レジーヌ・ギルマン
——永世中立都市ダフロイト。
数多の栄華、数多の醜悪、数多の慈悲、数多の無情。そう云ったものが背中を合わせた緩衝地。それは、桃源郷と云う名の下へ人の澱みを溜め込んだ。
そして三日前。とうとう澱みをぶちまけたのだ。
破ったのは、アークレリ王国軍元帥アルベリク。
桃源郷の内側から牙を突き立て栄華の皮を食い破ると、散り散りとなった軍に威光を示し戦士達の緩んだ紐帯を強固なものとした。そうやってアークレイリ軍は撤退をしたものの、ダフロイトへ背を向けるその姿は、雄々しく天を駆ける万色の竜のようであったのを良く覚えている。警備隊総大将ランドルフは<中央砦>の幕壁を歩きながら、そんなことを思い出していた。
今日は昨日とは打って変わって寒波が降りてきているのだろう。
ランドルフが歩く軌跡を辿るように、白い息がたなびいていることからも、それは判った。朝も早い頃合いで、厳しい寒さが、いっそうランドルフの肌を刺しているからなのか警備隊総大将は両手を両脇に差し込みながら足を早めた。
そうやって急がなければならない理由は寒さのこともあったが、他に重要な用向きがあった。と、云うのもアークレイリ軍撤退の報を持ち帰ったフリンフロン王国軍元帥カイデルは、準備万端とばかりに<中央砦>で<世界会議>を開催。終戦の宣言を発布するにあたり、諸条項をまとめることを急いだのだ。
その為には、本来であればダフロイト評議会から主だった面々が出席をしなければならない。が、万が一にも評議会に問題が起きた場合は、防衛隊総大将もしくは爵位持ちが出席をすることとなっている。だがしかし。評議会の老人たちは南へ逃げ出し帰還の様子はなく、防衛隊総大将は名誉の戦死を遂げている。
そうなると、<世界会議>憲章に基づき、実質的な司令権を持つ者と、その者が指名をした人員が会議へ出席をしなければならない。
カイデル元帥は、それを見越しランドルフ・ラトべリエがダフロイト現況における実質的な司令官であると根回しをすると、いつの間にかに事実として認められた。それ以来、ランドルフは<世界会議>へ出席をしている。
そして三日目の今日。
会議目録に目を通したランドルフは、急がなければならない理由ができた。本日の会議では<アスタロト砦>の攻防戦についてを報告しなければならない。
<アスタロト砦>での攻防を語るには、顕現した雪竜王ヴァノックが、どのような存在であったのか、また、雪竜王の姿が突如として霧散し替わりに姿を見せたアークレイリ軍元帥アルベリクとの関係を明らかにする必要がある。だか、全てのことが済んでから<アスタロト砦>に到着をしたランドルフに、それを説明することはできない。語れるのは、その場に居合わせ、実際に刃を交えた<外環の狩人>のみである。
多くの<外環の狩人>はダフロイトから姿を消してはいたが、幸いにして<アスタロト砦>の英雄は、<中央砦>へ身を寄せている。彼らは砦に到着すると会合のできる一室を求めてきたので、ランドルフは<中央砦>の東塔にある警備隊兵舎を提供した。それから彼らは寝る間も惜しみ、何やら不可解な言葉で話を続けている。
だからランドルフは目録に目を通すと、すぐさま部屋を飛び出し彼らの元へ向かったのだった。当然のことながら、白の吟遊詩人を始めとする<外環の狩人>から雪竜王ヴァノックの討伐、アルベリク元帥との一戦について話を聞く為である。
早くしなければ<外環の狩人>という輩は忽然と姿を消してしまう。そうなってしまえば<世界会議>で苦戦を強いられるのはランドルフなのだから急がねばならない。
「どうか残っていてくださいよ、レディー・アオイドス。アスタロト砦での事を話せるのはあなた達だけなのですから……」
ランドルフが東塔に足を踏み入れる頃には北風が強く吹き抜け、頬にパチパチと冷たい何かを打ち付けた。「ん? 雪……ではないよな」とランドルフは怪訝な顔をしたが「急がないと」と本来の目的のため、塔内をぐるぐると周る石階段を降り始めた。
しかしだ——どうにもランドルフは嫌な気配を感じていた。
それは、駄目な気配だ——それは妹を襲った死の気配のようだったし、それはクリストファーを斬り刻んだ死の気配でもある。警備隊総大将は頭に過ったそれを振り払うよう、かぶりを振るい頸をパンパンと軽く叩いた。「これ以上、何が起こると云うのだ——」
※
魔力の灯りが、薄暗い兵舎の一室を照らしていた。
部屋には小隊規模程の兵卒が寝泊まりできる寝台とそれぞれに脇棚が設えられている。窓際のひらけた空間には四脚の木椅子が大ぶりの丸机を取り囲んでいる。
部屋には人影らしき黒々とした揺めきが七つ落とされていた。
所狭しと並んだ調度品。それに木の床。至る所に足をのばした七つの影は、思い思いのところで揺らぎ、刻には大きく、刻には細かく姿を震わせたりもした。何かに呼応しているようにも見える。もし、そうなのだとすれば、それは魔力の揺らぎであり、その根本は心の揺らぎが関わってるのだろう。例えば不安や恐怖、突然降って沸いた猜疑心に当てられ心を酷く縮こまらせる瞬間にはそう云ったことが、ままある。魔力とは心の動きに敏感に反応するものだ。
ミラ・グラントのここ数日の日課は、その影を目で追いかけることだった。正確には、そうする事しか出来なかったと云っても良いのだが。
今朝も起き抜けに寝台から、もぞもぞと這い出て目にしたのは相も変わらずミラには理解のできない言葉で会合を続ける狩人達の姿であった。小さな大魔術師は、それに「まだ終わらないの?」とつまらなさそうな声で同じ寝台に腰をかけたアオイドスへ訊ねるも、まだまだ終わらない様子の言葉が返ってきた。
そうだと判るとミラは鼻を鳴らし今日の日課に戻った。
影の見張り番。
つまらない時間潰し。
ここで話されている事がきっとミラの今後も決めるのだろうと心の何処かでは思うものの、だが、その内容を知ることはできない。仮に言葉が判ったとしても理解は出来ないだろう。それも判っていた。だから、ミラは悔しさを紛らわすようアオイドスの腰に両腕を回し抱きつきながら、揺らめく影を目で追いかけることにした。
※
ミラが目を覚ましアオイドスに抱きつくと、こころなしか場の空気が緩んだように感じた。ショーン・モロウは、その隙に改めて周りを見渡した。部屋へ集まった面々の表情を伺うためだ。
ショーン・モロウ——森山結斗の真正面に設えられた寝台には、吟遊詩人アオイドス——乃木葵が腰をかけ、彼女の腰回りにはネイティブであり、アッシュ・グラント——乃木無人と同じ姓を持つミラ・グラントがまとわり付いている。その背後では、ミラを案ずるように声をかけるアドルフ・リンディ——白石颯太と、ジーウ・ベックマン——胡悠然の姿がある。この並びは東塔の兵舎へ入ってから変わっていない。
かたや森山の後では、シラク村でのアッシュ・グラントと、ブリタ・ラベリ——メリッサ・アーカムの様子に加え、ダフロイト上空へ姿を現すまでの経緯を報告したライラ・リンパル——高木陽菜が冷ややかに乃木葵へ視線を落としている。
その高木の後ろには、あからさまに機嫌を悪くしたレジーヌ・ギルマン——三好葵が寝台に寝そべる姿が見えた。
この会合は、森山と高木が乃木葵、白石颯太それぞれに——約束をさせた——真相を語らせる場であった。云ってみれば事情聴取に近いだろう。それだからか、乃木葵と白石颯太は少しばかり緊張をしているのが判る。
※
「さて——事実関係がどうであれ、先生達の云いたいことも確認できた。まあ……納得していない人も居るようだけれどな」森山は一通り面々の顔を眺めると、そう会合の再開を合図する言葉を続け、苦笑と共に高木と三好を一瞥した。
二人が機嫌を悪くしたのは、乃木葵が語った真相らしきものに納得できないという理由であった。この場にいたるまで、確かに様々な情報が錯綜した。糸を手繰り寄せれば必ず乃木葵と白石颯太の姿があった。だから、高木は彼女らが語る真相は自分を納得させてくれるだろうと期待をしたのだが、それが外れたのだ。かたや三好の理由はと云うと彼女自身の存在を否定するような内容が語られたからだ。
※
乃木葵が会合冒頭で改めて語ったのは、乃木無人とメリッサ・アーカムを放置しては人類の大半が死滅するという予言——作り噺じみた話。それを喰い止めるために、乃木葵とミラ・グラントの親子は、ミラに顕現した時間遡行能力らしきものを実行したが失敗に終わり、現在にいたる。と、云うことであった。
ミラに顕現した能力は——驚くことに、局所的に時間を巻き戻す力だった。そして、その能力は現実世界へ持ち込むことで局所的ではなく、大幅に巻き戻せるのではないかと期待された。これはリードランで流れる時間と現実世界で流れる時間差が引き起こす現象なのだそうだが、一点、現実的な問題と不確かな問題があった。
現実的な問題——それは巻き戻された時間の分、記憶も巻き戻ってしまう可能性。そして、不確かな問題——それは、意味消失時間を超えて遡行した場合、どうなってしまうのか? つまり時間遡行能力を持った——持つ可能性を秘めた、ミラが顕れる以前へ巻き戻ってしまった場合だ。
記憶の喪失と云う問題については、ミラと云う情報体を媒介にウェッジ鉱石へ乃木無人と葵、ミラの三人分の記憶を封じ過去へ持ち込み、対応する予定であった。最悪の事態を迎えたとしても持ち込んだウェッジ鉱石に触れるか破壊をすることで、本来の目的を想い出せるように。
そして、最悪の事態が起こった。
意味消失時間を超えて時間を遡行してしまったのか、確実な所は判らなかったが、とにかく遡行から意識を取り戻した乃木葵の記憶は曖昧とし、自身が身を置く環境に違和感を感じたのだ。違和感とは、乃木葵が大学で教鞭を振るう教授であること、それに加え乃木無人の妻が別にいたこと。それは曖昧とした記憶の端に覚えていた、使命の断片に従いミラを呼び出してから続く一連の出来事でハッキリとした。
ミラを〈月詠の湖〉で呼び出した際のことだ。
呼び出されたミラは乃木葵と同様、記憶を曖昧にしていたが——乃木葵のことを判別できる様子はあった。しかし、ミラが本来、知ることのない『アオイドス』というシェルネームを口にしたのだ。
ミラに手渡された硝子玉から記憶を引き出した乃木葵は、先に感じた違和感が、確かなものであると直感した。
『アオイドス』と云うシェルネームは、リードランへシンクロする際、記憶の片隅にあった、嘗て自分が利用をしたであろう『レジーヌ・ギルマン』という名が利用できなく、苦し紛れに使ったものだった。ミラが意識を取り戻し、口にするべきは「レジーヌ」というシェルネームのはずなのだ。
そして、直感は現実のものとなった。
ミラと云う情報がリセットされてしまったのだ。
硝子玉から引き出した記憶の中でも、そのことは危惧されていた。遡行に成功したとしても、失敗をしたとしても何かしらか、世界を調整する力が働く可能性——因果関係の辻褄あわせだ。
「教授——それで、何で私が教授の分身みたいな話になるの?」三好は首元から顔にいたるまでを紅潮させ、寝台から身を乗り出していた。乃木葵は、世界が因果関係の辻褄をあわせる影響で自分は三分割——過去・現在・未来の因子に分解されると、そのうち一つは三好葵となるものに吸収されたと云ったからだ。
乃木葵は、三好の抗議じみた問いかけに、凪いだ色を瞳に浮かべ答えた。
「あなたは私の分身ではないわ。
私たちは時間を遡ったと思ったけれど、そうではなかった。いいえ——遡ったのかも知れないけれど、超えてはならない線を超えてしまったのだと考えているの。
つまり、その線を超えることで並行世界へ行き着いてしまった。私は——私という存在を分解され、この世界で改めて意味を持った——ただの乃木葵という大学で教鞭を振るう女になった。それが、ある程度意味を成したのは颯太が私を、私だと観測したとき——きっとね。あの時、私が全てを受け入れてリードランへシンクロしなかったらと、考えると——それは、別の話ね——ごめんなさい。
とにかく。私はミラを呼び出して硝子玉に手を触れた。
そして全てが確定した。
ミラは情報をリセットされ、あなたは私の過去を吸収、生垣近実と云う女は乃木無人の妻という未来を吸収して、世界は全ての辻褄をあわせた。でも、だからと云ってあなたが私の分身だと云う話だとは思わないわ。かく云う私は、あやふやな夢のようなことを口にする狂人。そう云う役割を充てがわれたのだけれどね」
乃木葵は、答えると静かに瞼を落とし腰にまとわりついたミラの黒髪を優しく撫でつけた。三好は、拍子抜けするほど静かに弱々しく答えた乃木葵に何かを云いたげにしたが「そんな顔されても……」と、寝台から乗り出した体を、仕方なさそうに戻した。
「先生。でもさ、それなら何で乃木無人を追いかけ回したんだ? えっと……そのなんだ……先生の云う通りならさ——」森山は、それを口にして良いものかどうかを躊躇するように、バツの悪そうな顔をしてみせた。
「そうね。人類の大半が死滅するなんてことは、起きないかも知れない。そう云いたいのよね?
私もそう考えたわ。でも、リードランは存在していてアーカムメトリクスは世界に影響を与えている。そして、乃木無人は何かを追い求めて姿を消していた。これは、すっかり世迷言に成り果てた私の記憶の中でも同じ筋書きと同じ」乃木葵は森山が斬り落とした言葉を拾い上げるよう、そう云うとキッと視線を鋭くした。それに森山は薄ら気味の悪い寒気を感じると両手を挙げて応えた。「いや、疑っているわけじゃないんだ」
「ところでね先生——」
「先輩、ちょっと待ってください」
「陽菜ちゃん?」
「この話——まだ聞くんですか? 時間遡行? 人類が滅亡? 正気ですか? そんな与太話は後で聞けば良くないですか?
今はリードランで起きているヘンテコな現象と、殺害された捜査官の手掛かり、気味の悪い宗教団体の情報が優先ですよね——失踪者の捜索は凍結されましたけど今大騒ぎになっていることは、私たちが動かないと——」高木は指を折りながら興奮気味に云うと、一息入れ言葉を続けた。「——何か糸口を話すかと思ったら……危ない目をみた割にはどうでもいい話ばかり。直接、そのなんですかアーカムメトリクスに乗り込んだら駄目なんです?」
「まあ、落ち着きなよ陽菜ちゃん」
しおらしい態度をみせた乃木葵が、掌を返し喰ってかかるると、何故か気遣うよう話を変えようとした森山の素振りが高木の鼻についたようだ。高木は森山の前で仁王立ちすると、喚き散らし、最後には、乃木葵を指差し役に立つ情報を話せと荒々しく言葉を吐き出したと云うわけだ。
これに、やはり同じく荒々しく返したのは胡悠然だった。小振りな魔術師の杖を構えると高木へ突き出した。「そんな云いかた無いでしょ? 師匠がどれだけ嫌な思いしてるのか、判りますか? そもそもですよ? こんな事になっているのはDCIAですっけ? あなた達の能力が低いからではないのです?」
「な——」高木は絶句すると、胡悠然へ冷たく鋭い視線を向けた。これには森山も同じ顔色を少しばかり見せたが、直ぐに微笑み二人を落ち着かせるよう言葉をかけた。「悠然ちゃん、今のは聞かなかったことしておくよ——いいね陽菜ちゃん。それに二人とも、物騒なものはしまって——そんなの振り回したら、洒落じゃ済まないからさ」
※
「それで話を戻すんだけどさ、先生——」
森山は不器用に頭を掻くと、乃木葵へ視線をもどした。乃木葵はそれに短く「ええ」と答え、再びミラの黒髪を撫で付け、一言二言、小さな魔術師へ言葉をかけた。周囲の雰囲気を感じ取ったミラが不安そうにしたのを「大丈夫」と気遣ったのだ。
それを見れば、乃木葵——アオイドスとミラが親子同然の関係であるという話は、漠然としてはいるが、信憑性を感じる。
森山には子供はいなかった。だか、こう云った場面は星の数ほど見てきている。偽ることのない絆。そういったものは心を交わすもの同士であれば、理屈ではなく雰囲気で判るものだろう。
そう思うからなのか、今から訊くこと——それは少し前、西蒼人にも訊ねたものだ——の答えは、そこはかとなく想像がついた。
「——そのさ、ミラちゃんの能力を使ったんだよね? それってね——どうやったの?」
「この子を私に侵食させたのよ」
「つまり、リードランで使える能力を現実世界に持ってくるには——」
「ええ。人間の脳へリードランの子を侵食させることが必要ね。能力自体は、あなたたちも良く知っているスマートデバイス——正確には、アーカム社が開発をしたセキュア・バイオ・メトリクスを介して利用をするの。自動販売機とかで見ているでしょ? そう、リサイクル機能。あれはその為の下準備」
「なるほどね……」そう云うことか。森山は最後、心中でひとりごちると話を続けた。「根掘り葉掘り申し訳ないのだけどさ、そうするには何か条件がある?」
「どういう意味?」
「あー、そうだな。例えばさ仲良しでなければ、侵食させられないとか」
「そうね、お察しの通り。侵食してもらう子とは、こちらと何かしらか親和性がなければ難しいわ。そうね——親和性の質は問わない。愛情や友情そういうものだったり、例えば悲嘆や憎悪といったものでも良いわ」
「悲嘆や憎悪って——親和性ってか因果関係って気もするな。でもあれか。先生とミラちゃんは親子同然だから侵食できたってわけね。色々と心から共感できる何かがあったと」
「その通りよ」
森山はそこで、何か思案をするよう顎へ手をかけ俯いた。
乃木葵とミラ・グラントが、未来なのか、どこか別の世界からやってきたと云うのはさておき、乃木葵が語っていることは、どうやら的を得ているように思えた。
それは西蒼人が云っていたことを思い出してもそうだった。西は森山にリードランの力を持ち込むには人間の脳へ情報を侵食させることが必要だと云った。そして、乃木葵も実際にそうしたと云ったのだ。乃木葵が西の存在を知っているのだとしても、彼女との関係性は無いように思える。であれば、何かを企み西と口裏を合わせるようなこともないだろう。
もっともこれは、森山の浅はかな勘なのかも知れない。しかし、今は、それを前提に、考えることにした。
「それをできるのが、先生の云っていた、人類を狩りまくった<新人類>ってヤツ?」森山が訊ねると、乃木葵は静かに、かぶりを縦に振った。森山をそれを見届けると、話を続けた。「<新人類>が産まれたのはクロフォードがそうしたからだよね? メリッサって娘が——」
「乃木無人に殺されたからよ。
いいえ——殺されたと云うのは語弊があるわね。彼女は自ら頸を差し出したの。『無人が私を見てくれないなら殺して』と云ってね——最後は、乃木無人に侵食した<憤怒>が彼女の頸を斬り落とした——」乃木葵はそこで、大きく溜息をつくと、吐き出すように話を続けた。「——私たちは、それで全部解決をしたと思ったの。ええ、メリッサが企んだ計画は終わったとね。でもそれは違った」
「メリッサの計画?」
「リードランと現実世界をすり替えようとしたの」
「ちょっとちょっと待って先生。あの親子の目的はリードランの力を現実世界に持ってくることじゃなかったのか? 世界をすり替えようだなんて——」乃木葵が、さらりと云ってのけた、あまりにも現実離れした話に森山は驚きの表情を見せた。
同じく、乃木葵の言葉に耳を疑った高木は「話にならない」と吐き捨てる。だが、高木は直ぐそばで驚きの表情をみせた森山の顔を一瞥すると一抹の不安を覚えた。森山は偶然にも手で口元を隠した格好で思案しているようだったが、指の間から覗いた口元が笑っているように見えたのだ。(先輩? 何か隠しているの?)
「——ああ。目的は別だったってことか。
最後の最後までクロフォードとメリッサの目的は別だった。なるほど。先生。メリッサがなんで世界をすり替えようとしたのか。それって、彼女の病気なのか、環境なのか、そう云ったもんから逃れるため。で、あってる? クロフォードはクロフォードで、メリッサを助けたい一心ではあった?」森山は高木が覚えた不安に気付くことなく乃木葵へ考えを、ぶつけてみた。
「自己免疫性後天性凝固因子欠乏症。メリッサが抱えた難病ね」森山へ肯定の合図を送り乃木葵は話を続けた。
「クロフォード・アーカム。
彼は元々、世界大戦終結後に樹立された<|五大州並びに一部アジア州統合会議>の内部組織となった<世界の円卓>に参加。これは、彼が十二歳の時の話。それは知っているわよね? そこでクロフォードが研究したのは<人体の再構成>。その過程で<質量生成機構の謎>を解き明かしたけれども、それは同時に人体の再構成の可能性を閉じてしまったの。極々単純な物質であれば、解体し再構成する糸口は掴んだ。でもそれは、ペットボトルを自動販売機に再生して戻すことぐらいしかできなかった。そして紆余曲折の後、彼は別のアプローチを取ったわ。そうね、生体情報のデジタル化と、そのフィードバック。
この研究は彼が設立したアーカムメトリクスで行われると——その通りよ捜査官、セキュア・バイオ・メトリクスを産み出した。この技術は後に、乃木無人が父から受け継いだチェンバーズ実現の鍵となったわ。それから七年後——彼が二十四歳の時にメリッサが誕生。そして、メリッサが四歳の時に発症すると、隔離生活が始まった」
「それからクロフォードはメリッサを治そうと?」
「そうなるわね。私の知っている限りでは。
それで、ここから先は私たちも詳しくは判らないのだけれど、発症したメリッサは翌年——五歳になると、何かを切っ掛けに非凡な才能をみせるようになったの。類い稀な洞察力。少しの情報で過去も、未来も見通す力だと云われていたわ。メリッサが予測し、クロフォードが予測を現実にする。そんな役割分担のような関係ができたのね。
そして、彼女が八歳の頃。乃木無人が造ったリードランに手を貸すように仕向けた。
リードランへシンクロするためにはセキュア・バイオ・メトリクスを介してPODSを作る必要があるのは、知っての通り。おそらく彼女がクロフォードに云ったのは、リードランへシンクロした状態でPODS内の病理情報を削除、人体へフィードバックできれば治る可能性があるって。その為には、リードランであらゆる検証が必要で、その中には魔導や魔術といった技術の具現化も含まれていた。
でも——メリッサの目的はそれではなかったの。
彼女に発症したのか、顕現した力なのか。そう云ったものの呪いから逃れるためにリードランを、乃木無人を選んだ。彼女は最期の刻に云ったわ。『あなたの世界に私を連れ去って』と」
「で、その最期の刻に拒まれてメリッサは頸を斬り落とされたってわけか」
「ええ、自ら望んで」
「それを見ていたクロフォードが怒り狂って、暴挙に出た?」
「その通り。しかも最悪の形でね」
「最悪の形?」
「ええ。どんな手段でかは判らないけれど、クロフォードは、残されたメリッサの脳を核にリードランを再起動——それは私たちも知らないことだったわ。
まあ——それは、別の話ね。とにかくクロフォードは手始めに彼自身へ、七つの獣であった<傲慢>を侵食させると猛威を振るったわ。その被害は甚大でヨーロッパ、南米、アジア圏が——」
「リードランに侵食された? ああ——これは予想なんだけれどさ、侵食された地域から——神話やら昔話とかに出てくる、かっちょいい武器とか、なんかそんなものが掘り出されて兵器として運用された? おまけに魔物みたいなものも」
「なんでそれを?」
「いやいや。ただの予想だよ」
森山が飄々と云ってみせた予想。
それに顔を顰めたのは高木も同じであった。西蒼人の自宅へ行って以来、森山は時折こういった突飛もないことを口にするのだ。問い正せば、誰かの受け売りであったりしたのだが、それを——受け売りの源泉を森山が得たところを高木は、直に見たわけではない。 それにだ。なぜ森山は、何故メリッサがリードランを選んだのか。その理由を追求していない。いや、その理由はもう掴んでいるのか? 誰から?
訝しむ高木をよそに乃木葵が話を続けた。
「そう。予想ね——まあ、いいわ。
そして私たちは、リードランを破壊する為、クロフォードに挑んだのだけれど失敗したわ。いいえ、あれはもう人の手で壊せるようなものではなかった。それこそ、サーバーの電源を引っこ抜けば良いって話ではなかったの。だから、乃木無人は敗北する寸前に私とミラに使命を与えた。時間を巻き戻してリードランを無かったことにしてくれと。でも、単純にメリッサと乃木無人を殺せば良いって話ではなかった。
これは乃木無人が予測したことだったのだけれど——乃木無人とメリッサは何かの因果関係で、どんな世界でも、どんな時間軸でも対になって浮き出る現象のようなもの。私の居た世界で乃木無人は、その因果の元となるものを封印をしたけれど、でもそれはクロフォードに奪取されてしまった。その結果が世界の侵食。
では、どうすれば良いのか? 乃木無人とメリッサの因果を同時に断ち切ることで無力化するって話だったわ。そうしなければ、この悲劇は違った形で起きてしまう——難しい話よね」
「——因果を断ち切るって……どうやって?」
森山は乃木葵の話へ——どうだろう——始めて食いついたように高木には思えた。それほどまでに森山の眼光は研ぎ澄まされ、乃木葵を鋭く刺すようだった。斯くいう乃木葵もそれに気が付いたようだったが、気にするわけでもなく森山に答えた。口にする答えは、自分の世界での話であって、こちらの話ではないから躊躇する必要がない。と、云うことだろうか。
「私たちが遡行できるのは、ミラが産まれる瞬間まで。
だとすれば、もう乃木無人とメリッサは存在している。だから、諦めさせるしかない。って話だと私は思っていた。機を見計らってリードランを諦めさせるには、どのみち乃木無人を殺す必要はあったと思うのだけれど——でも、どうなのかしらね。
もしかしたら断ち切らなくても、どちらかの想いを成就させてしまえば、そこで終わりと云うことも……あり得るわよね……」
※
突然ミラの視界が真っ暗になった。
アオイドスが大きく息を吸い込み、なにやらショーン・モロウへ伝えた直後、白の吟遊詩人はミラの頭へ覆いかぶさるよう彼女を抱きしめたのだ。「ねえアオイドス。痛いよ。どうかしたの?」
アオイドスはミラに答えることはなく、ただただ小さく「ごめんなさい」と言い続けるだけであった。誰に——とでも云うわけでもなく、溢れでる言葉は吟遊詩人が流した涙に呼応するようでもあった。ミラは言葉と共に落ちてく吟遊詩人の涙にきがつくと「どうしたの?」と、今度は腹の底から声をだした。そして、アオイドスの腕を振り解き、一同の顔を見渡す——アオイドスを泣かしたのは誰なの?
その時であった。
ミラが長い長い退屈な時間のなか眺めた影たちが、大きく揺らめいたのだ。
今度の揺らぎは、これまでに見たどんな揺らぎよりも大きく、まるで影の大蛇が部屋中を蠢いている——そんな風に見えた。これではまるで影の蛇の巣穴だ。そんな風にミラが想うと、その場に居合わせた<外環の狩人>たちも異常に気が付いたのか、アドルフ・リンディが「ミラ、危ないから座って」と注意を促すと、彼女の肩を幾分か強い力で押さえた。
今度は部屋の外から、騒がしい足音が響いてきた。
足音は大きく激しく揺らめく影が鳴らした音のように思えたが、それは違った。次の瞬間。部屋の扉が激しく開かれると「みなさん、大丈夫ですか!?」と聞き慣れた声が聞こえたのだ。足音の主人はランドルフであった。
ランドルフは一同の安否を気遣ったのは、扉を開けるのと、ほぼ同時に足元が大きく揺れ出したからだった。そう考えると、騒がしい足音はランドルフのものだけではなく、きっと足元を揺らした何かが立てたのもあっただろう。そして足元を揺らした何かは、今度は一同の足を掬うほどの大きな揺れを見せ、ミラとランドルフは堪らず頭を抱えこみ、その場に座り込んでしまった。
ミラの視界はそれに合わせ、真っ暗になった。
自分の頭を抱え込み瞼をきつく閉じたのだ。次には轟音が響いた——地の底で巨人が金床を叩いているのではないかと想像をしてしまうほどに、恐ろしい音。
小さな大魔術師は勇気を振り絞ると、おぼつかない足元を気にすることなく身体を跳ね起こし知りうる名前を叫んだ。「アオイドス、大丈夫!? アドルフ!? ジーウ!?」
応える声はなかった。そうなのだ。アオイドスも、アドルフも、ジーウも。憎たらしい女剣術士に、鼻持ちならない女魔術師も、飄々とした男の剣術士も。その場から皆、すっかりと姿を消してしまったのだ。
「みんな、どこに行ったの……?」
再び轟音と揺れを感じると、再びミラの視界が真っ暗となった。
今度はランドルフが部屋へ飛び込むと、ミラに覆いかぶさるよう抱え込み、周囲で崩落する戸棚の中身や部屋を照らした魔力の照明器具から守ったのだ。「大丈夫ですか、ミラ!?」
「皆んなは? ねえ、みんなは何処!? アオイドス、何処?」
「すみません、判りません。スッと姿を消してしまって——」ランドルフは天井から落下した照明器具に頭を打ち付け額へ血をながしたが、苦痛を露わにすることなく、そう答えた。「——でも、行きましょう。ここに居ては危険だ」
ミラは、激しくかぶりを振った。
このまま待っていれば帰ってくる。きっとそう思ったのだ。だからランドルフの云うことを聞こうとはしなかった。床にしゃがみ込み、そして大声で泣き喚いた。
ランドルフはその姿に、憐憫の表情を浮かべた。
聞けば彼女は、父だと思って捜したアッシュ・グラントと出会うも、父であることを否定された。あまつさえ母だと思ったアオイドスにもだ。だが、それでも何か希望を見出し、懸命に明るく振る舞い、そして小さな足で茨の道を歩んだ。彼女がどんな存在であったとしてもだ——そんな過酷な運命を、こんなにも素直で幼い少女が背負うべきではない。
だから、ランドルフは云ったのだ。
「行きましょうミラ。皆さんきっと無事です。生きていれば必ず会えます。必ず」




