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最強騎士の孫娘は小柄で華奢でも騎士道を突き進む!

「おばあ様・・・」

 しんしんと雪の降る中、少女が一人真新しい墓標の前に跪いていた。

 どれぐらいここでこうしていたのだろう、少女の肩には数センチの雪が乗り、黒い外套の半分は雪の色に変わっている。

 寒さで赤くなった少女の頬を涙が伝って落ちる。

 元々小柄な少女が屈むとただでさえ小さく見えるものだが体を丸めたその姿は幼子の様だ。

 白い墓標にすがるように跪く赤い髪の華奢な少女の名はドロテ・ロシュフォール。この地に古くからある上級貴族ロシュフォール公爵家の末娘だ。

 ロシュフォール公爵家はアシハール平原のほぼ中央に位置するブリュセイユ王国にあって昔から優秀な騎士や文官を多数王宮に供給しているグロッソ家と並ぶ最大派閥の名門である。

 そのロシュフォール家に生を受け王国歴代最強と言われた聖騎士アミラ・ロシュフォールが昨日朝日の神アマデウスの元に召された。


 この世界に生きる者はすべからず生まれた日に因んだ精霊の加護を受け、僅かながら魔法を使い生活に役立てている。

 一週間は”九の精霊日”と”日の大神の日”からなる。

 日の大神の日から始まる一週間の月の精霊日生まれは機敏な者が多く、夜目が利き戦で力を発揮する。

 火の精霊日生まれは水や金属に熱を伝えられ木材があれば火を起こせる。

 水の精霊日生まれは空気中から水を集められ、凍らせる事が出来る。

 風の精霊日生まれは風向きを読む能力が高く気候を予見出来る為漁師や船乗りに向いている。

 木の精霊日生まれは生命力を司る精霊の加護を得られ生あるものに癒しを与えることが出来る。

 金は鉱石の精霊。加護を得られれば石工、金属加工夫や鍛冶師への道が開ける。

 土の精霊日生まれに耕されると良く肥えた畑に、領主になれば領地全体の土が肥える。

 地の精霊日に生を受けると丈夫な体を授かる。

 天とは叡智の精霊で文官に多く商売にも能力を発揮する。

 これらの加護は他者を圧倒するものではなく個性のレベルで、火を起こせるといっても薪に火を着けられる程度でけむりが出るまでかなりの時間を要する者から数秒で発火させられる者もいる程能力に差がある。そして例えその精霊日に生まれた者でも加護を得られない者もいれば自分の精霊の加護に加え、両親の能力も引き継ぐ者もいて様々だ。

 ”一説には日の大神の日に生まれし者”で剣技に秀でた者の中から数十万人に一人極稀に強力な精霊魔力を発現させる者が現れる。騎士千人、ニ千人に匹敵する程の力を持つその者は聖騎士と呼ばれ国の防衛に多大な影響を与える存在となる。聖騎士が一人いる事で敵国は簡単に攻め入る事ができなくなるからだ。例えるなら核兵器に近い。在る事が抑止力なのだ。

 ドロテが騎士学校の長期休暇で帰省した折彼女の祖母でブリュセイユ王国最後の聖騎士アミラが逝去した。

 享年六十。老衰だった。聖騎士の数が極端に少ない為推測の域を出ないが強大な魔力を使う聖騎士は生涯で使うエネルギーが多すぎる為に皆短命だと言われている。


「おばあ様・・・おばあ様・・・おばあ様・・・」

 無風の中真っ直ぐに天から落ちてくる雪は墓標や草木、空と地の境界、ドロテの輪郭までもぼやけてきたが彼女はその場を動こうとしなかった。



 ロシュフォール家は極端な男系の一族で女子はだいたい一代おきにひとりの割合でしか誕生しない。

 アミラは娘を授かる事を強く望んでいたが彼女が生んだ子は三人とも男子でそのどちらの孫も全て男子だった。そんな中、長男夫婦の四人目に待望の女子が生まれた。それがドロテだ。

 アミラの喜びようは相当なもので既に騎士団を退いていた彼女は実母オルガや乳母よりもドロテを抱いている事が多い程であった。

 ドロテは当然の様に所謂”おばあちゃん子”に育ち、物事が理解できる年になりアミラが数万人に一人の聖騎士であることを知ると王宮や騎士団からの使いの者に武勇伝をせがんで回った。

 そしていつしか祖母はドロテにとって優しいおばあ様から憧れに変化し、小学院卒業の頃には目標へと変わっていった。


 そんなドロテは騎士の道を進むことを父フランクに猛反対されながら育った。

 その理由は二つ。

 一つはロシュフォールと並び王国の二大派閥であるグロッソ家との関係だ。

 ”平和は武力によってもたらされる”を家訓とし、王国に優秀な戦力を続々と送り込むグロッソ家とアミラという聖騎士を擁するもどちらかといえば王族の側仕えや文官を多く輩出するロシュフォール家という関係性が保たれ、これまで両家は派閥の頂点でライバルでありながら大きな権力争いが起きたことが無かった。

 しかしロシュフォール当主家に生を受けた三兄弟によって状況が一変する。

 ドロテが八歳を迎えた年の冬、長男ユリウスは”鋼鉄の重騎士”の異名を持つガスパー・ランバートに師事し始めた事をきっかけに剣の才能を一気に開花させ、若干十九歳で八十八ある小隊ナンバーがそのまま序列という騎士団の第十小隊隊長となった。

 次男エリアスは王国騎士を選別する騎士学校で稀に見る優秀な成績を収め新兵が配置される上限いっぱいの第三十一小隊に配置され、十三歳の三男ニルスもロシュフォール家が抱える剣術指南騎士に「現時点で教える事はもうない」と言わしめる程の才覚を発揮していた。

 そして翌年起こったアシハールの大戦で功績を上げたユリウスとエリアスは騎士団での地位をさらに上げ、昨年秋、ユリウスは時期騎士団長に指名され、エリアスは副騎士団長の候補に挙がった。更にニルスも第一小隊長に指名される公算が高まって、文官寄りであるロシュフォール家の三兄弟が騎士団の要職を独占する事態が起きたのだ。長年グロッソ家の管理下にあった騎士団が「ロシュフォールの手に渡ってしまった」と当主ガブリエルが激怒した事は言うまでもない。

 そんな折末娘のドロテまでもが文官の道に進まず、騎士学校入学となれば火に油を注ぐが如くである。

 三人の息子が騎士団の上位職を独占したのはたまたまだが古くから王国を支えてきた上級貴族として議会で決定したものを全て辞退するわけにもいかない。

「ロシュフォール家の総意ではない」とあまり権力欲のないフランクは火消しに奔走したのだ。


 フランクがドロテの騎士学校入学を反対する理由の二つ目は生まれた時から小柄で十六歳の時点で身長百六十二センチ、体重四十八キロという彼女の体格だ。騎士としてはあまりに小さいドロテが卒業試験を勝ち抜くのは容易ではないという判断からだ。

 卒業試験は5~6人のチーム戦で国王と軍事関係者の他に多くの観客を入れて行われる年に一度の一大イベントとなっていて、大勢の目の前で己の騎士としての素質を示す摸擬戦だ。

 騎士団に入れるのはこの摸擬戦の上位3チームだけで他は卒業は出来ても王国騎士団には入団出来ない。留年や再入校は認められず再試験も行われない。

 騎士団入団が叶わなかった者は自領又は地方領主に雇われる”地方騎士”として生計を立てながら騎士団昇格を目指すしか道が無くなるのだが、当然騎士学校を卒業した若い才能が続々と入ってくる王国騎士団から弾き落とされた者も地方騎士となるので非常に数の多い”下級騎士”の中から這い上がれる者は滅多にいない。それ故御前試合とも称される一発勝負の摸擬戦は木剣を主武器としながら毎年多くの死傷者を出す程激しい本気の戦いとなる。

 数字だけ見ればドロテは女子としてそこまで小さくは無いが騎士を目指す女子の平均は身長百七十五センチ、体重六十五キロ程という事を考えるとそれだけでも御前試合を勝ち残る事は難しいと言わざるを得ない。彼女の入学は父フランクだけではなく母や兄も反対し、使用人達までも「おやめになさいませ」と心配を口にしていた。

 また、騎士学校を卒業したにも関わらず騎士団に入団出来なかった者は”金だけ使った落ちこぼれ”の烙印を押され、家名に傷をつける事になるので余程の才能が無い限りは如何に上級貴族の子と言えど簡単に入学を決めないという背景もある。それほどに王国騎士団はエリートの集まりなのだ。

 文官大学へは騎士学校を卒業した後でも入学は出来るが運悪く大怪我を負ってしまうと文官どころでは無くなってしまう。それに一目見て騎士になるには難しいと思えるドロテを入学させて再起不能などになろうものなら名家の当主としても派閥の長としても資質を問われ「そこまでして現場の中枢を掌握したいのか」とグロッソ家との火種を一つ増やす事にもなりかねない。ロシュフォール家にとってドロテの騎士学校入学はデメリットがとても大きいのだ。


 ドロテの騎士学校入学を猛反対するフランクに対し唯一異を唱えたのはアミラだった。

 ドロテ幼少の頃は息子である当主フランクの文官大学に入れるという方針に沿い静観していたのだが成長するにつれ騎士の素質ありと見たアミラは騎士の道も考慮に入れるべきだとフランクと意見を戦わせるようになった。

 そして騎士学校と文官大学への入学書類提出期限が近付いてきた頃には「ドロテには騎士としての資質を十分に持っている」と衰えた体を震わせ、ここ十数年聞いたこともない程大きな声で毎晩のようにフランクとやり合った。

 最後は「なにかあれば自分が責任を取る」と言ったアミラに根負けしたフランクが折れ、ドロテの入学が決まったのだ。

 ドロテにとって優しい祖母であり憧れで目標、そして唯一の理解者だった王国最強の聖騎士アミラは冷たい真っ白な石の下に眠っている。

 雪の降る朝ドロテはアミラ・ロシュフォールの名が彫られた石をいつまでも撫で続けた。



「えいっ!えいっ!」

 赤毛の少女が一心不乱に木剣を振っている。

 エネルギーを蓄えた花の蕾が弾け始めた初春でまだ肌寒さを感じる時期だが少女の額には霧吹きで吹いたかのような球の汗が張り付いていた。

「ドロテ、むきになって力任せに振っているようではだめなのですよ」

 傍らで椅子に腰かけて読書をしていた祖母アミラが孫娘に穏やかな口調で言った。

「だってどれだけ振ってもおばあ様の様な音がでないんですもの!」

 少女はぷぅっと頬を膨らませた。

 もっと教えてくれたら良いのに!という抗議の顔だ。

「・・・」

 この頃のアミラはドロテを自分の進みたい道に行かせてやりたいと思ってはいたのだが家の事情から将来は騎士学校ではなく文官大学へやることが話し合いで決まっていて剣の手ほどきはしていなかった。

 しかし先日あまりにも真剣に教えを乞うドロテに負けて一つだけ教えたことがあった。それは剣を振った時の風切り音だ。

 例え息抜きであっても剣術を一から教えるとなると時間も必要でドロテの性格から勉強がおろそかになってしまうに違いないと考えたアミラはドロテに目をつぶらせて剣を振った時の風切り音の違いだけを教えた。

 短く強く高い風切り音が出る様になれば太刀筋、腕のしなり、力の抜け方、拳の力の入れどころ、全てが出来ているという事となる。

 時間さえあればすぐ上の兄ニルスの修練を見に行ってるようだが大人でも音だけ聞かせて自分で考えてみろと言われて出来るものではないし、基本も教わっていないドロテがたったこれだけのヒントで上達するとはアミラは思っていなかった。

 むしろどうしてもできなくて時期に飽きるだろうと思っていたのだが逆に最近は汗をかき手に豆を作るほど剣を振るようになったドロテを見て少し驚いていたところだ。

「お嬢様ー!ドロテお嬢様ー!」

「!」

 木剣を振っていた幼い腕がびくっと止まった。

 ドロテは兄ニルスから貰った短木剣を後ろ手に隠し、木漏れ日の中椅子に腰かけて本を読むアミラの横にぴったりと張り付いた。

 この場所はロシュフォールの屋敷の裏手にあって屋敷よりも以前からそこにある巨木の周りを天然芝で覆い庭にしたアミラお気に入りの場所で特に家の者の出入りを禁じているわけではないのだが皆アミラを気遣ってかあまりここに立ち入ることが無い。その為大好きな祖母と二人だけの時間を作れるこの場所はドロテのお気に入りでもある。

「ドロテお嬢様、やっぱりこちらにいらしたのですね。お勉強の時間ですよ、サシャ先生は既にご到着されいてお待ちです」

 ドロテを呼びに来たのは侍女のファニーだ。二年前からドロテ付きの侍女となったのだが思考が父フランク寄りな上に母オルガよりも口うるさくてドロテが苦手な相手の一人だ。

「イヤ!私はもう少し剣を・・・おばあ様とここでお話していたいの!お勉強は・・・後でやるわ!」

「そんな我がままを言われては困ります。十の時から昼食までをお勉強の時間とする事は私がお屋敷に来た時からのお約束で御座います」

 ドロテはぶぅと分かり易く頬を膨らませた。

 勉強をさぼった言い訳などなんでも良いはずなのだがドロテが咄嗟に剣を隠してアミラとお話をしていたという言い訳をしたのは剣を振っていたことを父に知られたく無かったからだ。

 ファニーは人柄が悪いというわけではないがドロテ付きの侍女なのにフランクのいう事を優先する所がドロテは気に入らない。

 ブリュセイユ王国の貴族の子は十歳から十六歳まで王国が管理運営する小学院で学び、十六歳以降は一年間騎士学校へ行く者と二年制の文官大学院に進む者に分かれるのだが十歳より前は各家で教師を雇い幼児教育をするのが一般的でファニーはドロテの教育を始めるにあたってドロテに付けられた侍女だ。

「・・・」

 ドロテは眉尻を下げて「私この方苦手です」と言いたげにアミラを見た。

「ドロテ、約束は守らなくてはいけません。それに騎士は体や技術ばかりでなく賢くなければ務まりません。お勉強も大事ですよ」

 ドロテの絶望的な目に笑いを堪えながらアミラは言った。

「・・・分かりましたおばあ様」

 ”騎士は賢くなければ務まらない”大好きな祖母に言われてしまっては従わざるを得ない。「おばあ様みたいになる!」が口癖のドロテは観念したようでとぼとぼとファニーのところに歩いて行った。


 アミラはドロテと同じくロシュフォール家に生まれた久しぶりの女子だった。アミラの下二人は弟でアミラが生んだ子二人も男子、父の兄弟も男三人でその子供も全て男子、祖父の子にも女子はひとりもいないという筋金入りの男系だ。

 父はアミラの誕生に「何十年ぶりかに王宮に女子を入れられる!」とたいそう喜んで幼少期から文官大学に入学させるべく英才的な教育をさせた。

 しかしアミラ十五歳の時事件が起きた。屋敷に来ていた王宮からの使いの馬が野兎に驚いて暴れて轢かれそうになった時突如精霊魔力を発現させたのだ。

 聖騎士の誕生にはいくつもの説が存在するがその中でも精霊魔力は古から剣の修練をする過程において心身共に強靭な者が特に精霊の加護を賜り発現すると言われていてそれまで剣を一度も振った事が無かったアミラが精霊魔力を発揮した事は想定外中の想定外で屋敷だけでなく王宮をも巻き込んで上を下への大騒ぎとなった。

 当時ブリュセイユ王国はゴズワール王国、ニネ公国の三国が隣接する戦略的に重要な北の領地を巡る大規模戦闘でゴズワール軍に敗れ唯一の聖騎士を失ったばかりであった。

 そんな時突如自国に出現した貴重な聖騎士を確保すべくブリュセイユ王はすぐさまアミラを騎士学校に入学させるようロシュフォール家に王命を出した。

 国の素早い動きはブリュセイユ北方の領地を手中に収めニネ公国への侵攻ルートを確保したゴズワール王国が当時聖騎士を擁さなかったニネ公国を僅か一日で陥落し隷属させたからだ。聖騎士の存在しない国は驚くほど脆いのだ。

 その後ブリュセイユを手中に収めるべく北領で軍備を整え情報収集をしていたゴズワール軍の間劇を衝いてブリュセイユ軍が急襲した。聖騎士アミラの騎士学校卒業が間に合ったのだ。

 騎士学校を卒業したばかりの新兵を最重要作戦の要として参戦させるのは無謀と言えるがゴズワールに対して聖騎士の存在をアピール出来れば良いというブリュセイユ王の判断だった。例え負け戦で撤退を余儀なくされたとしても簡単には陥落できないと知らしめるという目的は果たされる。アミラが無事に帰還出来れば良いのだ。

 しかしここでまた想定外の出来事が起こった。アミラが敵聖騎士を撃破したのだ。大いに驚いたブリュセイユ王は敵軍撤退の報をもたらした伝令に三度聞き直したという。

 王が驚愕した理由は聖騎士の特性にあった。聖騎士には個によってばらつきがあるが、半径5~10メートルのお互いの魔力を無効化する魔力領域≪レジオン≫が存在し、この魔力領域が重なる空間では魔法を発動することが出来ない。聖騎士同士が至近距離で対峙した場合、無理に気を込めれば魔力領域≪レジオン≫内で電気がスパークする如く魔力が爆散する。このため一般騎士は近づくことが出来ない上に聖騎士同士の戦いは己の剣の技術のみで雌雄を決する事になるのだ。


 ゴズワール軍撃破の報に国中が沸いた。

 騎士学校での修練と入学前の準備期間を合わせても二年に満たないアミラが騎士学校を次席で卒業したことも驚きだが卒業直ぐの初陣で敵聖騎士を撃破した事は奇跡に近い。

 貴重な聖騎士を複数人抱えると言われている大国ゴズワールにとってみれば小規模戦闘での些細な敗戦かもしれないがブリュセイユにはとても大きな戦果だった。

 その後真新しいライトメイルを纏った美しいアミラの戦いを見ていた兵士の「白鳥が舞うが如く剣を振る」という言葉が広まり、いつしか”白銀の聖騎士”と呼ばれるようになり、絶大な支持を得て王国初の女性の副騎士団長に就任しドロテが生まれる前年まで騎士団を率いた。


 優しい上に本の物語に出てくる主人公のような祖母に物心のついたドロテがべったりになるのは当然と言える。

 この頃のアミラは有無を言わさずドロテを文の道に進ませようとするフランクの方針には疑問を持っていたが文官大学に入れる事については賛同していた。

 専属教師のサシャ・ソレル曰く「いつも眠そうで少し目を離すとよだれを垂らしているのですが、節目の試験では毎回ほぼ満点を取る不思議な秀才」だそうで、今日の様に多少勉強をさぼってもサシャは強くしかる事は無く、フランクやオルガが勉強に関する質問をしても驚くほど的確な回答をするのでドロテに関して勉強そのものに苦言を言う者は誰も居ないほどだったからだ。

 それだけにフランクのドロテに対する期待値は高く、隠れて剣を振っている事を余計に無駄だと感じているようでドロテにとっては気の毒と言える。


 木剣を渡しなさいと手を差し出したファニーに対して反対側に持ち替えてイヤイヤをするドロテの後ろ姿を見てアミラはふふと笑った。



「はっ!はっ!はっ!はっ!」

 リズミカルに丘を駆け上がるドロテは十歳になっていた。

 急いでいるのはフランクの小言を聞いていた為いつもより少し遅れたからだ。

「はあっ!」

 丘を登り切った所から見下ろすと切り開かれた広場で多くの少年騎士達が剣を振っていた。

 この広場はロシュフォール領で騎士を目指す十五歳以下の少年たちが小学院での授業後修練をする稽古場で王国騎士団の猛者達が交代で指導に来ているのだ。

「間に合いましたね。今素振りを始めたところですよ」

 声の方に顔を向けると丁度良い頃合いの木を背に天然芝に座って左手に本を持っている少女がいた。

 小さな花のあしらわれた橙色のスカーフを頭に巻いた色白の少女はドロテよりも少し大人びて見えた。

 ここで少年騎士達の修練を見学するのがドロテの日課なのだがこの少女も本を手に週一度ぐらいの頻度でこの場所に来ている。

「貴方は領主のフランク様に剣術を禁じられているのでしょう?こんな所で剣を振ってて良いのですか?」

「・・・貴方は私の事を知っているのね」

 ドロテとこの少女は時々この場所で顔を合わせるのだがいつもはお互いすこし距離を取っていて特に気にも留めていなかった。ドロテは少年たちの動きを真似て剣を振る事に忙しく、少女は修練などそっちのけで黙々と本を読んでいるからだ。

 今日はドロテが慌てて駆け上がってくるポイントがずれて少女のすぐ脇にきたので声をかけたのだ。

「もちろんです貴方は有名人ですから。ロシュフォール家の末娘で聖騎士アミラ様の孫。赤毛のドロテ。知らない者などおりませんよ」

 少女は開いている本に口元を挟んで小さく笑った。

 アミラの孫であることは隠しようがないが剣術の事まで知られているのかとドロテは少し恥ずかしくなった。

「ひ、一つ訂正しておくわ。皆が私に剣術を教えるのを禁じられているだけで私が剣を振るのは自由なの!分かった?」

「それでここにきて皆の修練をこっそり見学してるのですね」

「こ、こそこそなんてしてないわよ!私が毎日ここに来ていることは皆知っているわ!剣術に興味がなさそうな貴方こそこんなところで隠れて本なんか読んでて何をしているのかしら?」

 言われっぱなしでは癪なのでドロテも少し反撃してみた。

 すると少女はゆっくりと立ち上がり会釈した。

「申し遅れました。私はベアトリス・プリエと申します。私はドロテ様のお姿をよく拝見しておりましたし、色々な話も耳にしておりましたので全く知らない方という感じがしていなくて・・・困ったわ・・・こういう時どのようにしてご挨拶したらよいのでしょう?ごめんなさい」

 ベアトリスとドロテがここでお互いの姿を確認するようになってから一年程になる。しかしいつが初めましてだったかは最早分からないし、今のドロテの顔を見る限り”ごきげんよう”ではない気がした。

「ドロテ・ロシュフォールです。べ、別に気にしなくていいわ。私だって今まで挨拶をしなかったのだし

 ・・・よろしくねベアトリス」

 急に素直にごめんなさいと言われるとそれはそれでどんな顔をして良いのか困る。

「有難うございます。よろしくお願いしますドロテ様」

 自分より大人びているベアトリスが愛らしい笑顔をみせた。

 この顔は嫌いじゃない。むしろ可愛いと思ってすこし顔が熱くなった。

 大人びた雰囲気でいきなりトゲのある質問をしてきたと思ったら急に困った顔をして謝ってきたり、そうかと思えば愛らしい笑顔。二級上の十二歳だと言ったこの少女は随分と変わった娘だとドロテは思った。

「あ、私がここで時々本を読んでいる理由でしたね。私は小さい頃から体を動かすことが苦手なのですが勉強が少し出来たので文官大学院を目指しています。本当はずっと家にいて本を読んでいたいのでいたいのですがすこしは陽の光に当たって体を動かさないとだめだと父が言うので仕方なく時々外に出てくるのです。”たまには弟と一緒に木剣でも振ってまいれ!”って言われるのでここにきて隠れているのです」

「なーんだ。こそこそしてるのは貴方の方じゃない」

「そうですね。うふふ」

 ぷっとドロテも笑った。

「でもいい御父上ですね。うらやましいわ。交換したいぐらいよ」

「まぁ!ドロテ様ったら」

 ドロテは自分と真逆なベアトリスの話を聞いて心の底から親を交換したいと思った。

「それから、貴方の方が年上なのだからドロテで良いわ」

「分かりました。よろしくねドロテ」

 殆どの場合「いえいえそのようなことは」と距離を取られてしまうのだがベアトリスは違った。良くも悪くも素直なところが自分と似ていてなにかしっくりくる感じがした。


 その後はいつものようにベアトリスは立木にもたれかかって本を読み、ドロテは少年騎士達の修練を見ながら「こうかな?こうかしら?」と独り言をいいながら剣を振って過ごした。

 いつもは直ぐ上の兄ニルスの姿を追って真似るのだが今日はいないみたいだ。

 太陽の色が濃くなり始めた頃修練が終わったのでベトリスにごきげんようを言いかけた時、少年が三人修練場からドロテ達のいる高台へ駆け上がって来た。

「これはこれは、ロシュフォール家ご令嬢ではありませんかぁ。こんなところで何をされているんです?」

 ドロテがここにいるのと剣術を学べない事を知った上での声掛けだ。わざとらしいにも程がある。

「あんた達に関係ないわ」

 ドロテも分かり易く嫌悪を顔に出した。

「修練をしたいのでしたら俺達が教えてさしあげますよ」

「一人で剣を振っていても上達しないとおもうなぁ」

「けっこうよ!」

 ニヤついた口元、見下ろす目つき、小ばかにした口調、三人の少年達はどう見ても善意のそれではない。

 ドロテがここに通い始めて一年ほどになるがこれまでこうやって絡んでくる者等居なかったのだが何故今日に限って絡んでくるのだろう。

 考えを巡らすと一つだけいつもと違う事に気づいた。今日は修練上にニルスの姿が無かった。

 この修練場で皆のまとめ役をしているのは騎士学校入学前の年長のニルスだ。教官に「現時点で教えることは無い」と言わしめるニルスが居ないので腹いせか、からかい目的で来たのだろう。いじめをする者の思考は大体こんなものだ。

「そういうなよ、ニルス様にも教えてもらえないんだろう?代わりに俺達がおしえてやるよ」

「必要ないって言ってるでしょう!?言葉も通じない子に教わってもヘタが移るだけで無駄だわ。ヘタ同士で仲良くなめ合ってなさい」

「!!」

「な、なんだとぅ!?」

 あまりの毒舌に少年たちは一瞬言葉を失ったが直ぐに顔を真っ赤にして大声を上げた。

「お兄様に全く歯が立たないイライラを私で吐き出そうとしたのでしょうけど残念ね。私をバカにするにはもう少し賢くないと無理よ。お兄様がいない時をわざわざ狙って来て小物ぶりが過ぎるわね」

「き、貴様ー!そこまで言うなら実力を見せてみろ!俺達がヘタかどうか見せてやる!」

 一番大柄の少年が剣を振り上げた。

「や、やめなさいよっ!ディッキー」

 自分より大きな少年三人に囲まれた状況で毒舌を放ち喧嘩を買うドロテのあまりの気の強さに驚いて引いていたベアトリスが我に返って割って入った。

「ベアトリス、なんでお前がここにいるのか知らないが関係ない奴は引っ込んでろ!」

 ディッキーという少年はベアトリスと同じ学年らしい。ということはこの少年たちはドロテより二つ上の十二歳だ。

「構えろドロテ!その木剣は飾りか?言うだけのモノを見せてみろよ!」

「お、おいディッキー、からかいに行くだけって言ったじゃないか、領主様の娘だぞやっちまったらタダじゃ済まないぞ」

 一緒にいた少年がディッキーの袖を引っ張って耳元で囁いた。

「どうってことないさ、例え俺があいつをボコボコにしてもロシュフォール家が剣で負けたことをおおっぴらにしたりするはずがない。それにあんなに言われてお前は黙っていられるのか?!」

 名のある貴族というものの性質はよく理解しているくせに自分達が先に絡んでいったという事は大空に飛んで行ったらしい。まさしく悪人の思考だとドロテは思った。

 ドロテははちみつ色のドレスの裾をまくり上げ、赤い髪留めを解いて腰に巻き付けた。すこし踵のある靴を脱ぎ棄て太ももまで露わになった足を蟹股に開き自分の身長からすれば長すぎる木剣を構えた。

「ドロテ・・・!」

「ベアトリス、下がってて」

「ふん!やる気になったか?!しかしお前はそれでも女なのか?ははは!」

 ディッキーは恥ずかしげもなくドレスを捲ったドロテを嗤った。

「この決闘が終わった後それでもお前は男かと言ってやるわ」

「く!・・・口の減らないガキだっ!」

 ディッキーは少年の手を振りほどいてドロテとの距離を無造作に詰め、そのまま歩み足で打ちかかった。

「たー!」

 カーンという木剣同士が合わさる乾いた音が響いた。ディッキーは体ではなくまず様子見で剣を打ったのだ。

「!」

 ディッキーは剣が下を向いてしまったドロテを簡単に突き飛ばした。

「口ほどにもないな!拍子抜けだぜ!」

「ドロテ!」

 倒れたドロテにベアトリスが駆け寄った。

「気が済んだでしょ!もう放っておいて・・・!」

「下がっていてベアトリス」

 ドロテがベアトリスの肩を掴んで制した。

「で、でも!・・・」

「お願い」

 低く小さな声だった。お願いという優しい言葉にも拘らず一瞬身震いしたベアトリスは慌てて体を引いた。

「泣いて謝ったら暴言をゆるしてやるぞ」

 ドロテは真っ直ぐディッキーを見据えて構えた。

「ち!わからないやつだな!」

 ディッキーは再びドロテの木剣目掛け、左から右から思い切り打ち込んだ。

 体の軽いドロテは木剣を打たれた衝撃だけで地に伏したが直ぐに立ち上がりディッキーに袈裟切りを放った。

「やーっ!」

「うお?!」

 ディッキーはドロテの鋭い打ち込みに一瞬驚いた顔をしたが左方へ弾いた。

 そして完全に右を向いたドロテの左胴に剣を打ち込んだ。

「ぐっ!」

「おらぁ!」

 ディッキーは顔を顰めて上体を左に折り、動きの止まったドロテの剣を両拳で勢いよく押し込んだ。

 ガッ!・・・。

「!!」

 両足を踏ん張って倒れる事は拒否したが自分の剣で顔を叩いたドロテの鼻から真っ赤な血がぼたぼたと地に落ちる。

「ひ・・・・!」

 脇で見ていたベアトリスが両手で顔を覆ったまま尻もちをついた。

「ふん、ちょっとびっくりしたが剣を振る事しか出来ないみたいだな。はは」

 来る日も来る日も剣を振り、立木を打つドロテの剣は騎士を目指す同年代の女子と比べても遜色ない鋭さだ。しかし稽古相手が居なかった為、ディッキーが言うようにそれ以外の事が全くできなかった。

 自分に打ちかかって来る敵の剣を今初めて見たドロテに防御など出来るはずがない。

「いい加減申し訳ございませんでしたと・・・」

 ドロテは滴り落ちる鮮血を拭おうともせずディッキーを睨みつけて剣を構えた。

「む・・・。こいつ・・・気に入らねぇ・・・気に入らねぇ・・・」

 ディッキーにはドロテの顔がニルスと重なって見えた。ニルスはディッキーが何度挑んでも一度も勝てないどころか一太刀も入れた事のない相手だ。

 敗者の目ではない。負ける事など絶対にないという強者の目だ。

「なんで・・・なんでお前にそんな目が出来る?!その目で・・・その目で俺を見るな!」

 ディッキーはドロテの脳天目掛けて剣を振り下ろした。

 例え木剣でも頭に命中すれば怪我では済まない事はディッキーも分かっているがあの目を見ると自分の弱さ才能の差を感じずにいられない。どうしようもない劣等感に荒れる気持ちを押さえられなくなっていた。

 カーン!

 今見たディッキーの動きを真似たドロテが剣を下から当てた。

 ゴ・・・!

 やや軌道が逸れたがディッキーの剣はドロテのこめかみを掠め、パっと赤い飛沫が飛んだ。

「たあああ!」

 勢いままディッキーは右肩から体をぶつけると小柄なドロテは糸の切れた操り人形のように地を転がった。

 どうだ!とばかりディッキーは胸を張ったがまたしてもドロテは立ち上がり木剣を構えた。

 血糊で砂まみれとなったドロテの顔は右の眉辺りが腫れあがり受けたダメージで腕に力が入らないのか拳が僅かに震えている。

 それでも両の目だけは何事も無かったかのようにディッキーを睨みつけていた。

「こ、この!・・・」

「お、おいもうやめろよ、これ以上はまずいぜ・・・」

「そうだよディッキー、フランク様に知れたら大変なことになるぞ」

 二人の少年が怯えたような表情で止めに入った。

 いくら修練してるとはいえ年少の彼らは素手素面でまともに打ち合うのは初めてで血まみれのドロテを見て怖くなってしまったのだ。

「なんだお前達怖気づいたのか?!大丈夫だ。こいつはこんなでもロシュフォールの子だ。例えフランク様の耳に入っても剣術で負けた事を公にしたりするもんか。それにこいつが負けを認めないから悪いんだ!」

「そ、そうだけど・・・」

「お、おいドロテ、これ以上やっても無駄なんだからさっさと謝っちゃえよ!」

 ディッキーの説得を諦めた少年の一人がドロテに向かって叫んだ。

「嫌よ!私は負けてないもの!」

「何を言っている?!どう見たってお前・・・」

「私が負けたと言ってないから負けてないの!」

「む、無茶苦茶な奴だ」

「私は何もしていないのに変な言いがかりをつけて打ちかかって来ておいてどっちが無茶苦茶よっ!こんな頭の悪い下っ端に負けたらニルスお兄様に笑われるわ!」

「な・・・なんだとう?!」

「毎日ここからみてるんだから私知ってるわよ!貴方がお兄様に一度も勝ったことが無い事を。お兄様に勝てないから私に喧嘩を売りに来るなんて悪人の思考ね!」

「ド、ドロテ・・・!」

 このような状況で何故相手を煽るのか?!。ペアトリスはこの後起こる参事を想像し身を震わせ絶句した。

「き、き、貴様ぁーー!」

 素人同然で既にボロボロの華奢なドロテに対し毎日王国騎士による指導を受けているふたつ年上の少年が怒り狂い木剣を振り上げる。誰もが絶体絶命の危機と見る状況だがドロテには僅かに勝算があった。

 ディッキーの容赦ない攻撃に身を晒し、彼の剣を振りかぶり振り下ろす速度、間合いを詰める速度、タイミング、技の起こりを必死で目に焼き付けていたのだ。

 これまで黙々と一人剣を振り、立木を打つ事しか稽古が出来なかったドロテは今日生れてはじめて真正面からの敵の攻撃を見た。

 ドロテはディッキーの最初の一撃を受けた時、離れた場所から少年たちの稽古を見るのと実際に相手の剣を受ける事がこうも違うものなのかと驚いたが直ぐに次を考え、学習していたのだ。

 そして両手で握った剣を右肩に担ぐ様に構える王国剣術でオーソドックスな”肩構え”のディッキーに対し、ドロテはやや右足前で足を左右に開き腰を落として構える”不壊構え”だ。

 ”不壊構え”は受けの構えで大きな男がこの構えを取ると消極的で自信が無いと見られる為使う者は少ないが体格で劣る場合は有用な構えだと兄ニルスに教わった。

 勿論体格差が激しい為にドロテはこの構えを取ったのだがもう一つ重要な狙いがあった。

 ワザと煽った上で頭上を空けて誘ったのだ。

 ドロテとディッキーでは力、スピード、技量全て違いすぎるが打突部位を限定すれば集中は出来る。

 一か八かのおおヤマを張った。

 激高したディッキーが体が反る程に剣を振りかぶった。

 ―—来た!

「やあああああ!」

 ドロテは左のつま先が地面にめり込むほど蹴った。

 勢いよく腰ごと上体を前に出しモーションは小さく。

 振り上げた剣は小さいが命中した時体重を乗せてカバーする。自分の事はよくわかっている。小柄で非力な自分にはそれしかないと思った。

 受けたダメージで拳にあまり力が入らない事がひとつ不安だったが何故か今まで感じたことが無い程スムーズに腕が動いた。

 ディッキーの剣が真っ直ぐ自分に向かって来るのがよく見える。

 技を起こしたのはディッキーが先だが最短で突っ込む自分の剣が先に当たるとドロテは確信した。

 この頃のドロテは知る由も無いが所謂”後の先”だ。


 ビュッ!

 ゴ!・・・ゴッ!!

「・・・ぐは!」

「~~!」

 ドロテの頭が右に弾かれ、ディッキーの顔は真上にブレた。

 相打ちとなり真正面から激しく体をぶつけ合った二人は双方とも真後ろに倒れ一回転した。

「うあああああ!あ、頭が!・・・血が!・・・血だ!・・・痛い痛い痛い~~!」

 頭を押さえて転げまわるディッキーの両手の隙間から鮮血が滴り落ちている。

 ドロテも額の傷を増やしたがディッキー程のダメージは無い。

 相打ちではあったがドロテがディッキーの頭を”物打ち”で捉えたのに対し、遅れたディッキーの剣は中ほどでドロテの頭を打った為ダメージに差が出たのだ。

「・・・・・?!」

 のたうち回るディッキーをよそにドロテは目を見開き驚いた顔で震える掌を凝視していた。

「・・・で・・・た・・・」

 何事か呟いたドロテは満面の笑みを浮かべ勢いよく立ち上がり腰を抜かして立木の根元にしゃがみ込んでいるベアトリスに駆け寄った。

「ひ・・・!」

 ドロテの血まみれの笑顔とあまりの圧で一瞬ベアトリスの呼吸が止まった。

「見た?!見たわよね?!聞いた?!聞いたよね?!」

 ”見た”は解るが”聞いた”とはどういう意味か?

 訳が分からないが地獄絵図のような顔を押し付けられ、恐怖に怯えたベアトリスはぶんぶんと何度も首を縦に振った。

 突如はっと真顔になったドロテは立ち上がり後ろを向いた。

「ひっ!・・・・・・」

 いきなり振り返った血まみれのドロテを見て少年たちは腰を抜かしたがドロテの視線はずっと先を見ていた。

 そして今度はいきなり走り出した。

「おばあ様に報告しないと!」

 ドロテには蹲ってうめき声をあげているディッキーや尻もちを着いている少年二人は全く眼中にないようで少年たちを蹴散らして一目散に駆けて行った。

 派手に打たれたドロテの眉辺りは晴れ上がり額には乾いた血糊と土がべったりと張り付いていて口元は鼻血の流れた後がそのままついていた。満面の笑みを浮かべて疾走するその姿はまるで狩りを楽しんでいる魔獣のようだ。

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。

 呼吸でリズムを取りながらドロテは走る走る。

 途中幾度となく木の根や下草に足を取られて転びながらも止まることなく全速力で走った。

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。

 一瞬頭がふらついたり行く手を阻む立木が二重に見えたりしたが気にも留めず走り続けた。

 けもの道から馬車道に飛び出しターンした。

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。

 道の先に開かれた大きな格子の鉄扉があり二人の衛兵が立哨しているのが見えた。

「と、止まれ~~!なにも の だ・・・!ド・・・・!うわっ!」

 二人の衛兵はドロテと気づき直ぐに剣を引いたが異様な姿に息をのみ疾走するドロテを茫然と見送った。

「!おい!ドロテ様を追うのだ!ただ事ではないぞ!」

「は・・・は!」

 我に返った口髭の衛兵が叫ぶと慌てた若い衛兵がガシャガシャとミドルメイルの音をたてて走り出した。


「うわああああ!」

「ど、ドロテ様?!」

「ひ、ひぃ!」

 血まみれのドロテが駆け込んだ庭や屋敷のエントランスは侍女や使用人たちが恐怖の声を上げ阿鼻叫喚となった。

「おばあ様!おばあ様は?!」

「ド、ドロテなのか?!どうしたというのだ?!」

 騒ぎを聞きつけ飛び出してきたフランクが驚愕の表情で叫んだ。

「お父様、おばあ様はどちらに?!お部屋かしら?」

 フランクは彼を避けて階段を上がろうとしたドロテの袖をぐっとつかんだ。

「は、母上の事より自分の体の事を説明しなさい!い、いや治療が先だ!」

「なんともないわよ!」

「なんともないわけなかろうっ!。だ、誰でも良いヒールの出来る者を今すぐ集めろ!薬師も呼べ!」

「し、承知しました!」

 使用人たちが大慌てで散って良き、ひとりの侍女が駆け寄りドロテの額に手を当てた。

「ド、ドロテ様、一番痛い所はどこでしょう?!」

「だからなんともないってば!それよりおばあ様はどちらに?」

「ええい!わからぬ奴!まず一度落ち着いて座るのだ!」

 フランクは両手でドロテの肩を掴み力づくでホールの床に座らせた。

「なにごとです?」

 そこへいつもの裏庭にいたアミラが静かに歩いてきた。

「おばあ様!」

「まあ?!ドロテ、一体何があったのです?!」

 ドロテの余りの姿に目を丸くしたアミラは慌てて傍らに跪いた。

「聞いて下さいおばあ様!私おばあ様と同じ音が出せたんです!い、いえなんていうか正確には少し違ったのですがディッキーと打ち合いであの最後の一振りだけですけどおばあ様の風切り音に近い音が出せたんです!あちこち打たれた後で手に力が入らなくて変な感じがしたけど多分おばあ様のおっしゃったように力が抜けたのが良かったのだと分かりました!それから・・・あ、あれ?・・・」

「!」

「ド、ドロテ!」

「お、おいっ!」

 全力の笑顔で捲し立てたドロテは突然スイッチが切れたかのように脱力しフランクに全体重を預けた。

「頭を打っているのかもしれません、薬師様が見えるまでこのままここに寝かせましょう、フランク何か敷物をもってきてちょうだい!ヒールはこの者と私がいたします」

「む、わ、分かりました」

 アミラは横たわるドロテの頬に手を当てながら血にまみれたその顔をまじまじと見た。

「・・・」

 ドロテはディッキーと戦ったと言った。理由は不明だが今の話から推測すると恐らく同じくらいの年齢の少年と木剣で打ち合って最後に一撃入れたのだろう。そして満足そうな話しぶりから勝ったのだとアミラは推測した。

 アミラが示した僅かなヒントだけで十歳の少女が自分なりの答えを見つけ、碌な指導も受けていないにも拘わらず同年代の少年に打ち勝ったのだ。そのうえ気を失う程の深手を負って尚帰還したという事実に驚愕した。

 もしかしたらこの子はとてつもない剣の才能を秘めているのではないかとアミラは思った。



 コンコンコン。

 三度リズミカルに扉をノックした。

「ドロテですか?開いているのでお入りなさい」

「おはようございますおばあ様」

 ドロテは朝日のような笑顔を見せた。他の者には見せないアミラの前だけの心からの笑顔だ。

「おはようドロテ。今日は少し早いのですね。何処かへ出かけるのかしら?」

「はい!ベアトリスがクッキーを焼いて持ってきてくれるので午後から二人でおばあ様の山小屋に行ってきます!」

「そう、丁度エイワズの花が満開でしょうから楽しみですね」

 エイワズは春先に咲く白や黄色の可愛らしい花で”おばあ様の山小屋”とはアミラが所有していたり使っていた物ではなく、使われなくなって久しい猟師小屋の事だ。ドロテがアミラに教えてもらった穴場的花見スポットなのでいつからかそういう呼び方になっている。

「崖には気を付けるのですよ。それからあまり遅くならない様にね」

「おばあ様ったら、私もう十三歳なのよ。子供ではありませんわ」

 子供ではないといいながら小さな子の様に頬をぷうっと膨らませたドロテを見てアミラは小さく笑った。

 ドロテにはアミラが何故少し笑ったのか分からなかったが祖母の優しい笑顔を見て直ぐに機嫌を戻した。

「早めのおやつを食べたらこのお部屋に飾るエイワーズを沢山摘んで戻ります」

「まぁ、それは楽しみですね。花瓶を用意してに待っていますね」

「沢山準備しておいてくださいね!ではいってまいります!」

 ドロテは通常の三倍の速さで挨拶を終えると颯のように部屋を飛び出していった。昼食後直ぐに出かけられるように今から準備をしておくつもりだ。

「良かった。おばあ様今日は少しお笑いになってお顔の色がよかったわ」

 アミラは去年冬から体調を崩していて年が明け暖かくなってきたこの時期でも裏庭に行くことも無くずっと自室に籠っていた。専属薬師によるとさして悪いところはなく老いということだ。アミラはまだ齢六十に届いておらず歩かなくなる程の年齢では無かったがこの頃のドロテは短命な聖騎士特有の衰えとは知らず薬師から老いという言葉を聞いてそうなのかと簡単に考えていた。


 昼食後玄関を出ると正面に止まっていた一台の馬車からベージュの幅広の帽子を被り淡いピンクと臙脂色のドレスを着たベアトリスが降りて来た。

「本日はお招き有難うございますドロテ様」

「ごきげんようベアトリス」

 にこやかに挨拶を交わすとベアトリスは艶のある木の皮で丁寧に編み込まれた大きめのバスケットを目線まで掲げて「沢山いただきましょうね」と笑った。

「ドロテ、出かけるのですか?」

 ベアトリスのバスケットから溢れ出る香ばしい香りをかいで心を弾ませたドロテが一歩踏み出そうとしたとき後ろから声がかかった。母オルガだ。

「はい、お母様ベアトリス様と散策に行ってまいります」

 一瞬ドロテの顔のパーツが全て重力に負けて下がったが気力を振り絞って元に戻し振り返った。

「でしたら誰か供の者を連れてお行きなさい」

「ベアトリス様と一緒ですのでご心配には及びませんわお母様」

「ドロテ、女性二人で出歩くのなら尚の事従者を連れて行きなさい」

「おばあ様の小屋に行くだけですので大丈夫です。あそこは滅多な事でひとが来たりしませんので」

「え?ドロテ、ちょ、ちょっと・・・」

 せっかくの二人だけのデートを邪魔されてはたまらない。言いながらドロテはベアトリスの袖を引き早足で歩き始めた。

「お待ちなさい!ドロテ!」

「十五の鐘にはもどりまーす!」

 ドロテはスカートを翻し走り始めた。袖を掴まれているベアトリスも困惑しちょっと困った顔をしながら走った。

「ちょっと、ドロテ、良いのですか?」

「いいの!あはは」

 ドロテは走りながら目を大きく見開いて小さな舌をペロっと出しおどけて見せた。

 ベアトリスはドロテに引っ張られながらはぁ、と小さなため息をついた。

 ドロテはこういう娘だ。仕方がない。

 ベアトリスは年上の自分が一緒にいながらドロテのペースで事が進んでしまいドロテの母オルガに対して少しばつが悪く申し訳ないと思いながら口元が緩んだ。

 ベアトリスには四つ下の弟がいるが当然女子の話は出来ない。ちょっと我がままだが自由で自分に正直な妹の様なドロテが大好きだった。

「ここまでくれば追いかけてこないわよね」

「本当によかったの?帰ったらまた自室に閉じ込められるのでしょう?」

「大丈夫よ。お母様は気づいていないけど窓からちゃんと出られるもの」

「ま、窓?!ドロテのお部屋って三階よね?!」

「そうよ。まさか三階の窓から壁伝いに二階の屋根から外へ出るなんて誰も思わないでしょうからいつもそうしているわ」

「いつも?・・・もしかしてドロテ・・・」

「そう!こうでもしないと剣を振れないんですもの!」

 ドロテは三年前のディッキーとの決闘事件以来、剣に触れる事すら禁止されて今に至っているのだった。

 なのでドロテは食事など生活するうえで必要な事柄以外自室に閉じ込めるという罰を利用して時々誰にも迷惑がかからない程度の悪行を働き剣を振る時間を作っていたのだ。

 ベアトリスはあきれるよりも全てを剣の道に繋げるドロテに感服してしまった。


「わあ!」

「凄い!」

 雑木林を抜けた先は青く広い空と満開のエイワーズの花畑が広がっていた。

 二人は花畑の真中まで走って行くとベアトリスは広げた敷物の上に腰を下ろしドロテはそのまま大の字で寝転がった。

「ああ良い匂い!」

 ベアトリスはドロテを見てクスッと笑った。

「なに?」

「いえ、ドロテって男の子みたいだなって。ふふ」

「・・・」

「あ、ごめんなさい。悪く言うつもりはなかったのです・・・」

 空を見たままのドロテにベアトリスは直ぐに誤った。

「ううん。ロシュフォールは男ばかりだからもしかしたら私は本当は男に生まれてくるところだったのじゃないかって思ったの。男に生まれたらお兄様達の様に何の障害もなく騎士になれたのでしょうね」

「・・・」

「でも私は諦めないわよ。絶対に騎士になるの!騎士団に入って反対した人達みーんな見返してやるわ!」

 ドロテは仰向けのまま拳を握り青い空へ突き出した。

「ドロテは小学院での成績も良いみたいだしそのまま文官大学に入って王宮仕えを目指したら良いのではないの?どうしてそんなに騎士になりたいの?」

「私はおばあ様みたいになりたいの!」

「アミラ様?」

「そう。強くて優しくて、凄いのよ、おばあ様の前では騎士団の大男がみーんな敬礼して跪くのよ。騎士学校を首席で卒業して初陣で敵の聖騎士をたおしてしまったのだから!」

「その話は何度も聞いたわ。ドロテは本当にアミラ様が好きなのね、うふふ」

「おばあ様は私の憧れで目標なの。だから絶対に騎士になって見せるわ!」

 ドロテは素早く起き上がると少し離れたところにある今は使われていない猟師小屋に走っていき、戻って来たその手には木剣が握られていた。

「まぁ!ドロテったら!」

 ドロテは少し悪い顔でニッと笑い力強く剣をひとつ振った。

「でもフランク様や皆に反対されていては騎士学校に入るのも難しそうですわねぇ・・・」

 ベアトリスは小声で言い気の毒そうな顔をドロテに向けた。

「それがね、私を騎士団に入れてはどうかっておばあ様がお話ししてくれてるみたいなの!」

「え?!本当に?!」

「ニルスお兄様も私の進路の事でお父様とおばあ様が口論してるのを聞いたって言っていたから間違いないわ。だからきっとおばあ様と精霊様が私を騎士学校に行かせてくれると信じて剣を振るの!」

 鋭い風切り音とともに足元の花びらがぱあっと宙を舞った。

 ベアトリスは魔力でお茶を温めながらドロテに尊敬と羨望の眼差しを向けていた。

 自分はそんなにも必死になって追い求める者など無い。父の言う通り文官大学に行って王宮仕えを目指すことに不満はないがこのままなんとなく生きていて良いのだろうかと考えてしまう。自力で困難に立ち向かい貫く強い意志を持ったドロテを心の底から凄いと思った。

「ドロテ、お茶がはいりましてよ。今日はずっと剣ふるのかしら?それとも私が特別に焼いたお菓子とお茶を頂く日かしら?」

 ベアトリスがちょっと意地悪い口調で言うとドロテは「お茶とお菓子にきまっているじゃない!」と滑り込んできた。

 そんなドロテを見てベアトリスは小さく笑った。頑固一徹男勝りな性格だがこういう無邪気な一面も持っている彼女をとても魅力的に思う。もしドロテが男に生まれていたなら異性として好きになっていたに違いないとも思った。

「わあ、凄い!」

 木皿に盛られた色とりどりのお菓子を見たドロテが目を輝かせて感嘆の声を上げた。

「今の季節は木の実も果物もあまりないのでジャムを乗せてあるの。初めて作ったので自身はないのだけれど・・・」

 ドロテはベアトリスの言葉を待たず一番手前にあった赤いジャムの乗った焼き菓子を素早く取って口に放り込んだ。

「おいひぃ!」

「まあ!ドロテったらお行儀が悪いのね」

 ドロテは「これは失礼を致しました」と言いながらもうひとつつまんで口の中に投げ入れた。

「あはは!」

 両手にお菓子を持って美味しそうにもしゃもしゃと食べるドロテをベアトリスは嬉しそうに眺めていた。

「ドロテはその・・・ニルス様とは仲が良いのかしら?・・・」

 お茶を一口飲んだ後ベアトリスが少し小声で聞いた。

「そうねぇ、一番話をするのはニルスお兄様ね。ユリウスお兄様は私が物心ついた時にはもうガスター様だかガスタン様だかっていうお師匠様の所で生活していてお会いするのは一年に一度か二度なので遠い親戚みたいな感じだし、エリアスお兄様も私が九歳の時に騎士学校から騎士団に入団されてそのまま王宮に居を移されたので思い出らしい思い出はあまり無いわ。それにニルスお兄様は頭のカタい上二人と違って時々剣術のお話も聞いてくれるの。最初に構えを教わったのはニルスお兄様だし」

「へ、へぇ・・・お優しいのですね・・・」

「そうねぇ、優しいと言えば優しいわね。内緒だぞっていいながら木剣をくれたりするもの」

「そ、そうなのですね。と、ところでニルス様はお菓子はお好きかしら?・・・」

「お菓子って、これのことかしら?」

「え・・・ええ、沢山作りすぎてしまったのでよ、良かったら、その・・・」

「?」

 ドロテは俯き加減で急に話し方がたどたどしくなったベアトリスの顔を怪訝そうに覗き込んだ。

「あああ!」

 数秒の間をおいて急にドロテが大声を上げた。

「な!・・・なに?!・・・」

「ははぁぁん・・・そういうことか!」

 ドロテは目お見開いて驚いているベアトリスの元に四つん這いで距離をつめると口だけ大きく横に広げた。

「ニルスお兄様が先だったのね」

「ヒク!・・・」

 引き攣った顔に悪い笑顔が急接近する。

「な、なんのこここ事かかかしら・・・わわ私はただお菓子を・・・」

「ふふ~ん。初めてベアトリスとお話した時から不思議に思っていたのよ。父親にたまには外に出ろと言われたからって剣術に興味もないのに修練場にくるなんておかしいもの」

 ベアトリスの両目が更に大きくなった。

「そしてきょうのこれ!」

 ドロテは焼き菓子を一つ手に取って目の前に突き出した。

「私に味を見て欲しかったのでしょう?」

「!!」

 図星を突かれたベアトリスは口をぱくぱくと空回りさせながら顔を真っ赤にして後ずさった。

「いいわ!持って行ってあげる」

 途端にベアトリスはぱっと笑顔になった。

「余ってしまったのですがよかったらどうぞ!って」

 ドロテは少し横を向いて冷たい流し目でベアトリスを見る。

「そ、そんな言い方は・・・!」

 ベアトリスは困った顔をしてドロテの肘を少しだけ掴むとドロテはまた悪い顔をしてペロっと舌を出した。

「あは!冗談よ!ベアトリスが一生懸命作ったのよってちゃんと伝えてあげる」

「ド、ドロテって意地悪ね!」

 ベアトリスは感情の起伏が追いつかずおかしな顔になった顔を両手で覆った。

「どうしてもっと早く言わないのよ。ニルスお兄様はイケメンで人当たりも良いからとってもモテるし秋には騎士学校に行ってしまうってわかっているのではなくて?来年にはベアトリスも大学に進学するのだから会う機会は本当に無くなってしまうわよ?」

 今年十六歳になるニルスは騎士学校に入学となる。騎士学校は一年間だがその後は間違いなく王国騎士団に入団するはずでそのまま王宮住まいとなる。一方文官大学は三年制で寮生活なので今後会う機会を作るのは至難の業だ。

「そ、それはそうですけれどこういう事には心の準備が必要なのです・・・」

「私には言いたいことを言うのにおかしな人ねぇ。準備をしている間に機会を失ってしまうわよ」

「分かっていますけれどド、ドロテだって人を好きになったら同じようになるはずです」

「・・・」

 ドロテは必死に言い返してくるベアトリスの顔をまじまじと見た。

 胸元まで真っ赤にした彼女は困ったような、悲しんでいるような、出会ってからこれまで一度も見た事のない表情をしていた。

 その感情はドロテには理解出来ないが普段は”お姉さま”という感じでとても落ち着いた性格のベアトリスがこんなにも取り乱すほどニルスの事が好きなのだという事はよく分かった。

「仕方がないわねぇ。私が手伝ってあげる」

「え?」

 手伝うとはどういうことか?ドロテの突然の提案にベアトリスはぽかんという顔をした。

「私とベアトリスのお茶会にニルスお兄様を誘うわ。勿論三人だけのお茶会よ」

「えええ!?」

 ベアトリスは立ち上がると直ぐにくるっと後ろを向いた。額から汗が噴き出てきたが意志に反するように口元が緩んだのが自分でもわかったからだ。こんな顔を見られたくない。

「嬉しい?」

「あ・・・有難う・・・」

「何?聞こえなーい」

 ベアトリスがほんの少しだけ振り向くとまたしても悪い顔をしたドロテが目に入った。

「もう!!」

 ベアトリスは花畑を駆け出した。

「何処に行くのよ!そっちは崖よ!?」

「分かってます!落ちたりしないわ!有難うドロテ!」

 ベアトリスはドロテに背を向けて走りながら大声で叫んだ。火照った頬に少しでも風を当てて熱を冷ましたかったからだ。

「あははは!」

 ベアトリスは文官大学を目指しているだけあって知識量も多く、普段意見が分かれた時は言い負かすことは出来ないのだが今日はドロテの完勝だ。ベアトリスにこんな可愛い一面もあったのかと思うと可笑しくなったドロテはエイワーズの花畑に仰向けでドサっと体を投げ出すと透き通る青空を見上げ、声を上げて笑った。


「ドロテ!ドロテ!」

 ドロテが小さい羽根を目いっぱい動かして絡み合うように飛ぶ二羽の鳥をぼんやりと眺めていると慌てたようなベアトリスの声が聞こえた。

「どうしたの?」

「良い物を見つけたの!ちょっとこちらへ来てちょうだい!」

 何事かと起き上がるとベアトリスが崖下を覗きながら後ろ向きで手招きしていた。

「見て!」

 近づくと両膝を着いてしゃがみ込んでいるベアトリスが崖の際に立っている直径四十センチ程の古木に左腕を回して体を支えながら崖下を指さした。

 何かと思えば黄色い実を付けた野草だ。

「その野草がどうかしたの?」

 エイワーズの花も祖母アミラが好きだというだけでドロテは草木についてあまり知識も興味も無い。

「あら、知らないの?これはエイビス草と言ってとてもよく効く傷薬になるのよ」

「へぇ・・・そうなんだ」

 薬草と言われてもドロテにはあまりピンとこない。

「もう!」

 ベアトリスは立ち上がり、反応の悪いドロテに少し口を尖らせて不機嫌そうな顔を向けた。

「これは標高の高い山のこういった足場の悪い所にしか自生しないとっても貴重な薬草でお父様が獣人からびっくりするようなお金を払って買っていたのを何度か見たことがあるわ」

「そ、そうなの?・・・誰か怪我でもしているの?」

「ドロテったらもう!貴方はいつもあちこちに傷をこしらえているのだからこれでクスリを作って持っていたら安心でしょう?」

「私の・・・為?」

「そうです!」

「あ、ありがとう・・・」

 正直なところドロテは小さな切り傷等気にもならない。しかしちょっとの怪我で大騒ぎする母オルガを思い浮かべると傍から見ている者の方が痛々しく見えるのだろう。

 ベアトリスが自分を思ってくれる事を嬉しく思った。

「でもちょっと手が届かないの・・・すぐそこにあるのに残念だわ・・・」

 ベアトリスは恨めしそうにまだ崖下を見ている。

 エイビス草は一メートル程下で大柄の男性が腹ばいで手を伸ばしてやっと届くかどうかという所に生えている。

「何処かに縄か何かないかしら?」

「縄なら猟師小屋に・・・」

「え?ほんと?」

「え、ええ、でも!・・・」

 危ないから止めましょうという言葉を発する前にベアトリスは使われていない猟師小屋に駆けて行き、戻って来たその手には丁寧に環束されたシュロ縄があった。

 ベアトリスは「こうかしら?これで良いかしら?」と言いながら縄を自分の腰に巻き結び、反対側を古木に二~三回巻きつけて結んだ。

「ベアトリス、貴方の気持ちはとても嬉しいわ。でもやっぱり危ないからやめましょうよ」

「私ね、困難に対して真正面からぶつかって行く貴方をとても尊敬していて自分も何かしなくてはといつも考えていたの。きっとこういう場面で行動するかしないかで道を切り開ける人かそうでない人かに分かれてしまうんだと思う。だから任せて。こうして準備はしているんですもの大丈夫よ」

 ―—そんな風に私を見ていてくれたなんて・・・。

 ドロテは少し驚いて言葉を飲み込んだ。思慮深く冷静に物事を考えて的確な判断が出来るベアトリスを尊敬していたからだ。

 そんな風にいわれたらもう「気を付けて」という言葉しか出てこない。

 ベアトリスが腹ばいになってエイビス草に手を伸ばす。

 ドロテはそれを古木の反対側から見ていた。

「もう少し・・・もう少しですけど・・・」

 ベアトリスは顔を顰めて目いっぱい腕を伸ばすが僅かに届かない。

 そして一度腕を戻して胸を持ち上げ数センチ身を乗り出した時胸元が崩れた。

「あ!!」

「ベアトリス!!」

 ベアトリスの体が土の塊と共に落下し立木に巻き付けられた縄がピンッと一本の棒のようになった。

 これにはさすがのドロテも肝を冷やし両拳を握って硬直したが直ぐに古木の反対側のベアトリスが落下した直上に移動し縄を握った。

「べ、ベアトリス!大丈夫?!」

「・・・はー、はー、・・・だ、大丈夫よ・・・」

 十メートル程の高さで中刷りになったベアトリスもほっとひとつ息を吐き肩の力を抜いた。

「い、今ひきあげるからっ!」

「・・・お願い・・・あ?!」

 腰から吊り上げられた状態のベアトリスが縄に手を掛けた時、古木に結ばれた縄が解け、滑った。

「~~!!」

 十数センチ落下したところで咄嗟にドロテが右腕に力を入れて縄を引き左腕で古木を抱きかかえる格好で踏ん張り止めた。

「うぐ・・・!」

 古木に縄が何周か巻かれているため摩擦抵抗もあって落下を免れているみたいだ。とてもドロテ一人の力では支えられない。

 ドロテは古木を抱きかかえている左手で解けた縄を握り、直接ベアトリスを引いている方を右腕にぐるぐると巻き付けた。これで単に腕の力だけではなく体全体で落下を防げる。

 しかし縄が巻かれている右腕は伸びきっていて左腕は自身と縄の端を押さえるだけで精一杯でとてもベアトリスを引き上げる余裕は出来ない。

「ドロテ・・・!」

 ベアトリスも自力で縄を手繰りよじ登ろうと試みるが文系女子のベアトリスに腕だけで体を持ち上げる程の力はなくほんの少ししか持ち上がらなかった。

「く!・・・う、動かないでベアトリス!」

 ベアトリスがもがいて力尽きる度に更なる負荷がドロテを襲い右腕に激痛が走った。

「ご、ごめんなさい!ど、どうしましょう?どうすれば!?・・・」

「ベアトリス・・・今何時くらいかしら?・・・」

「え?な、何故?・・・」

 こう話をしている間にも縄はドロテの右腕をぐいぐいと締め上げていて心なしか伸びているように見えた。

「い、いいから答えて」

 何故今時間を気にするのかベアトリスには分からなかったが歯を食いしばり必死の形相のドロテの顔を見てパニックになりかけている自分を押さえて懸命に頭を回転させる。

「朝食を頂いてからロシュフォールのお屋敷に来てこ、ここまで歩いてお茶をして・・・十四と半か十五の鐘が鳴るころではないかしら・・・」

「わ、私と同じ意見ね・・・なら後一時耐えていれば・・・きっと助けが来るはずよ」

「何故?」

「私が・・・ここにいる事と十五の鐘で帰宅する事は・・・い、家の皆が承知しているから・・」

 もし逆の立場なら例え家族がそれを知っていたとしても遅いわね。何をしているのかしら。で終わってしまうはずだ。何故それが助けが来るという事になるのか?ベアトリスは苦痛に歪むドロテの顔を見上げる。

 気丈に振舞っているがドロテもきっと焦っていてそう考えるしかない状況なのだとベアトリスは思ったのだがそうではなかった。

 ドロテは普段から人のいう事はあまり聞かないのだが自分が言った事は必ず守るという極端な性格をアミラかフランク、オルガ、ニルス、或いは使用人の誰かはきっとわかってくれているはずで十五の鐘が鳴った時に異変に気付いてくれる者が必ず居ると確信していたのだった。

「だれかー!助けてー!!おねがい!!」

 中刷りで見晴らしの良い平野に向かって叫ぶベアトリスの頬に生暖かい物が当たった。

「あら?何かしら?」

 見上げるベアトリスが目にしたのは巻きついた縄のせいでうっ血し紫色に変色したドロテの右手から滴り落ちる真っ赤な血だった。

「ひ!・・・」

 ドロテの手元の縄は既に大量の血を吸い溢れていた。

「ど、ドロテ!ドロテー!」

「・・・な、何?・・・」

「な、何って・・・!手が!血、血が!」

「・・・分かっているわ・・・でも落とさないから・・・大丈夫よ」

 ドロテは顔面を古木と地面の間に押し付けていて表情が見えないが限界が近い事はベアトリスにも解る。

「ドロテ・・・有難う・・・もう手を放し・・・」

「嫌よ!」

「で、でも!もうこれ以上は・・・貴方の腕がちぎれてしまう!」

「絶対に・・・離すもんですか!」

 地に顔を押し付けたままドロテは叫んだ。

 ベアトリスが中刷りになってどれぐらい時間が経ったか分からない。最早顔を上げる事も苦しいようだった。

「ドロテ・・・貴方は私の大切な親友です・・・私はこれ以上貴方を痛めつけるなんて耐えられない!・・お願いドロテ!手を、手を離して!」

「その言葉そのまま貴方に返すわ!ベアトリスは私の一番大事な親友なの!だから絶対に・・・死んでも離さないわ!」

「ドロテ・・・ううう・・・」

 ベアトリスの頬に大粒の涙がこぼれた。

 ベアトリスはそっと両手で縄を握った。

 ――ドロテ!今まで仲良くしてくれてありがとう!大好きよ・・・。

「ベアトリス!まさか・・・精霊魔力で縄を切らないわよね?・・・そんなことしたら一生許さないわよ!」

 ドロテは頬にべったりと土をつけた青い顔を上げてベアトリスを見た。

 驚き泣き顔で見上げるベアトリス。

 ベアトリスは火の精霊魔力を使える。縄を切る事は容易い。

「でも・・・でも!・・・貴方の右腕が・・・ううう・・・」

 心の内を見透かされどうすることも出来ないベアトリスはがっくりと項垂れて涙を落とした。

「ベアトリス、騎士は・・・騎士とは国と民を守る為に有る。おばあさまがいつも仰っているの。友達ひとり守る事が出来なくて騎士になりたいだなんて口が裂けても言えないわ。私がお父様なら『そのような事でよく騎士になりたいなどと言えるな!』って鼻で笑うわ」

「・・・」

「今貴方を助ける事は私にとっても大事な事なの!騎士への道を真っ直ぐ突き進む為に!だから例え右腕を失っても貴方とこの気持ちは失いたくないの!」

「ドロテ・・ドロテ・・・貴方は本当に凄い人・・・」

 右手を離せば親友と騎士の心を同時に失ってしまう。ドロテの言葉がベアトリスの胸に刺さった。


 どれぐらい時間が経っただろうか。気づくと縄が締め付けているからかドロテの右手からの流血が止まっていた。細いドロテの腕は伸びきってしまっていて縄と同じくらいかそれよりも細くなっているように見える。

「ドロテ!ドロテ!・・・ああ・・・神様・・・精霊様・・・」

 ドロテはベアトリスからの声掛けに反応しなくなっていた。

 その時微かに地を叩く音が聞こえた。

「な、何かしら?・・・」

 ベアトリスは眼を瞑り耳に全神経を集中するとその音は徐々に大きくなってきた。

「蹄!蹄の音よ!ドロテ!馬が来るわ!ドロテ!」

 ドロテからの返事はない。

「だれかー!お願い助け・・・助けてー!」

 やがて地を駆る音が聞こえなくなってしまった。

「!・・・精霊様?」

 その時白く輝くモノが泣き叫ぶベアトリスの目に映った。

 それは純白のマントを纏った女性だった。

 白い女性はドロテのうしろから優しく覆いかぶさるように右手で縄を握るとベアトリスに向かって左手の人差し指を立てて言葉を発しない様に合図した。

「あああ・・・あああ・・・」

 ――助けが来た!

 声を出すなというのは多分ドロテが驚いたり気を抜いたりして力が緩む危険があるからだろう。

 ベアトリスは大粒の涙を流しながら指示された通り両手で口を押えた。

「ドロテ、ドロテ、落ち着いて聞きなさい。意識はありますか?」

 ドロテを背後から包み込む女性は自分の頬をドロテの頬に当てて静かに問いかけた。

「ドロテ」

「お、おばあ・・・様・・・?」

 目を開けたドロテは瞬時にアミラだと気付いた。

「力を抜かずそのまま落ち着いてよく聞きなさいドロテ。私は昔ほどの力が無いので恐らくチャンスは一度だけです。合図したら残っている全ての力を使って縄を引きなさい。もうひと踏ん張りできますね?」

 ドロテは目を見開きゆっくりと顎を引いた。

 頬が擦れるのを感じたアミラは両手で縄を握った。

「いち、に、さんっ!」

「たああああああ!」

 二人は気合と共に縄を引きベアトリスの引き上げに成功した。

「ドロテ!ドロテー!」

 四、五メートル程後方で倒れている二人に引き上げられたベアトリスが駆け寄る。

「貴方がベアトリスね?」

「は、はい、ベアトリス・プリエと申します」

「私はアミラ・ロシュフォール。これから急いでこの子を連れて帰らなくてはなりません。貴方は自力で戻れますね?」

「あ、アミラ様!は、はい!」

 生ける伝説アミラ・ロシュフォールを前にしてベアトリスは泣き顔のまま固まった。

「よろしい。ではあなたも急いでお帰りなさい。道中良からぬことを考えてはいけませんよ良いですね?」

「は・・・はい!」

 アミラは穏やかだが凛とした口調でベアトリスを諭すとぐったりとしているドロテをなんとか馬に乗せ全速力で馬を飛ばした。


 アミラが重傷のドロテを連れて帰るとロシュフォールの屋敷は上を下への大騒ぎとなった。

「ええい!何をどうしたらこのような事になるのだ?!今度は何をしでかしたのだ!」

「フランク、そういう事は落ち着いてからにしましょう。早く治癒魔法を使える者と薬師を連れてくるのです」

「むむむむ・・・・」

 フランクは言葉を飲み込み使用人に指示を出しながらやや肉付きの良くなった体を揺らしてエントランスを出て行った。

「おばあ様何があったのです?・・・ドロテ?!これは?」

 フランクと入れ違いにニルスが駆け寄って来た。

「丁度良い所へ来ましたね。ニルス、ドロテを部屋へ運んでちょうだい」

「分かりました!」

 ニルスはドロテを軽々と抱えドロテの部屋へ運びベッドに横たえた。

 ドロテは険しい表情で歯を食いしばっている。

 ――この子・・・!

 縄から解放された途端擦り切れた左手からどくどくと真っ赤な血が流れだしていてアミラの着衣にもべったりと血糊がついていた。更に右腕は内出血もあるのか全体が真っ黒になっていて数センチ腕が伸びてしまっていた。激痛に襲われているはずなのに呻き声一つ上げないドロテをアミラは驚きの表情で見ていた。

「フランクに薬師と治癒魔法を使える者の手配を指示しました。貴方は屋敷に傷薬か薬草が無いか見てきてちょうだい」

「はい!」

 ニルスに指示をするとアミラはドロテの右腕に両手を添えて眼を瞑った。

「お、おばあ様!何をされているのです?!」

 部屋を出る際一度振り向いたニルスが声を荒げた。

「皆が来るまで私がヒールをします」

「いけません!寿命を縮める事になるとおばあ様は精霊魔法を使う事を禁じられているではありませんか!」

「そのような事を言っている場合ではありません。先の短い私の寿命でこの子の右腕を治せるのなら安い物です。攻撃魔法程体への負担は無いので大丈夫です。それよりも貴方は早く薬を」

「・・・くれぐれも無理をなさらぬようにしてください」

 そのような事を言っている場合ではない事はニルスにもよくわかっている。言葉で制するより早く薬なり治癒魔法を使える者を連れてきた方が良いと判断したニルスはこれ以上議論を戦わせずに部屋を出た。

「お、おばあ様・・・いけません・・・私は・・・嫌です・・・」

 大好きな祖母の寿命を自分が縮める事など出来ない。眉間にシワを寄せながらドロテはアミラの手に左手を重ねた。

「聞いていたのですか?この程度で何が変わるわけではありませんよ」

「でも!・・・」

「貴方は友人を助ける時に自分の腕の事など考えなかったのでしょう?私もそうです。貴方の腕の治療と自分の体を天秤にかけたりはしないという事を理解できますよね?」

「・・・はい・・・」

「よろしい。私は大丈夫ですからじっとしていなさい」

 アミラが優しく微笑むとドロテは目を閉じた。


 しばらくしてフランクが治癒魔法を使える侍女、使用人四人を連れて来た。数分遅れて薬師も到着し、大人数での治療が始まった。

「これは酷いな・・・」

 袖をハサミで切り、内出血で真っ黒になったドロテの腕を見た薬師が思わず呟いた。縄が締まった痕もくっりと残っていて開かれた掌は大きく避けていて血まみれだ。

「ひ!・・・」

「な、何をどうしたらこうなるのだ?お前はいったいなにをしたのだ?!」

 オルガがと使用人達は絶句しフランクが驚きの声を上げた。

「薬師様、ドロテの右腕は治りますか?」

「今のところはなんとも言えません・・・」

 バタン!

 皆が沈痛な面持ちで下を向いた時突然部屋の扉が開いてひとりの少女が飛び込んできた。

「私が悪いのです!ドロテは、ドロテ様は私を助けるために一時以上も縄で吊ったまま・・!」

「私が自分でやったの!崖からぶら下がったのは私!ベアトリスは関係ない!」

 苦痛に顔を歪めたまま体を起こしたドロテが叫んだ。

「ドロテ?!」

 アミラが慌ててドロテを支えた。

「其方ベアトリス?・・・というのか?なんだ?ど、どういう事なのだ?」

 わけがわからないとフランクが困惑の表情でドロテとベアトリスを交互に見た。

「私が・・・!」

「ベアトリスは関係ない!」

「ドロテ・・・ううう」

 事の顛末を話そうとしたベアトリスを再度必死の形相のドロテが潰れたで制した。

「むむむ・・・!」

 居合せた皆が困惑する中アミラがゆっくりとベアトリスに歩み寄って泣き崩れるベアトリスの肩を抱いた。

 アミラにはドロテが必死に言い張る理由が分かっていた。王国最大派閥を率いる上級貴族の娘に大怪我を負わせたとなればその領地に居を構える下級貴族のベアトリス達プリエ家がただで済むはずがない。例えドロテの口添えや慈悲があったとしても人が離れて行き貴族の繋がりが途切れ没落してゆくのが目に見えているからだ。ドロテはなんとしても自分ひとりの事故にしたいのだ。

 アミラがベアトリスの耳元でささやく。

「ドロテは本当にあなたの事が大事なのです。解りますね?」

 ベアトリスは涙で滲んでよくみえていないであろう瞳を大きく開けてアミラの顔を見ると優しいアミラの眼差しははこれ以上話すなと言っていた。

「・・・アミラ様・・・」

 両手で顔を覆った。

「ニルスお兄様、ベアトリスをお送りして頂けないでしょうか?」

「え?」

「お願いします。ニルスお兄様」

 ニルスは驚いた。これまで木剣が欲しいだとか父には黙っていてくれだとかいう頼み事を随分聞いてきたがこんなにも思いつめた表情で懇願されたのは初めてだったからだ。

「承知した」

 ニルスは即答し、ベアトリスの背を優しく押しながら部屋を出て行った。

「それでいったいどれぐらいぶら下げて・・・ぶら下がっていたのだ?」

 流石にフランクも色々と理解したらしく声を荒らげる事は無くなった。

「一時・・・二時かしら」

「!」

「二時だと?!」

 二時間も片腕で人を吊って耐えていたというドロテに皆驚愕の目を向けた。

「驚くべき事だがそうだとするとひとつ気になる点がある」

 ドロテの腕に治癒魔法の効果を上げる塗り薬を塗り込んでいる薬師が言った。

「何でしょう?」

「そんなにも長い時間片腕に負荷をかけていたら肩が抜けてもっと大変な事になっていたはずだと思いますが・・・」

「ずっと自己治癒≪ヒール≫していたわ」

「事故治癒≪ヒール≫ですって?!」

 アミラが目を見開いた。

「そんな事が出来るわけがない。こんな時に冗談などいうものではないぞ」

 アミラの口から出かかった言葉をフランクが代弁した。

 火であれ水であれ精霊魔力を使うには相当な集中力が必要で、何かのついでに出来るものでは無い。まして人を一人吊った状態で猛烈な痛みに耐えながら等不可能だ。もしそのような事が可能なら馬で連れて帰る道中アミラはヒールを施している。

 適当な事を口にする娘ではないし今も真剣そのものの目をしている。

 ―—この娘はもしかしたら・・・!

 アミラはドロテの顔をまじまじと見た。

「それにしても貴方はもう少し後先を考えて行動しなければいけませんよ」

 少し表情が落ち着いてきたドロテにオルガが言った。

「お母様仰ることは分かりますが考えている間が無かったのです」

「そ、それはそうでしょうけれど・・・」

「オルガは普段からのお前の行動を言っているのだ。今回ももし右腕が使い物にならなくなったらどうするのだ?」

「右腕が駄目になっても私は騎士になる事を諦めたりしないわ」

「ドロテ、もう騎士になることはいい加減諦めなさい」

「お父様、お父様はもしも戦場で片腕を失ったらその場で命も諦めるのでしょうか?」

「な、なんだ唐突に・・・」

「私は諦めません。ゴズワール王国では左手に盾を持ち、右腕一本で剣を振る剣術が主であるとおばあ様からお聞きしたことがあります。つまりは片腕があれば戦える術があるという事です。守るべきひとが背ににいるのなら例え片腕でも私は戦います。戦場で失うはずだった腕を少し早くに失う事になるというだけです」

「!」

 アミラは絶句した。これほどの固い意志を持つものが他に居るだろうか?いまの騎士団にここまで強い心を持った騎士がいったい何人いるのだろうか?

 ――この子は間違いなく名家ロシュフォールの血を引いている。それも誰よりも濃く強く!

 アミラはこの時ドロテを騎士学校に入れる事を心に決めたのだった。



「只今帰りました・・・」

アミラの助力で騎士学校に入学を果たしたドロテは連休を利用し体調の思わしくないアミラを見舞う為三か月ぶりに帰宅した。

「お帰りなさいませ、ドロテお嬢様」

 扉を開けると煌びやかな玄関ホールでメイドが一人出迎えた。

 ・・・おかしいわね・・・?

 普通は4~5人の使用人やメイドが荷物等を持ちに集まってくるはずだ。それにどことなく屋敷が静かに感じる。

 騎士学校入学以来約3か月ぶりの帰宅だがもう自分は居ない者とされたのだろうか?。

「でもいいわ」

 この方がかえってせいせいする。

「お父様とお母さまは?」

「・・・二階の大奥様のお部屋においででございます」

「おばあ様の部屋?!」

 嫌な予感しかしない。

 ドロテは手荷物をメイドに預けると大急ぎで階段を駆け上がった。

 ばんっ!

「おばあ様?!」

 勢いよく祖母の部屋の扉を開けたドロテはハッとした。

 室内には両親と使用人が四人、それに白衣を着た薬師らしき人物が二人いた。

「なんだ、ノックもせずにっ!?」

「ドロテ!帰ったのですか?!」

「はい、只今戻りました!ごきげんよう・・・おばあ様っ!」

 両親への挨拶は定型文だけで済ませ、祖母の横たわるベッドに駆け寄った。

「おお、その声はドロテですね?。この年寄りの最後の願いを精霊様に聞いて頂けたようです・・」

 ドロテを探して宙をさまよう祖母の手を握ると弱弱しく握り返してきた。

 ドロテの祖母アミラはドロテが騎士学校に入学するよりも前に視力を失っている。

「大丈夫ですか?!おばあ様!」

「アミラ様は昨日一時意識を失いましてな・・。今は片時も目を離せない状態です」

 白衣の男が答えた。

 アミラは病や怪我ではなく老衰で二年前から寝たきりとなっていた。

 アミラは愛おしそうにドロテの腕から伝って頬を摩った。

「そんな悲しそうな顔をしないで・・・ドロテ」

「で、でも・・・おばあ様・・・」

 ドロテは今にも泣きだしそうな顔をしている。

「ドロテ、・・・頑張っているようですね」

 僅か3か月で豆だらけになった手や筋肉のついた腕に触ったことでドロテが人一倍修練を積んで来たのだとアミラにはすぐにピンときた。

「はい・・・」

「コホン、ドロテ、少し話がある。部屋の外へ出なさい」

「お父様、私にはありません」

「親に向かって何だその言いぐさはっ!」

「ド、ドロテ・・・」

 ドロテの頑なな態度に母オルガも困惑の表情を浮かべた。

 ドロテは振り向きもせずアミラの手を握り続けた。

「フランク、暫くドロテと二人にしてくれませんか?」

「え?し、しかし私は・・」

「フランク」

 祖母アミラの口調は穏やかだが父フランクよりも逆らう事が出来ない様な威厳がある。

「わ、分かりました母上。ドロテ、何かあればすぐに知らせるんだ。良いなっ!」

「はい」

 フランクは渋々皆を連れてぞろぞろと部屋を出て行った。

「ドロテが帰って来てくれたお陰で面倒な人達は居なくなったわ。うふふ」

「まぁ、おばあ様ったら・・あは」

「それにしてもドロテ、三か月の間に体もそうだけど、肝も据わったみたいですね」

「肝ですか?」

「ええ。自分の意見をはっきり伝えるところは以前と変わっていないけれどフランクに怒鳴られたら体を震わせて狼狽えていたわ。でもさっきは微動だにしませんでした」

「そ、そう?でしょうか?」

「きっと体を鍛えた事で自信がついたのです。自分を追い込む修練を積んだ証拠だわ」

「!」

 あんなに辛い自主練をこなしているのに学校の修練ではその成果を得られず体を苛め抜く自主練自体に疑問を感じていた。それがこんなところに現れているなど思いもよらなかった。

「たった三か月で凄いですね。でもおかしいわねぇ、騎士学校はそんなに激しい修練はしないはずよ。方針が変わったのかしら・・・?」

 ドロテはチームのみんなや自主練等この三か月間起きた事をドロテは身振り手振りでアミラに話した。

「そう、良い仲間が出来たのですね」

「今度首に縄をつけてでも連れてくるわっ」

「まぁ、可愛そうに。うふふ」

「あはは!」

 ゴホゴホ・・・。

 アミラが咳き込んだ。

「ちょっと疲れてしまったみたい」

「ごめんなさい、おばあ様、私ちょっとしゃべりすぎました・・・」

「良いのよドロテ。あなたのお話はとても楽しかったわ。でもちょっと休んで良いかしら?」

「はい、私はここに居ますので、安心して下さいおばあ様」

 見えないアミラは天井を向いたままニコッと笑みを浮かべるとふぅっとひとつ息を吐いて目を閉じた。


 若かりし頃の祖母アミラは騎士学校を卒業しブリュセイユ王国の騎士団に所属していた。そして類稀な剣術のセンスを発揮して騎士団での序列を瞬く間に上げて行った。

 上位の小隊に編入となった頃なんと精霊魔力をも発現させ王国中にその名を轟かせた。そして30歳の時ブリュセイユ王国初の女性の副騎士団長となり、14年間騎士団をけん引した。

 ドロテが物心ついた時には既に引退していて屋敷でのんびりと過ごしていたが、彼女を慕ってロシュフォール家を訪れる騎士は少なくなく、老いても尚凛としているアミラはドロテの憧れで目標でもあった。


 ロシュフォール家は代々”男系”で生まれてくる子はその殆どが男の子でアミラの生んだ子3人もまた男児だった。やがて孫ができたがそれも全員男児だったため子宝に恵まれたことに感謝はしたが、『ひとりぐらい女の子を授けてくれても良いのに・・・』とちょっぴり精霊様に恨み言を言ったりしていた。


 そんな時長男夫婦に待望の女児が生まれ、アミラは夫婦よりも喜びドロテを可愛がった。

 四人兄妹の末っ子として生まれたドロテは三人の兄の影響もあって、『自分も騎士団に入るんだ!』と、幼いころから兄の背中を追いかけて剣を振り元気に駆け回っていた。

 しかしすぐ上の兄が騎士団に入団した頃、父フランクがドロテから剣を取り上げた。事故で大怪我をしたことと13歳を過ぎても身長が伸びなかった為早いうちに騎士の道を諦めさせて花嫁修業をさせた方が良いと考えた為だ。

 それにドロテはアミラに似て端正な顔立ちをしていることもあって名門ロシュフォールに生まれた末娘に早くも多くの貴族から縁談が寄せられていたのだ。

 しかしアミラに憧れ騎士学校入学を目指すドロテはフランクの方針に従わず、剣を振り続けた。三人の兄が騎士団に入団したのに何故自分はダメなのか?ドロテには理解できなかった。

 体が小さく、可愛らしいが、親のいう事を全く聞かず男の子に混ざって体中傷だらけになりながら野山を駆け回るドロテはいつしか”ロシュフォールの残念な末娘”と陰口を言われるようになった。

 騎士学校を卒業しても必ず王国騎士団に入団できるわけではなく、半数以上振り落とされる。騎士学校には将来有望な子供だけが家の期待を一身に背負って入学する。名門の子が脱落等あってはならないのだ。

 両親も兄達も皆ドロテの騎士学校入学を猛反対する中、アミラだけがドロテの味方をした。

『子供のうちは細かな技術よりも運動能力を高めることが大事』と、剣の手ほどきは殆どしなかったが、ドロテには才能があると言って体の大きさを理由に反対する息子のフランクと幾度となく衝突した。

 フランクは首を縦に振ることは無かったが王国騎士団副団長を務めたアミラの影響力は絶大で当主のフランクもアミラの決定には逆らう事が出来ず、猛反対する皆を押し切ってドロテは騎士学校に入学を果たせたのだった。


 コンコン。

「失礼します。アミラ様」

 ノックがして長身の男が入って来た。

「ユリウスお兄様」

 ロシュフォール家長兄のユリウスだ。

 ユリウスは次期王国騎士団団長に推挙されるのではと噂されている逸材でロシュフォール家期待の星だ。

「む?。ドロテか」

「はい・・・ごきげんよう、お兄様」

 十も年上の長兄ユリウスは物心つく前に既に剣の師匠と寝食を共にしていて兄妹という感覚も無い。ドロテから見れば年の離れた兄は父ラファエルに近い存在で苦手だ。

「ふむ、皆のいう事を聞いて帰って来たのか?」

「私は絶対に王国騎士になって見せます」

「何度も言うが、お前の華奢な体格では厳しい。地方騎士であればともかく、エリートである王国騎士になるには持って生まれたものが必要なのだ。婚約者が出来たということにすれば中途で退学しても家名に傷はつかない。諦めて帰って来い」

「それは違いますよ、ユリウス」

「む。起きておられたのですか。アミラ様もそろそろお認めになりませんか?ドロテは王国騎士にはなれませんよ」

「ユリウス、体格や腕力だけが必要な資質ではありません。ドロテには騎士として一番大事な物がちゃんと受け継がれています」

「それはなんでしょうか?」

「強い相手にも引かない度胸、一度決めた事は貫き通す強い意志、打たれても倒れても何度でも立ち向かう勇気です」

 アミラは力を振り絞って体を起こし、強い口調で訴えた。

「おばあ様・・・」

 ドロテは慌ててアミラの体を支えた。

「これは誰にも教えることが出来ない・・・精霊様から授かり持って生まれた・・・騎士に一番大切な資質です・・・」

「・・・なるほど、それは認めましょう。しかし戦場で勝敗を分かつのは結局は技術と体力です。精神論では生き残れません」

「強い気持ちは技術を高め、体を強くするのです・・・今・・・ダメだからと言って可能性を奪ってはなりません!ぅ・・・」

「お、おばあ様、横になってください!」

「可能性も結構ですが、もしドロテが王国騎士になれなかった場合はどうするのです?その事実を無かったことにする為に父はドロテをロシュフォール家から排除するかもしれません」

「その時は・・・私がこの子を守り・・・ます・・・ゴホゴホ!」

「むぅ・・すみません、今日は見舞いで立ち寄ったのですが・・・これぐらいにしておきましょう。ドロテ、ロシュフォールの名を傷をつけぬよう精進するのだ」

「分かっています!私は絶対に王国騎士になって見せます!」

「・・・失礼します」

 アミラはどう見ても死期が近づいている。なのにドロテを守るとはどういう事か?。ユリウスは疑問を覚えつつ部屋を出て行った。

「おばあ様・・・有難う・・ぅぅ・・・」

 ドロテはアミラの腕に縋って泣いた。祖母は我儘な自分を誰よりもしっかりと見ていてくれていた。

「ドロテ・・・私は・あなたが王国騎士団の制服を着た姿は・見られないでしょう。でも・・」

「嫌!私を一人にしないで・・ぅぅ・・私のせいでおばあ様が・・・」

 三年前大怪我を負った時アミラに寿命を縮める可能性のある治癒魔法を使わせてしまった事をドロテはずっと悔いていた。

「あの程度の事で何がどうなったという事はありません。貴方は自分の腕の事など考えもせずに大切な友人をたすけたのでしょう?私もそうです。貴方の腕を治す事しか考えなかったもの。同じですよ。・・・それにあなたにはステキな仲間もいるでしょう?・・・きっと自分の手で自分の未来を掴むことが出来る・・わ。だって・・・あなたは私の自慢の孫なんですもの・・・」

「・・・・私、必ず王国騎士になってみせます!・・・・・・・・・」

 腕に縋って泣く孫の頭を優しく撫でた。



 その後再びアミラの容体が悪化し、翌朝家族に見守られながら静かに息を引き取った。

 午後から葬儀が執り行われ、多くの者がアミラの死を悼んだ。

 ドロテも率先して弔問客の案内や接待の手伝いで忙しく動き回った。何かをしていないと唯一の理解者であり目標だった祖母をを失った悲しみと不安で動けなくなってしまいそうだった。気づけば玄関ホールに設置されている水時計は22の時を指していた。

 ようやく一息ついた時、家長のラファエルが兄弟とその家族を居間に集めた。

「コホン・・今日は皆一日本当にご苦労であった。母アミラも手厚く葬られて幸せであったと思う。急だが、長年母アミラの執事として仕えてくれたマルセルが大事な話があるそうで、集まってもらった」

 このタイミングで家族を集めて大事な話など、相続の事しかないはずだが、息子兄妹だけではなく、何故その家族全員を集めたのだろう?。

 黙ってはいるが集まった者は皆同じ疑問を抱いていた。

「ではマルセル君・・・」

「はい。ここに血判の押された遺言状を預かっておりますので、恐縮ながら亡きアミラ様に変わり、代読させていただきます」

 それまでざわざわしていた場がしんと静まり返った。

「私アミラ・ロシュフォールの遺産は以下の通りとする。一、土地家屋とそれに付随する物は長兄フランク・ロシュフォールへ。二、一以外の資産は息子三人に均等分配。三、但し、総資産の10%をドロテ・ロシュフォールへ譲渡する」

「なにっ!!」

「ど、どういう事ですの?!」

「おかしいですわっ!」

 一斉に不満の声があがった。

 三つ目が明らかにおかしい。なぜドロテなのか?不穏な空気が流れる。

「お静かに願います。まだ続きがございます」

「う・・・・」

「おばあ様・・・私の為に・・」

 祖母は死して尚自分を守ってくれている。涙があふれた。

「三つめは特に間違いのない様、切に望む。以上です」

「な、なんだそれは・・・!」

「こんな事・・・!」

「なるほど・・・これはおばあ様にしてやられてしまいましたね。はっはっは」

 困惑する親族の中で一人だけ笑みを浮かべて頭を掻く者がいた。

「何が可笑しいユリウス!」

「亡くなる直前、おばあ様はこう言われました『ドロテは私が守る』と」

「そ、そういう事か・・・」

 皆押し黙った。

 なによりも家訓や家長の言葉を重んじるロシュフォール家である。血判付きの遺言状ともなれば従わないわけにはいかない。

 皆一斉にドロテに対して驚きと嫉妬の視線を浴びせた。

「私、そんなお金を頂いてもどうしたら良いかわからないわ・・・」

 長年王国の防衛に尽力し、王国騎士団副団長を務めたアミラの遺産は彼女の夫の残したものと合わせ10%とはいえ莫大だ。

「その御心配には及びません。今後はドロテ様の執事として仕えるようアミラ様から仰せつかってございます。ドロテ様の資産は私マルセル・ラージュが責任をもって管理させて頂きます。その遺言状もございますのでご要望があれば今ここで代読させていただきますが」

「!!!・・・」

「なんと・・・」

 不平の声を上げようとした、特に兄弟の妻達の熱は一気に引いてしまった。

「流石ですね、おばあ様・・・ドロテ、おばあ様に感謝するのだな」

 ユリウスはドロテの頭をわしゃわしゃと撫でた。

「??」

「なにか勘違いしている様なので言っておくが私は別にお前を憎んでいるわけでも嫌いなわけでもない。家の事を第一に考え行動しているだけだ」

「・・偏屈兄貴・・・私の騎士学校入学に反対したことは家の為にならない事だったって、後悔させてあげるわ」

「ふ。本当に気の強い奴だ」


 翌朝早くドロテは身支度をして二階の自室から玄関ホールに下りてきた。

「ドロテ、どこへ行くのですか?!」

 弔問客の対応の為に使用人達に指示をしていた母オルガに見咎められた。

「決まっているわ。学校へかえるの」

 ドロテは背中越しに返事をした。

「なんですって?!。今日は国王陛下もおいでになるのですよ!。それに貴女はおばあ様にあんなにも目をかけていただいていて遺産まで譲り受けたのです、もう少し留まってお母様の死を悼むべきではありませんか?!」

 オルガの剣幕に使用人たちも手を止めて二人を注視した。

「私はおばあ様に誓ったの。必ず王国騎士になるって。それに、おばあ様ならきっとこう仰るわ『ドロテ、迷わず自分の目標に突き進むのです』って!。ここでしくしく泣いてるよりも頑張っている姿を見せる方がおばあ様はお喜びになるはずです!」

「・・・貴女は・・・!!」

 振り向いたドロテは大きな碧い瞳に涙をいっぱい溜めていた。

「それでは、ごきげんようお母様」

 オルガはそれ以上は何も言わず、ドロテを見送った。


「雪・・・」

夜半から降り始めた雨が雪に変わったようだ。

「おばあ様・・・」

きっと白銀の聖騎士と呼ばれた祖母アミラの祝福だ。

 頬をガラスの様な露が伝った。

ドロテはくるぶしまで積もった雪をきゅっきゅっっと踏みしめながら歩きロシュフォール家の先祖が眠る墓地に入った。

 墓地は小高い丘にありドロテはその中でも一番見晴らしが良い場所にある真新しい石碑の前に立ち積もった雪を丁寧に掃い跪いた。

「おばあ様・・・我儘な私を愛してくれてありがとうございます・・・守ってくれてありがとうございます・・・」

 ディッキーと決闘でフランクに雷を落とされて永遠とも思えるお説教を受けた日も優しく抱きしめてくれたおばあ様。

 右腕に大怪我を負った時は体調の思わしくない中一週間つきっきりで手を握りヒールしてくれたおばあ様。

 自分を騎士学校に入れる為に家族全員を根気よく説得して回ってくれたおばあ様。

影日向になり日の神の元に召される間際まで自分を守ってくれ、愛し続けてくれた祖母にどうしたら報いる事が出来るのか?どうしたら恩を返すことが出来るのか?

 ドロテは大好きな祖母アミラとの日々を思い返しながら自問自答する。

 「・・・その答えは一つしかないわ」

並みいるエリート達を押しのけて騎士団に入団する事だ。

 ――皆に無理だ無謀だと言われた自分が狭き門をこじ開け王国騎士団に入団し、『流石はアミラ。王国最強聖騎士の目に狂いはなかった』と見返し、偉大な祖母を再認識させる!


 一時以上こうしていただろうか?凍える寒さの中外套に雪が積もるほど長く祈りを捧げたドロテが顔を上げた。

真っ直ぐに墓石を見つめるその両目には力強さが戻っていてどんな困難にも真正面からぶつかって行く覚悟を決めた炎が宿っていた。

「見ていてくださいおばあ様、ドロテは必ず王国騎士団の制服を着て自慢の孫になってここへ帰ってまいります!」

 雲の切れ間から射した光が王国最強と謳われたアミラ・ロシュフォールの石碑を照らした。

 ドロテは涙を振り払い拳を握りしめ、決意を新たに立ち上がった。


 ―—完―—

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