19話 初代聖女の肖像画
ここまでの登場人物を、まとめさせていただきます。
■アメジスト・メイベル・ブレンシュタイン(主人公)
前世は北川遥という日本人女性。
恋愛小説『没落令嬢は星に選ばれる』の悪役令嬢の母親に転生。
娘のエレノアを救い、自身の運命を変えるために奮闘。
過去のトラウマから、家族愛に飢えている。
聡明で芯が強いが、娘と過去のトラウマが関わると感情的になる。
■エレノア・ブレンシュタイン
アメジストの娘。
原作では悪役令嬢として処刑される運命にあった。
内気で優しいが、芯の強い少女。
絵を描くことが得意。
■ルイス・ロベルト・ドワイト公爵
南部の支配者と呼ばれる大貴族。
アメジストの学園時代の友人。
兄は現魔塔主。
■クリスチャン・レナード・ブレンシュタイン
アメジストの夫でブレンシュタイン公爵。
冷酷で自己中心的。
アメジストとエレノアを冷遇している。
体面を気にするが、本性は傲慢なDV旦那。
■エミリー・シェスタ
クリスチャンの内縁の妻。
ブレンシュタイン公爵家の家臣の娘。
クリスチャンとの間に隠し子がいる。
■ローラ・ブレンシュタイン
前公爵夫人。
クリスチャンの母でアメジストの義母。
アメジストとエレノアに暴力を振るい、精神的に追い詰める。
孫にも暴力を振るう最悪の義母。
■クラウス・ファウスト・エーデルシュタイン伯爵
西部を支配する大貴族。
アメジストの実父。
国内有数の大商団の長で、莫大な富を持つ。
■エレナ・フィール・エーデルシュタイン
伯爵夫人。
アメジストの実母。
実家は、代々高位神官や聖女を排出してきた名家。
心優しい貴婦人で、強い神聖力を持つ。
■リディア・アイリーン・シャトリゼ
アメジストの侍女。
アメジストとエレノアに忠実に仕え、献身的にサポートする。
エーデルシュタイン家から、アメジストの嫁入りに着いてきた。
■アンナ
エーデルシュタイン家の中級メイドから、エレノア付きの侍女に昇格した。
■エリック・ハドア・ブラントン子爵
南部の貴族。
原作の主人公、メリーの養父。
過去に幼い娘を亡くしている。
アメジストの父、クラウスと面識がある。
■トム・バスター
ブレンシュタイン公爵家の御者。
アメジストに同情的で、彼女を助ける。
心優しい青年。
その後、エレノアは少し寂しそうな表情を浮かべながらも、リディアに優しく手を引かれ、談話室から去って行った。
「……アメジスト」
「はい?」
エレノアが去ってから、父は困り顔で私の名を呼び、じっと見つめてくる。
「……どうかされましたか?お父様」
「……今、お前とエレノアが外出するのは、いくらなんでも危険だ。美術館に行くのは、せめてブレンシュタイン公爵との裁判が、完全に終わってからにしなさい」
「え?ど、どうしてですか!………やっと!エレノアはあの忌まわしい公爵家から解放され、自由になれたんですよ?彼女のしたいことは、できる限りなんでもやらせてあげるべきです。ですから、外出許可をください!お父様!必ず、何があってもあの子の安全に配慮しますから」
まさかの父の強い反対に、私がが動揺を隠せず困惑しながらもそう返すと、今度は母が心配そうな眼差しを私に向けながら、話し始める。
「……だけど、アメジストとエレノアは今や、良くも悪くも有名人よ。裁判のことで、社交界はもちろん、新聞でも連日持ち切りなのよ。だから、もし外で何か騒ぎがあったら大変だわ」
「……た、確かにそうですね。でも、もうエレノアと約束をしてしまいましたし、どうにか安全に外出できないかしら」
せっかく、エレノアと約束をしたというのに、外出を止められてしまうのは予想外だ。
せめて、エレノアに話しているあの時に止めてくれれば良かったものの、今から行けないとはとても言えない。
私はこの困った事態をどう収拾すべきか、必死に考えていると、ドワイト公爵が私に笑いかけ、父を見て落ち着いた声で話し始めた。
「……伯爵、よろしければ公爵夫人と公女様の外出に、私が同行してもよろしいでしょうか?」
「……ド、ドワイト公爵が同行ですか?」
「はい」
予想外の申し出だが、一国の公爵が同行しているとなれば、危険に晒されることはないはずだ。
ただ、安全は確保できるとしても、別の意味で噂になってしまう可能性はある為、そう簡単には許可できない。
「うーん……」
父も、腕を組み悩んでいるのか、なかなかドワイト公爵の真剣な申し出について、明確な言葉を返さない。
いつまでたっても何も言わない、父の煮え切らない態度に耐えかねてか、母が優雅に立ち上がり、代わりに公爵に向かって、柔らかな声で返事を返す。
「分かりました。ドワイト公爵、あなたが着いていれば、娘も孫も安全に美術館を楽しめるでしょう。それに、孫がやってきたのですから、新しいドレスも買い揃えねばなりませんし、ちょうど良いですね」
「なっ、エレナ!いくら、公爵がアメジストの元……いや。まあ、公爵がいれば確かに安全と言えるな」
父は今、一体なんと言いかけたのだろうか。
父の言いかけた意味深な言葉が気になるが、彼はその言葉についてもう一度口にすることは無さそうだ。
(……アメジストの元って、どういうこと?一体ドワイト公爵と私は、過去に本当にどんな関係だったのかしら?)
「……分かった。公爵、君の親切な申し出を有難く受け入れよう。しかし、ひとつ条件がある」
「条件、ですか?」
「ああ」
どうやら父は完全に許可するわけではなく、条件付きでドワイト公爵の申し出を受け入れるようだ。
「……条件は、外出時にはアメジスト以外の女性の同行者を必ず連れて行くことだ」
ドワイト公爵は、父の言葉を静かに少し考えてから、落ち着いた声で口を開いた。
「……それは、公爵夫人と公女様の外出に、私が同行することで、あらぬ噂を立てられないようにする為、でしょうか?」
「……その通りだ。娘は現在離婚を目指しているが、離婚が正式に成立するまでは形式上公爵夫人、既婚者だ。彼女に今、軽率な色恋の噂が流れることは、当然あってはならない。君も、理解してくれるね?」
少し威圧的な態度で、父は鋭い視線を向けながら、ドワイト公爵に詰め寄る。
するとドワイト公爵は「もちろんです」と迷うことなく言い、父の言葉を素直に受け入れた。
「そういえば、君には婚約者候補がいるそうだな?彼女を同行させてはどうだい?確か、ヴェール家の2番目の令嬢だと聞いているが」
父がそう言った時、私の胸は何故か、針で刺されたかのように、チクリと傷んだ。
(……ドワイト公爵に婚約者が候補がいるのは、別におかしなことじゃないわ。むしろ、あの地位にあれば、いないほうがおかしいもの。だけど、どうして?どうしてこんなにも、胸が締め付けられるように、悲しい気持ちになるのかしら)
「彼女はあくまで婚約者の候補にすぎません。正式な婚約者に決まったわけでもない為、軽率に同行させるわけにはいきません」
ドワイト公爵が父の言葉ををきっぱりと拒むと、私はほっと胸を撫で下ろす。
それにしても、父が口にしたヴェール家という名をこんなにも早く、ここで聞くことになるとは、本当に思いもよらなかった。
ヴェール家は、原作のヒロインメリーを陰ながら支援し、エレノアとは何かと敵対していた家門だ。
エレノアがメリーをいじめる度に、ヴェール家の心優しい令嬢、カミラが彼女を庇い、守っていた。
(……ヴェール家の令嬢が婚約者なのね。まさか、こんなところでその名を聞くとは思いもしなかったわ)
「ならば、一体誰を同行させるつもりなんだい?」
父はそう言い、疑わしそうな冷たい目でドワイト公爵をじっと睨むように見つめる。
「……そうですね。女性の同行者についてですが、アカデミー時代に夫人が特に親しくされていた、ハリエット嬢に声をかけようと考えています」
「……ほう、確かに彼女ならば娘とも親しく、性格も穏やかだ。なかなか良い人選だな、公爵」
ドワイト公爵の思慮深い意見に、父は感心したように満足げに頷き、ニコニコと機嫌のよさそうな笑みを浮かべる。
「お褒めいただき光栄です、伯爵」
(それにしてもハリエット嬢?一体どんな人なの?……後でリディアにこっそり聞いてみようかしら?彼女は私の過去の交友関係に詳しそうだし、知っていそうよね)
ハリエット嬢という女性はもちろん原作でも出てきてない。
きっとモブ以下の存在なのだろう。
しかし、この世界は私の知る原作のように、ヒロインメリーを中心に回っているわけではない。
だから、原作キャラではないからといって、ぞんざいな扱いをしてはいけないのだ。
何故なら、彼らも私と同じ血が通う生命体なのだから、互いに尊重し合うべきだ。
その後、今後の裁判についての説明を受け、この日は解散となった。
「ドワイト公爵、今日は可愛い娘と孫の面倒を見てくれてありがとう」
「いえ、お気になさらず。夫人と公女様がご無事で何よりです」
「……そう言ってくれると、こちらも助かる。では、また会おう」
父はドワイト公爵に複雑な思いを抱えているのか、申し訳なさそうな顔をしながら屋敷の中に戻って行った。
「……ドワイト公爵様、今日は私と娘を助けてくださり、ありがとうございました。美術館の件についても、ご親切に助け舟を出してくださり、とても助かりました」
私がそう言うと、彼は私の目を見ようとせず、少し遠い空を見上げて静かにこう返す。
「いえ、当然のことをしただけです。私は、あなたが困っていれば、いつでも迷わず手を貸します。……ですから、今度は私に何も言わずに去らないでください、アメジスト」
彼にそう切実な声で名を呼ばれた瞬間、
「え?それは、どういう意味で」
「では、失礼します。またお会いしましょう」
「……はい、お会いできる日を楽しみにしております」
ドワイト公爵は私の問いかけの言葉を遮るように、早口でそう言い馬車に乗って、静かに屋敷を去って行った。
私は彼の最後の言葉に、大きな疑問を持った。
(今度は何も言わずに去らないでくださいって、どういうことなの?私は以前、彼に何も言わずに去ってしまったことがあるのかしら?)
彼の言葉の真意について、どうしても知りたいが、こんな時に限ってアメジストの記憶が流れてくるようなことはない。
肝心なことを知りたいのに、もどかしく知ることができないというジレンマにモヤつきながらも、私は重い足取りで屋敷の中に戻った。
翌日、私は朝食前にリディアと共に、エレノアの自室へと向かう。
「あら、おはよう?アンナ。エレノアはもう起きているかしら?」
私は、エレノアの自室の近くを歩く、昨日中級メイドからエレノア付きの専属侍女に格上げされた、アンナを見つけ声をかけた。
「おはようございます、アメジスト様。エレノアお嬢様は、先程起きられて今身支度が終わったところです。お会いになられますか?」
「ええ、そうするわ。もうすぐ朝食の時間だし、一緒に大広間まで行こうと思うの」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」
アンナはにエレノアの部屋の扉を2回ノックする。
それから数秒後、エレノアからの許可を得ると、彼女はすぐに私たちを部屋の中へ通した。
「おはよう、エレノア」
「おはようございます、エレノアお嬢様」
「あ、お母様!リディア!おはようございます!」
私がそう声をかけながら部屋に入ると、そこには糸がほつれ、色褪せた古いデザインのドレスを着た少女はどこへやら。
少し丈は長いが、質の高い上等な黄色をベースにし、繊細な青いレースで覆われた夜空のような、美しいドレスに身を包んだ少女の姿があった。
「まあ、どこのお姫様かと思ったわ。素敵なドレスね……よく似合っているわ、エレノア」
「ええ、本当ですね。お嬢様、よくお似合いです。まるで童話の中のお姫様のようですわ!」
私たちがエレノアの美しい姿に見蕩れていると、エレノアは嬉しそうな弾んだ声で、私たちの元に駆け寄ってくる。
「ほ、本当ですか?えへへ、嬉しいです。こんな綺麗でふわふわした、素敵なお洋服!生まれて初めて着ました」
そう言って、照れたようにはにかむエレノアに、私は胸が締め付けられるような思いがした。
楽しそうに、新しいドレスの裾を両手で持ち上げ、くるりと回る愛らしい姿に強い愛情を抱きながらも、エレノアがこれまで受けてきた酷く不当な待遇、そして自分が何もできなかったという悔しい事実にを、腹立たしく思う。
「さあ、エレノア。お腹も空いたでしょう?ご飯を食べに行きましょう?昨日は初めての場所に緊張と疲れのせいで、夜ご飯も食べられなかったでしょう?」
「あっ私!ご飯の時間にも起きずに眠ってしまっていたんですよね?ごめんなさい、時間も守れなくて……」
私は、今にも泣き出しそうな悲しそうな顔をし、しゅんと俯く彼女を優しく両腕で抱き締める。
「エレノア、謝らなくていいのよ。あなたは何も悪くないわ。疲れた時はめいいっぱい休まなくちゃね……さあ、美味しいご飯を食べに行きましょう?きっと、あなたも気に入るわ」
私はそう言い、エレノアに手を差し伸べる。
すると、彼女は数秒迷うように手を彷徨わせてから、力強く私の手を握った。
私たちはその後、朝食のために大広間へと向かった。
大広間に向かう途中、エレノアはまた昨日強い興味を持って見つめていた絵の前で足を止める。
「……さあ、エレノア。早く行きましょう?きっとお爺たちもあなたのことを待っているはずよ」
私は少し心配になり、少し強引にエレノアにそう言うが、彼女はまるで足を地面に縫い付けられたように動かそうとしない。
「……エレノアお嬢様は、どうやらこの初代聖女様の肖像画がお気に召したようですね?」
「……初代聖女様の肖像画?」
私は、リディアの意外な言葉に驚き、その絵を改めて見つめた。
原作小説の中で、聖女とは女神ルーナに仕える神の代弁者、神の仕者と呼ばれる、皇族とは別の高貴で気高い存在だとされていた。
主人公メリーは生まれつき強く、純度の高い神聖力を持っており、孤児院で保護されてからその特別な奇跡の力は、少しずつ開花していった。
そして物語のラストで、邪悪な闇の魔女として覚醒したエレノアを打ち倒すため、前任の聖女の死亡から数十年後に、奇跡的に真の聖女として覚醒した。
メリーの聖女としての覚醒は、女神様の御意思だとして国中に広まり、その存在は大陸全土に知れ渡った。
特にメリーの持つ動物と会話ができる能力は初代聖女の能力と酷似しており、彼女を建国伝説の英雄の1人である、初代聖女の生まれ変わりだとする声も上がっていた。
初代聖女は、この国を邪悪な闇の魔女から、5人の協力者と共に打ち倒した、伝説の英雄だった。
彼女は、強い神聖力だけでなく、動植物とご心を通わせる力や、禁断の力とされる死者の蘇生、真実を見抜く目を持っていたとされており、この世界では女神の次に崇められている、特別な存在だ。
そんな神聖で、特別な女性の肖像画が、一伯爵家の廊下に飾られているだなんて、あまりにも不自然だ。
それに何より、この絵を見ていると背筋に悪寒が走り、気味が悪い。
「……お母様」
「……どうしたの?エレノア」
ようやく、絵からゆっくりと視線をズラした彼女は、僅かに眉を下げ、悲しげな、今にも泣き出してしまいそうな顔でこう告げた。
「お母様……どうして、この絵の中の女性は泣いているんでしょうか?」
私は、エレノアのまさかのひと言に一瞬固まった。
「え?……何を言っているの?この絵の女性は、静かに微笑んでいるじゃない?」
「そ、そうですよ!エレノアお嬢様、この絵の女性──初代聖女様は、慈愛に満ちた表情で優雅に微笑まれていますわ」
リディアの言葉に私とアンナはうんうんと頷く。
この肖像画の中で、初代聖女は不気味な程に、慈悲深い笑顔を浮かべて佇んでいる。
決して、悲しみに暮れ、涙を流してなんていないのだ。
「いいえ!この女性は、ずっと涙を流し続けているんです!」
エレノアは私たちの言葉を否定し、今にも泣き出しそうなほどに瞳に涙をため、悲しそうにその絵から目を離さずに、絵の中の女性をじっと見つめ続けている。
私はそんなエレノアのことが理解できず、頑なに絵を見つめ、悲しそうな顔をする彼女が不思議で仕方なかった。
しかし、子供とは時に大人の思いもよらぬことを言い出すものだ。
だからこそ、彼女の言葉を否定せず、エレノアに優しくこんな言葉をかける。
「……エレノア、あなたはとても感性が豊かなのね。その気持ちを、あなたが見ている景色を絵の中に閉じ込めたら、きっと素敵な絵が描けるわ。ご飯を食べたら、早速絵を描きにいきましょうか?」
気を紛らわすように、エレノアが最もやりたいことを餌にして、強引に朝食を食べに行こうと誘導する。
汚いやり口だと分かってはいるが、私は一刻も早くこの奇妙な場から去りたかった。
エレノアは私の言葉を聞いて、先程までの悲しそうな表情を一転させ、ぱっと楽しそうに無邪気に笑う。
「分かりました!……絶対に、素敵な絵を描いてみせます!」
彼女はそう意気込んで、私に手を引かれて足を動かし始めた。
その様子に私はそっと胸を撫で下ろす。
そして、廊下に飾られた絵に一度視線を移すと、何故か先程までの、まとわりつくような不気味さは感じなかった。
きっと、この絵を見て感じた嫌悪感は気の所為だったのだとそう結論付けた。
(……そう、よね。なんてことの無い普通の絵。こんな絵に心を乱されるなんて、馬鹿らしいわよね)
しかし、そう思うのとは裏腹に、先程のエレノアの発言は子供ならではの豊かな感性とは違うような気がしたが、この事については深く考えないようにしようと思い、心の奥底へと仕舞い込んだ。
それから数分後、私たちは大広間の前へと辿り着いた。
「こちらが、我がエーデルシュタイン邸の大広間になります」
アンナはそう言い、ゆっくり大きくて重厚な扉に手をかける。
ガチャリと音を立て、扉がゆっくりと左右に開かれていく。




