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Killing Me Softly With His Song  作者: コネ
最終章 Killing Me Softly With His Song
120/141

Ragnarok#18_邯鄲(かんたん)の夢③


 

 

 ——王都クルロス王城、大聖堂。

 

 薄暗い白亜の丸い天井をぼんやり眺め、エステル・ベーンはそばかす顔を擦った。

 確か自分は王都エイヤへの旅路にあったはずだ。

 それを思い返すと激しい頭痛と吐き気を覚え、腰をかけた妙にツルツルとした長方形の石台から、堪らず足を放り出し身体を曲げ、掌で口を押さえた。そして、衣擦れの音にハッとすると自分が旅の装備ではなく、肌触りのよい純白のローブを着ていることに気が付き、慌てて周囲を見回した。

 

 後ろを振り向き、随分と荒削りな——いや朽ちていると云って良いだろう。すっかりと暗灰色をした祭壇を目にすると、そこにあるべき、魔導書(グリモワール)の写本が、床へ乱暴に棄てられていた。どうであれ、きっとここは聖堂で自分は、こぢんまりとした礼拝所に寝かされていたのだと判る。

 

 エステルは、さきに覚えた頭痛や吐き気を他所へやり、自慢の赤髪を揺らし石台から降りた。足裏がひんやりとした。目を落とせば長旅用に整えた長靴も脱がされ、裸足なのにも気が付いた。それに、そこはかとなく不安を感じたが、なにはともあれ状況の把握が先だ。壁際に背中を寄せ、少し先に見えた陽の光が落ちる身廊へ慎重に忍び足で向かった。

 

 壁の端からひょっこりと半分だけ顔を出したエステルは、左から聞こえてくる二人の女の声と、随分と不快でしゃがれて、端々に水気を感じる嫌な男の声に気がついた。

 女の声には聞き覚えがあった。

 一人はクレイトンで耳にしたのが最後。

 もう一人もクレイトンでも耳にしていたが、そうだと知ったのはシラク村だった。アレクシス・フォンテーンと<白銀の魔女>——裏切り者のブリタ・ラベリ。アッシュ・グラントがシラク村で「メリッサ」と呼んでいたのも思い出した。

 そうだ。エイヤへの旅路でブリタに襲撃されたのだ。そう想い出すと背中にブリタの気色の悪い温もりが蘇り、胸を乱暴に揉みしだいた魔女のか細い指の感触が再び赤髪の姫を襲った。そして、エステルは右耳を押さえ大きく身震いをした。


 

「エステル。目を醒ましたのね。よかった」

 ブリタの鈴のような声が自分を名前を呼ぶと、サっとエステルは顔を隠したが「はぁ」と小さく溜息を溢し、ここは大農園の客室ではないのだと気持ちを切り替え「ブリタ。これはどういうことなの?」と、身を隠すことを諦めた。

 

 身廊へ重々しく足を運んだ。どうも身体が重い。

 ブリタが自分の耳をかじる前、エステルの腹にアッシュの子供がいるのだと云ったのを想い出した。エステル自身、そこはかとなく、それには気が付いてはいた。フロンで診療をした医者は、それに確証を持てなかったから身籠もっているとは云わなかったのだろう。ともすれば、他の理由なのかもしれないが。だが、ブリタの言葉で、確証に変わった。私は彼の子を宿しているのだと。

 エステルは無意識に、ふっくらとした腹へ優しく手をやり、柔らかく撫でながら身廊を歩いた。



 身廊の先に見える後陣の一歩手前に、彩光塔から刺した陽の光が、大きな円を描いていた。光はキラキラと何かを輝かせ幾筋もの白糸の線を作り、その中に佇む銀髪のブリタを白雪の妖精のように見せた。彼女は純白の装束に身を包み上質でやわらかな外套を羽織っている。純白の妖精——そんな様相だ。


「お腹の子は大丈夫?」

 陽の光に、ほんの少し青みのある銀髪を揺らし、エステルを一瞥したブリタ。その冷ややかな視線はエステルの所作に向けられていた。案ずる言葉は、先ほどとは打って変わって随分と重たい声で、エステルはそれに顔をしかめた。「私も、この子も大丈夫」


「そう。なら良いの」ブリタは、返すと眩い光の中に片膝を立て佇む白外套の()()へ目を戻した。もう、まるで興味がないと云ったように素っ気なく。


「良くないわ。私の質問に答えてブリタ」

 赤髪の魔導師は、ブリタの素っ気ない言葉に苛立ちもう一度強く訊ねた。数十歩いけば、はっきりとブリタの顔が見える。そうすれば、気の済むまで彼女の造りものように白い頬をひっぱたいてやることができる。

 だが、それはできなかった。

 きらきらと光の落ちる後陣が、とても高い丸天井だとわかるくらいの位置で立ち止まったエステルは息を呑んだ。

 

 そこからでもそうだと判るほどに強烈な腐臭——血の臭いが鼻腔を突くと、ブリタと、その前に跪く誰かとの間に大きな黒い塊をみつけ——赤黒い血の溜まりに横たわる人だと直ぐに判った。

 それは黒くなり始めた血の中で微かに動き、小さくなにやら声を漏らし、両脚はなく、腕も片方が綺麗に肩からなくなっている。

 半ば肉塊とも思える血溜まりの人が漏らした言葉は「助けて」なのか「憎い」なのか「許して」なのか、そのどれでもないのか。ただただ薄暗い消えゆく断末魔の欠片のように聞こえた。

 エステルは大きく目を見開き、それが誰であるのかを悟った。断末魔の欠片を発したのは、つまり、血の床に惨たらしい姿を横たえたのは、<色欲>の獣——アレクシスだということを。


 

 <色欲>の無様な姿に気づいたエステルが足を止めると、ブリタは赤髪のそばかす女に苦悶の表情を見つけ、ひんやりと笑った。「そうだったね。いったいどう云うことか? だったよね」

 

 いよいよ、焦ったくなったブリタがエステルの方へ歩き出した。

 ぴちゃっと跳ねる音がした。

 すると黒い血がブリタの白いスカートの裾を汚し、ブリタはそれに目を落とすと、口汚く舌を鳴らす。「汚れたじゃない」と、彼女にしては野太く口にした。その声音はシラク村でも耳にした身の毛立つものと同じだ。


「エステル。私ね、この子にアッシュを連れてきてって頼んだの。

 でもね。そんな簡単な、お遣いもできない駄目な子なの。きっとこう思ったのよね。アッシュに手を貸すからエステル——あなたを救出して逃げなさいって。何も知らないくせに、余計なことを考えたのね。いいえ、教えてあげたけれど理解できなくて怖くなったのかも——」そう、云うとブリタはアレクシスらしきものの腹を蹴り上げ、いっそう白い装束を腐った血で汚したが、今度は気に留める様子もない。楽しげに笑い声さえあげ、そして続けた。


「——え? そう云うことじゃない?

 そんな怖い顔で見ないでエステル。だって仕方ないじゃない。私が欲しかったものを、あなたが手に入れてしまったのだもの。予定よりもだいぶ早くね。こんなところにも泥棒猫が居ただなんて驚き——」そういうと、ブリタは小首を傾げた。「——いいえ、違うわね。アオイドスが担った役を、あなたが奪った。そうね。多分そういうこと。ネイティブのあなたが、彼の愛を奪った。大した大女優。それこそ、この世界にポッとでた新人がベテランから大役を奪ったの。凄いわ」そして、独りごちると、小さく手を叩いた。「でも、そのおかげで大分やりやすくなったの。ありがとうねエステル。何度だって世界図録を覗いたのだけれど、この筋書きは書かれていかなかったから、本当に焦ったの。焦がれたの。わかる、このわなわなする気持ち」

 ブリタはそこで大きく胸で息をすると、彼女が口にした<焦がれ>が随分と愛おしいのか両腕で肩を抱きしめ後陣の天井を見上げた。


 大きな丸天井に設られた七色の硝子の彩光がブリタの白磁の肌を彩った。

「何度も。何度も。何度も。何度も!」最初は狂おしく。続きは落ち着き「——私はお父様に犯され続けたのだけれど。いいの。それは気にしないで」そう、叫び、囁くとエステルへ顔を戻した。「大丈夫。世界図録に書かれていなければ、書けば良いのだもの。選択をすれば良いのだもの。だから、エステル。あなたも選んで」

 <白銀の魔女>はそう云うと、ゆっくりと手を差し伸べるようにすると、エステルとの距離をゆっくりと詰め、微笑んだ。



「な、なにを云っているの? いったい何を選べって云うの?」

 聖堂に漂う狂気に満ちた緊張感を感じる。

 すべからく御神体を祀り、祈り、願う、清らかであるはずの領域。そこで目の前の魔女は淀んだ血に塗れ、天使のように笑い、そして狂った声を挙げるのだ。それが当然のように。

 エステルは、魔女が醸し出す狂気に圧倒されると、後退り、しくしくと痛みが酷くなる耳を押さえつけ顔をしかめた。かつてブリタ・ラベリと呼ばれた魔女は、楽しげに目を細め、やはりまた微笑み手を伸ばし続けた。「見て、エステル。あの子。誰にやられたと思う?」

 魔女は転がった肉塊——虫の息のアレクシスを背中ごしに一瞥した。

 その時だった。今にも割れてしまいそうな硝子のような、軋んだ声が響いた。それはアレクシスのものだった。「エステル・ベーン。耳を塞ぎなさい!」


 ブリタは、それにキッと表情を強張らせると、先程から順々な下僕然と片膝をついた白外套へ「アイザック! その子を黙らせて!」と、キンキン声で叫び散らし命じた。

 白外套はそれに無言で立ち上がることで命に応じた。いつの間にかに手にした鈍い黄金の錫杖を小さく掲げ、次には杖の先を哀れな<色欲>の腹へ突き刺した。アレクシスは堪らず悲鳴を挙げたが、白外套のフードの奥をキッと睨めつけ「どういうつもり」と、ブリタには聞こえないほどに云うと、眉根に強く皺を寄せた。


 

「わ、判らない」ブリタの背後で吹き上がった血飛沫に動揺したエステルは「——話がぜんぜん見えない。何を云っているのブリタ」と、いっそう混乱を顕にし、よっぽど不安な表情をしたのだろう。それが嬉しかったのかブリタは、ほくそ笑み、もう一度背後に転がった串刺しのアレクシスを眺め、右でも左でも足を踏み出せばエステルのそばかす顔に手が届く距離まで詰め寄った。だが、そこで足を止めた。奇妙にも。


「アッシュにやられちゃったの——」少しばかり困った声でブリタは云った。肩を竦め、だから助けて欲しいのだと、薬師に症状を伝え、粉薬でも準備してもらうようにだ。「——少しでも自分の邪魔をするものは容赦なく殺してしまおう。そうアッシュは決めているみたい。何故だか判る? そう。あなたと、お腹の子のため」ブリタは憎々しそうにエステルの腹を指差した。何をされるのかと警戒をしたエステルは腹を両手で隠す。ブリタはそれに、あからさまな嫌悪の空気を撒き散らし<亡者塚>近くの街道で、けんもほろろとイラーリオの願いを蹴った時のように声を荒げた。「どう? 嬉しい? そんなに想ってもらえて嬉しい?」


 ブリタの狂気の言葉は続いた。

 エステルはアレクシスが云うように耳を塞ぎたかった。だが、そうすれば腹の中の子を護れないのではないか? 魔女の言葉に穢されるのではないか? そんな風に思うと、もう目と鼻の先にあったブリタの双眸を睨みつけ腹の上の両手の片方をゆっくりと前へ突き出し、魔女の肩を押した。ブリタは、それには、力無くされるがままに身体を斜めにした。


「でもね。その子が、この世界で産まれてしまっては困ってしまう人達も居るし、喜んで奪おうとする人達も居るし、悲しむ人も居るの。誰がどの立場かは今となっては判らないことも多いけれど、その中にはアオイドスも含まれるし、あの野伏——ああ、アドルフ・リンディも含まれる。ああ、そうそう。大農園に置いてきた——そう。アイネ・ルエガー。それにリリー・ルエガー、トルステン・ルエガー。アレは、まあ死んでも仕方ないのだけれど」ブリタは、そこまで云い切ると、独りごちるよう、ああそれにねと小さく云い「アッシュの母親もそうね。裏切り者のリ——」


「ちょ、ちょっと待って。それはアッシュが、皆んなを殺すと云っているの? アイネまで手にかけると云っているの?」

 ブリタが示唆したアッシュ・グラントが手にかける可能性のある人々の名前に子供まで含まれていることへ、エステルは驚きというべきか、怒りというべきか——勿論、それは平然と子供の命を奪うと云うブリタにだが——心の底に激情を覚えると、今度は先程よりもだいぶ強めにブリタの肩を押し付け魔女の言葉を遮った。魔女の身体を突き返し黙らせたと云ってもいいだろう。そして、負けじと声を荒げた。「なんで? あり得ない。そんなことは絶対にあり得ない!」


 

「なんで?」ブリタは幼い表情を意図的につくると「あり得ない? 全部、全部、ぜーんぶ。あなたのせいよ」と戯けて見せた。次には、忙しく顔に怒りを載せたブリタは、乱暴に再び身体をエステルの真正面に見せると、エステルの肩を人差し指で小突き言葉を続けた。

 言葉の最初は小さく説明臭く云うが、終わる頃には耳を塞ぎたくなるような甲高い声で叫んでいた。


 「あなたが……ガライエでアッシュを選んだのが全ての間違い——それが、別の世界に居るはずだったアオイドスが招いた可能性の一つだったとしても。あなたはアッシュを選んだ。私から奪った。アオイドスから奪った。奪ったの!

 ネイティブのあなたがよ? したり顔で私達から奪ったの! あの物知り顔の吟遊詩人も行先を見失って、私もそうで。私達が馬鹿みたいな顔で暗中模索している間に……あなたがアッシュを奪っていったのよ! だから、今からあなたは選択をしなければいけない。惚けた醜いそばかす面でしれっと選択したことの結末を!」


 しばらくの無言が訪れた。

 遠くから、重苦しい轟音や煉瓦が崩れ落ちるような音。そして、それに驚いた聖堂の中で、いつの間にかに翼を休めていた鳥達が、騒ぎ出し飛び立つ音。そんなものだけが、その場を埋め尽くした。空気は騒めき、丸天井が落とした陽の光が揺れた。


 「エステル! アッシュは直ぐそこまで来ているわ! もう耳を塞ぎなさい! 後は——」再びアレクシスの声が響いた。まったく淑女の余裕はなく、切羽詰まったことを恥じることなく、無言の空気を斬り裂いた。


 <色欲>の淑女はブリタが<傲慢>へ話をしていたことを思い出していた。

 今はまだ多くの人々は外環へ行く術を持たないが、七つの獣は違うと云っていた。獣。つまり吸血鬼の始祖とはアッシュ・グラントが創生の刻、世界へ残した彼の分身と云える身体——土塊から創られていると。

 そして、ここからが理解し難い内容であったが、それ故に外環の人間と在り方を(つい)にすることで、それが叶う。そう<傲慢>へ囁いたのだ。

 いまブリタがエステルに迫る選択とは、それを成し得るもののはず。だが、魔女が<傲慢>へ伝えた言葉が、真っ当であるとも思えない。であれば——逆なのだ。そう、逆。ブリタは随分と前に「私と身も心も混ざりあいたい?」と、いささか歪んだ幼顔で、アレクシスに迫ったことがあった。それは寝台での話であったから、アレクシスは「ええ」と恍惚と答えたのだが、真意は理解できず心の隅へわだかまりを抱えた。「混ざり合ったら私はどうなるの?」 と。



「黙っていろ、色欲の。もうお前の役目はこれでしまいだ」アイザック・バーグは、いつになく神妙な老け顔で云うと「刻を待て」と小さく云った。そして、アレクシスの腹に突き立てた錫杖を、グリっと捻った。アレクシスは、再び顔を歪め口角から覗かせた牙の裏から激しく血を流した。「傲慢……あなた……?」


 

「アイザック?」ブリタは訝しげに目を細めた。「——ところで宮殿にはアガサが居るのよね?」

 それまで微動だにせずアレクシスへ向けられた白外套の気味の悪い視線は、声音低く名を呼ばれると、ゆらりと揺れたように思えた。

 暫くの間が再び訪れた。

 白外套は左手の薬指から人差し指までを腰のあたりで忙しなく動かすと、馬が疾駆するような律動の響きを小さくたてた。トトトン。トトトン。トトトン。と何度目かの音の後にゆっくりと顔を上げた。「ええ。仰せのままに」


「……よかった。ならまだ、お話をする時間も大丈夫ね?」

 ブリタの訝しげな顔はそのままだった。アイザックはそれを知る由もない。だが、白外套の翁は白銀の主人の懸念を払拭するよう深々と首を垂れた。


 少しでも均衡が傾けば、<白銀の魔女>と<傲慢>、<色欲>は、その場で暴れ始め惨劇を演じるのではないか。エステルは再び緊張感に襲われ、ゆらりと一歩退いた。

 均衡を崩さず保ったのはどうやら<傲慢>のようだ。そう思うとエステルはブリタの向こうで深々と、かぶりを下げたアイザックへ焦点を合わせた。

 <傲慢>はきっとエステルの視線に気づいている。だから少しばかり、かぶりを(もた)げフードの際から赤黒の瞳を覗かせた。エステルの清らかな赤瞳と邪悪そのものを体現した赤黒い瞳が描いた視線の軌跡が混じり合う。

 <傲慢>が唇を動かした。そう見えた。

 エステルは片眉を僅かにあげ、小さく首を傾げ<傲慢>が云わんとしたことを考えた。だが、それは、そのやり取りに不機嫌にしたブリタが視線を遮ったことで、思考は途切れた。ぷっつりとだ。「ねえ、ブリタ。早いところ、あなたが与えてくれる選択肢とやらを教えてくれると、嬉しいのだけれど」


「アイザック」ブリタは、不躾に選択肢を求めたエステルの赤瞳を冷ややかに捕らえ背後の魔導師の名を鋭い刃で薄紙をスッと斬り裂くように呼ぶと続けた。「アッシュ・グラントと、あなたが仕込んだ盗賊を連れてきて」

 アイザックは「仰せのままに」と、かぶりはそのまま、スッと音もなく動くとブリタへ錫杖を両手で捧げ渡し、黙りを決め込むとエステルを横切った。そのまま白い影は身廊が造り出した光と影の境目を越え、奥へと姿を消した。


「選択肢……」アイザックの姿が視界から消えるのを確かめると、ブリタは静かに口を開いた。「それはね……」ブリタは勿体ぶるように句を斬り刻んだ。先ほど背後へ退いたエステルの一歩を辿るよう、確かめるよう、詰めたブリタは、そうして微笑んだ。


「そのお腹の子を渡すか。それともここで」ブリタは、発した言葉にエステルが激情し眉根に強く強く皺を刻んだことを、蔑むよう口を三日月にした。そして、錫杖で床を小突くと鋭く乾いた音を立てた「——この錫杖を、あなたの腹に突き立て、胎盤と臍帯(さいたい)をひっぱりだすか……」


 鈍くも張りのあるパーンと激しく頬を打つ音が大聖堂に響いた。

 身廊を形造る綺麗な弧を描いた高天井。

 そこに描かれた誰の使いかも判らない白く小さな翼の子供達。その子らの母親のようである膨よかな女性は片方の肩を露わにする純白のローブを羽織り、黄色よりの赤をした布切れを背中から両脇に通し、たなびかせていた。

 その絵の女性は子供達もそうであるように、アレクシスが造った腐った血溜まりを見下ろしていた。

 そのすぐ前には、右手を振り抜きブリタの頬を強かに打ったエステルの姿と、かぶりを右に向けたブリタの姿があった。白銀の髪が波打つ刹那、ブリタの白い頬は真っ赤に染まっていた。魔女は苦悶の声も、怒りの声も、侮蔑の声も挙げなかった。ただ沈黙した。エステルの声を待つように。


「馬鹿にしないで!

 ブリタ! あなた、何を云っているのか判っているの? あなた達が私をどう呼んでも、どう云っても良いわ! でもね、それだけは駄目。なんの罪もない、この子を穢すような言葉を聞かせないで!」エステルは怒りを露わに声を荒げた。

「穢す? じゃあ訊くけれど。あなたがこのリードランでその子を産んで、アッシュはその子を抱けるの? その子の温もりを感じることができるとでも?」ブリタは、かぶりを傾けたまま薄ら気味の悪い低い声で、云い返した。

 

「どういう意味?」


「判っているはずよ。

 いいえ。あなたがアッシュと交わった日に感じているはず。溶け合う感覚。まるで抱きしめている彼の身体が陽炎のようで不確かで、そして儚く脆いものだと。

 彼の温もりは偽りで、実感してしまえば壊れてしまうのではないかって。そうよ。それが<外環の狩人>の正体。本当の身体は、この世界に存在しない。あなたが、ここでその子を産んでしまえば、その子の運命はリードランに縛られるの。 アッシュは永遠の刻の中、あなたが年老いて死ぬ姿を目にし、その子の寿命を見届ける。そして、全てを失うの。また心を壊すの。でも彼の腕にその子を本当に与えて、アッシュの心を救う方法はある」

 かぶりを戻したブリタは、そこで言葉を切り落とし錫杖で床を叩いた。鈍い黄金の錫杖は、突いた衝撃を合図にパッと白く輝いたかと思うと、捻れた黒い荒縄のような姿となった。黒い荒縄は意思を持ったように、互いがそうであったように二十四本の細い荒縄へと捩れを半分ほどき、ゆらゆらと宙空を揺らいだ。


「——サタナキアの聖域では、邪魔が入ったけれど。

 ここなら大丈夫。このアーティファクトで私と一つになれば、その子をアッシュに与えてあげられるの。どうやって? そうね。それが一つ目の選択肢の答え。私がその子を産んであげる。そう云っているの。あなたが、それを決めてくれれば、他の誰も死ぬことはない」

 でも、あなたは存在を無くしてしまうのだけれどね。そう続けようと口を開いたが、それはやめておいた。そして、ブリタは、勝ち誇ったように今や失意の色を浮かべたエステルの赤瞳を真正面に見据えた。




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