7th piece Nightmare
※軽い自傷行為が御座いますので苦手な方はご注意ください。
急激に意識が覚醒し飛び起きた。
叫びたくなるような恐怖と気が狂いそうな不安感に涙が流れ落ちる。全身が振るえ脂汗でびっしょり濡れていた。煩いくらいの鼓動が脈打ち手足は痺れて目の前は星が散るように明滅している。
吐息は激しく過呼吸に近い。喉がカラカラに渇いて痛かった。
視線を泳がせると電気のついたままのリビング。手には読みかけの本。ソファーに背を預けたまま何時の間にか寝ていたのだ。
なんとか呼吸を落ち着かせて起き上がると汗で張り付いた前髪を掻き揚げるように両手へ顔を埋めた。震えているのは手だろうか、体だろうか。
何度、同じ悪夢を見ただろう。
「もう、赦してくれ。」
懇願するように搾り出された悲痛な声は静寂に溶けた。
夜が怖い。眠って夢を見たくない。朝までどのくらいかと時計を見れば無情にも日付が替わって数十分。
絶望にも似た感覚に愕然と肩を落とす。
のろのろと立ち上がって洗面所に向うと、冷や汗で濡れた服を脱ぐ。
勢いよく蛇口を捻って頭から水を被った。顔を上げると水に濡れた蒼白な自分の顔と傷痕の残る身体が鏡に映った。
赤黒く残る痣。
引き攣ったようなケロイド。
切り裂かれたピンク色の直線。
夏でも長袖を着るようになったのはいつからだろう。傷痕を誰にも見られたくないと思い始めたのはいつからだろう。自分が汚いと感じたのはいつからだろう。
人でないと言ったのは誰だろう。
夢と現実の区別が曖昧で湧き上がる激情に唇を強く噛み締める。
俯いた視線の先にカミソリが映った。手に取って左手の手首に走らせる。
薄皮一枚切れたところから血が浮き上がり赤い筋となって滴る。ちゅっと舐めとって鉄の味がする事を確かめた。
赤い血液が流れている事に、その赤が血の味がすることに安心する。
切ったところからポタポタと血が滴る。白い洗面台に増え続ける赤い斑点を見ているうちに気持ち悪くなり我慢できずに吐き出した。
出てくるものは胃液ばかりで気持ち悪さが増しただけだ。
口元を拭い、手を洗うと洗面所から出た。
適当な服に着替えると鍵だけもって外に出ると冷たい夜風が顔を撫でた。ゆっくりと階段を下りてマンションから出て誰もいない夜の道を歩く。
ぽつりぽつりとオレンジの街灯が道を照らしていた。
燃えるように疼く傷痕を押さえながら見知った道を歩く。
街頭で照らされているはずなのに真っ暗闇に感じた。足先が冷えて感覚は失われて寒さに俯むくと悪い視界は更に狭まった。それから数秒とも数時間とも感じられるあやふやな時間を歩き続けた。
金属の擦れる音に顔を上げ、あたりを見渡すと公園があった。音のする方へ行ってみるとブランコが風に揺られている。
タコを模った滑り台。鉄棒。ジャングルジム。魚の椅子。クジラの形をした水場を通り過ぎるとベンチに寝転んだ。
街明かりで灰色にかすんだ夜空の中に、うっすらと星が見える。
ドット・トウ・ドットのように点々と見える星を繋ぐが何の形も成さない。一等星でさえぼやけているのだから他の星は殆ど見えないのだ。星座など探せるはずがないのは分かりきっている。
ここに満天の星があったとして、星座など詳しくないのだからあの少女のように見つけることなど出来ないだろう。
『あれとあれを繋いで赤い心臓~♪サソリ発見。』
少女は夜空を見上げながら指先で星を繋いだ。
『あ?どれとどれだって?』
『あれとあれだ。』
指をさされて説明されても無数の星は全て同じに見える。
『解るかボケ。』
『アイちゃんのバーカ。』
『あんだと。』
取っ組み合い、じゃれあいながら窓の下へ寝転んだ。暴れた所為で少し息が荒くなっていた。
『流れ星、見てぇな。見えねぇかなぁ。願い事いっぱいあんのになぁ。』
『流星物質は絶え間なく降り注いでんだからちょっと空眺めてりゃ拝めるっつーの。』
呆れ半分で言うと少女は目を輝かせて空を見た。
『だいたいな、宇宙のゴミくずが燃える大気中の発火現象に願掛けなんて無意味だ。』
流れ星にすらケチをつけるなんて心底歪んでいる。夢を崩された少女は笑っていた。
『アイちゃんやっぱりバカだ。』
今度は怒る気が起こらなかった。少女の笑みが悲しそうに見えたのだ。
明るすぎる街の夜空の星を見て昔の記憶を辿った。
彼女の願いとは何だったのだろう。星に願うくらいなのだから途方もないものなのだろうか。それともくだらないものなのだろうか。
もっと彼女の話を聞いていればよかったのだ。
いつも取り返しがつかないほど後になって誤りに気付いて悔いる。悔いの数だけ再び悪夢が増えるのかと自嘲が零れる。
「こんばんは。」
降ってきた高い声に灰色の夜空が遮られ、一人の女が覗き込む。
華やかに結い上げられた髪。雑誌のモデルのようにくっきりと施されたメイク。ベルベットで仕立てられた赤と黒のイブニングドレスと皮のコート。宝石の使われたアクセサリーは素人が見てもブランド物だと判別できた。
頭のてっぺんから足の先までゴージャスに飾り立てられた姿は水商売の関係者だと思える。
「いけないんだ。子供は寝る時間だよ。」
からかう様に笑いながら甘い香りを漂わしながら白く細い腕で愛路の頭を持ち上げ、膝を頭の下に差し込むように座った。所謂膝枕だ。
「眠れないの?」
ビーズで飾られた爪先が前髪を撫でる。擽るような感覚に目を閉じた。
彼女の名前は六車柊。金持ちの権力者を手玉に取る夜の女王だ。柊を手に入れるために男達は多額の金を湯水のように注ぐらしい。
一定の人間は大金をちらつかせれば心を動かされるが彼女は違う。金に溺れた人の欲の怖さを誰よりも知っているから、柊の心は金で動くことはない。
「家に来る?一緒に寝てあげるよ。」
「行かねぇよ。」
そういいながら、冷えた頬を柊の腹に摺り寄せる。
出逢った当初は彼女の傍にいるのが当たり前だったが、いつの間にか遠い存在になってしまった。自分から距離を置いたはずなのに逢ってしまうと縋りたくなってしまう。
柊の温もりが懐かしいと感じるほど、触れ合っていなかった。
彼女は強い女だった。それなりに辛い境遇に立たされながら嘆く事無く、誰にも頼らず一人で生きている。
「俺も柊みてぇになりてぇな。」
ぽつりと呟くと、見下ろす瞳に影が宿った。目蓋を撫でる指先にあわせて目を閉じると顔が近付く気配がして、目蓋に柔らかく湿った感触が降りる。
吐息が擽ったくて無意識に首がすくむ。
柊は傷ついた愛路の左手を掴んだ。そして自分の左手首に残る傷跡と重ねるように合わせる。
「愛路は、愛路のままでいいよ。」
降り注ぐ言葉に目を開けると優しく笑んだ瞳と絡む。弱さや醜さを笑って許してくれる柊に憧れている。
流れ星が願いを叶えるなんて信じない。
それでも何かが願いを叶えてくれるなら、柊のような強さと優しさが欲しい。
『When you wish upon a star』
◇六車 柊
高級クラブのホステス。愛路より5歳年上の綺麗なお姉さん。