Ragnarok#22_終戦④
——ダフロイト西、農業地区。
ジーウ・ベックマンとミラ・グラントが予想外の挟撃に見舞われる少し前。それは、フリンフロン王国元帥カイデルが西内区に広がる貴族街を危惧し人員を割き、ランドルフ総大将が先発したルカの放った魔力狼の気配を追いかけた頃だ。
ランドルフは魔力狼の気配を掴む前に、西外区に広がった農業地区と貴族街を隔てる胸壁のたもとで馬の脚を、はたと止めた。
というのも、眼前に横たわる小湖の向こう側から、ヒリヒリする魔力の気配を感じたからだ。傍に控える<塔役>は、魔力狼達が戦端を開いたという報告は上がってきていないと云う。それではあれば、遠くに見える蒼く輝く戦闘の軌跡は、奇跡的に<鷹の目>の目を盗み奥まで進軍したアークレイリ軍が魔物に襲われているか、もしくは勇敢な貴族共が魔物に襲われているかの何れかだ。
友軍が敵軍との戦端を開いたのであれば、それはランドルフの頭の中へ報告が上がるのだから、きっと後者は勇猛果敢な貴族なのだろう。それに——状況が後者なのであれば、しがらみはあるが、急がねばならない。彼らの勇猛果敢さは、金払いにこそ奮ってもらいたいのだから、生きた財布の頭数は揃っていた方が良い。つまりダフロイトの税収を考えればだ。この戦が収束するのであれば、途方もない金が必要となるだろう。アークレイリが賠償に応じるとは到底思えない。
だが、どちらにしてもだ——カイデル元帥の隊から要人確保の報が届くのを待っていたのでは、色々と手遅れになるだろう。
ランドルフは的確に状況を判断し魔力狼との合流前に一仕事片付けるため中隊を全速力で湖畔へ急がせた。
※
(これは随分と想定の斜め上に外れた状況だな。まさか本当に<剣壁>が来ているとはな)そう胸中に思ったランドルフは軍馬の腹を、くるぶしで軽く叩くと目視した状況へ馬を急がせた。
ランドルフの中隊が目にしたのは、そろそろ明けようとする夜の帷に浮かんだ幾千幾万の魔力の剣がアークレイリ軍と思しき隊へ襲いかかる光景に、小さな魔術師が底知れぬ魔力で魔物を翻弄する姿と無数に転がった焼け焦げた馬の骸だった。
漂う腐肉を焼くような胸糞悪い臭いに顔をしかめたランドルフは、一体全体どれだけの水魔馬を焼き殺したのだと吐き捨て、手綱から両手を離すと人差し指を突き立てた。
左後方の剣術士を肩越しに一瞥すると、指を大きく回しアークレイリ軍を指差す。(左翼、必要ないかも知れないが<剣壁>の手助けをしてやれ。魔力の剣に巻き込まれるなよ)
次に右後方を駆けた魔術師の一団へは小さく指を回し、湧き出るのが止まる様子もない水魔馬へ素早く向けられた。(奔流全弾を水魔馬に叩き込んでやれ。魔術師のお嬢さんが押し切られる前に確保するんだ。弾幕ずらすのを忘れるなよ)
中隊は流れるよう三本の支流に分かれ左手へ周った小隊は大きく弧を描くと<剣壁>の手腕に翻弄されたアークレイリ軍の右腹を抜くように駆けると初撃で随分な手応えを得た。十は頸を斬り落としいるはずだ。そして取って返し次は左腹を抜く準備をした。
右手へ全速力で駆けた小隊は、魔導師の支援を受け体幹を維持した魔術師達が馬上から次々と<魔力の奔流>を撃ち込んだ。蒼く輝く死の閃光が迸る度に多くの魔物が蹴散らされはしたが、湧き出る数に追いつかないでいる。
かたや魔物に対峙した少女はしきりに「気持ち悪い!」「嫌!」と短く叫びを挙げ、小振りの杖を振るうことに懸命で、援軍には気が付いていないようだ。そして、次第に疲弊し押されている様子が見てとれた。
それに気が付いた数名の魔術師は、更に魔導師から身体強化の唄を得ると、馬と大振りの杖を捨て一足跳びに少女のもとへ急ぎ、小振りの杖で水魔馬を各個撃破し援護した。その間に次弾を準備した残りの魔術師達が魔物の群れの土手っ腹を撃ち抜いていく。
「あれ? おじさん達は援軍?」と、ミラは傍に立った魔術師へ素っ頓狂に訊ねた。ジーウ以外の人間が手助けをしてくれるとは思っていなかったのだから、それは仕方がない。だが、訊ねられた魔術師は「良く見てくれ。俺はまだ、おじさんと呼ばれる歳じゃない」と憮然とフードを振り払った。そして、その間に三頭は、気味の悪い青褪めた舌の馬を片付けてみせた。
「本当だ。アドルフと一緒くらい?」
「アドルフが誰だか知らないが、取り敢えず前に集中してくれ」
「あいあい」
ミラは思わぬ援軍に陰鬱とした気分が晴れた様子で、どうだろう、まるで褒めてもらおうと思ったのか、それまでよりも華麗に激しく<魔力の矢>の連撃を繰り出し、合間合間に奔流を挟んだ。それにダフロイトの魔術師は驚きを隠さず「本当に援軍が必要だったのか?」と漏らした。少女は疲弊していたのではない。対峙した魔物を「気持ち悪い」と、ぬめぬめした蟲の類を潰すように焼き払ったが、どうも数の多さに辟易としていたのだと思われる。
※
「おい! お前さん魔導師なんだろ?」
色気のない水魔馬をミラに押し付けたジーウは迫り来る北の混成部隊——おそらく戦場から逃げ出したクチだ——を相手取ると、部隊を纏めあげているであろう白騎士を孤立させるよう立ち回った。無数の蒼く輝く剣が墓標のように突き立てられると、それはジーウと白騎士の決闘場のような様子を見せた。
ジーウは終始、笑みを浮かべ馬上の白騎士と剣を斬り結び、あまつさえ白騎士を剣技で圧倒してみせた。孤立させられた白騎士——オズヴァルドは、それに酷く面食らい、堪らず乱暴に訊ねたと云うわけだ。
「それ以前に狩人なんですよぉ、色男さん」
ついには相手を馬上から引き摺り降ろしたジーウは、軍馬の前脚を魔力の剣で地へ縫い合わせると、白騎士が放った横薙ぎの一閃を難なく弾き返し、それに惚けた調子で答えた。
「この野郎! それは知ってんだよ! 糞が馬を潰しやがったな!」オズヴァルドは軍馬の悲鳴を横に聞くと大凡の様相を想像すると舌を鋭く鳴らし罵声を浴びせはしたが——牽制の横薙ぎは遊ばれるように弾き返された。活き活きと踊るように産まれた火花が派手にオズヴァルドの眼前を覆い尽くした。
その隙間から不敵な笑みを浮かべた魔導師の視線が覗いている。
「あら、お下品ねぇ」
そんな言葉が耳に届いた。
火花が地に落ちきるまで、魔導師は踊る火花よろしく弧を描きながら立ち回ったかと思えば、剣の壁の向こうに分断された隊へ宙に残された魔力剣の半数を撃ち込んだ。アークレイリの術者達を狙ったのだ。水魔馬を相手取った小さな魔術師を狙った<魔力の矢>を術者ごと潰したというわけだ。だが、他にも思惑があることは直ぐに判った。
それは遠目に見える、迫り来る別の軍隊——いや、あれは恐らくダフロイト警備隊の騎影だ。つまり援軍。<剣壁>は、予期せぬ援軍を察知し、こちらに駆けてくるのは剣術士の小隊だと判っていたのだ。不敵な笑みの正体はそれだろう。当然のことながら剣術士と相性の悪い術者から潰すのが常套手段だ。
余裕綽々だな——随分と舐められたものだ。
オズヴァルドは付け入る隙も見せない魔導師の剣戟を捌きながら剣呑と眉間に皺を寄せた。「お前さんは上品を装った醜女だな! 随分と戦い慣れているな——」
正直なところ騎士であるオズヴァルドが、例え相手が<外環の狩人>であろうとも魔導師にここまで剣で遅れをとるとは思いもしなかった。苦し紛れに<剣壁>へ罵声を浴びせはしたものの、このままでは命が幾つあっても足りないだろう。それにだ。<剣壁>はオズヴァルドの罵声を浴びると剣戟を止め「こんな時の色男の罵声ってなんだか、ぞくぞくしちゃう」などと、気安く、気色悪く、気味悪く云って見せるのだ。オズヴァルドはそれに心底おどろおどろしさを感じると背中に冷たいものを感じた。「——それでいて、狂っているのか?」
その時だった。
魔力剣が描いた円環の外から「北から土鬼の群れが接近!」の声が響いたのは。
「散々だな。女の匂いに誘われたか」オズヴァルドはジーウから距離を取ろうと素早く突きを繰り出すと後方へ跳び退り体勢を整えた。
※
(北から土鬼の群れ! 推定五十!)
<塔役>から最悪の報告が隊員の脳裏に響き渡った。
中央を真っ直ぐに——<剣壁>の元へ向かったランドルフは、左手を征く小隊を一瞥し、次に宙から降り注いだ無数の魔力の剣がアークレイリの術者を串刺しにするのを目視すると北側——剣術士の小隊の向こう側に目をやった。
鬱蒼とした森の木々の狭間に詰められた靄が不自然と、あちこちで小刻みに動くのが判った。靄の白みの中に一際薄暗い白の塊が幾つも見えてきた。その一つ一つが報告に挙がった土鬼が帳の幕が上がる前に舞台から女をかっさらおうという算段なのだろう。いや——もっと別の理由なのか? 随分と焦っているようにも伺えた。眉をひそめたランドルフであったが、兎に角、その報告へ(<剣壁>は大丈夫だ、北を叩いてくれ)と指示を飛ばした。
※
「リキャ! 隊をまとめて逆に周ってくれ! どのみち——」
ジーウの容赦ない撃ち込みに翻弄されたオズヴァルドだったが、どうやら<剣壁>は自分の頸を斬り落とすつもりはなさそうだと踏んでいた。斬り結ぶのを愉しんでいるようにも見える。先ほどから真っ向勝負で撃ち込むが<剣壁>は、それを面白がるように弾き返すだけなのだ。完全に遊ばれている。そう思えば腹が立ったオズヴァルドであったが、その間に——お遊びの時間に、今や道連れにしたと云ってもよいリキャルド達へ生き残る可能性だけは示してやりたい。そう思ったのだ。
だがそれもオズヴァルドの言葉を断ち切ったジーウの撃ち込みに阻まれた。「剣壁!」
「何? 一丁前にオコなの? ねえ、怒っているの!?」
オズヴァルドの形相に臆するどころか、どこか激情に駆られた風を見せたジーウは剣を弾くと白騎士の腿当てと膝当ての継ぎ目を正確に狙い、片手剣の切先を突き立てた。
「私達よりも!」ジーウは次にそう叫ぶと突き立てた剣で腿当てを弾くように鋭く抜くと続けた。「あなた達ネイティブの命運を優先した!」そして、今度はオズヴァルドの右の肩当てと上腕当ての継ぎ目に切先を突き立てた。オズヴァルドは堪らず苦痛の叫びを挙げ「なんの話だ!」と空いている手で剣壁の剣を掴み、押し返そうとしたが無駄だった。
「アッシュ・グラントはアオイドスとミラを見捨てた! 全てを知ってそうしたの。良かったわね世界の王、あなた達の王の帰還ってわけ。それだけじゃ、あなた達ネイティブは満足じゃないの!? 人間らしく王様でも英雄でも崇めているだけじゃ駄目なの?」
どのような状況であっても、あのおっとりとした調子を崩さなかったジーウであったが、この時ばかりは一語一句に鋭さを乗せ、争う白騎士の左肩へ足を掛けながら叫んだ。そして、ゆっくりと剣へ体重を乗せた。
鮮血が迸った。
繊維質な何かが千切れる音が聞こえた。痛みの稲妻が全神経を媒介に身体中に駆け巡ったように思えた。筋が斬れ、動脈が切断されたのだろう。これでは、どんなに優秀な魔導師であろうとも治療は不可能なはずだ。
だが、不思議とオズヴァルドは苦痛に叫び顔も歪めたのだが<剣壁>の豹変振りにどこか満足げな顔もしてみせたのだ。
「さっぱりだな、剣壁! 俺達は薄鈍の大将を見限って漁夫の利に預かろうって魂胆の戦士崩れの集まりだ。そうだな、差し詰め脱走兵ってところだ。世界がどうとか、そんなのは気にもしていない。生きてりゃそれで良い——」だから、どうだ——取引をしないか? 白騎士は宙を見上げ、未だ宙に浮かぶ魔力の剣を一瞥し、何かを持ちかけようとした。
※
「ジーウ!」叫んだのはミラだった。
土鬼の群れが雪崩れ込んで来るぞと側の魔術師が口にするのに合わせ、ジーウの様子が——正確には魔力の流れが、おかしくなったことに気が付いたのだ。それが土鬼の出現に起因したのか、それとも<剣壁>が足蹴にする白騎士が原因なのかはわからない。それでもだ。兎に角ジーウから漏れ出す魔力の濃度が濃くなり始め、これでは北側に向かった剣術士達は魔力に押し潰されてしまうかも知れない。
その証拠にミラの援護に駆けつけた術者達の中でも消耗が激しかった者は、今まさに片膝を着きはじめたのだ。
北の森から土鬼の群れが靄を引っ張りながら溢れ出てきた。後ろを振り向けば、水魔馬が再び畔から、ぬらりと姿を引き摺りあがってきた。馬面から覗く長く青褪めた舌に、ミラは再び辟易とした。
ジーウの叫び声が頂点に達したのも、その時だった。
あのジーウが、ああもはっきりと言葉を荒げたのをミラは初めて見た気がする。サタナキア砦でアッシュに、コテンパンにやられても、ああはならなかったし、今、この時を迎えるまでにもそうだ。
そしてミラはジーウの本心を初めて耳にした。少なくともジーウがこれまでに——共にした短い時間ではあったが、彼女自身の内面を言葉にし吐露することはなかった。
「ジーウ……」今度は小さく、何か胸につかえるものを吐き出すよう大魔導師の名前を溢し、肩を落とした。
凄惨な戦場となった薄暗い湖畔と森。
夜の帳は幕を開け、立ち込めた朝靄が少しづつ外側から朱色に縁取られた。酷い腐臭に、魔力の硝煙の臭い。それに死屍累々。そんなものが無ければ、素晴らしい一日の始まりを告げたのだろう。だが、そうではない。少なくとも、ジーウが何かに気が付き白騎士を蹴り飛ばすと、全ての魔力の剣を消し去るまでは。
肩を落としたミラの目の前に、蒼い羽の蝶が迷い込んできた。
小さな魔術師は、それにハッとすると周囲を見渡した。
するとどうだろう。いつの間にかに、そこら中に蒼い蝶が舞い踊っているのだ。ミラの顔の近くを掠め飛んだ蝶は湖の方へ、大群を引き連れていくと水魔馬の塊に群がり、蒼白い炎をあげて魔物と共に消え去っていった。「これは……」
ジーウが魔力の剣を消し去ったのは、この蝶が理由だった。魔力の剣を使う必要がなくなったし、これ以上、局所的に魔力の濃度が濃くなるのを気にしたのだ。凄惨な戦場に舞い踊る場違いな可憐な蒼い蝶は、魔力が造り出した模造の蝶。それを造り出した術者が敵だと見なしたものを、隠り世に連れていく案内役だ。つまり——北東の空を見上げたジーウは、それが大魔術の発動の合図だと悟った。「師匠——ヴァノックをやっつけたの?」
ジーウとミラは共に離れた場所ではあったが、一様に北東の空を眺めた。
周囲では次々に魔物達が蒼い炎に包まれ、跡形もなく消え去っていく。二人の足下を揺蕩う朝靄が蒼い炎の色を拾うたびに、スッと刹那の間だけ蒼く染まった。
「アオイドス……」大魔導師と小さな大魔術師が、白の吟遊詩人を案じ、彼女の名前を空に溢したのは、ほぼ同時だった。




