【02】アンジェリーナの婚約──13歳~15歳
十三歳になったばかりの頃、私に王家との縁談が持ち上がった。
でも、その話は、よく分からない内に立ち消えになったようだ。
私なりに覚悟はあったけれど、婚約の話がなくなったと聞いた時には少しホッとした。
私はアンジェリーナ・シュタイゼン。シュタイゼン公爵家の長女だ。
私のお母様は、私が物心がついた頃に亡くなっている。
それから、私の家族は、お父様と一つ上のお兄様だけ。
お父様は厳格な人で、また王家への、国家への忠誠心が強く、優秀な方だ。
私とお兄様という実子が既に居るためか、後妻を娶ることなどは考えていないらしい。
余計な家督争いを招かないためにも、それは、きっと正しい判断なのだろう。
厳格なお父様に厳しく育てられた私は、おそらく貴族令嬢らしく育ったと思う。
公爵家の女として、我が身の振る舞いに気を付けるように。
お母様が居ない分、シュタイゼン公爵家の『女主人』の代わりを務める事もある。
だから、当主となるカルロスお兄様と比べても変わりがないぐらいの教育を受けて育った。
お父様との関係には問題がない。問題があるとすれば、お兄様との関係の方だろう。
「……チッ。アンジェリーナ」
「カルロスお兄様? どうかされましたか」
「……なんでもない」
なんでもないのに、妹の顔を見掛けた瞬間、舌打ちするのはやめて欲しい。
カルロスお兄様は、何故か最近、私への当たりが強いのだ。
別に以前から仲睦まじい兄妹をやっていたワケじゃないけれど。
それでも、ここまで露骨に嫌悪されるような関係ではなかったはずなのに。
「レオンハルト殿下は、お前との婚約を取り止めたそうだ」
「婚約の取り止めですか。シュタイゼン家と王家との縁談は上がっていたと私も聞きましたが……」
「その話が取り止めになったのだ。殿下の要望で」
レオンハルト殿下は、私より一つ年上の方だ。お兄様とは同じ年齢。だから今は十四歳。
公子の身分もあって、お兄様は殿下の側近候補として名が上がっているらしい。
私が殿下の婚約者となっていれば、その側近の話は確定していただろう。
「お前のせいだぞ、アンジェリーナ」
「……はい?」
「殿下は、お前に失望している。だから、お前は婚約者となることすら叶わないのだ」
失望って。私は、レオンハルト殿下に会ったことさえないのに?
流石の私も眉間に皺を寄せてカルロスお兄様を見据えた。
「カルロスお兄様。一体、貴方は何をおっしゃっているのですか? 貴方が、殿下の気持ちを勝手に語っているのもどうかと思いますが……。会ったことのない殿下に、なぜ私が失望など、されなければならないのですか」
お兄様は、私が言い返す言葉を聞き、怒るでもなく値踏みするように睨みつけてきた。
「……身に覚えがないと?」
「あるワケがないでしょう。何をおかしな事をおっしゃっているの?」
「レオンハルト殿下のことを、お前は何も思っていないと?」
「は? 殿下のことをですか? ……本当に何を言っているの? 私は殿下に会ったこともないと申し上げているでしょう。そんな事、お兄様だって知っているはずです」
「……何事もなかった扱いか。まったく。命拾いしたな、アンジェリーナ」
「はぁ……?」
お兄様は、また舌打ちすると、私の前から去っていった。
何なの、あの人。元から寡黙な人ではあったけれど、流石におかしいでしょう。
私は困惑しつつ、お兄様とは適切な距離を置こうと思った。
そんなお兄様とのやり取りから、二年ほど過ぎ、私は十五歳になった。
あれから、私の婚約の話は流れており、レオンハルト殿下以外の相手とも結ばれていない。
釣書は来ている様子なので、どうも『保留』扱いになっているのが現状らしい。
殿下の婚約も、未だ発表されていないままだった。
……現状。私は、レオンハルト殿下の婚約者の『予備』扱いではないだろうか、と考えている。
王家か、殿下には、婚約を結びたい、別の『本命』相手が居る。
けれど、その相手との婚約を結ぶのが困難なため、ひとまず私の婚約は、レオンハルト殿下のものが確定するまで『お預け』となっているのではないか。
もしも、殿下の婚約が上手く結ばれなかった場合の『予備』扱い。それが今の私。
「……ふざけた話だと思うけど」
ただ、私は国王夫妻とも会う機会があり、彼らを知っている。
陛下たちや、さらにお父様の様子から考えて……。
おそらく国王夫妻やお父様としては、私とレオンハルト殿下の婚約を結びたいのが本音のようだ。
ということは、この婚約を拒否しているのはレオンハルト殿下、その人ということになる。
……業腹なのだが、お兄様が、あの時に言っていた言葉が真実の可能性もあった。
だとしても、それは私の知ったことではないのだけど。
あと一年も経たない内に、私は王立学園へ入学する事になる。
出来れば入学前に婚約相手を決めて欲しいところだ。
『別に殿下の婚約者でもないのに』などと、周りに言われたくはない。
婚約者が居ないままだと、そんな風に噂される事は想像に難くなかった。
シュタイゼン公爵家は、カルロスお兄様が継ぐ予定だ。
私に爵位は回ってこないため、縁談が決まらなければ公爵家の厄介者になってしまう。
それに、時間が経つほど良い縁談とは、なくなるものだ。
私の場合、王家に嫁ぐのでもなければ、公爵家よりも家格が下がることになる。
公爵家はシュタイゼン家の他にもう一つあるのだけど、あちらの嫡男の縁談は既に決まっている。
それに敵対派閥の家なため、私と縁付く事はないだろう。
「はぁ……」
憂鬱ね。そしてレオンハルト殿下は迷惑だ。
未だに会ったこともない相手が、私の未来に暗雲をもたらしている。
「お父様が納得し、王家の口出しが叶わない、家。そういう家との縁談を結ぶことが出来れば」
そうなると、相手の条件は絞られる。
レオンハルト殿下が私以外の、どこの誰と縁を結びたいのかは知らないけれど。
お兄様の言ったような理由で、私との縁談を拒否し、それでいて何の確約もなく、私の縁談が握り潰されているのだとすれば。
「最初に話があってから二年よ。どんな思惑があるにせよ、それに私が付き合う義理はない」
これから『ようやくレオンハルト殿下の婚約者が決まった。アンジェリーナ、お前ではない。予備だったお前は、余り物の男に嫁ぐといいだろう』なんて事になりかねない。
そんなのは、お断りだ。
だから、私は『ある家』に手紙を送ることにした。
『どうか私と縁組をしてくれませんか』と。売り込むことにしたのだ、その家に。
そうして、『バルツライン辺境伯』から公爵家に縁談が申し込まれることに繋がった。
北の辺境伯、バルツライン家。
バルツライン家が守っているのは国境ではない。
北の大森林に湧く魔獣たちから国を守っている、特殊な家門だった。
戦いの多いその地に、嫁ぎたい令嬢は少なく、娘を嫁がせようとする家は少ない。
辺境伯のご両親は、数年前にやはり魔獣との戦いが原因で亡くなられたようだ。
だから、当代のバルツライン辺境伯閣下は、私よりも五つだけ歳上の男性だった。
高位貴族の爵位を継ぐには、随分と若いと言っていいだろう。
若き辺境伯は、そのような事情により婚約者も決まらぬまま、爵位を継ぐ事になった。
……バルツラインは危険な土地ということだ。当主夫妻ですらも。
覚悟の足りない令嬢が嫁いでも足手纏いかもしれない。だが『意義』はあると思った。
公爵家と辺境伯家が結ばれれば、国防の一端を担う大事な家門に、中央から支援が出来る。
まさに政略結婚として申し分ないはずだ。家門のため、そして国のためにも。
王家との、いつまでも決まらぬ縁談で、公爵令嬢たる自分が捨て置かれるなど『無駄』もいいところだろう。
安寧な、そこそこの家門との縁談を私が持ち掛けても、それは私自身のためでしかないだろうと父は拒むかもしれないが……。
辺境伯との縁談となれば、そうはなるまい。
かの家に嫁ぐ令嬢が決まれば、王家としても、他家としても、我が家としても利点がある。
これは誰もが得をする縁談だ。
「アンジェリーナ。バルツライン辺境伯家から、縁談の申し入れが来ている」
私は、お父様の執務室へ呼ばれ、そう告げられた。
「お受け下さい、お父様」
躊躇なくそう答えた私に、お父様は訝しげな目を向けてきた。
「その縁談は、私が自ら持ち掛けたことでございます」
「アンジェリーナが?」
「どうも、王家との、私と殿下との縁談が拗れていらっしゃった様子ですので。私の方で手を打たせて頂きました。シュタイゼンの女としては王家の答えを待つべきかもしれませんが。……流石に時間を掛け過ぎています。国王か、或いはレオンハルト殿下本人に、私と縁を結ぶ意志がないのでしょう?」
「……そうだな」
お父様は、眉間に皺を寄せる。やはり思うところがあったのだろう。
「私が、その決断の遅さと、私以外の別の方との縁談を未だに決められない王家の拙さに、いつまでも付き合う道理がございません。国益のため、家門のためにも、バルツライン辺境伯閣下と私の縁談を進めてください、お父様。もしかしたら、私の縁談が決まれば、王家も重い腰を上げるかもしれませんよ? 私という『予備』が居る余裕を失くせば。そうなれば、王家にとっても良いこととなるでしょう。お父様とて、今の状況に納得しているワケではないのではありませんか?」
「……そうだな。アンジェリーナの言う通りだ」
ちなみにカルロスお兄様の婚約も、まだ決まっていない。
そちらは、学園で本人に見繕わせるつもりなのだろう。
スムーズな流れとしては、私とレオンハルト殿下との婚約を決め、シュタイゼン公爵家の地盤を固めた上で、カルロスお兄様には適切な家門の令嬢と縁談を結ばせる。
その状況であれば、相手を……言い方は悪いが……『選び放題』だから。
王妃の実家の公爵夫人になれるのだ。多くの令嬢がお兄様との縁談を望む事だろう。
そんな、お父様の計算は、既に上手くいっていないのだけど。
しかし、カルロスお兄様の相手が公爵夫人になる事実は変わらない。
そのため、お兄様の縁談は、私よりは余裕があるはずだ。
「バルツラインは過酷な土地だ。それは理解しているな? アンジェリーナ」
「いいえ。まだ、理解しておりません、お父様」
「……なんだと?」
「先代辺境伯夫妻が、魔獣の犠牲になったと聞いています。そんな土地を理解している、と言って良いのは、実際にかの地に足を踏み入れ、魔獣の存在を、それと戦う人々を、傷つく人々を見てからでしょう。縁を結ぶ相手の、その矜持を軽率に『理解している』とは申し上げられません。ですが、覚悟はしているつもりです。しかし、その覚悟は、実際の地に立たねば、誰にも納得されないものかと。私自身もそうです」
「……そうか。それはそうかもしれないな」
「はい、お父様」
「では、この婚約を締結する前に、アンジェリーナ。お前はバルツライン領へ向かえ。そして、かの土地で存分に見聞きし、お前自身が答えを出すといい。婚約を締結するための権利は、お前自身に与えておく」
「はい。ありがとうございます、お父様」
そして、私は王立学園へ入学する半年前。バルツライン領へ向かうことになった。
その地で、私を出迎えてくれたのは、アッシュ・バルツライン辺境伯閣下。
……後に、私の『最愛の夫』となる人だ。