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Killing Me Softly With His Song  作者: コネ
最終章 Killing Me Softly With His Song
129/141

聖域へ堕ちる人とヒト





「なあ、大将——」

 ギャスパルが<宵闇の鴉>を気やすく、そう呼んだのは、ダフロイト北大門を内側から食い破ったアークレイリ軍がフリンフロン軍と衝突した頃だった。ギャスパル・ランドウォーカーとアッシュ・グラントは張り出し陣を抜けクルロス王城正門をくぐると、大聖堂を目指していた。「——訊いてもいいか?」


「ああ」短剣を相変わらず手で遊ばせたギャスパルへ、アッシュは赤黒の瞳を向けると短く答えた。

 正門を抜け王城へ足を踏み入れると謁見の間への道は一本。不敬にも王座を横切り、王族が利用する裏門から続く緩やかな登り階段を行けば目的の大聖堂だ。

 ギャスパルは道すがらを飾った、かつて騎士であっただろう丸焦げの骸や<屍喰らい>の餌となった術者の残骸を見つけては、その懐を探りながら「時化(しけ)てんな」と文句を溢した。が、返ってくるとは思いもしなかったアッシュの答えに幾許か驚き「え? なんて云った?」と目を丸くした。

「訊きたいことは何だ? お前が云ったんだろ」

「おう。随分と素直じゃねえか、グラント」

「茶化すくらいなら骸漁りをやめて、さっさと歩け」アッシュが冷ややかに云うと剣呑な雰囲気を感じたのか、そこらじゅうの窓に取り付いた蝙蝠なのか、何か黒々とした鳥が一斉に飛び立った。

 

「おい、グラント。いい加減その物騒な魔力を引っ込めろってんだ。肌がひりつくじゃねえか——見ろよ、鳥まで慄いていやがる」ギャスパルは肩を竦め大きく弧を描いた天井を見上げた。「その勢いで糞みてえな王族も殺っちまう気か?」

 

「よく喋るなギャス。訊きたいのはそれか?」

「違うぜ大将——」崩れ落ちた壁から陽の光が漏れ出るとギャスパルの顔を掠めた。「——グラント。お前は外環の人間なんだろ? いいや聖霊か? この先どうすんだよ。お前の姫様を助けて、どうすんだ。世界でも征服するか?」

 ギャスパルの顔は真剣そのものだった。この大盗賊は何を思い、それを口にしたのか。アッシュは足を止めると黒鋼の両手剣を肩から下ろした。

「どうだろうな。何でそれが気になるんだ」

「いや、ふと思ったんだ。俺が妹——ソフィを助けたところで先は知れているんじゃねえかってな。まあ、それでも糞塗れの人生からは解放してやれるんだろうけどな。それでもだ——」そこはかとなくギャスパルの顔に悲壮が広がったように思えた。

 壁から漏れ出た陽の光が、大盗賊の顔をまだらに照らしている。それも手伝ってか、彫りの深いギャスパルの顔が彫刻のように映った。いや、ともすれば屍人の顔と云っても良いだろう。「——お前が世界を、どうにかしちまうってならな……」


「助ける意味がないか? 云ったはずだ——最後まで面倒はみてやる。安心しろ——」アッシュはそう云うと、すっかり両腕を力なく垂らしたギャスパルの肩を叩いた。「——だが、覚悟はしておいてくれ。おそらくソフィから<六員環>を引き剥がしても、寿命は——そう長くない」

「……ああ、判っているぜ、グラント」

「寿命が尽きるまで——せいぜい妹孝行をするんだな。それまでは見守ってやる——さあ仕事だギャス」そう云うとアッシュは、顎を軽く突き出し王座の向こうを指した。

「はっ! 容赦ねえな大将」

「きっと幸せになれる。とでも云って欲しかったのか?」

「いいや。ところでだ——」ギャスパルは未だ肩に置かれたアッシュの手を、煩わしそうに振り払うと王座の裏へ回り込んだ。「——俺のことは良いさ。それで、お前はどうすんだ?」

 

 

 ギャスパルは裏門を解錠する仕掛けを探し始めたのだろう。物陰からガサゴソと音が聞こえてくる。

 大盗賊が、ひょっこり王座の背から顔を出すまでの間、アッシュは投げかけられた言葉を反芻していた。お前はどうするんだ? その言葉が呼水となったのか、聞き覚えのある雑音が耳裏に浮きあがる。

 白波の音。

 寄せては引いての合奏。

 そうだ——これはサタナキア地下大空洞で迷い込んだ<原初の海の贋作>で耳にしたものだ。そこでアッシュ・グラントは、父らしき者と出会い全てを聞かされた。そして決意した。その記憶から引っ張り出そうとすると、王座の背から随分と不機嫌なギャスパルの声が木霊した。「お前は、馬鹿なのかっ? その物騒な魔力を引っ込めろって云ってるんだぜ。余計な魔物を引き寄せたら——あああ! 面倒臭えなあ!」


「お前の声の方が、よっぽどだろ。棚にあげんな」

 挙げられた怒声にアッシュは笑みを浮かべると、黒鋼を担ぎ上げ王座に背を向けた。ひたひたと、幾つかの濡れた足音が怒声に混じって聞こえたからだ。赤黒の蛇目を引き絞ると、いつの間にか背後に迫った男女——おそらく吸血鬼の眷属だろう——の頭を数えた。「十九……二十、いや二十一だギャス。解錠が終わったなら出てこい。肩慣らしには丁度いい数だ」





 ギャスパルは面倒臭そうに王座の背から姿を現すと「なにが、肩慣らしだ、この唐変木が——」頭を掻き散らし短剣を引き抜くと構えを取った。「——さっさと身体強化を寄越せ。俺はお前みたいに頑丈じゃねえんだぜ」

 アッシュはそれに苦笑をすると「随分と長生きな脆弱だな——これで良いだろう。さっさと片付けるぞ。噛まれんなよ」と、幾つかの<言の音>を大盗賊の背中へ書き殴り、大袈裟に叩いてみせた。

「んな、ヘマはしねえ——よっ!」ギャスパルは、言葉の最後で息をサッと吸い込み短剣を水平に振るうと、駆けて迫ってきた眷属の素っ首を叩き落とした。

 そして、それが合図となった。

 アッシュは黒鋼を構え深く赤い魔力を(たぎ)らせると、眷属の群れへ目にも留まらぬ速さで跳び込んでいった。

 赤黒い旋風が巻き起る。

 両足を浮かすことなく器用に体を運んだアッシュは、まるで地を這う大竜巻のようだった。黒鋼が水平に回転すれば、餌食となった眷属の血と臓物が切先の軌跡を追いかけた。一度に三つは巻き込んでいる。「こりゃ、俺の出る幕はないか」ギャスパルは、そう嘯くと二体目の眷属の頸を掻き斬った。「残りはっと」


 

 

 

「残り十だ。きびきびと斬り落とせ」

 惚けたギャスパルの尻を叩くように云ったアッシュであったが、三回転目を終える——つまり九つの頸を刎ねた——頃には、それまでの勢いが削がれたように見えた。

 

 少なくともギャスパルには、そう映った。

 三体目の眷属が細身剣から刺突を繰り出すと、盗賊は器用に短剣の腹で切先を弾いた。眷属は勢いを削がれ、腕を弾かれると胸元を不用心に開き体を硬らせた。大盗賊は「ヨシ」と、勢いをそのまま素早く身を屈め眷属の懐へ飛び込んだ。そして、胸ぐらを荒々しく掴むと足払いをかけ引き斃す。

 その時だった。鈍く重たい衝突音が響いた。

 ギャスパルは引き斃した眷属へ覆い被さり頸を切断すると、直ぐさま衝突音の方へ目を向けた。視界に飛び込んで来たのは、どこぞで見かけたことのある騎士風情がアッシュの黒鋼を大盾で受け止める姿。大盗賊は思わず、先程は尻を叩くような言葉を吐いたアッシュへ言葉を投げていた。「なんだ、大将。苦戦してんのか?」


「いや——」アッシュは何かを確かめるよう騎士の大盾を押し返しながら、何度も騎士の——崩れてはいるが——顔を覗き込んでいる。「——この眷属。覚えているか? 祝賀会で——」そして、何度目かの押し返しの後、アッシュはギャスパルにそう云った。

「ん? ——」ギャスパルは次の眷属を相手取りながら、アッシュとの距離を詰めると、大盾の騎士を確かめた。「——ああ、お前に突っかかっていた騎士か? アランの女房と娘を寝取ったって奴だよな。なんだ想い出したのか?」

 

「粗方見て知っている。というのが正確だろうな」

「だろうな。てお前……それで? どうしたってんだ、その色男が。いや、アランのことを想い出したのか? それとも祝賀会のことか? ——おい、グラント。しゃきっとしろよ」

 大盗賊が鷲鼻に皺を寄せ苦言を溢すと、皺が示唆した通りアッシュは騎士の成れの果て——色男だと呼ばれた眷属の盾に押され、後ろによろめいた。この場にいたるまでギャスパルはアッシュが無様に後退する姿を目にしたことがない。それは数百年前の記憶を辿ってさえそうだ。アッシュを一瞥すると顔を歪めているのが判った。

 

「俺は——()()アランの頸を斬ったんだ」アッシュが対峙した眷属は、云う通りに見知った誰かであった。それは二人が口にした祝賀会での一幕に姿を見せる誰か。そしてアッシュは、その誰かの記憶を機にサタナキア地下大空洞の前で対峙した二人の戦士のことを思い出していた。

 

「おう。また趣味の良いこった——何を気にしてんだ?」今、アッシュが対峙した誰かが何で、アッシュが想い出した誰かが誰であるのか。ギャスパルは心得ていた。そして想い還された黒鋼の戦士は、ギャスパルもよく知った男だ。だがしかし、それはもう数百年も前の話。大盗賊にとっては、気にする必要もない話なのである。

 

「判らないな」

 アッシュは力無く答えた。盾を蹴り付け力強く押し返すのとは裏腹に。

 

「だったら考えんなアッシュ。祝賀会のことなら——逃げ出した俺が云うのもなんだけどな。あれは、お前が悪いんじゃねえし、仲間がどうだって話でもねえよ。いいか? あの刻、この場所は狂気が渦巻いていたんだ。鼻を摘みたくなるほどの淫靡。唾を吐きかたくなる程の強欲に傲慢。あそこに居た全員が、そんなものに酔いしれて——狂ってたんだ。ぶっ殺されたところで、文句は云わねえだろッ」次の眷属を相手どり、軽やかに頸を跳ねた大盗賊の語尾はそれに合わせ跳ね上がった。

 それに合わせるよう、大きく弓形に半円を描いた天井からバサバサと何かが翔び立つ気配が無数に充満した。忙しない羽ばたきの音は王座の向こうへ消えていく。ギャスパルは顔を幾分かしかめ、それを目で追いかけた。

 

「そうか……あれは狂気か」

「おう。おら鴉。きびきび最後の頸を叩き斬れよ。目の前のお嬢さんで最後だぜ」



 ※


 

「ギャス……」

 アッシュは最後に相手取った女眷属の頸をやすやすと跳ねると黒鋼の両手剣を突き立て周囲に視線を巡らせた。息が上がっている様子はない。

 

「おう」

「俺にこれから、どうするのか訊いたな」

「おう。まあ、もうどうでも良いけれどな。お前が俺たちを助けてくれる。で、死ぬまでには、それなりに時間がある。それが判れば十分だ。都合よく聞こえるだろうがな」

「そうか」

「おう。ただ、あれだ。お前が万が一にもだ——のっぴきならねえ事情があって困ってるなら云えよ。聞いたところで何ができるか判らねえが、まあ、恩は返さないといけねえからな」そう云うとギャスパルは、軽やかに王座の前に立つと座面に被った埃を振り払い、どういう訳かドカっと腰をおろした。すると不敬にも王座で胡座をかくと云った。「それで?」

 

 アッシュは、王座に胡座をかいた大盗賊を冷ややかに見たが何度か、かぶりをふり、自分は王座からのびた低く長く続く段へ腰を下ろした。ここで時間を潰しているほど余裕はないはずだ。それはギャスパルも同じはず。だが、それが決して無駄だとは宵闇には何故か想えなかった。結末が見えているからでも、迎える終幕が先に伸びたということでもない。しかしだ。これは儀式であり、この手順を踏まなければ次には進めない。何故だか、そう予感したのだ。

 だからアッシュ・グラントは<原初の海の贋作>から帰還してから、このかた発したこともない平穏な声音で語り始め、ギャスパルは終始、宵闇の次の言葉へ呼び水を注いだ。


「……俺はお前の云う通り外環の人間だ。理解できないだろうが、俺の体は此処には存在しない。そうだな——魂の写しが此処にある。そんなところだ」

「お前の本当の居場所は外環ってことなんだろ?」

「俺以外の狩人はそうだな」

「どう云う意味だ? 猿にも判るように話せよ、グラント」

「外環に戻っても俺の居場所はないってことだ。俺は、只管(ひたすら)に世界を壊す瞬間を待つだけの世界の敵。居場所はどこにもない。それをそうだと判ったのは最近のことだがな」

「お前さ、詩人でも気取ってんのか? それとも俺を馬鹿にしてんのか? お前は、世界の王——外環の狩人の元締めじゃねえのかよ。修練場で——ありゃあ<憤怒>だったんだろ? 彼奴が云ってたよな」

 

「ああ——そうだったな。世界の王。それはこの世界も、外環も俺が気侭に創ったようだが、実のところは誰かの願望を叶えるだけの茶番だって、彼奴なりの皮肉だろ——」アッシュはそ云ういうと朱の魔力を掌に溜め、土塊から数羽の三本脚の鴉を創り出し放り出した。「——着せられた王の長衣も、持たされた錫杖も、被せられた冠も、全部誰かの願望が造り出した道具。そうだな——俺は無邪気にそれを叶えるだけの道具にすぎない。それで、嫌気が刺したら、ぶっ壊す」言葉の終わりには、謁見の間を飛ぶ鴉を目掛け開いた手を力強く握りしめた。数羽の三本脚はギャっと声を小さく挙げると砕け散った。


「世界をか? お前が造ったのにか? まあ良いか。壊したけりゃ壊せよ。で、壊した後はどうすんだ」アッシュが躊躇なく砕いた鴉の残骸——土塊が、陽の光を受けパラパラと落ちる様を見ながらギャスパルは呆れた顔をした。

 

「また無邪気に造る。砂遊びでもするようにな」

「は? なんだよ。そういう趣味か? お前、まさか引っ叩かれるのとか好きなのか?」

「何で、そうなるんだ」

「だって、そうだろうよ。また造って、誰かのせいで怒り狂ってぶっ壊して、また造る。その繰り返しなんだろ? 好きじゃなきゃ、できねえだろ」

「面白いことを云うなギャス」

「お前ほどじゃねえよ。まあなんだ、結局お前が何なんだか——俺には判らねえけどよ、お前は何でもできるんだろ? じゃあ悩むほどの事もねえだろ。答えは簡単だ」

「簡単?」

「ああ。それこそ猿でも判るぜ、グラント。だったら次はお前の好きなように造ればいいだろ」

「何を?」

「ああ? お前、頭が悪いな。いいか? お前はお前の姫様と腹の子を助け出す。外環でも何でも良いじゃねえか。何処か静かな場所でも見つけて、そこで家でも建てろよ。終の住処。結構じゃあねえか。世界を造れるってなら、家を建てるくらい簡単だろ? それとも何か? 家を建てるほうが世界を造るより難しいとでも云うのか?」

「お前、本気で云ってるのか?」

 

「おう。つまらねえ事で悩むんじゃあねえよ。いいかグラント。俺たち盗賊は目に見えるものしか信じねえんだ。良い酒、良い女。それに金。旨い飯もそうだな。豚野郎のしみったれた気心もな。ありゃあ、手に取るようだぜ——」大盗賊は何かを想い出したのか、不満を顔に広げ唾を吐き出した。「——でもよ。お前、世界をぶっ壊すだの造るだの見た事あんのかよ? ねえだろ? そんな見ることも出来ねえことに頭を悩ませたって碌なことにならねえぜ——」肩から斜めにかけた皮帯の鞘から短剣を素早く抜くと、アッシュの背後にいつの間にか迫った腐肉を垂らした梟の眉間へ投擲した。「——だったら、好きなようにしろよ。お前の力はそのためにあるんだろ。違うか?」そして、ギャスパルとアッシュはその場から跳ね上がるよう立ち上がった。

 それまでに感じられなかった背筋を撫で上げる、気味の悪い気配を感じたからだ。



「素晴らしい御高説だな宝運び。

 少し見ぬうちに、饒舌になったな。おっと。そんな顔をしてくれるな猿が。ああ、そうだな。どんな形にせよ儂の云う通りに宵闇を連れてきた。その褒美を取らせようと云う儂の慈愛を踏み躙るつもりか? 仮にも儂の使い魔を無碍にしおって——下賤の身で儂をたばかろうと? だとすれば、猿の脳味噌よりもお前のは萎縮したのだろうな。まあ良い——望みの褒美はここに居るぞ。畏敬の念を胸に受け取れ。アガサ女王陛下のおなりだ」


 気配の主人の声音。湿ったそれ。言葉を追いかける耳障りな乾いた音。

 いくら瓦解した謁見の間であろうとも、大草原の王の威厳を讃えた領域であったはずの此処には似つかわしくもないそれは<傲慢の獣>アイザック・バーグのものであった。内に秘めた、うろ暗い醜さを溢れんばかりに注ぎ込んだ傲慢の器。それは、ひっそりと厳かにベールで顔を覆った女を前に立たせ、王座の裏から姿を現した。

 アイザックは胸の前で左右の五指を忙しなく合わせながら擦りつけ「ささ、陛下。王座へ」と彼女を促した。


「頭が高かろう、盗賊風情が。玉座から退()け。(こうべ)を垂れ許しを乞うのだ。

 <宵闇の鴉>お前は約束を違え、私の許を去った。申開きがあれば、聞いてやるがどうだ」女は、ゆっくりと首をもたげ云った。

「ソフィ……」ベールから口元だけが露わになったが、ギャスパルは口元のほくろを見つけると、それが妹のソフィだと直ぐに判った。見間違う筈もなかった。だが、その中身は……。「糞魔導師——何が心配するなだ」

「ギャス」

「判ってるぜ——何かの器にされたんだろ? で、どうなんだ取り戻せるのか?」

「大丈夫だ。ソフィの記憶を引っ張り出してやる——だが」

「ギリギリまで殺さなければ——ならねえ。だろ?」

「そうだ——」アッシュはそう云うと魔力を練り上げギャスパルと幾分か距離を外した段に陣取った。「——<北の海の女王>。申し開きってことはないが、云っておくが俺には俺がそうだと決めた女がいる。諦めろ」


「そう。残念ね」

 ベールで顔を覆った女は、悲しいほどに無機質な声で無関心にアッシュの言葉に返したが、その声は不躾なアイザックの笑い声の端へ消えてなくなった。


「宵闇の。お前はお前の役目があるぞ。

 どうやら——先程の口振りであれば<生命の起源>いや<原初の海の贋作>にいたったようだな。メルクルスと同じく。

 だが——なるほど。

 最初の刻——大崩壊で<憤怒>を縛ったのもお前だな。

 わざわざ円環と流転を選び、最後の刻を遅らせようと——お前がお前の滅びを選ぶ刻を遅らせる。いや——我が白銀の魔女が手出しできぬよう手を打った。いやいや違うな。儂を外環へ出さぬためか。もっとも、お前がどれだけ手を打とうともだ。お前はお前の思惑で世界は造れぬのだろ? いいや、お前は赤子のように欲するものを白銀に伝えるが、白銀はお前が欲したものの図面は渡さない。それに変わりはない。だが——どうだ。お前にゆかりのある——そうだな、白銀が云っておった泥棒猫とやらのおかげで理が変わった。そして——」アイザックはそこで高らかに耳障りな笑いを挙げ、ひとしきりすると声を萎めた。「——お前は、不憫な泥棒猫の命運さえもお前の欲望のために利用しようとしている。そうだな?」





 ——王都クルロス王城、大聖堂。

 

 エステルの耳に残った白銀の魔女——メリッサの言葉は広大無辺の大草原へ落ちた一欠片の音のようで息を詰まらせながら、何度も、何度も、頭の中に落とされた。「私がその子を産んであげる」そうしなければ、この子の温もりをアッシュに届けることが出来ないのだと云う。きっと虚言ではないだろう。だが、他にも方法はあるのではないか? しかし、エステルにそれを想像することができない。

 エステルは、何度も、何度も瞼を閉じては開いてを繰り返し、冷ややかなメリッサの瞳を見返した。何度も腹に手をやり、さすり、また瞼を閉じる。「メリッサ。それはアッシュの身体は外環にあるから。リードランの身体は仮初のものだから。それだから、この子は……」


「聡明なエステル」黄金の錫杖を奇妙な姿へ変えたブリタ・ラベリ——メリッサ・アーカムは微笑むと、白磁の指をそっとエステルの頬へ添えて答えた。「この世界にあるのは、アッシュ・グラントの魂の<写しが身>。そして、私たち<外環の狩人>の刻の流れは非常に緩やか。そうね——あなたが無事に一生をまっとうする頃でも、彼は今のままよ。お腹の子が育ち老いてさえもそう。そして、また彼は大切な人の死に触れ、孤独に苛まれ世界から孤立すると世界を壊すの」メリッサは冷ややかに、柔らかに笑みを浮かべた。


 白亜の大聖堂に轟音が響いた。

 大天井に設られた彩鮮やかな硝子が高い音をたて、まるで赤や青、緑の粉雪のように降り注いだ。どこか遠くで大鐘が不規則に音をたてている。

「そろそろ、私たちの<宵闇の鴉>がやってくるわ——それまでに、心を決めて欲しいのだけれど」メリッサは赤髪姫の頬へ添えた指を、艶かしく頬骨に沿わせた。


「メリッサ——一つ訊きたいのだけれど」

「何?」

「アッシュは——」

「人なのか?」

「ええ」

「そうね。人であって人でない。

 それは私も一緒。外環ですでに骸となった聖人もそう。そうは長く話せないけれども——良いわ。あなたが決心をするのに必要だと云うならば、教えてあげる。アッシュ・グラントは世界の王として、決して手にすることのない愛情を求め、人が求める理想郷——世界という偶像を成すために、何度も世界を始める存在。人と共に生き、人の望みをまるで自分の望みであるかのように嬉々として叶える道化師。世界に巣食う豚どもは、それを知って彼に様々な皮を被せるの。神。王。英雄。救世主。そんな腐った皮を。私は、そんな彼が望むもの、それがどのような形をすれば良いのかを指し示す羅針盤。そして彼は、遂にはこう云うの。『ああ、五月蝿い。もう嫌だ』って」


 今度は今までもよりも大きく聖堂が揺れ動いた。

 先程、白外套の魔導師が姿を消した方から、いっそう激しい轟音が鳴り響いた。

 エステルは所々メリッサの言葉を聞き逃したが、しかし白銀の魔女が語ったことは、理解ができなくとも途方もない話であることは、その空気から読み取っていた。だが、エステルが愛した男は確かに人間で、過去の影に怯え、自分がそうしたように最愛の人の胸の中で涙を溢したのだ。それのどこが、魔女の云う超常めいた存在だと云うのか。怯え温もりを求め、それを得て前に進む。それこそ人ではないのか。それであれば——迷う必要はなかった。


「そう。アッシュとあなたは、そんなに特別で世界を揺るがすほどの存在だと、そう云いたいのね」エステルは、硬く瞼を閉じ拳を握りしめた。

「そう。私とアッシュは、世界が世界である限りその始まりには(つがい)として存在し、全てを産み出すの。外環もそうよ。このリードランは、次にアッシュが世界を造る刻の器となる図録。あなたたちは、そこにほんの少し姿を見せる染みのようなもの」

「でもねメリッサ……」

「何?」

「……あなたが、どれほど蔑もうと、それでもアッシュは、あなたを選ばなかった。そうよね?」

「なんですって」

「いい? アッシュは私を選んでくれた。

 アオイドスでもなくメリッサ——あなたでもなく。私を選んだ。それが答えよ。あなたが云う通りにアッシュが何かを産み出す存在なのだとしたら、きっとアッシュはなんとかしてくれる。そうは、思わない?」


 遠くで更に轟音が響いた。

 今度のそれは、随分と間近で鳴り響いたように思えた。背後に寝転んだ<色欲の獣>の呻き声がそれに乗りエステルの耳へ届く。「よ、宵闇の……」

 アレクシスの掠れた声に目を瞬かせ、エステルは今一度、轟音が響いた方へと視線を送った。


 大聖堂の大扉が吹き飛び、白煙が巻き起こった。

 陽の光が白煙を貫き人影を浮き彫りにした。



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