2話 離婚計画
「…様、お母様」
「ハッ……」
優しい声に呼ばれ、意識が浮上する。
ぼやける視界の中で、心配そうにこちらを見つめる幼い少女の姿が捉えられた。
サファイアのような青い瞳に、輝く金色の絹のような美しい髪。
見覚えのあるその顔立ちに、心臓が跳ね上がる。
彼女は、この体の持ち主の娘にして、『没落令嬢は星に選ばれる』の悪役令嬢、エレノア・アメリア・ブレンシュタインだ。
そこでようやく私は理解した。
私は恋愛小説『没落令嬢は星に選ばれる』の悪役令嬢エレノアの母親、アメジスト・メイベル・ブレンシュタイン公爵夫人に転生してしまったのである。
まさか、自分が恋愛小説『没落令嬢は星に選ばれる』の悪役令嬢エレノアの母親、アメジスト・メイベル・ブレンシュタイン公爵夫人に転生してしまったとは。
よりにもよって、原作開始前に夫や義母に虐げられ、病に倒れて命を落とす、あの不幸な公爵夫人に。
前世で若くして病死したというのに、また同じように早死にするなんて冗談じゃない。
せっかく異世界に転生したのなら、今度こそ長生きしたいものだ。
それにしても、原作の知識とは異なり、この世界のアメジストと夫である冷酷な公爵クリスチャンの仲は険悪そのものらしい。
原作では愛妻家として描かれていたクリスチャンには、内縁の妻エミリーまで存在するというのだから、これは明らかに原作とは異なる、何か深い裏事情がありそうだ。
先程、流れ込んできたアメジストの断片的な死の記憶が、もし原作に隠された真実なのだとすれば、エレノアが公爵夫人を殺害したという原作の展開は覆る可能性が高い。
それどころか、もしかしたらエレノアがあのような悪女へと変貌してしまったのは、この歪んだ公爵家の環境が大きく影響しているのではないかとすら感じ始めている。
(……こんなに痩せ細って、可哀想に。まともな食事もできていないのかしら?)
「……決めたわ」
「……な、何をですか?お母様」
おそるおそるといった様子でエレノアが尋ねる。
その瞳には不安や恐怖の色が見て取れた。私は彼女を安心させるように優しく頭を撫でる。
「公爵家と対立する覚悟をね」
「覚悟?」
「ええ、そうよ。エレノア、あなたは私が守るから。安心してちょうだい」
こうして、私のエレノアのハッピーエンド計画が幕を開ける。
その後、私はエレノアと別れ別邸の自室に向かう。
そこは簡素な部屋で、ベッドと机、小さなクローゼットに一輪のカスミソウが入った花瓶が置かれていた。
とても一国の公爵夫人の部屋とは思えない、質素な部屋だった。
(どうやら、本当に公爵は自分の妻を愛していないようね)
初めは公爵家の人間と仲良くなろうとしたが、どうやらアメジストたちは使用人にすら嫌われているらしい。
唯一アメジストたちを邪険にしないのは、アメジストが実家から連れてきた侍女であるリディアだけだ。
ちなみに、そんな彼女も原作では、約半年後に屋敷を追い出されてしまうのだが。
(当然、その未来も変えないとね。彼女は、私にもエレノアにも真摯な対応をしてくれた。当然、エレノアと一緒に彼女も幸せにしてあげないと)
「奥様、お嬢様が奥様の似顔絵を描かれたのですが、ご覧になりませんか?」
「まあ、本当?見せてちょうだい」
リディアはエレノアが描いたという絵を私に差し出した。
私は受け取った絵を見て、涙が溢れそうになった。
何故なら、その絵にはエレノアと私、リディアの他に真っ黒に塗りつぶされた男の人の姿もあったからだ。
その男の肩には公爵家の家紋の象徴であるワシに似た鳥が止まっており、クリスチャンに酷似していた。
「エレノアと私、リディア……これは公爵様かしら?よく描けているわね?この歳でこの絵を描けるなんて、画家の才能があるんじゃないかしら?」
「はい!そうなんです!お嬢様はどうやら絵の才能があるようなんです!ゆくゆくは、絵の先生をお呼びして、御指導していただくのもありですよね!」
リディアは興奮気味に、エレノアの絵の才能、素晴らしさについて語る。
「……でもこの絵を見てよく分かったわ。あの子には随分寂しい思いをさせてしまっていたようね。」
私がそう呟くと、リディアは真剣な表情で語り始めた。
「……エレノアお嬢様は、とても聡明です。奥様とお嬢様が置かれた状況を把握しておりました。そして奥様に気を遣われてか、いつも気丈に振る舞っておりましたが、何度か自室で涙を流されている姿も目にしたことがございます」
いくら聡明と言えど、エレノアはまだ幼い6歳の少女だ。
幼い子供には愛情が必要だ。
愛がなければ、私のように壊れ、原作のエレノアのように歪んだ人間になってしまう。
それなのにこんなに多感な時期に、愛情を受けられないだなんてあって良いはずがない。
私はエレノアの境遇に心から同情し、夫であるクリスチャンや義母である前公爵夫人──ローラに前世の家族の面影を感じて、怒りが込み上げてきた。
「……奥様、どうかエレノア様をお救い下さい。これ以上、お嬢様が傷付いている姿は見たくありません」
リディアが涙を堪え、そう言うと私に向かって頭を下げた。
「お願いします、奥様」
「……顔を上げてちょうだい、リディア。私もあなたと一緒よ、あの子の幸せを誰よりも願っているわ」
エレノアを見ていると、かつての自分を思い出してしまう。
無力で、母親に言われるがまま生きてきた、自由を持たない北川遥の姿を。
だからこそ、この状況を好転させる手立てを考えているのだが、この屋敷にはリディア以外味方は存在しないため、どうすることもできない。
「……私だけでは、あの子を救うことはできないわ。だから、リディア。あなたも一緒に方法を考えてくれないかしら?」
申し訳ないと思いながらも、私はリディアに意見を求めることにした。
公爵家はどこもかしこも敵しかいない。
ならば1人で考えるよりは、実家からわざわざ着いて来てくれたリディアという味方に頼った方が、良い案が出る可能性がある。
それに彼女は、転生者の私とは違ってこの世界や公爵家についての知識も豊富だ。
原作を知っているだけの私より、よっぽど良い案を出してくれそうだ。
公爵夫人という高貴な身分を持ちながら、何も出来ないとは情けないばかりだが、ここでの私は使用人以下の身分なのだ。
仕方ないことだと割り切ろう。
「……公爵様や大奥様に、お嬢様への態度を改めるようお願いするのは」
「無理よ。あの人たちは、私たちを家族とは思っていないようだし、邪魔だから私たちは離れに追いやられたのよ?」
「そう、ですよね……」
リディアはうーんと唸り、また考え始める。
「なら、いっそ離婚を申し出てみようかしら?」
我ながら良い案だと、私が誇らしげにそう言うと、リディアは首を横に振った。
「残念ですが、それは以前奥様が試されてダメだったじゃないですか?あの後、大奥様に青あざができるまでムチで叩かれてしまいましたし、また同じことになりかねませんよ?」
「そ、それもそうよね」
どうやら、アメジストは過去に離婚の申し出をしていたようだが、その時は結局受け入れて貰えず、離婚を申し出たことを知った義母に暴力を振るわれたそうだ。
最終的に離婚はしたいが、それよりもまずは私たちの心身を守る方が先だ。
その後もリディアはうんうんと唸りながらも、必死に案を出そうとしている。
それから数分後、彼女はポンと手を叩き何かを閃いたようだ。
「そうだ!奥様の御実家!……エーデルシュタイン家に頼ってはどうでしょうか?」
「……私の実家に?」
エーデルシュタイン家とは、原作で悪女の母親の生家として出てきただけで、私はエーデルシュタイン家について何も知らない。
だからこそ慎重に判断するためにも、私は遠回しに探りを入れることにした。
「……お父様たちは、私たちに手を差し伸べてくれるかしら?」
不安そうな顔、悲しそうな声でリディアを見つめながら問い掛ける。
するとリディアは怒ったように頬を膨らませる。
「当たり前ですよ!アメジスト様は伯爵様と奥様の宝!いいえ、エーデルシュタイン家の宝なのですよ?!当然、愛するお嬢様がこんな目に遭っていると知れば、すぐに手を貸して下さるはずですわ!」
「……そ、そう、だったわね」
リディアの勢いに圧倒されつつも、私は彼女の態度や言動から、アメジストの両親は娘を愛しているのだと感じた。
そして、彼らに助けを求めることが今の現状を打開する唯一の方法だと理解した。
「……なら、実家に手紙を書きましょう。早く送れば、早く届くはずよね」
私が明るい笑顔を向け、そう言うとリディアの表情は暗くなる。
「……何か問題でもあるの?リディア」
「……はい。実は──」
話を聞いてみれば、手紙を届けることは不可能だと彼女は語った。
クリスチャンは使用人たちに私の行動を監視させ、何かあれば逐一報告させているらしく、当然手紙を届けようにも他の使用人に妨害され、手紙の内容まで見られてしまうかもしれないという。
「……そんな、本当にここでの私は人間としての尊厳すら奪われてしまっているのね。まるで罪人みたいだわ」
「……申し訳ありません、奥様」
「……でも、どうにかして実家と連絡を取れないかしら?手紙がダメなら、あなたを使いとして送るのはどう?」
「……私は奥様の御実家からやって来ているので、怪しまれてしまいそうですね。今だって、休日に出かける時だって別の使用人が友人という名目で着いてくるのですから、さすがに私が使いで伯爵家まで出向くのは難しいです」
リディアにも監視の目が着いているというのだから、クリスチャンは相当私のことが気に入らないようだ。
原作ではあんなに妻を愛していたと語っていたのに、この世界での彼は何よりも妻を憎んでいるように見えた。
何故、ここまで妻であるアメジストを嫌うのか。
一体何が気に入らないのか、非常に気になるがそれ以上に私はクリスチャンを憎んでいたので、私を嫌う理由が同情できるものだとしても、絶対に許す気は無い。
その後、2人で幾ら話し合っても良い案は出てこず、疲労感が上がっていくだけだった。
「……ダメね、八方塞がりだわ」
私がお手上げといった感じで、ベッドにゴロリと横になると、コンコンッと部屋の扉を2回ノックする音が聞こえた。
「……どうやら、誰か来たみたいね」