もう一つの闘い②
——クルロス王城・謁見の間。
「ああは、云ったものの。なあソフィ。これどうすれば良い?」
アッシュ・グラントが王城を抜け大聖堂へ駆けた頃には、謁見の間は半ば裸にされたよう周囲の壁という壁が崩れ、惨状を明け透けにした。ギャスパルが途方に暮れたのは、そこを埋め尽くした炎の海にだった。明け透けだからこそ炎がどれほど広がり、常人がそこ抜けることは叶わないことを教えている。
「エルガー大農園? って云うところに行くのでしょ?」
ギャスパルの傍に立った妹のソフィは、兄の懸念をよそに、そんなことを口にした。一面の炎が巻き上げた息苦しさを誘う風に、髪をなびかせ、どこか飄々とした顔でだ。ギャスパルは、そんな考えなしの答えさえも愛おしいのか——やっと助けた妹だ——柔らかく鼻で笑うと、ソフィの横顔を眺めた。
まじまじと見れば見るほど、白々とした滑らかな肌、柔らかなブロンド、華奢な身体は娼館での悪夢を知らない妹のものだった。もう、妹を捕らえた忌々しい呪いはどこにも感じられない。少なくとも今は。
「ル・エ・ガーな。そうだ。そうなんだけどよ。どこをどうやってこの大惨事を抜ければ良いんだろうな? 俺は——まあ、爺の呪いのおかげで、なんとでもなるが——」ギャスパルは鷲鼻の先を掻きながらソフィに返した。今のギャスパルであれば、この惨状を切り抜けアイザックを追うことは容易だ。追跡者としての能力は、良くも悪くも常人離れをしている。そうでなければ、修練場でアッシュに殺されていただろう。
「私のことを心配してくれているの?」
ギャスパルが鷲鼻を掻くときは、決まって何かに気遣いをしている時だ。ソフィは、そんなことも心に蘇ったことへ心底喜ぶと、どうだろう、どこか悪戯に笑いながら兄を揶揄うように前へ、フワリと踊りでた。
「他に何があるってんだよ——」
ギャスパルは、無邪気にそうするソフィの姿に幾許か顔を赤くした。
ソフィはすっかりの全裸にギャスパルが羽織った外套をかけているだけだ。眼前へひょっこりと踊り出ると妹の肌という肌が外套の隙間から溢れ、あからさまにギャスパルを挑発しているように見える。「——はしゃぐ場面じゃあないだろ、真剣に考えてくれよソフィ」
「兄さんは、優しいね。でも、大丈夫だよ」ソフィは、そんな兄の様子を他所に、あっけらかんと言い返した。
「あ? 何をどう見たら大丈夫だってんだよ」
ギャスパルは、ソフィの素振りに不安を感じたのか、眉根を寄せると怪訝な声を挙げ、今にもこちらへ襲ってきそうな焔の舌を避けるよう妹の腕を引き寄せた。「言わんこっちゃねえぜ」
「空」ソフィは、何やら楽しそうに腕を引っ張られるとギャスパルへしなだれるよう寄りかかりながら、抜け落ちた大天井を指差した。
「空がどうした」
ギャスパルはいよいよ不安を増すと、とある可能性が頭をよぎった。そう——アッシュの施した術が実は失敗をしていて悪魔がまだソフィに巣くっている可能性をだ。それだからソフィはギャスパルを惑わすようなことを囁き、頸を引きちぎる機会を伺っているのかもしれないと。流石のギャスパルも頸を捥がれてしまえば、それまでだ。だから、ギャスパルは慎重にソフィの肩へ手をゆっくりと乗せ、身体を強張らせた。
「空を翔んで行けば、直ぐでしょ?」またしてもソフィは、無邪気に云った。ギャスパルは、それに、さっさと本心を吐けと云いかけたのだがグッと呑み込み「空? 竜でも呼ぶつもりか?」と、できるだけ心象を悟られないよう軽口で返した。
「ううん。違う。<北海の女王>はね、大海原を見降ろす翼を持っていたの」
そう云うと、ソフィは肩に置かれたギャスパルの無骨な手へ、華奢な手を重ねるとゆっくりと身体を離した。
王座の向こう側へ広がった空間から、更に壁の崩れ落ちる音が響き渡った。次には少しばかり謁見の間が揺れたかと思うと、遠くから何かが撃ち合う音も聞こえてきた。いよいよアッシュが大聖堂へ辿り着いたのかもしれない。ギャスパルは、更に眉根を寄せ、身体を離したソフィへ鋭い視線を投げた。「翼だって?」
「そう、これ」
全身が露わになることも厭わず、ソフィは炎の海を背に両腕を大きく広げると、直ぐに畳み込み背を丸めた。
遠くで再び爆音にも似た重々しく激しい音が耳の奥をついた。きっとアッシュが大聖堂の大扉を破ったのだろう。ギャスパルは、あの阿保がもっと大人しく紳士的にできねえのかと、心中に毒付いてみせたのだが、それどころではなかった。そうだ。上半身を丸めたソフィの全身から赤黒い湿気を孕んだ煙が幾重にも立ち昇り、妹を中心に蜷局を巻いたのだ。
赤黒の蜷局が次第にソフィの背中の方へ、ゾワゾワと集まり始めると何かの形を成していく。それに合わせソフィは「んん」とどこか、艶かしい声を挙げ丸めた身体を伸ばし両腕を真上に勢いよく振り上げた。すると、遂に奇妙な赤黒の煙は形を成し、禍々しい二枚の黒翼が姿を見せたのだ。ギャスパルは、それに顔をしかめると「ちくしょう」と静かに叫ぶと、半歩跳び退き黒鋼の短剣を構えた。「お前、呪いは解かれたんじゃないのか?」
「兄さん、大丈夫だよ——あの黒い人が云っていたの。全部剥がしてしまうと寿命は数日もないって。だからお願いしたの。少しだけ残してって。兄さんと少しでも長く一緒に居たいから」
ソフィの額から角は生えていない。肌も溶岩のように醜く割れているわけでもない。翼を勢いよく、バサっと広げた勢いでギャスパルの外套が炎の海に投げ込まれた以外は、何も問題ない。そして、ソフィは確かにギャスパルを「兄さん」と呼んだ。
女王アガサ——いや<北海の女王>の存在と溶け込んだソフィを救い、妹が人として死を迎えることを願ったギャスパル。それにアッシュは、寿命のことを口にしていたのを思い出した。
——なるほど、そうかい。
ギャスパルは、アッシュが意図したことを悟った。<宵闇の鴉>は、どんな手を使ったのか世界の過去も、未来も観てきた。そこには、この時点のことも含まれていたのだろう。そして、あの儀式めいたものは、予定されていたものだったのだろう。「クソが……あの野郎。こうなることを判っていやがったな」
「——それでソフィ。どのくらい残っているんだ?」
ギャスパルは厳しい顔を見せたが、どこかその中に綻びを見え隠れさせながら、今では翼を畳んだソフィの元へ足を運んだ。「それに、お前。何か着るものは出せねえのかよ」
「寿命のこと?」
翼を小さくパタパタとさせたソフィが、片腕を軽く振るうと先程見せた赤黒の煙が小さく巻き起こり、再びソフィを包み込んだ。すると、どうだろう。煙が消える頃には、アガサが纏っていた上質で煌びやかな薄生地を幾重にも折り重ねたローブを着込んだ妹が姿を見せたのだ。
「な——ああ、違うぜ。あの気色の悪い婆の力のことだ」
着るものは出せないのかとギャスパルは云ったが、それは仕方なく、何かの罪悪感にかられてだったのだろう。上質なローブを纏ったソフィを目の当たりにし、ギャスパルは目を丸くしながら、どこか期待外れだというように肩を窄ませた。
「兄さんの役に立つくらいには」
ソフィはギャスパルの表情を揶揄うように「裸の方がよかった?」と、その場でくるりと回って見せた。
これは何か悪い夢を見ているようだ。猛り狂う炎を背に無邪気に妹がドレスを揺らし小回りをしている。そして、その背にはどう見ても天使の翼はついていない。遠い昔、目にしたオルゴロスの翼にも似ているそれが生えている。ギャスパルは、そう思うと困り果てたように、かぶりを垂れ眉間を指でつまんだ。「そうかい——ちょっと待てよオイ。なんだ、その……」
「何?」
「空を翔ぶんだろ?」
「そうだよ」
「俺はどうなる?」
「抱っこ」
「は?」
今日この日を迎えるまで、兄が自分をどのように考えていたかは知る由もないが、ソフィは常にギャスパルの手で守られてきた。事実がどうであれ、ソフィはそのように覚えている。
心の片隅に黒々と騒つく開けてはならない箱が転がっている。ソフィは、それはきっと黒い人——アッシュ・グラントが封じた何かなのだろう——知る必要のない何か。
黒い人との邂逅は永遠の刻の中でのボヤけた出来事のようだったし、刹那の中のことのようにも思える。だけれど、ソフィは確かに覚えている。ボヤけていても、瞬時に消え去ったことだったとしても、黒の人は云ったのだ。あの箱を蹴り飛ばせと。そして兄の手を握り死ぬまで踠けと。ギャスパルがお前を大切に想ったことだけを覚えていれば良い——世界はお前たちのものだ。だから、永く暗い闇を斬り裂いたのならば翔んでいけと。
ソフィは、パッと顔を明るくすると、やはり無邪気な笑顔でギャスパルに駆け寄ると、素早く大盗賊を抱きあげた。 「——うわ! ソフィ、お前!」
「黙って、ぎゅっと抱きついて!」
清楚と醜悪が、混ざりあった混沌が翼を広げた。
そして、それはギャスパルを横抱きに謁見の間——地獄の業火が広がった悪夢の舞台から翔びたった。
ソフィはもう一度ギャスパルに、抱きついていてねと笑うと、勢いをつけるよう大聖堂の方角へ大きく弧を描いた。そして今度は大農園の方角へ、ギリリと絞られた矢が放たれるように飛び出した。
ギャスパルは、大聖堂の上空を横切るときに眼下に赤毛の誰かの姿を目にした。王城が轟々と吐き出す黒煙は、風向きが幸いしたのか、まだ大聖堂を襲ってはいない。あれならば大丈夫だろう。ギャスパルは、豆粒のように映る赤毛をエステルだと判っていた。(赤毛の——うまくやれよ。あの馬鹿野郎、何かとんでもねえこと考えてるぞ)
※
——ルエガー大農園<大木様の館>。
「私と取引ですって? 私がそれに応じるとでも?」
白の丸鍔が飄々と口にした言葉へ、にべもなく返したミネルバは腰に手をあて挑発するよう顎を小さくあげた。白の丸鍔は、それに口を歪めると鍔の際から片目を覗かせた。「悪い話ではないと思いますよ。条件はたった一つ。あの娘と魔術師の子供をなんとしてでも護り切って欲しいのです。私たちは、その間に準備をします」
「準備?」
ミネルバが怪訝な声で云うと、大広間の方からざわざわと人の気配が漂った。どうやら子供たちが戻ってきたようではあったが、廊下に聞こえた軽やかな足音の中に重々しいそれが混ざっているように感じる。それに丸鍔以外の二人——ミネルバとレトリック——は顔を見合わせ客間の窓に目をやってから、戻すと再び視線を絡めた。
白の丸鍔は、その様子に目を見張るとレトリックへ冷ややかな眼差しを向け、次には部屋の扉へ目を移すと「……時間はなさそうですね——」と、ひとりごち顔を挙げた。
「外環との門を繋ぐ準備です——」
丸鍔は、淡々と云うと顔を巡らせ、奇妙にも部屋の匂いを確かめるよう鼻を動かした。「——<白銀の魔女>は、あなたが行った実験のおかげで、門の開き方を探りあてましたが、それはあちらの技術。私たちには利用ができません。ですが、私たちは私たちの方法で門を開こうと考えています。それに必要なのがあの娘と、花の翁の秘術にレッドウッド家の秘術。ですが私たちは、まだレッドウッドの秘術と、ジョシュア——ああ……コービーの娘を回収していない」
「回収? 話が見えないわね——」
確かにミネルバは<外環>への道を探っていた。しかし、旅路から落ち着き、農園での生活で次第に欲するものに変化を感じていた。それはシラク村でミネルバの胸に去来した羨望への渇望——その変化。羨望とは、強欲とは裏腹に何かを与えることで得られる対価なのではないか。奪うものではなく、与えるものの対価。今日この日まで、窓の外に眺めたレトリックの慣れない農作業がそうであったように、ミネルバが子供たちに披露をした手品がそうであったように。
そうでなければ、向けられた羨望とは薄汚い軽蔑の眼差しなのだ。これまでミネルバが得てきた羨望とは、そういった類のもので、そして自分もまた薄汚く血に汚れている。ミネルバは、そう想うと白の丸鍔に一歩踏み寄った。「——<外環の狩人>が、こちらの子供たちを、どうするというの? 用事があるなら、もう帰ってきたのだから話をすると良いわ」
「そうしたいのは、やまやまなのですが。もうすぐ<傲慢の獣>と<暴食の獣>がやってきます。ご存知でしょ? アイザック・バーグは、あの娘の秘密を掴んでいる」白の丸鍔は、再び鼻を動かし腰をあげると、ミネルバと対峙した。そして<強欲>の癖のあるブロンドの後ろへ手を伸ばし、すぐに戻すと手には見慣れた羊皮紙が摘まんでいた。
ミネルバの背後で、緊迫感に圧倒されたレトリックは、白の丸鍔が手品のように取り出した羊皮紙を目にすると、慌てて全身に手を這わせ、確かに隠し持っていたフェルディアの羊皮紙が奪われていることに気づき目を丸くした。
ミネルバは、それに驚いた様子は見せなかったのだが、一歩後退るとレトリックの方へ身を寄せ片腕を振った。赤黒の瞳を激らせ、今では蛇目が、キュッと絞られている。手には青白い魔力の剣が握られ、白の丸鍔に向けられた。「一つ訊きたいのだけれど」
「なんでしょうか?」
「その準備というのは、いったい何をすると云うの?」
「ごもっともな質問ですが——残念ながら時間がないようです——」
魔力の剣を突きつけられた白の丸鍔であったが、それに動じることはなかった。むしろ好都合と部屋の扉へ近づきながら、もう一度鼻を動かした。「——来ましたね」
白の丸鍔は、やはり淡々と云うと、扉に手を当てた。
すると扉の向こう——大広間の方から重々しい足音が忙しなく近づいてくる。次には、せき立てるよう扉を叩く音が鳴り響くと、白の丸鍔は騒音の主を部屋へ招き入れた。
姿を現したのは館の主人トルステン・ルエガーであった。ミネルバとレトリックは館の主人と顔を合わせるのは、これが初めてであったが、子供たちが以前に説明した館の主人の像とぴったりと一致していた。
「ギネス、予測よりも早く獣が」
そうトルステンは云うと、直ぐに振り向き遠くで<大木様>の周囲で鬼ごこを始めた子供たちへ「みんなを部屋へ」と切羽詰まった様子を見せた。
客間の上から、ドタバタと足音が聞こえてきた。どうやら子供たちはトルステンの云うことを、珍しく一度できいたようだ。ミネルバは、上から響くドタバとを目で追いかけたが、直ぐに目を戻した。魔力の剣を突き出した姿にトルステンが途端に反応し、黒鋼の短剣を呼び出したからだ。
「大丈夫です——トルステン、あなたは迎撃を——」白の丸鍔は、それを手で制すると落ち着きを払いトルステンに云った。「私はクロンデルの術式で御神木のネリ・ルエガーを起動します。そちらが終わったらアイネ・ルエガーとカミル・レッドウッドを連れて来てください。油断しないでくださいね。先ほどから、少々嫌な予感がしています」
「嫌な予感——ですか?」
未だ魔力の剣を下げないミネルバを視線で牽制したトルステンは、その後ろでガサゴソと懐で手を動かした魔導師——レトリックにも注意を払い、黒鋼を下ろした。魔導師が<言の音>を紡ぐか、書くかをする素振りを見せれば、頸に投げつけられるよう黒鋼をくるりと手元で回した。
「はい。リーンがアッシュと接触したようですが、連絡が途絶えています。それに、<傲慢>も<暴食>も、仮にも<宵闇の鴉>の分身と云って良い存在です。実態がないくせに癪な話ですけれどね」
※
——ルエガー大農園<大木様の館>近郊。
「珍しく……慎重にことを運ぼうとしているようだが。何か悪いものでも喰らったのか<暴食>」
かつてミネルバの魔の手から逃れた哀れな<狩人>が身を潜めた穴倉。岩肌に手を触れれば、苔がボロボロと音をたて崩れていく。そこに佇んだ、厚手の革の外套にすっぽりと身を隠した女は、崩れ落ちる苔を赤黒の瞳で追いかけた。そして、不意に穴倉の外から、皺の寄った声に声をかけられると顔を挙げた。「コソコソと——相変わらず気色悪い爺だね」
女は頭の上でまとめられた茶色がかった髪の横を軽く掻きながら、皺の声に向かい足を運んだ。そのすがら岩肌に手を当てながら苔が落ちる様を眺めていたのだが、はたと足を止めると大きく溜息を吐き出した。大きく剥がれ落ちた苔の跡から現れた、殴り書かれ文字を見つけたのが、その理由だったようだ。文字を追いかければ、それは足元にも広がり最後は『ころしてくれ』と締めくくられていた。
そして、この穴倉には、つい最近まで見知った臭いが在った。女は鼻を啜ると「悪趣味にもほどがあるって話じゃないの、アイザッック」
「ほう、随分と疲弊しているな。お前からそんな言葉を聞けるとはな、クルシャ・ブラッドムーン。獣化の影響か? お前のは阿呆のように力を貪るからな。だから——儂が与えた契機も、耳も落としてしまったのか? どいつもこいつも阿呆ばかりだな」
皺の寄った声の主人は、その本性とは正反対の純白の外套を身に纏い、皺枯れた両の五指を忙しなく擦り合わせクルシャを穴倉の外で待ち受けた。それは、クルロス王城でアッシュ・グラントに追い詰められ、あわや身を滅ぼしかけたアイザック・バーグだった。
「なんだって? もう一度云ってもらえるか?」
クルシャは、あからさまな挑発だと判ってはいたが、アイザックの云うとおり酷く疲弊をしていた。<暴食>の獣化は魔力の澱みから産まれでる百八の毛長栗鼠の様相をとる。それが故に他の始祖とは比べ物にならないほどの体力——つまり魔力を奪われる。ミネルバとの船倉での闘いで相打ちとなると、すぐさま<強欲>の追跡を開始したことから、体力の回復はままならずといったところなのだ。
だから、アイザックの挑発——それに、気味の悪い皺の声——は、疲弊したクルシャを苛つかせるのに十分なほどに不快に聞こえた。
「儂が訊ねているのだ、答えろ薄汚い栗鼠が」
アイザックは、それを面白がってか更に煽るようクルシャへ返したが、皺の声は嘲笑うように聞こえたが、頭巾の奥に輝いた赤黒の蛇目に慈悲の様子は伺えなかった。
今の状態でアイザックとことを構えても、何も得はない。そうだ。腹の足しにもならない。アイザックの蛇目を一瞥したクルシャは、そう悟ると足元に累積した苔を蹴飛ばし穴倉の外へ向かった。「くそ爺が。喰らい損ねたんだ。判っているんだろ? だけどまあ、性に合わないけれどね、追跡をして此処に辿り着いた。そんなところだよ。そう云う、あんたは<白銀>の傍に居なくて良いのかい?」
<宵闇の鴉>に追い詰められた魔導師は<北海の女王>と半ば融合すると、一か八かの賭けに打って出た。あれを凌駕するには他に方法は考えられなかったのだ。
これまで何度か足を踏み入れた<生命の起源>。
そこへ到達することが出来るのであれば、かつての<六員環>を身に宿すことが可能だった。つまり<六員環>と<七つの獣>は同種であり、魂の形を類するもの。だが、その鍵となる錫杖は手元にはなかった。だから<北海の女王>の魂を侵食し——そして、賭けに勝ったアイザックは意識が朧げであったにせよ宵闇の頸を刎ねてしまった。
そうだ——<宵闇の鴉>が迎える死は<七つの獣>の死と同義。だが、終わってみればアイザックは、その場に立ち尽くし、かぶりを無くした宵闇の身体は、生者と同じく胸を上下させていた。
<傲慢>が知り得ない何かが起きている。
それに酷く狼狽をしたアイザックは、考えなしにアッシュ・グラントの胸へ剣を突き立てようとしたが、それは抜け目のない盗賊に阻まれた。
アイザックは、そこでようやく正気を取り戻し<傲慢の獣>である自分が計らずとも、そこに転がったアッシュ・グラントの掌で踊らされているのではないかと疑念を抱いた。転がったアッシュのかぶりが、アイザックを嘲笑っているようにも思えた。
魔導師は、それを想いだすと珍しく心底苛立ちの色をみせ「そうだな。我らが主人も——狂気に呑まれおったわ」と、クルシャに吐き捨てた。
「魔女が、狂ったってことかい?」
クルシャは、アイザックが珍しく見せた様子を嘲笑うように訊ねた。
「おうおう、珍しく聡明だな栗鼠。その通りだ。<宵闇の鴉>の狂気に呑まれた——」アイザックは苛立ちを隠すこともなく吐き捨て、両の五指を、それまでよりも忙しなく擦り合わせながら、穴倉から姿を見せたクルシャを迎えた。「——そういうことだ。あの宵闇は、よっぽど儂らよりも狂っている。儂らの源流があれだと思うと身の毛もよだつが、どうだろうな。少なくとも儂らは、頸を刎ねられれば死を迎えるが、あやつは違った」
「つまり?」クルシャはアイザックの言葉が、自分には関係のない、ひとりごちに聞こえたが最後の内容に気を惹かれ、思わず興味津々に訊ねていた。
「あれはもう——世界の理の外に居る。つまりだ——儂らの源流であった世界の王は、どこかの時点で存在を変えていた。そう云うことだ」
アイザックは、どこか夢心地のような奇妙な声でそう答えたが、クルシャはそれに頸を傾げ、じゃあアッシュ・グラントは別人なのかと訊ねた。しかし、アイザックはそれに答えることはなく黙したまま木々の間を音もなく進むとクルシャへ「さっさとしろと」と急かした。
「よく判らないけれど——まあ良いさ、やることは決まっているんだからね」
しばらく鬱蒼とした森を行けば、ぽっかりと開けた草原へ出る。穴倉までの道すがら、その草原で奇妙な光景を目にしていた。それを確かめるためだ。
子供が遊ぶ光景——それにしては魔力が駄々漏れていたのを鑑みれば、二人が求めたものが、草原に転がっているのかも知れない。




