【26】公正な教師──逆行前と、1年生1学期(ニールside)
『ニール先生には、やって欲しいことがあるんだ』
今の『時間』が始まる前。
逆行前の世界でニール・ドラウトが会った少年、シュルクはそう告げた。
『……なんだ? 何をすればいい。どんな事でもしてやるよ』
目の前に居る少年は、ニールよりもずっと幼い少年だ。
10歳以上は離れている。だが、その『中身』は違った。
彼は自分の人生が『三度目』だと告げている。
下手をすれば、彼の精神年齢は、学園教師をしているニールよりも上のものとなっているはずだ。
時間逆行の魔法の理論を知るからこそ。
ニール・ドラウトは、目の前の少年に対して『大人』としての敬意を払った。
『先生には、派手な事は望んでいないよ。もっとずっと地味な仕事をして欲しい』
『地味……?』
『うん。ニール先生にはさ。公正な教師になって欲しいんだ』
『……は?』
公正な、教師。
ニールは、この大それた状況からは想像できない言葉に面食らう。
『何を言っている?』
『うん。地味な仕事だよねー。でもさ。必要だと思うんだ』
『何故』
『なぜ? なぜって。それは勿論、アンジェリーナ様の冤罪を晴らすために』
『……!』
ニールは、この魔塔を訪れるまで、アンジェリーナを悪女だと思い込んでいた。
それは目の前のシュルクに否定されたが。
頭では理解し、受け入れている。それが妥当な結論であると。
冷静に見れば、そうなのだとも。
ただ、同時に今のニールは、メルクへの思慕から動いていたニールでもある。
後悔と疑念が混ざり合い、ニールの心の内は焦燥が渦巻いていた。
『……もっと証拠固めとかに動くのは』
『うん。まぁ、この時間で生きていくつもりならそれもいいけど。
たぶん、今の段階じゃ、もう止められないでしょ? レオンハルト殿下たちをさ』
『それは』
今のレオンハルトは焦り、怒りを抱えている。
メルクを陥れられたこと。そして自身の望みが叶わない現状に。
そんな状況の彼に、ニールが諫め、冷静さを諭すような。
ましてやアンジェリーナの無実を訴える言葉に、耳を傾けるだろうか。
『……ニール先生。アンジェリーナ様の無実を、彼らは受け入れないよ。いや、見込みのある人たちも居るけどさ。彼らが一緒に居る、或いは情報交換できる状況で、それを訴えてもマイナスの方向にしか進まないと思う。救いがあるはずの人間まで、汚染されて巻き込まれるだけ。しかも事態は悪化するだろう。彼ら、物凄く頑固だからね。余計に意固地になって僕らを嫌厭して遠ざけ、アンジェリーナ様を害するよ。そうなるのは最悪の事態でしょ?』
『それは……だが。それなら、俺は? なぜ、お前は俺に話した?』
ニールがそう問いかけると、シュルクは見た目相応の悪戯っ子のようにニッと笑った。
『ニール先生は、見込みのある側だからさ。少なくとも、ここで下手を打てば、僕らは永遠の時の牢獄……無限ループに陥るかもしれないって。その危機感を共有できている。だろう? だから貴方は、僕の話に、真摯に耳を傾けている』
見込み。目の前の少年が一体、どんな人生を歩んできたのか。
かつての自分を、どのように見ていたのか。
想像しえない苦労があったはずだ。そんな彼が、自分をそう判断するのか。
『……そうか』
『うん』
『それで、公正な教師っていうのは何だ……?』
『文字通りの意味。アンジェリーナ様を冤罪から守るために。だからと言ってアンジェリーナ様に肩入れするのではなく、中立の立場を貫いて欲しい。これから時間がまた巻き戻るだろうけど。過去に戻ってから未来に至る時間を、周囲の人々から信頼され、信用される人間になるために費やして欲しいんだ』
信頼、信用。
『なぜ……?』
『貴方が言うのなら。ニール・ドラウト先生が証言するのであれば、アンジェリーナ様は無実なのだろう。……時が来た時、そうして周囲に納得させるために。貴方の証言で、公正な立場から、アンジェリーナ様を守って欲しい。だから普段からアンジェリーナ様に肩入れしてはいけない。メルクやレオンハルト殿下に対して敵対していてもいけない。貴族の派閥に左右されるような人物であってはいけない。周囲から信頼されるために、教師たちと、生徒たちとの接触を継続しなければいけない』
『…………』
『生徒たちの過ちを正し、道を踏み外そうとしているのならば止め。誰かが罪を問われたのならば、公正な立場から証言し、ただ真実のために動く。そんな学園教師を目指して欲しい。これは、きっと正しい事、でしょう? ニール先生』
そんな事を。そんな程度の事を、と。ニールは思う。そう言いかけた。
時間逆行、そしてそのループという大きな問題に対して、そんな対策など、と。
だけれど。
『そんな事を、なんて言わないでよ、先生。だって、貴方は……そんな事すら出来なかったダメ教師なんだから。今はね』
『ぐっ……!』
ニールの顔が羞恥に赤く染まる。その通りだった。
彼は、思い込みや……メルクへ生まれた思慕で事実を捻じ曲げ、アンジェリーナを。
いや、『一人の生徒』の未来を奪うことに加担したのだ。
そんな自分が、公正な教師になる事を、そんな事などと軽んじる資格があるはずもない。
『……まぁ、僕が人の事を言えるのかは怪しいけど。今は僕しか、そう言ってあげられないからさ』
『ぁあああ……』
ニールは頭を抱えて唸り声を上げた。胸の内に湧き起こるのは羞恥心と後悔だ。
『なんで俺は……! 生徒に入れあげて! あんな……! なんって馬鹿なんだ……!』
『あはは……。なんでかなー。凄く魅力的に見えたんだよね、メルク。別に今だって嫌いってワケじゃないんだけどさ。でも、そこまですることだったのかな、って思うよね。アンジェリーナ様の件があるから笑えないんだけどさ……』
『ぐぅううッ!』
やり直したい。心底。メルクのためでなく、自分のために。
アンジェリーナに償いたい。だが、償うのなら……この時間で、ではないだろうか。
『アンジェリーナは……今、この時間で……』
『……残念だけど、辺境まで行って帰ってくる時間、レオンハルト殿下は待ってくれないだろう。往復で一ヶ月は掛かるはずだ。王家だって、それまでメルクの件を保留するはずがない。今回のケースならば、早々に手を打つはずだ。別の相手に無理矢理に嫁がせるとかね。それをレオンハルト殿下は許さないだろう。きっと辺境に向けて発てば、帰ってくる前にレオンハルト殿下は時間逆行を行っている。……もう、この時間ではアンジェリーナ様には償えないよ』
ニールの表情は絶望に染まった。教師である己が、一人の生徒の未来を奪っておきながら、そのことを謝ることも、償うことも許されない。
『逆行をすれば、この時間は……』
『そこは……僕も分からないんだよね。だって、どうしても時間逆行した後の僕らには、前の時間を認識できないから』
『消えるわけじゃないのか』
『分からない。消えるのかもしれないし、そうではないかもしれない』
答えを得る術はない。時間が巻き戻った段階で『彼ら』は、そこには居ないのだ。
故に。どうあっても、彼の罪は償えない。もう遅いのだ。
ニールに許されるのは、ただ後悔することだけだった。
『……お前は、なぜ今日まで? そこまで分かっていながら……』
『……ごめんね。僕もこの行動が正しい事だとは思っていない。でも、必要なことを積み重ねようと思ったんだ。堅実に。正確な答えが必要で、正確な情報も必要だった。……だから捨てた。今回の時間を。……前回も。見極めるためにだ。ニール先生。貴方に罪があるというのなら、僕にも罪があるってことだ』
シュルクとニールは『次』のために動いた。
レオンハルトたちにはすべてを伝えていない。
彼らに話し、事態の悪化を招かないために。
引き返せるはずの人間まで破滅へ陥れないために。
また、時間逆行の魔法の『制限』に影響することもシュルクが把握していた。
正しい事のためでないのなら、今回のメルクの件のように、何かしらの『失敗』を招いてしまう。
そうなるように記憶は曖昧となるはずだ。
そうして。彼らは時間を巻き戻る。『今』の時間へと意識が遡った。
ニールは、少年魔法使いとの約束の通り、公正な人物であろうと心掛けた。
アンジェリーナにも、メルクにも、どちらに味方するでもなく。
来たるべき、その時のために。
正しい人物であり続けようとした。
教師たちと、生徒たちの信頼を得るように生きていく。
もちろん、それだけではない。
「──カルロス・シュタイゼン。少し、いいか?」
ニールは、公爵家の長男へと話しかけた。





