【12】学園生活の始まり──学園生活、開始
アッシュ様と婚約を結んだのは、シュタイゼン家の者として、政略の一環だ。
けして、私は恋愛感情だけで、お父様から委ねられた権利を行使したつもりはない。
もちろん、王家の圧力により私の縁談が止められていた背景もあった。
しかし、十分に家の利益となり、国益となる婚約を結んだ。
……そのはず、なのだけど。
「はぁ」
それが、まさか、心をここまで浮つかせる、まるで恋愛による結びつきのような。
そんな気持ちになるだなんて思ってもいなかった。
思わず吐いた息も、どこか情熱的に熱を帯びている。
なんとも恥ずかしくも、嬉しいような。そんな気分だった。
改めて、気を引き締めないといけないだろう。今日から王立学園での生活が始まるのだ。
私は、ここに遊びに来ているのではないのだから。
将来は、魔獣の湧く北の大森林から、国の防衛を担うバルツライン辺境伯に嫁ぐ身。
辺境へ嫁ぐのだと、中央との関わりと蔑ろにしていいワケがない。
むしろ、より中央・各貴族との縁を深め、公爵令嬢という立場を活かし、やがて辺境の力とならんがために。
この学園での暮らしを意識高く過ごさなければならない。
王立学園へ通うにあたって、私の目的は『如何にバルツラインの利に繋げるか』になった。
もしも、私とレオンハルト殿下の縁談が成っていた場合は、おそらく中央での地盤固めに奔走したと思う。
殿下の婚約者に相応しくあれ、未来の王妃に相応しくあれ、と。
学び、態度を取り繕い、関係を築いていたはずだ。
今の私は、そういった方針とは無縁であり、大きく異なる道を歩み始めている。
周囲との関係も、きっと大きく違うのでしょうね。
もちろん、私がレオンハルト殿下の婚約者になる、なんて、そんな未来はもう『ない』のだけど。
どんな風に周囲の私を見る目が変わるか。
……たとえば、アッシュ様とのやり取りの目撃証言について。
興味津々といった、女子生徒たちの関心に応える関係。いやいや。
はい、散々に聞かれましたよ、アッシュ様との関係について。とても恥ずかしかった。
『辺境伯閣下に溺愛される公爵令嬢』。予想外にも、それが私の学園生活の始まりだった。
学園での繋がりが出来たことで、レオンハルト殿下についての噂も私の耳に入る。
殿下は、未だに誰とも婚約していないらしい。
もう一人の公爵令嬢、サンディカ・ローディック様と縁談を結ぶでもなく、だ。
サンディカ様、そしてローディック公爵家は『待つ』判断を下したようだ。
王太子の婚約者が決まっていないのだから、それは妥当な判断であると言えるだろう。
もしかしたら、私のように縁談を止められていた可能性もあるが、そこは何とも言えない。
レオンハルト殿下の婚約相手が誰になるのか。
貴族社会、取り分け、私たちの世代は注目を集めていて、よく噂されている。
サンディカ様に限らず、その席に座りたい者も、娘を座らせたがる家も多くいるだろう。
私は、その争いから早々に降り、そして『いい人』を見付けられた。
だから、これからは……そうね。
「まずは身体を鍛えましょうか。それに魔法の鍛錬もしなくてはいけないわ」
魔獣との戦いで足手まといにならないために。幸い、私には魔法の才能がある。
運動神経も良い方で、身体強化の魔法を使えば、かなり動けることが分かっている。
しかし、まだ身体ができあがっていないため、根を詰めての肉体的鍛錬は避けていた。
だけど、日頃から剣に触れ、身体を動かすことは続けていくつもりだ。
「おはようございます、アンジェリーナ様」
「……ミーシャ。おはよう」
学園で、私に話し掛けてきたのは……ミーシャだ。ミーシャ・トライメル子爵令嬢。
目立ち辛い茶色の髪と、同じく茶色の瞳をしている女子生徒。彼女は、以前からの私の『友人』だ。
「いよいよ、学園生活が始まりましたね、アンジェリーナ様」
「そうね、ミーシャ。そうなのだけど、ねぇ?」
「はい、アンジェリーナ様」
私は、彼女について確認しなければいけない事があった。
それは、私の状況が大きくトライメル子爵の想定からズレているはずだから。
「ミーシャは、私のそばに付いていて良いの? 状況は分かっているわよね?」
「……はい、アンジェリーナ様」
ミーシャの実家、トライメル子爵家は、シュタイゼン公爵家の『寄子』だ。
貴族社会には派閥がある。家格の高い家は『寄親』として『寄子』の家の後ろ盾となるものだ。
もしも殿下と私の縁談が成っていた場合は、寄子の家の令嬢たちが私の周りを取り巻いていただろう。
私は、そういった多くの者に囲まれ、守られ、学園生活を過ごしていたはずだ。
けれど、今の私はバルツライン辺境伯家へ嫁ぐと周知された身だ。
公爵令嬢とはいえ、中央で成り上がっていこうと考える者たちは、私に阿るメリットが少ない。
だから、人間関係の構築は少しだけ困難になる。要は、目的意識の違いや、仲間意識の違いだ。
いずれは中央から居なくなり、社交界にも、そうは出てこなくなるであろう公爵令嬢。
そんな私にどこまで距離を縮めるべきなのか。
もちろん権威はある。嫁ぐ先の辺境伯とて敵にはしたくない相手なのは間違いない。
公爵家と近付けるのであらば旨味もあろう。しかし、第一に優先すべき相手かと問われれば……。
「……と、いうことは分かっているかしら、ミーシャ」
「はい、アンジェリーナ様。もちろん、承知しております」
どうして、こんな話を改めて彼女にしているかというと、彼女が少し心配になったから。
ミーシャとは、それなりに古い付き合いだった。
貴族令嬢同士、かつ家格の差が大きい者同士で、こう言うのはどうかと思うけれど。
『幼馴染』のような関係だと言ってもいい。
とはいえ、彼女が私に対して同等の立場のような振る舞いをすることはない。
私とは同じ年齢であり、王立学園へ入学したのも一緒の年ということになる。
そして、私が心配したのは、そういった付き合いの長さによる親近感だけが理由ではない。
「ミーシャ。貴方、まだ婚約が決まっていないと聞いているけれど」
「……はい、その通りです。アンジェリーナ様」
「ごめんなさい、ミーシャ……」
「アンジェリーナ様が謝るような事ではありませんよ」
「そうかもしれないけど……」
申し訳ない気持ちは抱いたりするのだ。罪悪感を抱いてしまう。
ミーシャ・トライメルには昔から好きな男性が居た。
お相手は、貴族令息。それも子爵令嬢の彼女が恋するには釣り合わない、家格が上の相手。
ミーシャの好きな相手は、デニス・コールデン侯爵令息だった。
彼の父であるコールデン侯爵は、ベルツーリ王国の『宰相』に就いている。
デニス様は侯爵家の三男であり、『宰相の子』で、その才覚を買われている人でもあった。
年齢は私たちと同じで、彼も1年生として今年、学園へ入学している。
レオンハルト殿下とは宰相繋がりで交流があったらしい。
殿下の代での、宰相の器だと噂が立っている人物である。
遠目で見掛けたことがあるぐらいで、私は直接、彼と関わったことはないけれど。
子爵令嬢のミーシャが結ばれるには難しい相手ということだ。
だけど、先に言ったように彼女は、シュタイゼン家の寄子の令嬢。
そして、私とは幼い頃からの交流があったのだ。
……だから、『もしも私がレオンハルト殿下の婚約者になっていたら』。
『未来の王妃』の友人として、デニス様との縁談を取り持つことも可能だったはずなのだ。
私が王家との縁談を諦めていなければ、彼女には幸福が訪れていたのかもしれない。
想い人と結ばれる幸福は、今では痛いほど理解できている。
その幸せを彼女に与えてあげられないだなんて、と。
「……いいのです、アンジェリーナ様。元より私の片思いでしたから」
「ミーシャ……」
確かに幼い頃からの恋心で、彼女だってデニス様へアプローチはしてきた。
私の知らないところでもだ。だけど、今まで彼には見向きもされなかったのだ。
「それに、最近は縁談どころか、何やらデニス様の不興を買ったらしくて」
「え? それは、どういうこと?」
「……実は、私が彼を遠目から見ることすら嫌がられているらしく。今では、近寄ることさえ禁じられたのです」
「ええ? なぜ、そこまで……?」
ミーシャが、そんな事になっているだなんて知らなかった。
「分かりません。どこかで私の気持ちをデニス様が、お知りになったのかもしれません。それを、ご不快に思われたのか……侯爵家より、近付かないように、と。ああ、ですが、そこまで苛烈な言葉があったワケではないようです。やんわりとした注意程度の話であったと、父より聞いています」
「そうなの……」
それはショックが大きいだろう。ミーシャが彼を好きになったのは、かなり前だったはずだ。
確かに家格の差が厳しく、難しい縁談だった。でも、デニス様は侯爵家とはいえ、三男で。
言ってしまえば継げる爵位はないのだ。もちろん、文官として身を立てることはできる。
将来の宰相は約束されたものではないが、才覚があるならば王宮へ仕官する人間にはなれるだろう。
しかし、その場合は、侯爵令息よりも落ちる『文官爵』を賜るはずだ。
配属される場所や立場、責任によって一代限りの男爵か子爵相当の地位となる。
そうなっていれば、ミーシャとの婚約も十分に釣り合う縁談にもなっていたはずだ。
二人の気持ちさえ同じであれば、まったくありえない話ではなかったのに。
どうしてもミーシャ側の肩を持ってしまう私は、彼女への適切な言葉が思い浮かばない。
もちろん、デニス様にだって言い分があるだろう。現に接近をやめるようにトライメル家に抗議したのなら……彼の気持ちは、ミーシャには向かなかったということだ。
政略結婚ならばともかく、恋心を重視した婚約で、その相手から想われていないのであれば辛いだろう。だから、ある意味で、気持ちの伴わない縁談であれば、はっきりと断られてミーシャには良かったかもしれない。
……失恋したばかりのミーシャには言えないことなのだけど。