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「後藤君。」
小走りに追い掛けてきた女が名前を呼んだので足を止めた。振り向きながら笑顔を貼り付ける。
「何か用?」
「あ、あのね。さっきの講義で後ろの席にいたんだけど。」
急に顔を赤らめ、歯切れ悪く話し出した彼女に内心溜息を吐く。条件のみを言えばよいものをダラダラと話されても時間の無駄だ。
「これ、忘れたよ。」
差し出されたモノを見て、自然と表情が和らぐのを感じた。
「ありがとう。」
10cm程の細い紙切れを受け取り、礼を言って歩き出した。他者にはゴミに見えてしまうような紙切れを顔に近づけると古本のような匂いがした。
「罪な男だねぇ愛路君は。」
呆れ声と一緒に肩に腕を回される。見知った声に眉を顰めた。
インテリメガネをかけ、キッチリとした服装から真面目そうに見えるが、実は女好きでそれなりに遊んでいるなんちゃって優等生の諸星 英仁だ。
「うぜぇ。放せ。」
「あーやだやだ。俺には笑顔振りまいてくれないの?」
猫かぶりめと横腹を小突き、尚も絡もうとしてきたので左手に握る厚みと重量のある本を顔面に叩き付けた。
「ぶっ。」
一番衝撃を受けたであろう鼻を押さえ、英仁は唸り声を上げる。
「ひっでぇなオイ。没収するぞ。」
「もう一発いっとくか?」
「スミマセンデシタ。」
早々に手を上げて降伏するのは愛路が英仁に冗談を言わず情け容赦ないと知っているからだろう。
「で、さっき堕とした彼女に何もらったんだ?ん?ラブレターか?」
告白すらメールで行うこの時代にラブレターなんて原始的な恋愛アイテムが実在するだろうか。
手元の紙切れを覗き込む男を無視して盛大な溜息を吐いた。
「なんだ?随分と使い込んで、何の花?」
古びた紙切れには色あせた押し花が薄い和紙で貼り付けられている。
「スズラン。」
「何か思い入れでもあんの?」
「別に。」
気に入っているわけでもない。唯なんとなく捨てる事も仕舞い込むこともできなくなっている。
持て余しているという表現が正しいかもしれない。春の終わりに届いた紙切れ。“5月1日おめでとう”とたった一言のメッセージの書かれた便箋に包まれたスズランの栞。あの少女の行動は謎めいていて突然で理解できないものが多い。
記憶を振り払うように紙切れを本に挟んだ。
「なぁ、5月1日って何かあんのか?」
真面目で秀才に見える外見に反して男より女と一緒に居ることが多い英仁には無駄な知識も多い。もしかしたらと尋ねた直後、訊く人間を間違えたと悔やんだ。
にやにやと嫌な笑みを浮かべ、肩に腕を回す力を強められる。
「誰に貰ったんだね愛路君。女か?ん?んん?」
「男か女かっつったら女。」
「ほほぉーう。」
振り払うのも面倒なので大人しく答えると英仁の笑みは更に深くなった。
「フランスではなぁ、5月1日を“スズランの日”っつって愛する人にスズランを贈る習慣があるんだぁ。幸せが訪れるようにってなぁ。愛されちゃって羨ましいねぇコノヤロー。」
にやけたまま、英仁は更に顔を寄せたので思わず身を引く。
「それより次の講義、休みだってよぉ。小川先生ギックリだってさ。年甲斐もなくスカッシュなんてやるからなぁ。」
「まいったな。」
小川という教師の講義は分かりやすく男女問わず人気だ。それが休みとなると時間が空いてしまう。
「暇んなっちまうよなぁ、困ったなぁ。カフェでお茶でもしようぜ。」
女を誘うような文句に片眉を上げる。広い友好関係を持つ英仁が誘うのにはわけがある。
「お前と一緒だと女の子がいつもより寄って来て楽しいし。」
「本当にてめぇは清々しいな。」
何の慄きもなく下心を曝け出す彼に最早怒りも呆れもない。
母親譲りのウェーブかかった癖毛と整った顔立ち、父親譲りの垂れ目気味の強い目元と長身。いかにも女受けのいい外見だと言って英仁が友好の手を差し伸べてきたのは入学直後の事だった。
最初は猫を被ったまま軽くあしらっていたが同じ講義のときは隣に居座り大学に居る間は付きまとわれ、3日経った頃には無視を決め込んだがそれでも英仁は横を陣取り一人で話して盛り上がっていた。10日目に入った頃、忍耐力が限界を向え猫を剥ぎ取り周りの目も気にせず蹴り飛ばした。
一度行動に起こすと今まで我慢していたのが馬鹿馬鹿しく思うようになり不快に感じるたびに鉄槌を見舞っていたのだが予想以上に彼は打たれ強く付きまとうことを止めない。
それどころか、
『友達になってくれなかったら4年間ストるからね!
俺の桃色キャンパスライフの為に!』
などと声高らかに宣言する始末だ。
今では突き放す事も億劫になり諦めている。
そうこうしているうちにキャンパス内のカフェへ着いた。今日は天気もいいのでテラスに出て隅のテーブルへ腰を下ろすとオーダーを取りに来たウェイトレスが水を置いた。
「あ、俺エスプレッソ。愛路は?」
「アメリカン。」
注文を繰り返して去っていくウェイトレスを見送りながら本を開く。色あせ角の磨り減った古本だ。
「年季の入った本だなぁ。一応訊くが何読んでんだ?」
読書中に話しかけられると一番イラつく。流そうと思ったが無視したらまた煩いので応えることにした。
「井上靖の傾ける海。」
「うん。分かんねぇ。」
英仁の成績はいい方だが見た目ほどではない。渇いた笑みを浮かべながら誤魔化すように水を飲んでいる。
「お待たせしました。」
数ページ読んだところでウェイトレスがアメリカンとエスプレッソを運んできたので分厚い本を閉じてテーブルに置いた。
どうぞとソーサーに乗ったカップを目の前に置かれ、香ばしい匂いがする。
「ありがとう。」
いつもの猫が発動し爽やかに笑むとウェイトレスは真っ赤になって足早に去っていった。
「可哀相に。」
英仁はウェイトレスの後姿を見て合唱した。
「愛路。この短時間に二人も。なんて罪な男……って何してんだっ。」
迷える子羊のように手を組んでぶつぶつ語るように話していた英仁が狼狽して立ち上がる。
丁度アメリカンに5つ目の角砂糖を入れていた時だ。
「やめなさい。それ以上はやめなさい。」
アメリカンから糖度の高い何かに成り果てた液体に6つ目の砂糖を摘んでいた手を止められる。
「糖分は脳みその栄養だぞ。」
「摂りすぎです。ってかそれ以上栄養与えたら逆回りしてハゲると思う。」
なんとなく最後の一言を不快に感じ手付かずのまま置かれた水のグラスを掴んだ。しかし、テーブルから持ち上がる前に手首を捕まれる。鈍い英仁にしては珍しく危険を察知したようだ。
「何する気だ?」
「想像に任せる。」
勘弁してくれと英仁は項垂れた。
「諸星君。」
愛らしい声に英仁は愛路の手を放すとにっこりと笑って振り返る。
「あ、祭ちゃん。久しぶりぃ、お友達?」
祭と呼ばれたふんわりとした髪形と服装の女の後ろには同じような格好の女が二人、ノートなどを抱えて立っていた。
「そーだよ。こっちがヒナでこっちが唯子。あのね、わからないところがあるんだけど。」
「いいよ。いいよ。座って。」
上機嫌に席を勧める英仁に小さく溜息を吐いて本を開く。
ぱさりと栞代わりの紙切れがテーブルに落ちた。
古びた紙切れに貼り付けられた色あせたスズランの押し花。愛する者の幸福を願って5月1日に贈られる花だと英仁は言った。きっとあの少女は知っていたのだろう。
不可解に思っていた行動の意味を知って胸を締め付けられるような気持ちになった。
幸せを願って贈られたものかと思うと嬉しさがこみ上げる反面、不安になる。
彼女には貰ってばかりで少しでも何かを返せていただろうか。
「なぁ、愛路。この公式教えてやってくれよ。」
思いに耽っていると耳障りな声がする。
「知らずして知れりとするは病なりって老子様は仰ったぞ。」
「いや、力学だから。お前の方が得意じゃん?」
教えられない事を了承するなと厭味を言ったつもりだったが通じなかったらしい。どうやら数日前の講義を真面目に聞いていなかったようだ。今度は顔を上げて微妙な顔をする英仁を無視して女子達に言ってやる。
「韓非子様の人を恃むは自ら恃むに如かずって本当だったな。」
「は?」
理解できないといった英仁の横で女子達は笑いを堪えている。どうやら他人はあてに出来ないという英仁への厭味が通じたらしい。
彼女たちは講師の余談を覚えていたようだ。
「やだ。後藤君ってば。」
「え、何?」
分かっていないのは英仁だけらしい。祭とヒナ、唯子は口元に手を当てて笑っている。
「俺は人に教えるなんて出来ねぇから、一緒に問題解くよ。」
被りなおした猫の笑顔で本を閉じノートに並んだ公式を見る。時間は掛かりそうだが砂糖がたっぷり入ったアメリカンがなくなる前には解けそうだ。
祭から受け取ったキャラクターのプリントされたシャーペンを握るとノートに数列を書き足していく。
未だに状況を理解できず呆然とする英仁が我を取り戻して泣きつくまであと数分。
◇諸星 英仁
通称クソメガネ。愛路と同学部の友人っぽいひと。女好きのパリピ。