【30】乙女ゲームのヒロイン?──2年生1学期、中頃(メルクside)
「全然……違う?」
入学式のアンジェリーナを目撃してから。
始めは、メルクの知識通りに『イベント』が起きていると思った。
レオンハルトと無事に出会えて。だから、イレギュラーであるのは、やはり『悪役令嬢』だと。
「フリードもデニスもレオンハルト様と一緒に居ないし」
近衛騎士となるはずのフリードは、レオンハルトのそばには控えず、己の鍛錬に身を捧げている。
よくよく噂に耳を傾けて見れば、微妙に彼の経歴も違った。
フリードが彼の兄を打ち倒すのは、学園へ入学する少し前のはずだ。
だが、それよりずっと前に彼は兄の打倒を果たしたという。
「え、それは強過ぎない? 何歳の話……」
他の分野と異なり、騎士の腕前についての話だ。
年齢が若過ぎれば、充分な実力以前に体格が出来上がっていないだろう。
それでもメルクの知る知識とは、時期こそ違えど、まだ誤差の範囲と言えたのだが。
フリードは、レオンハルトの勧誘を断り、彼の護衛に付いていない。
同様にデニスもだ。
「……やっぱりアンジェリーナが何かしてる?」
悪役令嬢に転生した何者かが、ゲームのストーリーに先んじて動き、破滅を回避しようとする。
そしてヒーローたちの悩みも先に解決して。
「っ……」
ゴクリと、メルクは唾を呑み込んだ。
(このパターンは……私が『ざまぁ返し』されるパターン!)
こうした時、下手に攻略対象たちに近付いてはいけない。
最初から彼らの『ヒロイン』に対する好感度が最底辺になっている可能性がある。
「でも、だとしたらレオンハルト様は……?」
彼は、メルクと接触してきた。あれも『演技』という事だろうか。
そう思い返せば、確かに彼の言葉や態度が、演技じみていたようにも感じる……。
彼は、わざと自分に近付いたのだろうか?
だとすると、憧れていたレオンハルトに自分は既に嫌われている?
そうかもしれないと思うとメルクは胸が痛んだ。
学園へ入学して間もない、この時期。
大きな『イベント』が起きるのは、まだ先のことではある。
であれば今、自分が取るべき行動は。
「……様子見、だよね」
『悪役令嬢』アンジェリーナには最大限の警戒をしつつ。
行動を変えた攻略対象は、それこそ『ヒロイン』を警戒しているかもしれないから、慎重に対応する。
それでも、ヒーローたちが抱えている悩みがどうなっているのか分からないため、最低限のイベント進行を心掛けて。
「彼らが『ヒロイン』を警戒しているようなら、そこから必要以上に近寄らない。うん。とりあえず、これでいこう」
レオンハルト以外のヒーローたちにだって、もちろん嫌われたくはない。
もし、彼らが自分に見た事もないような冷たい視線を向けてきたら。
そう思うとメルクは悲しかった。
「私は、まだ何もしていないのに……」
そう考えて、メルクは『悪役令嬢』アンジェリーナを恨むような気持ちになるのだった。
◇◆◇
メルクは、とにかく今の状況を掴むため、クラスメイトたちとの交流を図るように心掛けた。
学園へ入学する前は、攻略対象たち、特にレオンハルトのことで頭がいっぱいで。
悪役令嬢を警戒して『ざまぁ返し』をされないように、と。そんなことばかり考えていた。
だから、ここに来て『ああ、クラスメイトと交流しなくちゃ』と。
順序が『逆』となってしまったことを今更のように気付いた。
(学校……入る前なんて『私って友達、ちゃんと出来るかなぁ?』とかが一番の悩みだったよね……。もちろん、素敵な恋にだって憧れたけど。やっぱり何より友達があってこそだった)
メルクには、前世の記憶があるものの、その記憶は乙女ゲーム『花咲く頃に明ける夜』以外が曖昧だ。
現代の知識や、そこでの生活などは覚えている。
だが、自分がどのような『個人』であったのかは曖昧だった。
それでも、おそらく自分は学生だったのだろうとメルクは感じていた。
大人になった記憶は……どうやらない。
それが、若くして死んでしまったという事なのか。
それとも単に学校を卒業して以降の記憶がないのか。それらは全く分からなかった。
(でも、高校……には通っていたはず。小学校から中学校に上がる時はそこまで不安じゃなかったけど。
高校に上がる時は、皆が受験して別々の高校に進学したりするから。友達が出来るかなって不安で……)
朧げではあっても、一度は学生になった経験のあるメルクだ。
乙女ゲームのイベントをこなす事に水を掛けられた今。
まずは友人作りこそ、学生生活の基本だということに立ち返っていた。
幸い、異世界の学生であっても意外とその話題は、現代と似たようなものだった。
もちろん、どこの領地でどうこうという地名や物については違っていたが。
(乙女ゲームの舞台だもの。こういうところは現代に近いのかな? あ、でも魔法があって、魔獣は居るんだよね)
メルクは、魔獣を見た事はない。シュリーゲン領は平和な領地だった。
出来れば関わりたくはないと思う。
魔法を使えることは嬉しいが、血生臭い戦いをメルクは好まなかった。
(あー、でも。フリードみたいに騎士のヒーローの見せ場が要るもんね)
対人戦で活躍する場を与えられてもいいかもしれないが、戦争などあるなら乙女ゲームどころの騒ぎではなくなる。
そういった場に自身が居るということも恐ろしい。
人ではなく魔獣の相手をさせるのは、やっぱりヒーローキャラに人殺しをさせたくない運営の意図があるのだろうなどと考えた。
つらつらと益体もないことを考えつつ、メルクは『友人』たちとのお喋りに興じる。
女子のクラスメイトたちだった。
また、メルクに対して差別感情のない生徒たちだったが……そのことをメルクは意識していない。
身分も同等で、近付ける相手が彼女たちなのだが、深くは考えていなかった。
そして当たり前のように彼女らの話題には、メルクの知っている名前が挙がる。
「レオンハルト殿下は、まだ婚約者を決めていらっしゃらないんだって!」
「えっ。アンジェリーナ……様、は?」
「アンジェリーナ様? シュタイゼン公爵令嬢様ね。どうなんだろう? 公女様だもの」
「お話はあったらしいけれど、決まらなかったみたいだよー」
「レオンハルト様と、アンジェリーナ……様は、婚約していない?」
「婚約が決まったっていう話は、私は聞いてないなー」
「私もー。でも噂はあったよね」
「いえいえ、シュタイゼン公女は、辺境伯閣下へ嫁がれるそうよ?」
「……!」
「え、そうなの!?」
「辺境伯……って言うと」
「北のバルツライン辺境伯閣下よ。若くして爵位を継がれたそうだわ」
「知らない……」
「ん? あー。そうだよね。知らないかもね」
(バルツライン? 名前も聞いたことない。私の知らない隠しキャラだったり……?)
「アンジェリーナ……様は、その。入学式の日に、その方と? 仲が良さそうにしていたよ」
「ああ! その話は聞いたわ!」
どうやらアンジェリーナは、確かにその辺境伯と婚約していたらしい。
そしてレオンハルトに婚約者は居なかった。
なぜ、そうなったのかは、はっきり理由が分からないと言う。
メルクは、アンジェリーナへの警戒をすればいいのかどうか分からなくなる。
(破滅するから、レオンハルト様とは婚約を結びたくなかった……?)
フリードやデニス、カルロス、ニールとも接触を試みた。
『イベント』通りに。でも、それらは上手くいったとは言い難い。
そもそも、その場に居ないか。
或いは出会っても、凄く微妙な表情をされた。
(やっぱり『ヒロイン』を警戒してる……?)
その気配を感じ取って、メルクは、彼らとの接触を最低限にした。
この状況で彼らに無理矢理に接近するのは得策ではないから。
ただ、思った以上に彼らの態度にショックを受けている自分がいる。
ヒーローたちは、もっと自分に好意的な態度を取ってくれると期待していたから。
(ひどい……)
これが『悪役令嬢』アンジェリーナの企てた事だろうか。
先んじて『ヒロイン』の好感度を下げておいて?
これが同じ転生者の仕業であるなら、一言ぐらい文句を言いたくなる。
だからメルクはアンジェリーナと接触を試みようとした。
だけれど。
「アンジェリーナ様。こちらの課題ですが」
「ああ、それね。図書館で続きをしましょう」
「はい」
「……!」
『悪役令嬢』アンジェリーナは、自分に目も向けなかった。
これみよがしの場所に立っていても。
明らかに目に付く場所に行っても、アンジェリーナの視界にはメルクは映っていない。
(無視? ううん、これは……眼中に、ない?)
同じ転生者なら、ヒロインの姿に反応ぐらいするはずだ。
無視するにしても視線ぐらい向けたっていいはず。
だが、そういったことはまるでなかった。
もしも、先手を打ち、『ヒロイン』を警戒するようにヒーローたちに伝えているなら。
『ヒロイン』の姿を見れば勝ち誇るだとか。
値踏みするように見るだとか。
或いは、警戒するように見てもおかしくはないはずだ。
……しかし、それらのすべての反応が、ない。
なかったのだ。
「私を……意識、していない?」
であれば、あのアンジェリーナは?
メルクの混乱は深まるばかりだった。
そして、何よりメルクを混乱させたのが、他でもない。
レオンハルト・ベルツーリ王子の存在だった。
「ああ、また会ったな。シュリーゲン嬢」
「は、はい! レオンハルト様……」
他の攻略対象たちからは、どことなく距離を置かれている。
それが『悪役令嬢』の仕組んだものであれば納得でもあった。
なのだが、肝心のレオンハルトが、むしろ積極的にメルクに会いに来る。
「????」
レオンハルトは自分を試しているのだろうか?
乙女ゲームの知識に則って行動すれば、『やはり、お前はアンジェリーナを貶める転生者なのだな!』と。
(『ざまぁ返し』のための、行動……?)
必要以上のレオンハルトからの接触。
もちろん、嬉しい。
実物、本物のレオンハルトが目の前に居て、言葉を交わせているのだから。
だが、メルクの中の不信感が拭えない。
それに気になるのは『イベント』の時だ。
どことなく、彼の吐く『台詞』がぎこちなく感じる。
それに試すような、期待するような? 視線でメルクを見てくる。
(レオンハルト様……。でも、この視線は……?)
確かに『ヒロイン』に好意を抱いているように……見える。
でも、時期を考えれば、それが乙女ゲームの通りとは言い難い。
だって、二人が結ばれるのは、来年の夏頃だ。
今、こんな風に彼が積極的になる理由が見えてこない。
(まだ、こんなに好感度が上がってるはず、ない。いくら『ヒロイン』相手だからって……)
仮に。
自分に、たとえば『魅了』の魔法のような力があるとしたら。
だとしたら、それはそれでおかしい。
何故なら、レオンハルト以外の攻略対象たちの態度は、むしろメルクを遠ざけるようなものだから。
「????」
「メルク。一体、どうした?」
「え」
「ん?」
「いえ、あの。私の名前……」
「ああ! そろそろ呼んでもいいんじゃないかとな」
「え、え?」
(なんで? だって……)
おかしい。こんなはずではない。
いや、夢見たレオンハルトが自分に好意を抱いている様子だ。
これを自分は喜べばいいのだろうか?
しかし、警戒はしなくてはならない。
何故なら、レオンハルトのこの態度は『ヒロイン』が転生者であるかを探る意図かもしれないから。
(どうして他の皆とレオンハルト様の態度が違うんだろう?)
「あ、あの!」
「なんだい、メルク」
「ご、ごめんなさい! レオンハルト様っ」
「え」
メルクは、ひとまずレオンハルトの元から走り去り、慎重に動くことにした。
◇◆◇
「はぁー……」
溜息を吐く。
レオンハルトに話し掛けられて、好意を抱かれて。
本当は嬉しいはずなのに。
それを、素直に受け取っていいのか分からない。
だって、他の攻略対象たちの態度が大きく異なるのだ。
そうなってくれば、レオンハルトの、あの想定以上に好意的な態度にも……疑念が湧いた。
自分を試すための演技ではないのか。何か裏の意図があるのではないかと。
(全部、何もかもおかしい。こんなのもう『イベント』どころじゃないよ……)
「貴方。大丈夫?」
「え」
そこでメルクは、見知らぬ女子生徒に話し掛けられる。
廊下にうずくまっていたメルクは見上げて、彼女を確認した。
そこには銀髪の長い髪を携えた、綺麗な女子生徒が立っている。
「えっと」
「……貴方、さっきレオンハルト殿下に絡まれていませんでした?」
「ええと、その。絡まれていたというか、話し掛けられていて」
「そう。貴方、メルク・シュリーゲンよね? 男爵令嬢の」
「え、あ、はい。えっと、貴方は……?」
銀髪の彼女には、取り巻きらしき他の女子生徒も数人控えていた。
明らかに身分の高い雰囲気のある人物だ。
「私は、サンディカ。サンディカ・ローディックよ。ご存知かしら?」
「ええと? えっと、いえ……その。分かりません」
「……ふぅん」
サンディカを名乗った女子生徒は、メルクに向ける視線を強める。
だが、特にそれ以上の言及はしなかった。
「立ちなさいな」
そして彼女は、うずくまっていたメルクに手を差し伸べてくる。
「え、あ……。ありがとう、ございます」
メルクは彼女の手を取り、立ち上がる。
「メルク・シュリーゲン。貴方、私のそばに居なさいな。殿下から守って差し上げてよ?」
「え……守る……ですか?」
「そう。迷惑しているのでしょう? レオンハルト殿下に絡まれて。私なら殿下から守ってあげられますわ」
「あ……」
(私がレオンハルト様に絡まれて困っているって、そう見えたのね。ちょっと怖い印象だけど、いい人そう……)
「ち、違うんです、その!」
「違う?」
「はい! えっと! レオンハルト様に話し掛けて貰えるのは……嬉しいと思ってて! でも、その。どうしたらいいか分からなくて……!」
嬉しいことは嬉しい。それは間違いない。
でも、警戒しなければならなかった。
『ざまぁ返し』をされる場合、自分が一体どんな目に遭うか分からない。
諦める気も、ないのだけれど。
(だったら、あのレオンハルト様の好意を素直に受け入れる? でも、まだ分からないから……)
「……まぁ、そうでしょうね」
そんなメルクのはっきりしない態度も、銀髪の女子生徒サンディカは理解を示した。
「ならば余計に私のそばに居なさい? 殿下のこともお諫め致しますわ」
「え、その。諫める……?」
メルクは首を傾げるばかりだ。
「……私の友人になってくださればいいのよ。メルク・シュリーゲンさん」
「友人」
メルクは、よく分からないまま、サンディカと交流を持つ事になる。
そんな風に月日は流れていった。
思ったようにイベントは起きない。
その代わり、レオンハルトのイベントだけは狙い澄ましたように必ず起きて。
メルクは嬉しいのか、逃げればいいのか分からないまま過ごした。
(全然、思った展開じゃないな。それにアンジェリーナからも特に何もない……)
アンジェリーナは、メルクを意識していなかった。
それは再三のアプローチを試みて分かっている。
ならば、彼女は……『転生者』ではないのだろうか。
であれば、この状況は一体、何を意味するのか。
分からない。メルクには何も分からなかった。
受け止め切れないまま、レオンハルトとの交流を重ねていく。
困った時は、サンディカのグループに助けて貰った。
あまり快く、とはいかない様子だが、それでも彼女はメルクを助けてくれた。
また時期が来て、メルクは魔塔に居るシュルクへの接触を試みる。
だが、シュルクもまた、メルクとは関わろうとしなかった。
「……全然、違う」
レオンハルトに何の思惑もないのであれば。
ただ、受け入れてしまえばいいのだろうか?
それは許されるのだろうか?
混乱したまま、何もはっきりとしないままで……メルクは2年生になった。
状況はあまり変わらない。
アンジェリーナは『ヒロイン』のことを歯牙にも掛けず。
レオンハルトは『ヒロイン』に対して、想定以上に好意的で、疑わしい。
他の攻略対象たちは『ヒロイン』とは距離を置いて。
ある時、メルクは学園の廊下で……アンジェリーナとすれ違った。
メルクは、何か彼女に声を掛けられるかもしれないと、そう思いながら。
それでも、やっぱり相手にもされないままなのかもしれない、と。
ドクンドクンと心臓を高鳴らせながら、彼女のそばを通り過ぎる。
「それでミランチェッタ領へ向かわれるんですか?」
「ええ。まぁ、まだお祭りをするには時期尚早なのだけど。だから、もう少し先の話ね。もっと計画を練ってからよ」
「バルツライン閣下はご一緒に?」
「うふふ。アッシュ様とは、向こうで待ち合わせをしてはどうかって。私、アッシュ様に会えるのが楽しみなの!」
(……ッ!)
「……それはまた。ご馳走様でございます」
「なぁに、それ。ミーシャったら」
「いえいえ。お二人の仲が本当によろしくて、私は嬉しい限りです」
「そうなの。ふふ、私たち……ええ。いい仲よねぇ? うふふ」
「アンジェリーナ様。お顔がにやけていらっしゃいます」
「仕方ないわ」
そうして、アンジェリーナが去っていく。
メルクのことを見ることもなく。気にする事もなく。
「……あの、アンジェリーナは……」
転生者ではない。そして。
「悪役令嬢でも、ない……」
そこに居たのは。
メルクが見たアンジェリーナは、ただの恋をする女の子だった。
どこにでも居る。前世の学校にだって、沢山いた。
大好きな男の子の話で、友人たちと笑って、盛り上がって。
そんな。
──ただの、アンジェリーナ。
「あ……」
悪役令嬢なんていない。
メルクの他の転生者なんていなかった。
攻略対象たちは居ても『ヒロイン』を好きにならず。
レオンハルトだけはおかしい態度だけれど……彼の方がイレギュラーで。
その他は、あるがままの現実。
だから、つまり。
「ここは……乙女ゲームの世界じゃ、ない……」
へなへなと、廊下の壁に背中を預けて、力が抜けた。
メルク・シュリーゲンの下に、王妃教育への参加の話が来たのは、そのすぐ後のことだ。





