(前世の)妹の話は最後まで聞いとくべきだった
青みがかった銀糸から幾つも垂れる水滴はテーブルを、目の前の男の肌や服に落ちていく。冷たい紅茶を放ったグラスをテーブルに置いたエメリンは、放心する男に言い放った。
「お断りよ、この最低男」
――エメリンが前世の記憶を取り戻したのは一ヶ月前。
二十歳の誕生日に高校時代から付き合っていた彼氏にプロポーズをされた。彼氏は大学生、前世エメリンは就職した為に時間が合わず、中々会えなかったが連絡だけはこまめに取っていた。月一にデートだってした。
成人になったお祝いも兼ねてちょっとお高めのレストランで誕生日を祝ってもらい、帰りに二人がよく行く公園に入った時プロポーズをされた。
これからも彼と一緒にいられる未来があるのだと、感涙した彼女だったが――突如として現れた彼氏の友人らしい男女数人が出て来て状況が一変した。
女の方はお腹を抱えて大笑いをし、男達の方は涙を流したまま固まった彼女を携帯で激写した。唖然としたまま彼氏を見やると彼も笑っていた。
そして言うのだ。
『嘘だよ』と。
その後の事は思い出したくもない。一人暮らしのマンションから実家は近く、公園は実家の近所なので彼氏の顔面に拳を食らわせ今日買ってもらった贈り物全てを投げ更にお揃いの携帯のストラップも千切り捨て実家に帰った。丁度、玄関で会った妹にギョッとされ、顔を見た瞬間堪えていたものを吐き出すように泣いた。
両親が不在なのが幸いだった。玄関で妹に慰められて三十分経過した辺りで漸く涙が止まった。
『あ、ありがとうおぉ』
『なんというか、慰める言葉見つからなくてごめん』
『あ、あんな最低野郎だったなんてっ』
『さっきから携帯めっちゃ動いてるけど』
ディスプレイ画面には彼氏の名前。通話ボタンを押し、即通話終了。次の電話が掛かる前に即着信拒否設定、メールも拒否。SNSもブロック。一人暮らししているマンションや実家の場所は知られているが来たら包丁を突き出して追い出しその後塩を撒いてやる。
『現実世界でも漫画みたいなことってあるのね……』
『あれ小説なんだけどね』
数日前、妹にお勧めされた恋愛小説を読み。読んで一章も終わらない内に返した。
主人公の女の子が長年の想い人である男の子に告白され、喜んで受け入れる。が、実はそれは男の子や男の子の友人が仕組んだ嘘の告白。実行日の前に嘘告白を計画する描写が書かれていたが男の子の方は反応が薄いから乗らないと信じたのに。ネタバラシをされショックを受ける女の子を見て爆笑する友人や男の子に凄まじい嫌悪を示し、先を読むべきだと力説する妹には悪いが読みたくないものは読みたくないと返した。
『縁がなかったってことだよ。明日縁切りで有名な神社に行って完全に縁切りしてもらおう!』
『うん……』
『話聞いたんだからパフェ奢れよ』
『上からね!?』
しょっちゅう喧嘩をしているが今だけはこの子の存在に助けられた……。
――と、その日は実家でヤケ酒を食らって止める妹に『大丈夫、大丈夫』と言ってマンションへ帰ってちゃんと部屋に着いた。
そこからの記憶が飛んでいる。次に目を覚ましたら、数日前に読んだ小説の主人公の女の子になっていた。
(なんでわたしが!? ってなったけど)
放心する男の名はエウティミオ=ハーパー。小説の設定では確か帝国の筆頭公爵家の跡取りで皇太子の右腕として名高く、細く美しい青みがかった銀糸と妖艶に光る紫水晶の瞳の美男子。
エメリンの家アップルビー侯爵家は代々優秀な魔法使いを輩出する名家。皇族と遠縁に当たるハーパー公爵家は騎士の家系。魔法使いと騎士の関係は安定しており、戦場においての役割は違えど的確に互いを支援する。前線で戦う騎士を後方から援護する魔法使い。昔は仲が悪かったと聞くが百年程前に起きた戦争で手を取り合い協力して敵を倒したことで、両者の関係性が大きく変わった。
魔法使いと騎士の名家であるアップルビーとハーパーの子供が交流を持つのは不思議じゃない。子供の時から交流があるエウティミオをエメリンはずっと恋い慕っていた。
小説の一章しか読んでいない自分でも分かるくらいに。
ただ、相手を好いていたのはエメリンだけでエウティミオはそうでもなかった。
「エメリン…………?」
長い沈黙の後、漸くエウティミオから発せられたのはエメリンの名前。
一章は嘘の告白だとネタバラシをされ、固まるエメリンを隠れていた友人やエウティミオが大爆笑するシーンで終わった。続きは絶対に胸糞悪いからと見なかった。妹はこの先から面白いのだと力説していたが絶対に御免だと読まなかった。
寡黙で冷たい気配を纏うエウティミオが大爆笑……挿絵がなかったので想像がつかない。実際に本人を前にしても、この見目で大爆笑の姿は頭に浮かばない。
自分がどうしてエメリンになったかは分からない。一か月で状況を把握し、生活に慣れた。頻繁に会いに来るエウティミオが実は内心エメリンを馬鹿にしているとは、計画を練った友人達以外知らないだろう。
“ずっと君が好きだった。私と婚約してくれないか”
中身がエメリンから彼氏に嘘プロポーズをされた失恋中の自分になったと知らないエウティミオは、まさか断られた上に冷たい紅茶を掛けられるとは思ってみなかったろう。
「な……なぜ……?」
顔は青く、声は震えている。
「何故? 何故ですって? そんなの、ハーパー公爵令息様が一番ご存知なのでは?」
「な……」
いつもならエウティミオ様と呼んでいたのに、急に他人行儀に家名で呼ばれ、益々エウティミオの顔が悪くなっていった。
「わたしに嘘の告白をして笑い者にしようと計画されていたのでしょう? 残念でしたね、計画が失敗して」
「何の話だ!? 私がそんな最低な真似をすると思っているのか!?」
しただろうが! と言いそうになるも、あれは小説の世界の話。現実では未然に防いだ。咳払いをし、鋭く細めた目で心外だと言い募るエウティミオを睨んだ。
ショックを受け、昏くなった紫色の瞳にジッと見られ、体が強張った。
「……君は本当に私がそんな計画を練ると?」
「ハーパー公爵令息様と親しいベラ様やご友人方と話されていたではありませんか」
描写されていた日は丁度エメリンがハーパー公爵邸のお茶会に招待された時。エウティミオと親しい友人も呼ばれており、エメリンがいない場所に集まり密かに計画を練っていた。実際のエメリンには知られなくても、前世の記憶を持つ今のエメリンは知っている。
エメリンが出したベラはエウティミオの従妹で今まで散々嫌がらせを受けてきた。見目だけは誰もが心奪われる可憐な美少女。ふんわりとした栗色の髪と大きな翡翠色の瞳を潤ませたら虜にならない男はいない。
昏い目で見つめるエウティミオの視線がなんだか怖くてエメリンは席から立ち上がった。咄嗟に動こうとしたエウティミオの前に、以前お揃いで買ったブレスレットを置いた。
「お返しします。捨てるなりなんなりご自由に」
「エメリン! 待ってくれ、エメリンの言っているそれは」
「言い訳等聞きたくありません! 人の気持ちを弄んで楽しむ貴方となんか死んでも婚約なんかしたくない! ハーパー公爵令息様にはベラ様がお似合いよ!」
性悪同士いつまでも仲良くよろしくやればいい。背後からエウティミオが何かを叫んでいるがエメリンに聞くつもりは一切ない。
どうせなら顔に叩き付けてやりたかった。顔に怪我をされて慰謝料を請求されたらこちらが悪者になる。
アップルビー家に戻ったら、まずはエウティミオから贈られた今までの贈り物を全て換金し、お金にならない品は廃棄。手紙は焼却行き、後は何かと思い出しながら玄関に差し掛かった辺りで腕を掴まれた。
「エメリン」呼ばれた声は至って冷静なエウティミオのもの。しつこいと苛立つも、さっきの冷静さを失ってエメリンを呼んだ声とは違い過ぎて思わず振り向いてしまった。
ん? と内心首を傾げた。
姿形は同じなのに違和感があった。
そうだ、紅茶を掛けたエウティミオは頭と顔を中心に濡れていたのに目の前にいるエウティミオはどこも濡れていない。
「待って。帰らないで。君の誤解を解きたい」
「……魔法で頭を乾かしました?」
「エメリンが会っていたのは私じゃない。あれだ」
あれ、と言ってエウティミオが指したのは、先程エメリンが紅茶を掛けたせいで頭と顔を中心に濡れているもう一人のエウティミオだった。左右を屈強な大男に挟まれていた。更に後ろには拘束されている男女数人。中には天敵ベラもいる。
同じ顔が二つ。エメリンの記憶にはエウティミオに双子の兄弟はいない。
状況が飲み込めず、当惑した眼でエウティミオを見上げると冷たい相貌に笑みが浮かぶも、紫水晶の瞳は恐ろしいまでに冷え切っていた。
「エウ……ティミオ、様?」
「……ああ、良かった。エメリンに家名で呼ばれたら、すぐにあの馬鹿の首をへし折っていたところだ」
「ひ、ひ」と発せられた悲鳴はもう一人のエウティミオ。彼の声が大きかったのでエメリンの小さな悲鳴がエウティミオに聞かれることはなかった。
「馬鹿や後ろの野次馬はそれぞれの家に帰せ。後日、素敵な報せを届けてやろう」
笑っているのに紫水晶の瞳から飛ぶ多量の殺気と冷気に当てられて何人かの令息が気を失い、顔面蒼白なベラはすぐにでも気絶寸前。
「おいで、エメリン」
「あ」
殺気と冷気を仕舞ったエウティミオは作り物の感情を乗せ、固まっているばかりであるエメリンの手を引いて屋敷の奥へ行った。着いたのはエウティミオの私室。二度しか招かれていない私室に入れられ、緊張が増した。部屋にいた侍女や従者を皆追い出し、二人きりになると「エメリン」と呼ばれ抱き締められた。
「気付いて良かった。あの馬鹿とベラ達が下らない計画を練って私に聞かせてきた時点で行動に移しておくべきだった。まさか、本当に実行するとは」
「え、えっと」
「まあいい。あの馬鹿は後で半殺しにする。漸く父の許可が下りて君との婚約を許してもらえたのに、最高な気分が台無しだ。馬鹿を見張っていた使い魔がね、取り巻き連中やベラを密かに屋敷に入れて、私の振りをした馬鹿が君に残酷な嘘をつくと聞かされ急いで城から飛んできた。頭は馬鹿でも魔法に関しては腕がいい。君を傷付けていたら絶対殺してやろうかと思ったよ」
「エウティミオ様、あの方が偽者なら一体誰なのですか?」
「でもさっきのエメリンは酷いなあ。いくら偽者と気付かなくても、デートで買ったお揃いの腕輪を外すなんて。ちゃんと持って来たんだ。誤解が解けたんだから今度からは外さないでね。行動だけじゃない、言葉も酷いよ。君は私が好きな女性に嘘のプロポーズをする男だと信じたのかい? 紅茶を掛けたのは良いけれど、その後に続いた台詞は私でも傷付いたなあ」
駄目だ。瞳孔が開いて歪な笑みでエメリンを離さないエウティミオは一切聞く耳を持たない。エメリンが外した腕輪を付けると口付けを落とした。様になっているのに怖さしかない。
妹に借りた小説の内容を頼りたくても、一章だけ読んで胸糞悪いと返してしまったせいで続きを全然知らない。
エメリンの記憶を辿り、言葉が止まらないエウティミオを黙らせる方法を見つけた。
「エミール様!」
「……なにかな? エメリン」
「(や、やった! 止まった!)」
街でデートをする際に使うエウティミオの偽名を呼んでみたところ、ノンストップで喋り続ける彼をやっと止められた。うっとりと見つめられてしまい、気恥ずかしさが勝って頬が赤くなる。距離を無くすよう抱き締められ、愛おし気に名前を呼ばれ額にキスをされる。何が正解か、間違いか、知識が殆どないエメリンには皆目見当もつかない。機嫌を損ねたら何をしてくるか不明な怖さがエウティミオにはある。
「さ、さっきの、方は一体誰なのですか?」
「あれ? あれは大公家の……ああ、エメリンは名前を覚えなくていいよ。もう関わることはないから。他のもね」
「エウティミオ様の姿を偽ったのは?」
「うん? ああ、どうせベラの我儘に振り回されたんだろう。大公家の令息はベラを好いているから、ベラに頼まれてエメリンを傷付けようと画策したんだろう」
あればかりで誰を指しているか分かりづらいがぼんやりと誰が誰かは分かる。
「エウティミオ様はベラ様達の計画に乗ったのではないのですか……?」
「私が? 何故? 何故エメリンとの婚約を父に頼んでいた私が?」
「え、ええっと」
――え? ど、どうしよう……!
まさか、小説を読んでエウティミオが感涙するエメリンをベラ達と一緒になって爆笑すると知っていたから、等と口が裂けても言えない。
何も答えられずにいると妖艶な輝きを持つ紫色が次第に昏くなっていった。
「エメリンは私が反対しなかったから乗ったと思ったの?」
「あ、え、あ、はい……」
「どうでも良かったからさ。実際に実行する気なら、事前に私が防いでエメリンの前に姿を現さないようにしたらいいと。……そうか」
急に一人で納得したエウティミオは延々「そうか、そうだったのか」と紡ぐ。得体の知れない恐怖がじわじわと押し寄せ、離れたいのにエウティミオの抱き締める手が強くて離れられない。
「好きな女性に好きになってほしくてずっと特別扱いをしていたのに、馬鹿共のせいで全部台無しになったと思ったが違うのか。私の頑張りがまだまだ足りなかったのか」
「あ、あの、エウティミオ様」
「あそこまで言い切るということは、内心私は信用されていなかったということになるのか。それともエメリンの割り切りが良すぎるのか。どちらにしても私はこれから益々励まないといけないな。君にもっと好きになってもらえるように。いやこれから好きになってもらえるようにか」
「エミール様、わたしの話を聞いて!」
「何かな、エメリン」
偽名を呼ぶ方がエウティミオは聞く耳を持ってくれると分かり、これからは積極的に使おうと決め。うっとりと見つめられる恥ずかしさに耐え、目だけは逸らせないと気を張った。
「……申し訳ありませんでした」
「エメリン?」
「ベラ様達の計画を聞いても反対しないエミール様に不安を感じて……さっきも偽者のエミール様だとは思わず」
「だからこそ私は間に合って良かったのさ。大公家の令息は変身魔法だけは上手いから」
今度のあれが大公家の令息を指しているとは分かった。
小説の内容とえらく違うエウティミオに戸惑いつつも、心底エメリンを愛しているんだなと感じさせる熱の籠った紫水晶の瞳を向けられ胸が熱くなった。愛おしくて仕方ないと言わんばかりの声と共に抱き締められ、すっかりとエウティミオへの認識を変え大きな背に腕を回した。
何故自分がエメリンになってしまったかは不明だが、彼なら、エウティミオなら、信じても良いと確信を持てる自分がいる。
「さあ、エメリン。今から体験しておくれ」
「体験?」
「ああ。二度と私の気持ちを勘違いしないよう、エメリンには是非私の気持ちを知ってほしいんだ」
そう言って横抱きにされたエメリンが連れて行かれたのは寝室。別の意味で顔を青くしたエメリンが暴れてもエウティミオの相手ではなかった。
寝台に寝かされ、嬉しさを全面に押し出してドレスを器用に脱がしていくエウティミオを遠い目で見上げたのだった。
――ちゃんと妹の話を聞いて、最後まで小説を読んでおくべきだったな……。
てっきり、胸糞展開からの別のヒーローとの恋愛が始まるかと思えば、ヒーローは最後まで同じで。
あまりにも愛が重たすぎる男なだけだった。
「お姉の馬鹿っ、泥酔状態でお風呂に入るなんてっ」
「お姉に嘘プロポーズをした大馬鹿男は私がちゃんと退治してやったからね」
「冗談だとか、お姉のことを愛してるとか宣った男の声なんか聞かせられない。面会拒否にしてもらったから安心してね」
「昨日はありったけのお茶を掛けてやったけど、次来たら包丁突き出して塩を撒いてやる!」
「大馬鹿男と一緒になってお姉を笑った奴等も来たけど、そいつらに関しては勝手にお姉の写真を撮ってたっていうから、後で弁護士を連れて行くから覚悟しとけって言ったら土下座して私の目の前でデータを消してきたよ。バックアップは取ってないって言われたけど、お父さんもお母さんも信じてないから連れて行くのは変わらないって言っといた」
「だからさ、安心していいから、早く起きてね。お姉にこの前勧めた小説の続き、内容言うからやっぱ読んでほしいんだ。物語の世界にもあんな最低男は滅多にいないって知ってほしいもん」
真っ白なベッドで眠る姉の手を握り、今日も妹は姉の目覚めを待つ。