10.歌を聞いていたのは
ディラン視点です。
「、、、はあ」
その日の昼前、ディランは1人で執務室に籠って、ため息をついていた。
今、取り組んでいるのは、前回の冬にかかった騎士団と傭兵団の防寒着の費用だ。
これを元に、次の冬に向けての予算をもう決めておかなくてはならない。
騎士と傭兵の人数と、そろそろ防寒着を買い換える必要があるおおよその人数と、、、
と、ぶつぶつメモを書き込んでいた所で、我に返ってため息をついた。
これ、領主の仕事じゃないよな、、、と思う。
いや、領主の仕事だけれども、自分がやるのは上がってきた報告の数字の確認だと思う。
「文官、いるなあ」
ちらり、とこの後に控えている、屋敷の備品のリストを見る。メグが作った先月の購入分のリストだ。
メイド長のメグは数字に弱い。なのであのリストについては、まず確実に何らかの計算ミスとか、数字のミスがあるはずで、それをこれからチェックするかと思うと気が重い。
出来ればやりたくない。誰かやって欲しい、というよりも、メグではない、数字に強い誰かにあのリストを作って欲しい。
文官がいるな、と強く思う。
執事も欲しい。
以前にジェラートが言っていたように、都の社交界に顔を売るべきなのかもしれない。
春の社交シーズンはもう間に合わないが、秋の社交シーズンには都へ行こうか、と考える。
その頃には、陛下も外遊から戻られているだろうし、離縁の手続きについても話せるな、と思った所で、数日前のシーラの笑顔が浮かんだ。
浮かんだ銀髪のメイドの笑顔に、心臓をぎゅっと掴まれるような気分になる。
なんだ?
ぎゅっと掴まれるのと同時に、不思議な幸福感も生まれている。
え?
シーラの笑顔を振り払おうとするが、上手くいかない。思い出すと何だか幸福なのだ。
え?
確かに、笑顔は美しかったが、、、、え?
ディランは、美しいと感じていた自分に驚く。
、、、、、、。
やめろ、集中しよう。
強く自分に言い聞かせて目の前の書類に集中する事にした。
今度こそ、銀髪のメイドの笑顔を振り払う。
そうして、どうにか集中して、資料を付き合わせて、メモを書き込んだりしていた時だった。
小さく歌声が聞こえてきたのだ。
透明感のある、優しい歌声で楽しそうなのが伝わってくる声が。
歌?
ディランは資料から顔を上げる。
シーツを干してるメイドか?
ディランの執務室は、リネン類を干す空き地の真上にある。メイド達が複数人で作業している時は賑やかなおしゃべりが聞こえてきたりもするし、希に歌ってる者もいるが鼻歌が微かに聞こえる程度で、こんなにはっきり歌ってるメイドは初めてだ。
ディランは何となく、歌声に耳を傾ける。
歌っているのは、小さい子供が歌うような童謡で、うろ覚えなのか、いろんな歌が次々に出てくる。
再び書類に目を落としながらも、ディランは思わず笑みが零れた。
歌詞、間違ってる、、、、。
口元が緩むのを抑えきれずに、ほんの出来心で席を立つと、窓際へ行って歌声のする方を眺めた。
新入りのメイドでも入ったんだろうか?
そう思いながら、視線を向けて、ディランは息を呑んだ。
上機嫌で歌っていたのは、シーラだったからだ。
は?
えっ?
見てはいけないものを見てしまった気がして、ディランは慌てて、ぐりん、と顔を背けた。
「、、、、え?」
耳にはまだしっかりと、歌声が聞こえてくる。
今は、なにやら、セリフ付きの歌を恥ずかしげもなく歌っている。
なぜか、ディランの耳が、かあっと熱くなった。
いや、俺が照れてどうする。
歌ってるのは、あっちだぞ。
片手を顔にあてながら、こんな覗き見は良くないと思うのだが、我慢出来なくて、もう一度、指の隙間からちらり、と視線をシーラへと注いだ。
シーラは楽しそうに歌っている。
ディランの見ている事には、全く気付いてないみたいだ。
自分には見せた事のない、柔らかな顔で、てきぱきとシーツを干しながら、くるくると歌うシーラ。
侯爵令嬢だろう?
何してるんだ?
ディランの中にあったシーラのイメージと、目の前のシーラが全然一致しない。
何なら先ほど浮かんできてしまっていた笑顔も、シーラの元のイメージとは一致してないのだ。
何なんだ、どういう事だ。
“問題なく馴染んでおられます”
ジェラートの言葉が思い出される。
確かに、今、下で働きながら歌っているシーラであれば、問題なく馴染めそうだ。
俺は、彼女の事を誤解してたんじゃないか、、、?
そんな、嫌な考えが頭を掠める。
そう、それは嫌な考えだ。なぜなら、ディランはシーラを我が儘で幼稚な侯爵令嬢と決めつけて、初日の彼女を嘲笑い、使用人として扱ったからだ。
誤解だったのなら、わざわざ嫁いで来てくれた妻に、ひどい仕打ちをした事になる。
ぎゅうう、と心臓が痛い。
わざわざ嫁いで来てくれた、妻。
その時、ディランの体を幸福感と絶望感が同時に覆う。
シーラが自分の妻なのだという幸福感と、その妻にあり得ない事をしたという絶望感。
心臓を嫌な汗がつたったような気がした。
今、自分が感じた、幸福感の方に信じられない思いで目を向ける。
もう一度、そろり、とシーラを見る。
くるくる歌う彼女は可愛かった。