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Killing Me Softly With His Song  作者: コネ
最終章 Killing Me Softly With His Song
130/141

純潔は鉄と血によってのみ①





 神話や伝説などと云うものは、ホラ話だ。

 かつての大盗賊は、そう信じてやまなかった。つい先ほども<宵闇の鴉>へ目に見えないものは信じないと豪語したばかりだ。だが、それこそホラ話だ。どれ程の時間が経ったのか数えることに疲弊したものだが、ギャスパルは妹——ソフィが娼館で身を売られ心を壊してから百年以上、そのホラ話のなかで無様に生き恥を晒してきた。

 それも、これも、先ほどから似つかわしくもない白頭巾から皺枯れた顎を突き出したアイザック・バーグの甘言を自ら握りしめたからだ。魔導師は云った。ソフィの記憶を消し去る魔導具がサタナキア砦に眠ると。とある女魔導師の情欲を掻き立て鴉を誘わせることが叶えば、魔導具の封印を解き、その手に託そうと。もとより人心掌握はギャスパルが得意とするところだ。だから魔導師が出した条件は余りにも余裕が過ぎる。疑いの余地ばかりが残るものだ。だが、それでも大盗賊は、その余地を見なかったことにし——そして仲間を裏切った。

 

 裏切りの舞台は、まさに此処であった。クルロス王城。

 あの日は、竜討伐を成し得た英雄の凱旋を祝う宴が盛大に催された。

 

 英雄アラン・フォスターは煌びやかな宴で、自身を見限り家を出た妻と娘を群衆の端に見出した。だが、その傍に草原の貴族を認めるや否や隣を歩いた女剣術士の肩を抱き寄せ鼻で笑った。そして彼女と唇を重ねてみせた。あてつけだったのだろう。

 虫唾が走った。

 大盗賊は終始人影に隠れ何かを探るようだった黒衣の魔導師アッシュ・グラント——アイザックが云った鴉とはこの男のことだ——を見ると、この手柄はお前のものだろ? そう心中へ溢し舌打ちをしたものだ。そして、鴉へ身を寄せるようにした<闘いの輝き>の二つ名を与えられた魔導師ルゥ・ルーシー。臆病であるが故に弱さを武器に振るう狡猾で滑稽な女。アイザックが云った目的の女は、この魔導師だった。実に容易い仕事だった。

 その偽りの弱さを迫真に見せつけ、しなだれる振りをしろ。だが慌てるな。直ぐに、しなだれては無意味。相手が手を差しのべるまで寄り添え。金も情もそうやって稼げ。いいか? 機は違えるな。間違っても絆されるんじゃあねえぞ。そう娼館の極意を囁き、魔導具を手渡すだけで良かったのだから。

 もっとも、何を間違えたのか鴉は輝きを抱かなかったようだったが、それはどうでも良かった。とにかく、そうしてギャスパルは、女へ手渡した魔導具が色情に輝くと、それを掠め盗り、握りしめ祝賀会を抜け出した。()()()()()()()

 しかし、祝賀会の日の記憶はそこまでであった。

 次に気がつけば王都は魑魅魍魎が跋扈する魔窟と化し死の沼が広がる魔物の庭園となっていた。半ば朽ち果てた王城へギャスパルが向かうと、そこに在ったのは魔導師アイザック・バーグの姿と、ひとめで気が触れていると判る妹ソフィの姿であった。そして、またぞろ魔導師は云った。「儂の友は、このような失態は犯さぬぞ。この猿が。鴉を儂の基へ連れて来い。何百年でも待ってやろう。いいか? 我が白銀の主人の機嫌を損ねるような真似はするな。道理を捻じ曲げれば、我が主人の知るところとなるからな。さあ、妹が欲しければ——さっさと行け」


 そうして<傲慢の獣>は掌へ取り出した蟲をギャスパルの口へ押し込むと、呪いをかけたのだった。大盗賊は何度も命を絶とうと考えた。首を掻き切ってさえも、それは悪あがきでしかなかった。その度にソフィの啜り泣く声が耳の奥に滲み出てくる。

 なぜ殺してくれないの? 

 なぜ兄さんのために私はここに居なければならないの?

 私は兄さんのなんなの?

 それは、百年を経ても尚、耳の奥に滲み出る澱みの詩。





 ギャス——ギャスパル——ギャスパル・ランドウォーカー!

 

 あろうことか——ギャスパルは女の胸へかぶりを預けていた。

 上質で煌びやかな薄生地を幾重にも折り重ねたローブを纏った女——アイザックが陛下と敬った——は、ギャスパルのかぶりを抱えている。その様は、水面に落ちた大らかな日の光が、懺悔する男を断罪するようだった。同じ生地のベールが垂れ下がりギャスパルの鷲鼻を掠めている。それが心地よいものなのかは判らなかったが、それでも、大盗賊はあわや童子の笑みを浮かべる寸前だった。

 だが、頭の奥を鈍器で殴りつけるような声が大盗賊の名を呼び、醜態を晒す間際でそれを喰い止めた。「糞! 糞! 糞が! 胸糞悪りいものを想いださせやがって!」



 アイザック・バーグが<宵闇の鴉>へ何やら語ると、クルロス女王アガサは衣擦れの音もたてず、するりとギャスパルと対峙した。

 そして、しなやかな五指を優雅にあげると魔導なのか、魔術なのかは判らなかったが、とにかく大盗賊の心へ忍びこみ悪夢を見せたのだ。白昼の悪夢は、大盗賊の自由を奪い段から転げ落とそうとしたが、アガサはふわりと身をこなし、ギャスパルを抱えると王座へ誘い、薄生地のベールに見え隠れする口を満足そうに歪めていた。が、それも今や目を覚ました大盗賊の怒声へ呼応するよう、金切り声をあげた。「盗賊風情が、泥を啜る野良犬が! 妾の寵愛を踏み躙るか!」


「五月蝿え婆だな! そんな皺くちゃな寵愛なんざあ豚の餌にもならねえぜ。いいか、よく聞けよ! お前が求めた鴉にはもう決まった(つがい)がいるんだ。諦めて早いところソフィの軀から出てこい。勝負してやるぜ」





「おうおう。いつの間にお前らは、そんな絆を持つようになった? 随分と相棒は威勢が良いな宵闇の——」危うくアガサの術中に嵌り頸を削ぎ落とされそうになったギャスパルが、飛び跳ね王座から距離を取るのを脇目にしたアイザックは、アッシュが繰り出す黒鋼を躱しながら嘲笑った。「——そうかそうか。あのコソ泥もまた、竜殺しの英雄の頸を狙っておったからな。同族と云うわけか。いや、竜殺しの名誉はお前のものだったか——どうだ、そうやって幾度も、幾度もお前が友と呼んだ何かを手にかける気分は。上々か? 何もかも砕きたくなったか?」


「黙って躱せよ泥人形。砕け散るぞ」アッシュは冷ややかに答え黒鋼を振るった。赤く猛る魔力が黒鋼の切先を追いかけると、白の魔導師の外套を掠め、端を焦がした。「どこにコイツを叩き込むか云ってやったほうが良いか? 次は右の脇腹だぞ梟」

 明からさまな挑発の通り、アッシュは左に身体を旋回させるとアイザックの右脇腹を目掛け黒鋼を走らせた。

 アッシュが繰り出した旋風は目にも留まらぬ速さで虚な宙を斬り裂き迫った。いくら明言されたとは云え、アイザックは堪らず先ほどまでの余裕を見せることが出来なくなると片手剣を呼び出し、身体を真っ二つに跳ばされる寸前で黒鋼を弾き返した。「梟、次は打ち上げだ。身体を逸らせよ」アッシュの挑発は続いた。

 

 <宵闇の鴉>は赤黒の蛇目を絞り、不敵に笑うと予告通り身体を捻り込み黒鋼を打ち上げて見せた。一連の軌道は、尋常ではない軌跡を描いた。思わずアイザックは身体を仰け反らせ後退すると、それまでアッシュが居たであろう空間へ片手剣を突き出した。あわよくば黒鋼を弾きアッシュの隙を作れる。そう踏んだのだ。

「いいや、違うぞ梟。そっちじゃない。誰がそこに()()()()と云った。傲慢が聞いて呆れる。どうした、お得意の口上は弾切れか?」

 

「鴉、どうやった!」

 傲慢の獣——アイザック・バーグが傲慢である由縁。

 それは、白銀の魔女が僅かに注いだ力——ほんの一握りの切っ掛けで未来も、過去も見通す力が故、全知であると傲慢を貪った。魔女はそうやって傲慢である醜悪な男——吸血鬼の始祖を打ちのめし憂さを晴らすようであったが、アイザックはそれで良かった。産まれ落ちた醜悪であり、憂さを晴らすための玩具であろうとも、役目を与えられ、そして——傲慢であるが故に己が望みを見出した。そう。だから、この力は誰の手であろうとも、地へ堕とすことの叶わない不可侵の力。醜悪で気味の悪い血まみれの梟が世界を超え、光輝の軀を手にする力。だが、その翼は今や捥がれ土塊に還ろうとしていた。理の外なる力——それは、おそらく白銀の魔女が畏れた結末を呼び込む力だ。

 だから、いま口を突いた言葉は滑稽としか云いようがない。アイザックは、そう想うと口を歪め外套を翻すと、前へ素早く飛び退いた。


「アイザック。答えろ。ギャスパルの妹の魂はどうした——錫杖はどこだ」

 アッシュは、そう願えばアイザックの背後から黒鋼を突き刺し、腹から切先を覗かせることが出来たはずだが、そうはしなかった。そして切先を傲慢へ向けると、ソフィの魂の在処を訊ねた。それは命の貸し借りの精算を迫ったと云ってよい。


「宵闇の。お前は贋作で何を目にし、何を繋いだ? 白銀の魔女は云っておったぞ。彼の地はお前だけを受け入れると。いや、お前の血と云ったほうが良いか? お前が繋いだ円環は既にこのリードラン、外環、双方の理から、多少なりとも外れている。違うか?」アイザックは、アッシュと同じ赤黒の蛇目を絞り左掌へ暗い緑色の魔力を溜め込んだ。


「それを知ってどうする?」

「だとするならば、保証はできぬ。と、云うことだ。

 現に儂が仕込んだ竜騎士の血の呪いは、どう云うわけか竜殺しとその愛人を呼び出し、お前は、ご苦労なことに英雄の頸を再び刎ねた——」アイザックはそう云うと口を三日月に歪めた。「——だがな、宵闇の。そうして顕現してさえくれれば、儂もまだまだ先を見通せる。どうだ? アガサをその手で討ってみるか? 白銀の魔女はそれを望み、そうして再び絶望したお前が主人の前で膝を折れば、錫杖を託してくれるだろうよ。宝運びの魂も、妹の魂も還るだろうな。もっともお前が素直に外環へ帰れば済む話かも知れんが、それでは、ちと都合が悪い」魔導師は最後にカサカサと笑って見せた。


「たいそうな詭弁だな、傲慢。確かに俺は贋作で全てを見てきた。そして俺の望みを選んだ」

「おうおう。とんだ創造主様だな、宵闇の。何様のつもりだ。世界の王が聞いて呆れる」

「そうだな。ああ、そうだ。とんだ創造主だな。これは望んでもいない力だ。俺が望んだ王座は此処にはない。だが、お前がメリッサの目を盗んでそうしたいというなら、くれてやっても良い——」アッシュは瞼を軽く落とし、黒鋼を降ろした。「——地べたに這いつくばって『何としてでも、ランドウォーカー兄妹の魂を還します』と誓え。そうしたら、全てお前にくれてやる」


「儂を愚弄するか、宵闇の! この世界は仮初のものなのだろ? なぜそこまで、お前はこの世界の人間にこだわる!」最後の挑発にアイザックは激昂し、白頭巾を振り払うと、ごわごわとした長い白髪を顕に叫び散らした。片手剣を勢いにまかせ突き出し、双眸に赤黒の硝子玉のような瞳を浮かばせた。蛇目たらん縦の瞳孔は姿を消し、ただただ赤黒く燃え燻る石炭のようにも見える。


「こだわる理由か? 云っただろう。俺は俺の望みを選んだ。

 そこには俺が愛した女の生き様。俺を俺だという理由で——どんなにくだらない理由だろうが、俺を信じ託してくれた奴等の生き様。俺が俺として生きていて良い理由が、そこにはある。そうだ、俺の器は外環にあってもだ。こうなってしまえば、そんなことは些細な話。どうにでもなる。違うか? ギャスパルのご高説とやらを聞いていたのだろ——」黒鋼の両手剣を引きずり、言葉の一つ一つに合わせアイザックへ迫ったアッシュは、再びゆらりと黒鋼を持ち上げた。「——家を建てるほうが世界を造るより難しいとでも云うのか?」


「な。家だと?」



 

 

 アッシュ・グラントがアイザックの背後を取ったその頃。

 ギャスパルは得意の体術に合わせ短剣技の猛攻を繰り出し、アガサを圧倒していた。その間、半ば裸体のようにも見えるアガサは、身体のあちこちから血を噴き出すも反撃をする様子はなく防戦に徹している。右腕を斬られれば鮮血を噴き上げ「兄さんやめて!」と悲しげに叫び、左頸に蹴りを叩き込まれ吹き飛び王座を粉砕すると「下賤が聖なる王座を汚すな!」と金切り声を挙げた。だがしかし、それでも、ぬらりと立ち上がり両腕を力なく掲げ、まるでギャスパルへ抱擁を求めるように迫った。


「くそ婆! いい加減沈みやがれ——」そうしてアガサの腹へ痛恨の蹴りを見舞うと唾を吐き出し短剣を構え直した。「——それにな、ソフィの顔で気味の悪いこと云うんじゃあねえよ。可愛い、可愛いソフィが、台無しじゃあねえか」つくづく女ってものに祟られてるな。ギャスパルは地下水道で遭遇した、幼女の吸血鬼に魅せられた悪夢のことを想い出し、心中に毒づいた。そして、意を決したのか短剣をくるりと持ち替え逆手にすると、持ち前の神速で翔かかり、アガサの眉間へ切先を突き立てた。「少し痛えが、耐えてくれよソフィ!」


 痛いが耐えてくれ? 眉間に突き立ててか? 我ながら陳腐な言葉が口を突いたものだとギャスパルは呆れた顔をしたが、それも束の間だった。眉間に突き立てられた黒鋼の短剣が、随分と埋まるとアガサは一時の沈黙の後に断末魔とも想えた奇声を発し、ギャスパルを叩き落とした。

大盗賊は不意を突かれたのか、腹にまともに拳を喰らい、強かに背中を打ち「ぐえ」と、もんどり打って黒鋼の短剣は虚しく金属音を鳴らし謁見の間に転がった。

 視界が覚束なくなり、意識を保とうと、かぶりをふるうと向こうでは、アッシュがゆらりと黒鋼の両手剣を持ち上げ何かを口にしていた。「————家を建てるほうが世界を造るより難しいとでも云うのか?」

 あの野郎——俺の渾身の台詞を恥ずかしげもなく云いやがって。場違いな想いがギャスパルの頭を駆け巡ったが、それどころではない。アガサ——ソフィはどうなった? ギャスパルは、節々が悲鳴を挙げるのを他所に、跳ね起きようとしたが——その刹那。身体中を焼き焦がす熱がギャスパルを襲った。


「よくも。よくも。

 妾の清らかな軀に深手を負わせたな。だが——虫ケラ。妾の頭に巣喰った蟲を刺し殺したのには礼を云うぞ。喜べ北海を焼いた聖火の再誕だ——妾は<北海の女王>。名もなき北の海を裁く聖火。蛮族を喰らう焔の鬼。下賤よ首を垂れ、死を待つがよい」

 アガサ——ソフィ。そのどちらでもなく、只々己が存在を——名を持つことを許されなかった北の海の女王だと、ギャスパルの眼前で顔を覆った女は云った。そして、それは、醜く爛れた炎で身を包み、眉間を深く抉った傷を確かめようと両の五指を顔に這わせ身体を震わせている。

 ギャスパルの身を炙ったのは、女王の炎だった。「おいおいおい。出るものが出やがったな。お前が鴉の云っていた<六員環>だな。いや、ちょっと待てよ——頭に巣喰った蟲ってなんのことだ、くそ婆!」



 


「ああ、そうだ。

 あの盗賊は俺に終の住処を持てと、そう云った。俺が俺である限り、お前ら始祖とメリッサがそう望む限り、世界が世界であろうと望む限り、俺は一切合切を壊し再び始める。そんな無意味な存在だと知っても尚、俺の望みを叶えろ。そう云った。

 あいつは、いつでもそうだ。無頓着であるが故にしがらみに囚われない。目の前の真実だけを見据え、無責任に口汚く言葉を吐く。だがな。その言葉は俺にとっては救いの言葉だ」黒鋼を突き出し、赤黒の蛇目を絞ったアッシュは、今や世捨て人然としたアイザックへ、ゆっくりとした足取りで迫っていた。それを迎えるようだった、アイザックの燻んだ白のざんばら髪が熱風に煽られ、数多の皺が鉤鼻へ向かった老顔を覆い隠した。「宵闇の——その救いの言葉とやらを授けてくれる猿は、どうやら危機を迎えているようだが、大丈夫か?」

 

 アッシュも頬を撫で付けた熱風を感じていた。

 しかし、鋭くギャスパルを一瞥したが、意にも介せず、歩みを続けた。アイザックは無慈悲にも見えたアッシュの歩みへ、ことさら挑発するよう失笑を見せた。「そうか、そうか。その滓のような願望のためであれば、ぎせい——」だが、失笑に混じった言葉は句点を得ることはなかった。

 アッシュは胸元まで左手を挙げると、まるでそこに鶏の首でもあるかのよう握りしめ「黙って聞け。お前の耳は飾りものか?」と、静かに言葉を漏らした。次に聞こえたのは、アイザックのしゃがれた呻き声だった。白の魔導師は、何かに首を吊られるよう両足を宙へ浮かせ、じたばたと動かしたが、そこには謁見の間の石畳はない。熱風が巻き起こる音と影に、アイザックの無言の悪足掻きが織り込まれた。

 

「続きだ土塊。お前らが攫ったエステルもそうだ。あの女はことある毎に、好きな料理はなんだ——勝手に諦めるな——農園の子供たちを悲しませるな——死ぬなと、口煩く云うんだ。俺が何であろうと、お構いなしだ。世界やら人を救えだの、力ある者の責任をまっとうしろだの、そんなことは蚊帳の外だ——ただ、俺に生きろと云う」遂にアッシュは自らの手でアイザックの首を締め上げるまでに身を寄せた。するとどうだろう。アッシュの蛇目の瞳孔が揺らぎを見せると、締め上げられたアイザックがそうであるように、瞳を赤黒く滾らせた硝子玉のようにした。


「——お前は俺がエステルをこの手にすることは、アオイドスに犠牲を払わせることになると云ったな。

 その通りだろうよ。

 だがな、いいか、アイザック・バーグ。俺は選択をした。今ここに在る俺が望む選択をだ。アオイドスが理の向こうに見た俺ではなく、世界をどうにかする俺ではなく、誰かの道具としての俺ではなく、今、お前の小汚い細首を締め上げるこの俺の選択だ。自分のために生きろと云ったアイツを俺は選んだと云うことだ」

 

 アイザックは<宵闇の鴉>が吐き出す言葉を理解しかねた。

 宵闇が認識する世界とは<外環>であり、このリードランはその写し。<外環>が辿った歴史の再現。白銀の魔女が口にしたリードランの理からもそうだと判った。サタナキア砦でアレクシス・フォンテーンがその真理を魔女から聞くと、<色欲>は自身の末路へ一抹の不安——恐怖を覚え、獣の根底に伝えた。アイザックはもとより<強欲のミネルバ>、<暴食のクルシャ>も、その恐怖を知った。だから<強欲>と<暴食>へ奸計を持ちかけた——だが、アッシュ・グラントは<外環>を選択肢に入れていない。まるで、自分の世界はこのリードランであり、そこに自分の全てがあるとでも云うようだ。いや、そう云っている。

 それであれば、滅びるのは獣の方だ。宵闇の逆鱗に触れ滅びる。今や所在も判らぬ<憤怒>が最初に観た<外環>への扉が閉ざされる。どうであれ、獣が望む行末、白銀の魔女を初めとする<狩人>共が欲するリードランの何か、そう云ったものは全て灰燼に帰す。立ち所に。「それでは、不味いのだ。宵闇の……」

 

 締め上げられた首に息を詰まらせながらアイザックは言葉を絞り出したが、それはアッシュの耳から急速に遠ざかっていった。

 アイザックの視界が色とりどりの線に埋め尽くされる。

 刹那の浮遊を感じた。相変わらず撒き散らされた熱風が研ぎ澄まされた刃のように身を斬った。そう。アイザック・バーグは言葉を吐き終える前、<宵闇の鴉>に投げ飛ばされたのだった。




 

「おい、グラント! ソフィが!」

 <北海の女王>もしくは女王アガサ。さもなければ、ソフィ・ランドウォーカー。それへ盛大に激突をしたアイザック・バーグの姿を見下ろし、目を瞬かせたギャスパルは、すぐさまアッシュへ、そう絶叫した。だが、その絶叫は激突が招いた不都合のことではなく<北海の女王>が口にした蟲についてであった。ギャスパルは、まさかと顔を青くすると自らの刃で妹の魂を砕いたのかと慄いたのだ。


「らしくないなギャス」

「何すかしてんだ、グラント! ソフィを砕いちまったかも知れねえんだ」

「お前が砕いたのは、そこに転がっている魔導師が喰わせた蟲だ。良く見ろ、あれがソフィか?」アッシュは、やはり悠々とギャパルの傍へ行くと、大盗賊の足元に蹲った女を顎で指した。「こいつは、正真正銘の<北海の女王>だ」


「じゃあ、ソフィはどこだ」

「心配するな。問題ない」

「そうかい——頼むぜ大将、信じてるぜ」ギャスパルは最後にそう願いを口にすると、ゆらりと顔をもたげた女を見下ろした。

 女の眉間に穿たれた傷は、まるで大地に走った地割れのように広がり溶岩にも似た紅蓮の輝きを漏らしている。双眸に浮かんだ瞳は、やはり溶岩のように赤く濁り輝きを放ち、そして、双眸と対をなすよう額には土塊を不恰好に尖らせたようにも見える二本の太々しい角が突き出ていた。これが悪魔だと云うならば、そうなのだろう。

 四肢といわず身体の全てから紅蓮の焔を滲ませた女は、不敵に笑みを浮かべ遂に立ち上がると全身を露わにした。焔は上質な薄布を全て焼き払い、今や溶岩の皮膚を纏う岩人形のようだ。緩やかな曲線を描いた身体はどこにもなく、ギャスパルが不本意ながらも顔を埋めた胸の起伏も、ゴツゴツとした岩の皮で包まれ焔をチロチロと揺らしている。


「なあ、グラント」

「ああ」

「云っちゃ悪いが、お前こんなのと色恋沙汰になってたのか?」

「だったら、どうだって云うんだ」

「……いいや、なんでもねえよ。で、どうすんだ」

「あれを砕けば終わりだ」そう云うと、アッシュは<北海の女王>の胸を黒鋼で指し示した。そこには、岩の肌の合間から覗いた緑とも青とも云えない奇妙な輝きを放った、菱形の石があった。「あれが<楔>。リードランと<生命の起源>を繋ぐ鍵だ」


「はいよ。あれを砕けば良いんだな。判りやすくて助かるぜ——おら、ぼさっとしてねえで、身体強化を寄越せよアッシュ」ギャスパルが自分の名を呼ぶときは、決まって安堵を覚えたときだ。気を許している云ってもいいだろう。アッシュは、それに笑い混じりの溜息をつくと「だったら、背中を向けろ」と、大盗賊の首根っこを引っ張った。

 




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