12話 安堵
一体誰がこんな時間に、と訝しげに思いながらも私は椅子から立ち上がり、扉へと向かう。
「誰か、来たようね……エレノア?あなたは後ろに下がっていなさい」
「わ、分かりました」
私はエレノアに部屋の奥で待っているよう命じ、ゆっくりと部屋の扉に手をかける。
彼女の小さな体は、まだ恐怖で強張っている。
私は、彼女を守らなければならないと強く思った。
心臓がドキドキと激しく鼓動する。
私は意を決したように、ゆっくりと扉を開いた。
私はゆっくり扉を開け、警戒しながら廊下に出る。
するとそこには、透明な液体が入ったガラス瓶を抱えたトムが立っていた。
彼の顔には、僅かに疲労の色が見える。
私はそっと胸をなで下ろし、早くなる鼓動を抑えるように胸に手を当てる。
安堵の息が漏れた。敵意のある人物ではなかったことに、心底ほっとした。
「まあ、トム!」
「あ、奥様!解熱剤をお持ちしました!かなり時間がかかってしまい、申し訳ございません!平民が買う、安価な物なので効果はあまりないかもしれませんが、気休め程度になるでしょう」
どうやら、トムはリディアのために危険を冒して薬を持ってきてくれたようだ。
彼の行動は、公爵家の冷酷な人々の中では異質だった。
「ありがとう、助かるわ」
「……お母様、その御方は?」
エレノアがおずおずと私に尋ねる。
彼女の小さな手は、私の服の裾をぎゅっと握りしめている。
まだ警戒しているのだろう。
「彼はトム。公爵家で働く御者よ。トム、彼女はエレノア。私と……公爵様の娘よ」
私がエレノアを紹介すると、エレノアはぎこちない態度で恥ずかしそうに、小さな声で挨拶をする。
「初めまして……私はエレノアと申します」
「これはこれは、ご丁寧に!……私は公爵家で御者をしております、トム・バスターと申します。よろしくお願い致します、エレノアお嬢様」
「お嬢様……はい、よろしくお願いします!トム」
初めはトムに緊張していたエレノアだったが、トムにお嬢様と呼ばれてから、嬉しそうな顔でトムに微笑んだ。
エレノアはこれまで、リディア以外からお嬢様と呼ばれたことがなかった。
リディア以外の人から、お嬢様と呼ばれたことが心から嬉しかったようだ。
彼女にとって、それはほんの些細な言葉だったかもしれないが、彼女の心には深く響いたのだろう。
トムは公爵家の冷たい人間とは違い、善良な心を持っている。
私は公爵家に来て初めて、ここの使用人を信頼できると感じた。
彼の存在は、私にとって一筋の光だった。
「じゃあ、私たちはリディアの元へ行ってくるわ。エレノア、あなたはもう遅いから先に休んでいなさい」
私がそう言うと、エレノアは首を横に振る。
その小さな顔には、強い決意が宿っていた。
「……お母様、私もリディアの元へ連れて行って下さい。静かにしていますから、お願いします」
エレノアの真剣な頼みを断ることもできず、私は彼女も連れて行くことにした。
彼女の侍女を思う気持ちは、痛いほど伝わってきた。
そして、私たち3人は、リディアの部屋へ向かう。
廊下を歩く私たちの足音だけが、静かに響いた。
「リディア……」
部屋に着くと、リディアは苦しそうにヒューヒューと呼吸をしながら眠っていた。
その顔は青白く、額には汗が滲んでいる。見ているだけで胸が痛んだ。
(随分苦しそうね……これを飲んで、少しでも楽になってくれると良いのだけど)
エレノアは彼女にゆっくりと駆け寄り、泣きそうな顔をする。
そして彼女の小さな手は、リディアの熱い手を包み込むように、優しく握られていた。
彼女は不安そうな顔で私の方へ振り返って口を開く。
その瞳には、深い悲しみと心配の色が宿っていた。
「お母様、リディアは……リディアは、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ……きっと、すぐに良くなるわ」
私はエレノアの肩に手を置き、そう言うとトムに指示を出す。
「トム、薬の用意をして貰える?」
この世界の一般的な薬学知識は持っていない為、この世界の住人であるトムにここは任せるしかないのだ。
今は彼の知識と経験に頼るしかない。
トムは私の頼みを受け入れ、頷いた。
彼は近くにあるコップに解熱剤の薬液を注ぎ、慎重な顔つきでそれをかき混ぜてから、コップを私に手渡した。
「解熱剤の準備が完了致しました」
「ありがとう」
私はリディアの口を開かせ、そこに解熱剤を少し注ぐ。
リディアは少し咳き込むが、薬液を何とか飲み込ませることに成功する。
彼女の喉が小さく動いたのを確認し、安堵のため息をついた。
「ひとまずは、これで大丈夫かしら?」
「はい。しかし、当分の間は安静にした方が良いかと。薬は1日3回、毎食後に飲ませてください。薬液を水と3:2で割って、薬液の色が水色に変化するまで優しくかき混ぜてようやく完成するものですので、用法用量を守ってご使用下さい。この薬に使われている薬草には、取り扱い区分が7に該当する、危険なものも使われていますので、くれぐれも分量にはお気を付けください。計る時の計量カップもお渡ししますね」
私は、トムの薬に関する深い知識に感動した。
(分かりやすい説明ね。彼は御者のはずだけど……薬学にも精通しているなんて、すごいわね)
「そう、分かったわ。何から何までありがとう……なんにしても、ひとまずは、リディアの意識が回復するのを待たないと」
今回の件の当事者であるリディアには何があったのか、事情聴取をしたいところだが、生憎彼女は意識不明の病人だ。
まずは彼女の回復が最優先事項となる。
「ふわあ……」
「エレノア、眠いのね。ごめんなさいね、こんな時間まで付き合わせて。さあ、ベッドに行きましょう」
「……はい」
エレノアを連れて自室へ向かおうとした時、私はあることを思い出した。
そういえば、大広間は義母ローラと不倫相手のエミリーが暴れたせいで、めちゃくちゃだということを。
大量の水で揺れた床に、散乱した調度品、テーブルの上に放置された料理のことを考えると、頭が痛くなった。
「どうしましょう、大広間の片付けをしなくてはいけないわ。でも、エレノアを1人にすることはできないし……」
私がどうすべきかと思案していると、トムが口を開く。
彼の言葉は、私の心を軽くした。
「大広間の片付けはお任せください。奥様は、エレノアお嬢様のことを優先してくださいませ」
「……まあ、本当?助かるわ。でも、申し訳ないわね」
私が困ったように俯くと、トムは強い口調でこう言った。
「お気になさらず!私にお任せ下さい!私が奥様のお力になりたいのです!お願いいたします」
彼の真っ直ぐで、心のこもった言葉に私は感動し、彼の好意に有難く、甘えることにした。
「ありがとう、トム。では、お言葉に甘えさせていただくわ」
その後、精神的に疲れが出たエレノアを連れて、彼女の自室へ向かい、なんとか寝かし付けることができた。
そして私は、荒れ果てた大広間を片付けている、トムのところに急いで向かう。
彼の負担を少しでも減らしたいと思った。
大広間に着くと、そこは何事も無かったかのように片付けられていた。
散乱していたガラスの破片一つ残っておらず、床は綺麗に磨き上げられている。
あの短時間でここまで完璧に片付けることができるとは、真底驚いた。
彼の仕事の速さと丁寧さに、改めて感心した。
「トム、お疲れ様」
「あ、奥様!」
私を見つけるやいなや、彼は素早く駆け寄ってきた。
トムはの顔には疲労の色が見えるが、それを隠すように眩しい笑顔を私に向けた。
私は彼に椅子に座るよう促し、感謝の意を表すために、カモミールティーを用意してカップに注いだ。
温かいお茶が、彼の疲れた体を癒してくれるだろうか。
「トム、本当にありがとう。私は今日、あなたに助けられてばかりだわ。この恩は、何があっても返すわ……公爵家夫人、いえ。エーデルシュタイン家の娘として、ね」
私は彼に向き直り、彼に感謝を述べ頭を下げる。
すると彼は突然慌て始め、両手を広げて狼狽しながら口を開いた。
「お、奥様!頭を上げてください!わ、私は当然のことをしたまでです!むしろ、今までの自分が許せません……公爵様と大奥様の奥様とお嬢様への仕打ちを見て見ぬ振りをしてきたのですから、罰を受けることはあっても、お礼を言われるなど、とんでもない!」
トムがそう言い、申し訳なさそうな顔をする。
彼の謙虚な態度に、私はまた心を打たれた。
しかし、私はそれでも彼に救われた。
自分自身と専属侍女を助けられたのだ。
それだけでなく、エレノアを笑顔にしてくれた。
公爵家の使用人でありながら、公爵や義母の存在を恐れず、冷遇されている私たちに手を差し伸べてくれた。
この事実が消えることはない。
だからこそ、私は彼にとある提案をすることにした。
それは、私にとって大きな賭けだったが、彼への感謝の気持ちから、どうしても伝えたかったため、後悔はない。
「トム、もし良かったらなんだけど……私とエレノアが公爵家を出た暁には、私に着いて来ない?」
私がそう言うと、彼は目を丸くして数秒固まり、驚愕の声を上げる。
彼の顔は、信じられないものを見たというような表情に変わった。
「えええっ?!」
「……あらあら、そんなに驚く要素があったかしら?」
「当然ですよ!こ、公爵家を出られるとはどういうことですか?!」
トムは私が娘を連れて公爵家を出ていくことに対し、酷く驚いているようだった。
「……ここでの私とエレノア、そして実家から連れてきた専属侍女のリディアへの冷遇は明らかに度を越しているわ。エレノアの心身の健康も心配だし、何よりここにいたらあの子の教育にも悪いと思うの。だからね、私は公爵様と離婚をするつもりよ。エレノアを連れて、実家に戻りたいの」
正直、公爵家の使用人にこのような話をするのは間違っているかもしれない。
いくらトムが善人でも、彼は公爵に雇われた使用人。
もしかしたら、私の発言を彼に報告するかもしれない。
もちろん、そのリスクも承知の上だった。
しかし、それはあくまで可能性に過ぎない。
彼の善良さと、彼から受けた恩を返すには、実家へ同行してもらうのが最善だと考え、私はこの提案をしたのだ。
だから後悔はない。
彼の返事がどうであれ、私の気持ちだけは伝えたかったのだから。
(他人を信じるなんて、私らしくは無いけれど、それでも私はトムに恩返しをしたい。彼にとって良い提案かは分からないけど、悪くはないはずよ)
「どうかしら?……実家でなら、あなたの望みをなんでも叶えてあげられるわ。もしあなたが望むのなら、エーデルシュタイン家で雇用することもできるし、やりたいことがあるのならそれを支援することもできるわ。悪くない話だと思うのだけれど、どうかしら」
トムは私の提案の『やりたいことがあるのなら支援する』という言葉を聞いた時、僅かに眉を動かした。
彼の瞳の奥に、一瞬、何か光のようなものが宿った気がしたのだ。
しかし、彼はすぐに困ったように頭を搔き、俯いてしまう。
その表情には、彼の心の中の葛藤が見て取れる。
「ど、どうして俯くの?トム。もしかして、この提案では満足できなかったかしら?」
私がトムに尋ねると、彼は申し訳なさそうな顔でゆっくりと口を開いた。
彼は言葉を選ぶように、慎重に話し始めた。
「いえ、違います奥様!……本当に、素敵なご提案をありがとうございます。しかし、私はその提案を受けることはできません」
「……そう。理由を聞いても良いかしら?もし話せないのなら、無理にとは言わないけれど」
私はトムに強制させたくは無い為、逃げ道も与えつつ彼に尋ねる。
何故なら、彼の決断を尊重したいと思ったから。
すると彼は少し考え込んでから、真剣な表情で語り始めた。
彼の瞳には、強い決意が宿っていた。
「……かしこまりました。私には年の離れた妹がおります。私は彼女を養い、治療費を稼がなければいけません。しかし、金を稼ぐ上で、私には一つ問題がありました。それは……」
彼は言うのを躊躇うように、口をへの字に閉ざしてしまう。
彼の表情は苦悶に歪み、過去の辛い出来事を思い出しているようだった。
しかし数秒後、覚悟を決めたのか、真剣な表情で再び口を開いた。
彼の言葉には、重い決意が込められていた。




