人の澱み②
コツツツコツツツ……。
コツコツコツコツ……。
——荒く舞い踊る風にうまく滑り合わせた細かな氷雪が、その場に佇んだ騎士達の鎧を叩くと、皆の兜の中に、そんな不協和音を響かせた。それもあり、リル・ルケア・ガラドールは眼下で悠然と立ち塞がるアルベリクの声が聞き取れなかった。だが、白竜元帥——いや、今は逆賊か——が腰裏から短剣を鞘ごと手に取り足元へ投げるのを目で追うと、何を口にしたのかは一目瞭然であった。
それは、一騎打ちの申し出だ。
もしもだ。
黒竜が眼下の白竜を討ったとしよう。
それでも尚、アルベリクが息途絶えないのであれば、その短剣で喉笛を掻き切る。ベーン家の紋章が柄に彫られた短剣でだ。
踠き苦しみ醜態を晒すのであれば、美しく死を迎えられぬのであれば、騎士の最期を語る譚へ汚点を残そうとするのであれば、勝者の剣ではなく敗れた騎士の家の手で最後を飾ろう。そう云うわけだ。
リル・ルケアは、それに騒めく騎士団へ片手を挙げ制すると、アルベリクに倣った。
軍馬から降りると腰裏から黒の柄の短剣を投げ、脱いだ兜を傍に控えた息子へ預けた。「私が討たれたのであれば、白竜の軍門に降れ。いいな」
兜を受け取った息子は、それに極々短く「承知しました」と、声を詰まらせ答えた。父の言葉は一種の覚悟のように聞こえたのだ。——勝利の可能性を滲ませはしたが、その声音の裏には息子へ最後の望みを聞き届けてくれと云う想いが織り込まれている。無論、易々と頸を取らせるようでもなかったが。
リル・ルケアは赤髪を風に靡かせアルベリクと対峙した。
そして、爛々とした赤瞳が浮かぶ双眸をゆっくりと閉じ——息子と騎士団の無事を願ったのか顎を軽くひくよう、かぶりを幾ばくか垂らした。ともすると、その所作は一騎討に応じた騎士のそれだったが、実際のところリル・ルケアがどう想ったのかは、誰にも判らなかった。
「ガラドール卿。卿の血筋はアークレイリの重要な財産だ。任せてくれ」アルベリクは、先程の激情が嘘のように静かな声で云うと、剣の切先を上に向け両脇を締め軽く一礼をする。リル・ルケアもそれに倣い一礼を返す。「お言葉痛み入る。先の無礼、お赦しを」
無論だ——アルベリクは顔を上げ云うと、もう一度共に国王ヴィルヘルムを討たないかと黒竜へ訊ねたが、答えは否であった。ここで騎士の道を違えてしまえば、家督を継ぐ息子が選ぶべき道を見失ってしまう。と云うのが理由であった。なるほど。自らの死をもって、死に様をもって、生き様をもって、仕えるべき者を選択する判断材料と成るか。アルベリクは心中に頷くと、リル・ルケアが柄を両手で握り構える姿を目で追いかけた。対するアルベリクは切先を下げ、良い具合に力の抜けた左腕を軽く前に出し黒竜へ左肩を見せる格好を取る。
リル・ルケアは所謂、伝統的な騎士の剣術である、盾を使った攻防一体のクロスウェルよりも、リードラン最古の剣術書に記された<クラスラッハ手稿>にある、両手剣術を好む。アルベリクが目にしたリル・ルケアの構えはまさに、その基本の構えだ。
かたやアルベリクは片手剣を好んだが、盾を構えることを嫌い、片手剣術と細身剣術を組み合わせた独自の型を取る。左の籠手は右のものよりも、分厚くそして粗く仕上げられているのは、相手の剣をそれで受け弾くことを考えての特注品だ。
互いが構えると、それを知ってか知らずか、それまで強く太々しく吹き荒れた風は止み、氷雪はどこかへと姿を消してしまったようだ。次には静寂が訪れた。固唾を飲む音さえ聞こえるのほどの静寂。しんしんと騒がしい静寂。静寂であるのに確かにそこには音があった。それは人の心から漏れ出た言葉だったのか、呻きだったのか、期待だったのか、悲嘆だったのか——。
両手剣術は、どのような場面においても後手に回ってはならない。初撃から全身全霊を込めた軌跡を誰よりも最初に描き、強靭な一撃で相手を怯ませ三撃の間に相手の頸を刎ねるのだ。だから、最初に斬撃を放ったのは黒竜だった。
アルベリクは、今この一戦は人として剣を交え黒竜に最期を与えようと心に決めると、黒竜が繰り出す両手剣術の型を見極め、三撃目をやり過ごし沈めると狙いを定めた。
三連撃。どの型であっても両手剣術は、そこで一呼吸を置き、次の型へ派生する。そのことはアルベリクも重々承知をしている。だから、リル・ルケアが見せるはずの一呼吸に勝ちの一太刀を置きにいくつもりなのだ。
黒竜が放った斬撃は右回りから始まった。
切先が陽の光をうけ白々とした軌跡を描いた。半弧と少しを、力強く美しく流れた切先は、黒竜が思った通り白竜の左の籠手に阻まれ強く押し返された。
様子見とも云える初撃でも、ちょっとした木を叩き折る程の威力だというのに白竜は手練れの動きで力を削ぎ落としたが、反撃に転ずることはなく押し返した。
リル・ルケアはそれに、少しばかり嬉々とした表情を浮かべ、アルベリクへ叫んだ。「騎士として——!」リル・ルケアは反動を利用し今度は左へ急速に旋回をした「——対峙頂ける温情へ感謝を!」
左からの二撃目。
それは、黒竜の描く軌跡を読むように置かれた、アルベリクの斬り上げが力を削いだ。
速度の乗った二撃目は先程の比ではない威力を孕んでいる。しかし白竜はそれをも、いとも簡単に火花を散らしながら昇っていく軌跡でいなしたのだ。
「力量、技量。共に敵う相手では——」
黒竜は、諦めはしなかった。
力を削がれいなされた切先は下を向いてはいるものの、そのおかげで半歩、白竜との間合いがとれている。それであれば、最後の一撃は白竜が招き入れたようで癪であったが、勢いを削ぐことなく下段から斜め上へ身体を急速に捻り込み、そのまま白竜の頸を狙った。
三撃目は、周囲で見護る誰の目にも留まらぬ神速に達し、瞬きをする間でアルベリクの頸の寸前まで迫っていた。
「見事だ」
アルベリクはリル・ルケアの顔を見据え短く云った。その言葉に黒竜は、ほんの少し笑ったように見えた。「感謝を」
そうして三撃目が皮一枚分のところで躱されると、リル・ルケアは猛烈な勢いで足元を両手剣で叩いていた。その姿はまるで望んでアルベリクに頸を差し出しているようにも映った。
「後は私に任せてくれ」——卿の頸をもってして、真のアークレイリを取り戻そう。最後の言葉をアルベリクは胸の内で囁いた。
周囲からは悲嘆の声と感嘆の声が漏れた。
誰も勝利の勝鬨はあげなかった。あげようともしなかった。ただただ、白竜があまりにも安易と斬り落とした、リル・ルケア・ガラドールの微笑みを浮かべたかぶりに目を奪われたからだ。
「聖の布袋を」
今も尚、かぶりを失った体躯を打ち震わせ血の海へ横たわったリル・ルケアを見降ろし一礼を贈ったアルベリクは、傍に駆け寄ってきた魔導師へ静かに云うと手を伸ばした。
魔導師は重厚な紫紺の袋を恭しく取り出すと、口を縛った深い黄色の紐をそっと解く。その袋の役目は、王都出撃のときはフリンフロン王国軍元帥カイデルの頸を納めることにあった。魔導師は少しばかり怪訝な表情を浮かべたが、白竜の三白眼と視線を交えると、身体を小刻みに震わせ、紫紺の袋を手渡した。
「黒竜騎士団団長リル・ルケア・ガラドール。見事な最期であった——総員、剣の答礼を」
白竜が凛と声を張りそう云うと、白・青・黒どの色の竜の騎士達も、剣術士達も静かに剣の柄を両手で握り、胸元で切先を上に構えた。
「剣を持たぬ者は、すべからく心中へ己が信念の剣を掲げよ。誇り高き魂が迷うことのなきよう<聖霊の原>を指し示せ」
続けて凛と響いたアルベリクの言葉は、術者に弓術士、軍属、そう云った者達を導き、掌を胸へ当てさせた。そして、剣を持たない彼らは軽く顎を引き、かぶりを垂れた。
アルベリクは周囲を見渡し満足げな顔をすると、紫紺の袋を開き血の海へ片膝をついた。
「随分と満ち足りた顔をで逝ったな。<聖霊の原>で待っていてくれ」白竜はリル・ルケアのかぶりを抱えると、宝玉をしまうかのよう丁重に袋へ納めた。そして紐を結ぶと口を閉じた。
その刹那。
リル・ルケアの息子ウェイス・ルケアの啜り泣く声が黒竜騎士団の涙を誘うと、足元が緩やかに蠢いた。
これにアルベリクは目を細め素早く立ち上がり耳を澄ませた。つまりだ。この大地の脈動はアルベリクが起こしたものではない。と、云うことだ。
遠くから——ゴゴゴゴと耳を詰まらせる音が迫ってくる。
それに半拍遅れで足元の揺れが酷くなると、遂にそれは轟音と激震に取って替わり、その場にいる者達の膝を折らせたのだった。アルベリクも例外なくそうだった。白竜は、紫紺の袋を胸に抱え込み「逃げ出す馬は放っておけ。橋の者はその場を離れろ」と叫んだ。
「アッシュ・グラント——」そして、アルベリクは<宵闇の鴉>の名を溢した。
どちらを選ぶのだ宵闇の。
何にせよ——我が道を阻むと云うのであれば翼を捥ぎ取り地に堕とすだけだ。お前が<外環>の空から、そうするのであれば喜んで<外環>へ出向いてやろう。その準備は終わっている——我が道を阻むと云うならばな。




