーを破滅へと導くようなものだ。
「現在取りかかっている公務を整理し、荷物をまとめなさい」
「っ……お父さま! いやです、私は養子になどなりません!」
「お前を後継者にするより、カルデロンの養子になったほうがバーニーのためにもなるだろう」
今まで築きあげてきたものを真っ向から否定される。
――ああ、お父さまはもう私のことを。
愛していないのだと悟ってしまう。
すでに切れた糸を手繰りよせる気力も湧いてこない。
「わかりました。辺境伯には必要ないと思うので、お母さまが遺したものはすべて持っていきます」
「……好きにしろ」
笑みを深めるクラリッサに腹が立つ。だが、未練など感じられないアルタスにいくら抗議したところで、こちらが惨めな思いをするだけである。
「お嬢さま……」
二人を残して執務室を出ると執事長と侍女長が不安げな表情で待ちかまえていた。リネアの声は廊下まで響いていたのだろう。
「この家を出られるのですか?」
「ええ、そうみたい。私は……カルデロン家の、養子に……っ」
ぶわりと涙があふれてくる。
侍女長は一瞬ためらいながらもそっと肩を抱きよせてくれた。優しく背中をさすられ、リネアもすがるように包まれる。
声を上げはしなかった。感情を押し殺さなければ、執務室のなかにまで届いてクラリッサに笑われてしまうことは目に見えている。
――お母さま。
将来、辺境伯となる姿はもう母に見せられなくなってしまった。
――ごめんなさい、お母さま!
リネアが家を出る日は、二週間後となった。長いようで短い時間はあっという間に過ぎていき、出発の日には雪がちらついていた。
一ヶ月ほど前は見送る側だったのに、自分が見送られる側になるとは夢にも思っていなかった。
「公爵家に行っても元気でね? バーニー家は私たちに任せてちょうだい」
「はあ。こんな寒い日に外に出ないといけないなんて」
見送りの言葉を聞き流しながら、リネアは忘れものがないかの確認をしていく。きっともう、この地に戻ってくることはない。
だから、万が一にも忘れものをしようものなら返ってくることもないだろう。
「天候が荒れる日も多くなる。道中は気をつけるように」
「ありがとうございます」
アルタスがなにかを言いよどむが、リネアは気づかないふりをして馬車へ乗りこむ。
――お母さまとの思い出が詰まったこの家を出ることになるなんて。
あっさりとした別れ。いまさら父親面されてもなにも響きはしない。
「出してちょうだい」
「――……」
御者が手綱を振るう。馬車はゆっくりと動き出した。
――さようなら、お父さま。
心残りは、やはり兵士と領民たちだ。女主人が不在となり、しばらく邸宅は騒がしくなる。それに乗じてクラリッサやアマリスがわがままを通すかもしれない。
冬の備えにまで手を出さないか心配だ。
――執事長がなんとかしてくれるだろうけれど。
膝の上に重ねていた手に水滴が落ちる。流れていく景色をぼんやりと眺めていたリネアは、窓の反射する自分が涙を流していることに気づいた。
「ぁ」
そっと顔を手でおおう。
「ぅ、ううっ」
いつまでも後ろ髪を引かれていては公爵家にも失礼だ。
だが、泣かずにはいられなかった。母を病で亡くし、父は知らない女に奪われ、ついには家を追い出されてしまった。
この気持ちをどう表現すればいいかわからない。だから、泣いて発散するしかリネアにはできない。
「会いたい、お母さま……っ。どうして、死んでしまったの? いなくなってしまったの? 私を、置いていってしまったの?」
びゅうびゅうと吹く風はリネアの声を阻み、この馬車のなかに閉じこめるだろう。
「お母さまがいるのに、ほかの女性にうつつを抜かすなんてお父さまは最低だわ! よりにもよってあんな傲慢な女性を迎え入れるなんて。どこがいいのよ!」
誰にも聞かれないから、リネアは心の底にしまっていた言葉を吐露する。
「アマリスも生意気だし、誰が姉なんて思うのよ! 他人よ、他人! 家族だなんて思いたくもないわ!」
慣れない不満を声にしたリネアは肩で息をする。
悲しさよりも怒りが大きくなり、自然と涙は止まっていた。
――聞こえてない、よね?
ひとしきり感情を爆発させ、リネアは御者との連絡口となる小窓をちらりと見やる。
「こほん」
無性に恥ずかしくなったリネアはわざとらしく咳ばらいをする。誰も見ていないというのにしばらく、背筋を伸ばしてしゃんと座っていた。