47th piece Dreamer
泣くだけ泣いた愛路は翔に大学まで送り届けられて試験を受けた。泣きはらした顔で強面の筋肉達磨に連れられてきた愛路を見た学生が驚愕したが誰も近寄ってくることはなかった。翔をどれほど恐ろしい職業の人間と勘違いしたのか英仁さえも畏怖の眼で見ながら距離をとり、愛路に近づいてきたのは話を聞いて食堂で終始爆笑していた志郎のみだ。
ざわつく中で本日の試験を終えると、愛路は図書館へ来た。
翔に全て知られていたことは衝撃で未だに受け入れることが出来ない。軽蔑されていただろうか、同情で傍に置いてくれたのだろうか。黒い感情が染みのように広がって劣等感に呑まれそうになる。
『ずっとここで夢をみていたいよ。』
こんな時はいつも声が聞こえるのだ。まだ色褪せることなく耳に残っているあの人の声。逢いたくて堪らないのに二度と逢う事が叶わない人。
初めて話したのは中学1年の夏休みの昼下がり。
中学に上がると同時に預けられた先は面識の少ない坂間勝敏という親戚だ。母の弟にあたるらしいが父も母も自身の家族とは疎遠で祖父母にすら両親と死別するまで会ったことがなかった。
勝敏は殆ど家におらず、家では妻の枝里と二人で過ごすことが多い。洗濯や掃除もきっちりとこなし食事も当たり前に用意されていた。
一見、真面目な専業主婦。しかし勝敏のいない夜は酒を浴びるように飲んで暴れ、愛路に暴力を振る。そして翌朝には何も覚えていないたちの悪いアルコール中毒の酒乱だった。憶えていないが故に無かったことになる暴力。
家に帰ることが嫌で、学校が終わると図書館へ逃げた。閉館時間まで勉強して家では部屋に籠って勉強した。何も考えなくて良いように疲れて寝落ちるまで机にかじりついていた。
口数少なく、根暗な愛路は攻撃的な同級生からもかっこうの餌食となり、誹謗中傷を浴びせられ元々ある傷に重なるように巧妙に暴力を振るわれた。教師の前では友人の仮面をつけるクラスメイトは人の皮を被ったおぞましい何かに見えた。
日に日に増える傷に学校の担任と勝敏は、学校外で悪い付き合いがあるのではないかと推測した。家でも学校でも心当たりのない傷。
殴る本人が傷の心配する恐怖に愛路は何も言えなかった。
暑い季節になっても痣を隠す為に長袖を着用し、学校のない夏休みは逃げ場の図書館へ入り浸った。
そんな時、車椅子に乗った少女に出会った。
「図書館にいるのに本を読まないなんてもったいないね。」
彼女は隠れるように本棚の隅に置かれた机で勉強していた愛路へ初対面でそんな事を言ってきたのだ。鞄の名札を『アイジ』と読み違えて勝手に『アイちゃん』と呼び一人で一方通行に話しかけていた女の子。
他人が怖くて堪らない愛路はずっと聞かないふりをして勉強をしていたが、毎日会ううちに少しずつ慣れて話すようになり、勉強を止めて二人で本を読むようになった。
「テルね、ここだけが最後の居場所なんだ。」
治療法のない難病を患っていた彼女は午後の3時間だけ許された図書館へ往来だけが生きる楽しみだった。体が動かなくなっていき末期では呼吸不全となり、生きるか生きる事を諦めるかその決断を自分でしなければならない残酷な病気だった。
走れなくなり日課のマラソンを諦めて、指が動かしにくくなり大好きだったピアノを諦めて、沢山の事を諦めて最後に残った楽しみは本のみ。
愛路の会った紅林輝架は元気な11歳の少女ではなく死を待ちながら生きる15歳の女の子だった。
どうして生きているのか分からない愛路と何故死んでしまうのか分からない輝架。2人で本を読みながら沢山話した。金魚柄のノートに空想の日記を書き楽しい虚像を夢見た。
発病前の過去の輝架と今の愛路を重ねた夢物語。こうだったらよかったという願望。
一緒に掴みたかった桜の花弁。
並んで弾きたかったピアノ。
共に見たかった朝日。
二人で作りたかったてるてる坊主。
1日3時間の短い逢瀬の間に輝架と愛路は虚像の思い出を過ごした。死にゆく恐怖も生きる恐怖もない二人で重ねた楽しい思い出。
お互いに惹かれて未来のない恋に落ちていた。
夏休みが終わっても図書館で逢い続けたが年が明けるころ、輝架は図書館に来なくなった。逝ってしまったのかと不安に駆られる中、輝架の姉である夕月が逢いに来た。
病状が悪化して寝たきりになったと伝えられ夕月に連れられて一度だけ会いに行った。
ベッドに寝かせられている輝架はとても細く小さく見えた。
「何も出来なくなって痩せて醜くなっていくの。アイちゃんにそんな姿見られたくないんだ。だから、今日でバイバイだね。」
告げられた別れに愛路は泣くまいと歯を食いしばり、折れそうな程細い輝架の手を握った。
「テルの夢を俺に頂戴。やりたい事、俺がするよ。」
叶う事なら自身の命を輝架に与え渡したかった。それで彼女が生きるなら惜しくない。それは不可能だからせめて輝架の面影を残して生きたかったのだ。
「もっとピアノが弾きたかった。最後まで弾けなかった曲があるの。弾けるようになりたかったよ。勉強がしたかった。テル馬鹿だからさ。沢山本が読めるように図書館に住みたい。でもね、一番は生きたかったよ。アイちゃんの隣でさ。まだ話したい事が沢山あるの。」
「うん。」
時間が許す限り一緒に居て、最後のお別れをした。輝架は笑ってくれたのに愛路は終始泣いてしまい弱い自分に悔やんだ。最後に見せた姿が泣き顔など格好悪い。
その日を境に夕月が図書館へ来て輝架との手紙を橋渡ししてくれた。愛路は昼休みと放課後、学校の音楽室でピアノを弾いた。下校時間になると図書館へいき閉館まで本を読んでいた。約束を守るために。
彼女はまだ生きているだろうか。毎日図書館で輝架の影を追いながら彼女が諦めた本を読んだ。
手紙の文字数が減り、手紙の回数が減り、再び夏休みが来るころには手紙が途絶えた。
夕月が愛路のもとへ来たのはお盆が過ぎた頃。
「君の手紙、テルに持って行ってもらったよ。」
8月9日の早朝静かに眠ったと夕月は愛路へ伝えた。本当にもう逢えないのかと泣き崩れる愛路の隣で夕月も泣いた。
「泣いてくれてありがとう。いじめられっ子でね友達もいなかったから。」
理不尽に虐げられ、それでも明るく過ごしていた輝架。不治の病へ罹患し中学へは通う事すらできなかった。友人や教員の弔問すらなく家族と親戚だけの淋しい葬儀。
死んだ姿など見られたくないという輝架の強い希望で愛路は呼ばれなかった。仏壇の前に立つことすら嫌がるのだろう。
それからはどうやって過ごしたのかよく覚えていない。ただ、彼女の後を追うようにたくさんの本を読んだ。中学一年の冬から始めたピアノも狂ったように弾き続けた。楽譜なんて読めず、何度も聞いて音を探す不格好な練習方法でショパンの練習曲27曲弾けるようになった頃には聴音で弾けるようになっていた。
ピアノは約束。読書は夢。勉強は逃避。
輝架と別れて一年、相変わらず枝里からもクラスメイトからも暴虐は続き疲弊していた。
時々愛路の様子を見に来た夕月だけが話し相手だった。
秋が終わる頃、夕月は愛路へ問い詰めた。消えない打撲痕に暗い表情。初めて会ったころからずっと疑いを持っていたのだ。
何もかも限界だった愛路は夕月に弱音を吐いた。独りでは頑張れないと、怖くて堪らないと胸の内を打ち明けたのだ。
夕月の協力の下、いじめと虐待の証拠集めが始まった。痣の写真。録音。経過観察日記。暴力から逃げてきた愛路を家にかくまったりしてくれた。早朝、枝里が起きるまでに家に帰れば問題なかった。
夕月だけが愛路を助けようとしてくれたが結局は迷惑をかけてしまった。殺されそうになったあと助けを求めて逃げただけなのに不名誉な冤罪を駆けられ実名が晒されて人生を壊してしまった。
自分にかかわることで夕月が貶められる事に耐えられなかった。
これ以上はやめて欲しい。
何とか伝えようと言葉を紡ごうとするが周りの大人たちに聞いてもらえず、いつしか喉が掠れて声が出なくなった。
無理矢理連れて行かれた病院で精神から来る言語障害だと言われた。
夕月から引き離す為と、予定よりも早く次の親戚に回されることになる。散々迷惑を掛けたのに夕月には挨拶も出来ずに別れた。
カウンセリングに連れて行かれ人の脳は自分に都合よく記憶を塗り替えたり、想像した偶想を現実に呼び覚ましたりすることがあり、過度のストレスから無意識に傷つけることがあるのだと精神科医が説明した。
親の死のショックから立ち直っていないのだろうと見当違いの診断。
枝里やクラスメイトのことは全て自分の妄想で身体に残る傷も己の所為だと医師にも親戚にも暗示のように言われ続けた。
通院は苦痛でしかない。家でも学校でも腫れ物に触るように扱われ見張られ行動を制限されて声が出ないどころか呼吸すら辛い毎日。
夜が恐くて眠れなくなった。処方された睡眠薬を飲んでも神経性嘔吐により全て吐き出してしまい、病院へ担ぎ込まれ点滴に繋がれる。全てが悪くなる一方で突発的に起こるパニック発作と過呼吸発作が本当に自傷行為を引き起こし全てが敵になったかのようだ。
ピアノも弾けず、本も読めず、勉強へ逃げることすら出来なくて、もう生きていけないと諦めたときだった。
『アイちゃん。』
輝架の声が聞こえた。頭の中ではなく鼓膜に吹き込まれた。なんだか悲しくなって涙が溢れた。まだでるのだと驚いた。
『アイちゃん。テルがそばにいるよ。』
すぐ隣で語りかけるように聞こえる声にしゃくり上げて泣いた。
『泣くなよ。悲しいときはな、楽しいこと思い出せばいいんだ。』
なんて気楽な思考回路なのだろう。楽しい思い出など遥か遠い色あせた過去のことで悲しみを塗りつぶすような威力は無い。
『テルと一緒にいて楽しくないのかよぉ。』
なんて傲慢な態度だ。でも輝架といると心が和らいだ。幻聴でも夢でも構わなかった。
『テルを思い出して。』
一年も一緒にいなかったが輝架はいつも安らぎをくれた。空想の中で日常に潜む彼女の陰に夢を見るようになった。
感じる痛みも苦しみも全て夢だと自分を騙してなかったことにした。見たいものだけ見て、聞きたい事だけ聞いて、信じたいものだけ信じる。
二人で紡いだ空想を信じれば心が軽くなり再び頑張れた。
だからこそ容姿と名前を変えてまで助けに来てくれた夕月の手を取ることが出来なかったのだ。都合の良い空想を守るために夕月を拒んだ。
現実を否定し空想の中でしか正気を保てない、卑怯で身勝手な自分が大嫌いだ。
愛路が我儘を言わなければ両親が死ぬことも4人の親戚たちが違法を犯すこともなかった。愛路を家に置かなければ枝里が暴力を振り言葉が通じなくなるほど精神を病むことはなかった。愛路に手を貸さなければ夕月が冤罪を掛けられ柊になることはなかった。
何人もの他者の人生まで狂わせていた自分が赦せなくて、誰も知らない所に身を置きたかった。しかし翔に知られていて背筋を這うような恐怖と焦燥感が押し寄せる。
もう空想には戻れない。
『I awoke from a long dream.』
愛路の過去と柊や輝架との関係が明らかになったVignetterはこれにて終了。
次回から新章です。
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