氷の王太子殿下を笑わせようとしたら、大変なことになった。
愕然とした。
わたしはリリエール・ブランジェ。ブランジェ公爵家の長女で、この国の王太子であるエドワード殿下の婚約者だ。わたしが十歳、彼が十三歳のときに婚約者になってから、この八年間、仲睦まじくやってきたつもりだ。
しかし今、わたしの視線の先で、エドは唇を緩めて微笑んでいた。わたしが人生で一度も見たことのない微笑を浮かべている。どこからか迷い込んできたのだろう子猫を抱き上げて。
愕然とした。
なぜなら、わたしの婚約者であり王太子殿下であるエドワードは『氷の王太子殿下』という異名を持つほどに、表情がまっっったく変わらない男性だからだ。
相手が幼児だろうと御長老だろうと、エドの表情筋は微動だにしない。無表情というよりは、常に淡々としている。たとえ喜劇の芝居を鑑賞中に劇場内が爆笑の渦に飲み込まれたときでも、ぴくりとも笑わない。何なら社交の場であっても『愛想笑い』という単語はエドにはない。よくいえば冷静沈着、悪くいえば愛想がない、常にクール。氷の王太子殿下。
それが、まさかの、子猫相手に愛おしそうな柔らかい微笑み。
そんなことってあります?
「あの、泥棒猫……!!!」
わたしは帰宅してから、存分にキィッとハンカチを噛みしめた。人目がないのをこれ幸いに、悔しさを全身で侍女のアマンダに訴える。まあ人目があったとしてもわたしは可愛いので問題はないのだけども。
わたしは可愛いのだ。そういう『祝福』を持っている。ちなみにエドは一切の祝福が効力を持たないという『祝福』を持っているし、アマンダは手先が器用だという『祝福』を持っている。どう考えてもアマンダの祝福が一番便利だ。ファッションデザイナーとして生きていけそうよねといったら、呆れ顔で「有能な針子がせいぜいですよ」といわれた。それだって格好良いじゃないの。
アマンダは紅茶を淹れてくれて、やっぱり呆れ顔でいった。
「お嬢様、泥棒猫というのは本物の猫相手に使う言葉ではありませんよ」
「だってわたしのエドの笑顔が奪われたのよ!? だいたいエドもエドよ。わたしにはにこりともしないくせに。わたしだけじゃなくて、揉めている隣国の王族相手でも、国内の対立派閥の長老相手でも、唇をそれっぽい形に曲げたことさえないくせに」
「殿下、これで仕事ができなかったらただの最悪に不愛想な男でしたよね」
「あら、エドは笑わないけど怒らないし、どんな場面でも感情的にならずに判断を下せるのがさすが王太子殿下だって、とっても評判がいいのよ?」
「怒るか惚気るかのどちらかにしてくださいよ」
「エドがあんな風に微笑むのなんて初めてみたわ……! わたしにはしかめっ面ばかりするくせに!」
わたしの心はめらめらと怒りに燃えた。
愛する婚約者にはクールで、子猫相手にはデレデレなんて、そんなむごい話が許されるだろうか? 否。断じて否!
「誘惑してみせるわ……、デレデレの顔で『リリーは可愛いな』といわせてみせる」
「そんなの天変地異の前触れじゃないですか」
「ドレスを用意してちょうだい、アマンダ。この可愛いの祝福を持つリリエールの本気を、氷の王太子殿下殿に見せて差し上げるわ!」
結果からいうと、惨敗だった。
頑張ったのだ。
わたしは春の妖精のように可愛いので「それほど着飾る必要を感じませんわ」なんていってシンプルなドレスばかり着ていたけれど、それが油断と傲慢だったのかもしれない。そう大いに反省して頑張った。
公爵家の離れである我が家のクローゼットというクローゼットを解き放ち、一着ずつ着替えてファッションショーを開催しては、辛口批評家アマンダのコメントを聞き入れた。
公爵家の紋章を振りかざして人気デザイナーを招待し、歓待しつつ最近の流行についてのアドバイスを受け、新しいドレスもいくつも購入した。
髪飾りもバッグも靴も、付き合いのある商家に勧められるがままに買うという最高のカモになりながらも、ばっちりと揃えた。
長い髪の毛だって丁寧にケアし、美容にいいという食材を取り入れ、手先の器用なアマンダに美しく化粧を施してもらった。
いざ出陣! お茶会へ! 夜会へ! 演奏会へ観劇へ!
さあ、この磨き上げたわたしに、デレデレの笑顔を見せてちょうだい、エドワード!
惨敗だった。
格好良くて優しくて仕事もできるわたしのエドは、笑顔だけは昨日も今日も明日も失踪していた。デレデレどころではない。真顔としかめっ面のオンパレードだ。どれほど挑戦しても乗り越えることのできない難攻不落の鉄壁だった。ありとあらゆる種類の可愛いを纏って挑んでも、エドの口元はぴくりとも揺るがない。もはや意志の力で抑えつけているのでは?と勘繰ってしまうほどだ。
昨日は特にしかめっ面が八割を占めていた。この真冬に、わたしが露出多めなドレスで観劇へ現れたことが信じがたかったらしい。お前は正気か? といわんばかりの顔をしていたし、わたしの姿を目に映した一秒後には彼は自分のコートを脱いでいた。エドのコートはわたしの身体をすっぽりと覆い、最終手段であったはずのセクシーなドレスは真価を発揮できないまま終わった。
わたしに残ったのは、当然の結末である発熱、つまり風邪だった。
ベッドに横たわってしょぼしょぼしていたら、エドがお見舞いに来てくれた。王太子殿下に風邪がうつったら大変だから部屋には入らないでとアマンダに言づけたのに、平然とした顔で部屋まで入ってきた。
「医者には診てもらったか?」
「ん……」
「食べたいものはあるか?」
「ないわ……」
「何か食べろ。林檎はどうだ?」
「んー……」
「剥いておくから、食べられそうなら食べろ。少しでいいから」
そういってエドはベッド脇の椅子に腰を下ろすと、器用な手つきで林檎を剥きはじめた。完成品はなんとウサギ林檎だ。わたしはベッドの中でくすくす笑ってしまった。
「可愛いわ。とっても可愛い」
「そうか。食べろよ」
「ウサギ林檎を作ってくれる王太子殿下なんて、大陸中探してもきっとあなただけよ……」
「貴重品だな。食欲が出たか?」
「食べるなんてもったいない。我が家の宝として飾っておくべきじゃないかしら?」
「俺にはお前が唯一無二の宝だ。食事を取ってよく休め」
言葉が出なかった。ぶわりと熱が上がってしまったからだ。
エドの表情がクールだろうと真顔だろうと、さらりといわれた言葉にはとんでもない威力がある。風邪のせいではない熱が頬を赤くさせる。
だけどエドは、うろたえるわたしになにをいうわけでもなく、さっさと立ち上がって帰り支度を済ませると、眉間に深い谷のような皺を刻んで見下ろしてきた。
「いいかリリー、お前の考えはときどき斜め上へ飛び跳ねていて俺には理解できないが」
「突然病人に鞭を打つのはやめてちょうだい」
「しかし真冬に薄着でいたら風邪を引く。わかるな? 今回のことでよく分かったな?」
「お洒落とは寒さとの戦いなのよ」
「戦うな。和解しろ。お前が具合を悪くして寝込んでいると思うと、俺は心配で仕事に集中できなくなる」
「エド……」
「真冬に薄着はやめろ。わかったな?」
「……善処するわ」
イエスでもノーでもない返答をしたところ、エドワードの眼差しの温度が勢いよく下がった。
「リリー?」
彼の背後からおどろおどろしい音楽が聞こえてくる気がする。
わたしは顔の半分まで毛布に潜り込んで身を守りつつ、じいっと婚約者を見上げて聞いた。
「だって、エド、あなたはわたしの肌が見えたら嬉しくないの?」
「いま誰がそんな話をしていた?」
エドの背後に怒りの落雷が見えた。闇を切り裂く光の矢が、数千本くらい落ちていた。けたたましい轟音とともに。
寝込んだり、お説教されたりとあったけれど、しかしわたしは諦めていなかった。
なにをって?
それはもちろん、エドのデレデレの笑顔を見ることよ!
チャンスは向こうからやって来た。
風邪が治って完全復活したわたしに、エドのほうから誘ってきたのだ。
「たまにはお忍びで朝市でも見に行くか?」
「行くわ!」
即答である。
学生という気楽な身分であり、公爵家の離れという人目の少ない場所で悠々自適に暮らしているわたしは、視察という名目で頻繁にお忍びに出かけている。当然、王都で観光スポットとして人気の朝市だって知り尽くしている。
わたしの朝市の歩き方といったらもはやベテランのそれ、不慣れな観光客にプロ並みのガイドができるほどだ。
毎日政務に追われている仕事人間のエドに、開放感あふれる最高のデートを用意してみせようじゃないの。この可愛いが祝福のリリエールの名にかけて!
そして当日。
わたしは難攻不落の婚約者相手に、大苦戦していた。
「ねえ、エド。あそこの珈琲のお店は本格的な味が楽しめるって評判なのよ。聞いた話によると、悪夢を見そうなほど苦い味のものもあるんですって。行ってみましょうよ」
「そうか、ほかの店に行こう」
「どうして? あなた、珈琲が大好きでしょう」
「お前は苦手だろう」
「今日はあなたに付き合うわよ」
「俺はお前が甘い飲み物に喜んでいる顔のほうが見たい。だからほかの店にしよう」
「……っ」
「ねえエド、あそこのお店は激辛の揚げ物が」
「ほかの店にしよう」
「わたしの好みに合わせなくていいのよ!」
「合わせていない。俺の好みで選んでいる」
「このわたしがあなたの好みを知らないとでも? 口から火を噴きそうなほど辛い物が好きじゃないの」
「なんだ、知らなかったのか?」
「なにを」
「お前がケーキを幸せそうに食べている顔のほうがはるかに好きなんだ、俺は」
「……っ」
おかしい。
絶対におかしい。
こんなはずじゃなかった。
人気の蜂蜜茶を並んで買って、朝市の露店を冷かした。エドに綺麗な髪飾りを買ってもらって、お礼に冷めても美味しい辛旨パイを買った。国王陛下と王妃殿下とアマンダへのお土産を選んで、それからカフェに入って美味しいケーキを食べている。
どう考えてもおかしい。
解放感に満ちた最高のお忍びデートで、好きな物を前に相好を崩すのは、わたしじゃなくてエドのはずだったのに!
わたしの格好良い婚約者は相変わらずクールである。氷が全然解けていない。エドの言葉一つでわたしは簡単に溶けてしまうのに。ちょっと憎たらしいほどだ。
「エドなんて、将来偉大な王様として像が立っても氷像とかいわれちゃうんだから」
「意味がわからないが、悪口のつもりか?」
もちろんよ。
わたしが大きく頷くと、エドは眉間に海溝のごとく深い皺を寄せていった。
「俺はお忍びに来ると思い出す。いつものように王宮で仕事をしていたら、部下が血相を変えて飛び込んできた日のことを」
「うっ」
「お前の護衛の騎士が、地面に額をこすりつけて謝りながら、お忍びで出かけたお前が迷子の子供を見つけて、母親の元まで連れて行こうとする途中で、一瞬目を離した隙に姿を消したのだと報告してきた」
「ふふふ、ホホホ、あっこのケーキ美味しい! 美味しいわエド! あなたも食べたほうがいいわ!」
「まさか、子供が実は人身売買組織の手先になっていて、それに気づいたお前が自分が捕まることで組織を潰すというイカれた計画を立てていたとは、さすがの俺もすぐには気づけなかった」
「その件は謝ったじゃないの……四方八方に丁重に……」
「リリー、世の中には謝罪で済むことと済まないことがある」
「ふん、マリクたちは許してくれたもの」
「騎士連中が許そうと俺は許していない」
「エドは心配性なのよ。わたしの祝福があれば無事だってわかっていたでしょう?」
わたしはとっても可愛いのだ。
わたしがにっこり微笑んだら誰だってメロメロになってしまう。
だけどエドは、冷ややかにいった。
「隣に不愛想な男が立っている程度で打ち消される力だろうが。何の意味もない」
そんな感じで、最高のデートでエドのデレデレ笑顔を見ようという作戦は、またしても失敗に終わった。
わたしは諦めてはいなかった。
しかし行き詰まりは感じていた。
そもそも婚約して八年になるというのに一度も笑顔を見ていないのだ。見ようというほうが無謀なのでは? とも思った。
だけどその二秒後には『でも子猫相手には微笑んでいたじゃないの!』と思い直した。
通りすがりの子猫に負けるなんて悔しすぎる。噛みしめるハンカチが何枚あっても足りない。だけど氷を溶かす有効な手段も思いつかない。
わたしが焦りを感じてじりじりとしていたときだ。
王宮で夜会が開かれた。
エドとわたしは王太子殿下とその婚約者として一通り挨拶を受けた。その後、エドワード殿下と内密にお話したい……という雰囲気の大使が近づいてきたので、わたしは「少し庭を散策してきますわ」といってその場を離れた。エドは頷いたが、近くにいた彼の側近は分厚いコートを手に追いかけてきた。今夜はそれほど冷え込んではいなかったし、薄着でもないというのに。
だけど心配してくれるのはエドの愛情だ。ありがたくコートを借りて、アマンダと二人で夜の庭園へ向かう。
背の低い庭木が見えてきた辺りで、話し声が聞こえてきた。
「エドワード殿下は、本当にこのまま結婚されるおつもりなのかしら?」
「陛下は何も仰らないのかしらね?」
「重臣の方々もよ。普通は止めるでしょう?」
声を潜めているつもりなのだろうけれど、友人同士で集まって話が盛り上がったら、自然と音量も上がってしまうものなのよね。わかるわ。
気まずい遭遇はしたくなかったので、アマンダに目配せして、静かにその場を立ち去ろうとした。けれど。
「可愛いが祝福なんていっているけれど、要するに魅了でしょう? 相手を洗脳しているのと同じことじゃないの。いくらエドワード殿下が魅了の効かない祝福をお持ちだとしても、そんな恐ろしい力を持った人間を王太子殿下の傍に置いておくなんておかしいわ。人のいない場所に隔離するのが普通じゃなくて?」
……ええ、そうね。
アマンダが血相を変えて怒鳴り込みに行こうとするのを、彼女の腕を引いて止める。
口を開きかけたアマンダに、わたしは黙って首を横に振った。
そのままそっとその場を離れる。
夜会の喧騒から遠く離れた場所まで来て、わたしはへたり込むように石作りのベンチに腰を下ろした。
「お嬢様」
「ごめんなさい、アマンダ。少しね、冷静になる時間が欲しいの。あなただけ先に戻っていてくれる?」
「……わかりました。お嬢様の声が届く距離にはいますから、何かあったらこのアマンダを呼んでくださいね」
「ありがとう……」
一人で夜風に当たる。
こういうことは、慣れっこだ。
今さら揺らいだりしない。どんと構えていられる。
ただ、今夜に限って考えてしまった。
わたしには笑わないエド。誰に対しても笑わないエド。だけど子猫には微笑んでいたエド。
もしかしたらエドにはちがう未来があったのかもしれない。愛おしく微笑めるような相手と婚約する未来が。
思い出す。
───八年前のことだ。
当時、十歳のわたしは公爵家の離れに住んでいた。
この国では誰もが、三歳になると教会に行って、生まれ持った祝福が何なのかを見てもらう。わたしの祝福は『可愛い』だった。ふざけているように聞こえるが、本当だ。わたしがにっこり微笑みかけたら、誰もがわたしに好意を持つ。
ただ、長続きはしない。アマンダいわく、すぐに酔っぱらうけどすぐに覚めるお酒みたいなものらしい。百人中百人に『可愛い』と思わせることはできるが、そのまま百人から好かれ続けるなんて真似はできないわけだ。
それでも、弱い力だといっても、魅了は魅了だ。まして幼いわたしは祝福を制御できていなかった。無造作に振りまいていた。
教会の診断を受けて、両親は子供が恐ろしくなったのだろう。受け入れられなかったのだ。
だから、離れに住まわせて視界から消した。最低限の世話だけは使用人たちに命じて。
おかげで自由気ままに育ったわたしは、十歳になって初めて、自分以外の子供に遭遇した。
公爵家の離れの裏庭、わたし以外は足を踏み入れないはずの秘密基地に、真夜中に立っていた少年。
それがエドワードだった。
一般的な令嬢なら悲鳴を上げるシチュエーションだろうが、わたしは恐怖よりも好奇心が勝った。
「お兄さん、だれ?」と話しかけると、エドは月のない夜空よりも暗い目で「お前は誰だ」と尋ね返してきた。
質問に質問で返すとは。それもわたしの庭に勝手に入ってきたくせに。
ムッとしつつも名前を名乗ると、エドは少し驚いた顔をして「ブランジェ夫妻の長女……? 生きていたのか」と呟いた。あまりに姿を見せないので死亡説が流れていたらしい。
まずかったかな。怒られるかな。
そう不安に駆られたわたしは、ついエドに向かってにっこり微笑んでいた。
『可愛い』と思わせたらひとまず危険は回避できる。人間は、得体の知れない相手には近づきたがらないものだから。
七年間の離れ生活で培った知恵だったが、エドは怪訝な顔でわたしを見下ろしてから、不意に気づいたように顔を歪めた。
「無駄だ。俺に祝福は効かない」
エドの眼差しが揺れる。嘲笑おうとして、泣き出しそうになっているような顔だった。
「俺は何の祝福も持たず、何の祝福も効かないんだ。教会の連中がいうには、俺は異端の子で、悪魔の子だそうだ。ふざけるなよ……っ」
エドの話はこうだった。
祝福を持たず、効かないエドは、教会から異端視されていた。王太子にするなんてとんでもない。処刑か、せめて幽閉が妥当だと、教会側は王家へ何度も警告をしてきた。
だけど国王陛下夫妻は断固として我が子を守った。教会からの口出しを許さず、エドを王太子として認めてきた。
そうしたら先日、王妃殿下の乗った馬車が襲撃された。
護衛はついていたけれど、裏切り者がいたらしい。とても熱心な信者で、犯行はその裏切り者を含めて、一部の過激な信徒が行ったことらしい。教会側は何も関与していないし無関係で、ただ、信仰心の厚い信徒が暴走してしまっただけだという。
王妃殿下は一命を取り留めたけれど傷は重く、国王陛下はエドの身を案じて、教会とは縁の薄いこの公爵家へ身柄を預けたそうだ。
殺してやる、と、エドはいった。
「殺してやる。絶対に、何年かかろうとも、全員殺してやる。俺は絶対に許さない。間違っているのはあいつらだ。父上じゃない。母上じゃない。俺じゃない。絶対に殺してやる……!」
エドの瞳は怒りと憎しみに燃えていた。ぼうぼうと、全身から火の粉をまき散らしているみたいに怒り狂っていた。
わたしは勝手に泣きたくなった。エドに同情したわけじゃない。憐れんだわけじゃない。
ただ、わたしは怒れなかった。この離れで暮らすことを、いないものとして扱われることを、理不尽だと思ったけれど怒れなかった。自分が悪くないとはいえなかった。仕方ないと思って諦めた。受け入れた。だってこんな力があったら、怖いと思うのは仕方のないことだもの。お父様もお母様も悪くない。悪いのはわたし。
でも今、エドは理不尽に対して怒っていた。
突然襲い掛かってきた理不尽に対して、満身創痍になりながらも膝を折らずに、歯を食いしばって怒り続けていた。
格好良いなと思った。
だからいった。
「あなたにも祝福はあるわ。だってわたしの祝福が効かないんだもの」
エドが怪訝な顔でわたしを見る。
わたしはにっこりと微笑んで続けた。
「あなたの祝福は、他人の祝福を消す力。そういうことにしたらいいわ。一緒に教会へ行きましょう。あなただけがわたしの祝福から逃れられることを見せつけるの。教会の偉い人たちさえもがわたしに魅了される中で、あなただけは正気でいられる。これってすごいことでしょう? それでしばらくは時間が稼げるわ」
だってあなたはまだ子供。わたしよりはお兄さんでも、まだ子供。復讐を誓っても、今のままでは大人になる前に殺されてしまうかもしれない。
わたしのいわんとすることを理解して、エドは眉間に深く皺を寄せた。
「俺を助けて、お前に何の得がある?」
「損得は関係ないわ。わたしがそうしたいと思ったから、するのよ」
後から考えると、まあまあ無謀な計画だったと思う。
だけど成功した。教会はわたしを警戒して王家を懐柔する方向へ方針を変えたし、国王陛下夫妻にはいたく感謝された。そしてわたしはエドの婚約者になった。
わたしたちの婚約は、そんな風に始まった。
わたしはすぐにエドを好きになったけれど、エドがいつからわたしに好意を抱いてくれたのかはわからない。あの夜、裏庭で激昂していたのは例外であって、基本的にエドはクールだった。もしくはしかめっ面だった。わたしはいつの間にか、エドの眉間の皺の深さで彼の怒り具合を図るという特技を手に入れていた。
婚約者になってすぐ「王宮に来るか?」と聞かれたこともあった。わたしは少し考えてから「離れのほうが気楽でいいわ」と答えた。エドは「そうか」とだけいって、その後に侍女のアマンダと護衛のマリクたちがやってきた。
わたしが「本邸の人たちを刺激したくないから、これ以上増やさないでね」というと、エドはまた「そうか」とだけ答えた。
エドは王太子として死に物狂いで力をつけていって、熱を込めて教会の勢力を削っていった。それはもうがりがりと。絶対に許さないと誓った言葉の通りに、熱心に。
わたしは婚約者として彼の隣に立って、笑わないエドの分まで笑顔を振りまいた。祝福は使っていない。使わなくたって、愛想をよくして明るく微笑んで、ついでに相手の出身地や信仰や趣味や好物を把握していたら、好感を得るのは難しくない。
だけど、人の口に戸は立てられない。そして噂は好き勝手に変わるもの。
いつの間にかわたしは世界中の男性をたぶらかせるほどの魅了の持ち主ということになっていて、エドだけがそれを抑えられることになっていた。聞いたときは思わず笑ってしまった。そんなすごい悪女になった覚えはないわ。
苦笑するわたしの隣で、エドの眉間の深い皺は明らかに怒っていた。エドはまたがりがりと教会を削る根回しにいそしんだ。
歳を重ねるごとに、エドとわたしの間にある空気は少しずつ変わっていった。
エドは表情は変わらないくせに、さらりと甘い言葉を口にするようになって、わたしばかりどきどきするようになって。
エドはわたしを好きだといってくれている。彼の愛情を疑ったことはない。
だけどエドはわたしには笑わない。今までは気にならなかった。だってわたし以外の誰に対しても、ご両親に対してさえ笑わないのだ。そういう人なんだろうと思っていた。
でも、子猫には笑っていたのだ。
もしかしたら、彼の隣に立つのがわたしじゃなかったら、エドはもっと笑えていたのかもしれない。
わたしのような人間じゃなかったら。
そう思ったら、駄目だった。涙がぼたぼたと落ちた。歯を食いしばって、嗚咽をかみ殺そうとして、近づいてくる足音に気づいてしまう。
「リリー」
いっそ今が月のない闇夜だったらよかったのに。
エドの眼はまっすぐにわたしを捉えて、それから大きく眉間にしわが寄った。彼の纏う気配が変わる。燃えるような怒りが渦巻いているのがわかる。
「何があった、リリー」
エドは怒っていて、わたしを心配していた。
だからわたしはのろのろと顔を上げて、エドを見つめて尋ねた。
「ねえ、エド。わたしのことが好き?」
「愛している」
即答だった。
またぼたぼたと涙があふれた。嬉しいのか悲しいのかわからない。
「わたしに向かって笑いかけてほしいっていったら、エドは困る?」
「……俺に笑ってほしいのか?」
エドの声はとても慎重だった。
わたしはぐすぐすと頷いた。
エドはわたしの正面で片膝をついて、わたしの顔を覗き込むようにしていった。
「理由を聞いても?」
「……迷子の子猫に向かって笑いかけていたでしょう。とっても優しく、愛おしそうに微笑んでいたわ」
「ああ……、あれか」
エドにも自覚があったらしい。少し困った顔になって「見ていたのか」と呟いた。この人を困らせたくなんてなかったのに。
「あなたが誰に対しても笑わないなら気にならなかったわ。でも……っ」
「あの猫はお前に似ていた」
唐突な言葉に、わたしはぱちりぱちりと瞬いた。記憶をたどる。白黒の子猫だった。わたしの髪は栗色だ。毛の色さえちがう。
「似てないわ」
「似ていた。迷子だというのにやたらと堂々としているその度胸と無謀さがそっくりだった」
「……っ!! エド!!」
勢いよく反論しようとしたとき、彼の長い指がわたしの頬に触れた。優しい手つきで、涙をそっと拭われる。
「リリー。俺は笑いたくもないのに笑えない」
「……知っているわ」
「お前が愛しくて口元が緩みそうになったことはある。だが、意志の力で抑えつけてきた」
知っているわ。仕方ないわよね。そういおうとしていたわたしは、思いがけない言葉にまじまじとエドを見返した。なんですって? 抑えつけてきた?
「それはいったいどんなやんごとなき理由があるっていうのかしら……!?」
動揺のあまり尋ねる言葉もめちゃくちゃだ。
しかしエドはにこりともせずにいった。
「昔、まだ婚約を結んだばかりの頃、俺の顔が緩みかけると、お前は不安そうになった」
「記憶にないわ」
「俺に本当に祝福が効いていないのかを案じていた。自分が無意識に力を使ってしまっていて、そのせいで俺を狂わせてしまっているんじゃないかと恐れていた」
「……記憶に……、……あるわ……っ」
わたしはうっと呻いた。
なんてこと。いわれてみたら確かに、最初の頃は怖かったかもしれない。だって誰かと長い時間を過ごした経験なんてなかったから。
彼方にあったはずの記憶が足取り軽く戻ってきた。そしてわたしの全身から血の気が引いていった。
「じゃあ、エドがずっと笑わなかったのは、わたしのせいで」
「ちがう。誤解するな」
「でも、わたしに気を遣って笑わずにいてくれたんでしょう……!?」
なんてことだ。
本当に、本当の本当に、わたしのせいじゃないの。
わたし以外の婚約者だったら、エドはもっと笑えていたはずだった。
「いいか、リリー。お前が今考えていることはすべて間違いだ。俺が笑わずにいたのはお前のせいではなく、お前のためでもない」
エドの眼差しが、わたしをまっすぐに射抜く。
「これは俺の愛だ。俺がお前を愛しているということだ。お前は自分を責めるのではなく、婚約者に深く愛されているのだと胸を張ればいい」
「……むちゃくちゃだわ……っ」
「お前ほどじゃない」
いつものように淡々といってから、なおも彼は案じる瞳でわたしを見つめた。
「リリー、俺が笑っても不安にならないか?」
「ならないわ……。だから、笑顔を見せてちょうだい」
ふっと、エドの纏う空気が和らぐ。
そして彼は小さく笑った。
自分からせがんだくせに、初めてみるその笑顔に、わたしは目を丸くしてしまう。
すると今度はエドはくつくつと喉を震わせて、甘い熱を帯びた瞳で囁いた。
「愛している、リリー。お前が可愛くてたまらない」
「……っ、わっ、わたしが可愛いのは当たり前だわ。だってわたしは可愛いが祝福の」
「俺に祝福は効かない。知っているだろう?」
エドがわたしの耳元に唇を寄せて囁く。
「可愛いよ。お前はこの世のなによりも可愛くて愛おしい」
「───っ、エド!!」
思わず逃げるように身体を引いて叫ぶ。
エドは立ち上がると、ひどく楽しげに笑っていった。
「ああ、いい気分だ、リリー。これからは好きなだけ、存分に、お前を可愛がっていいということだろう?」
「ちっ、ちがうわ? それはなにかちがうのよエド!?」
わたしの叫びは、月の輝く夜空と、降りてきた甘い口づけの中に消えていった。
ちなみに。
その後、エドが愛想がよくなったかというと、全然そんなことはなかった。
相変わらず社交の場でも愛想笑いの一つもしないので、わたしが彼の分までせっせと笑顔を振りまいている。
「俺は笑いたくもないのに笑えない。そういっただろう」
「でも今は笑っているじゃないの!」
「それはお前が俺の腕の中にいるからだと、わざわざ俺の口からいわせたいのか、リリー?」