36th piece RED
じめじめとした空気が纏わり付いて不快だ。晴れ間が見えても黒みがかった厚い雲が消える事無くすぐさま雨が降り出した。
梅雨時なのだから仕方がないが雨音が耳障りで理由も無く苛々する。陰気な空気が憂鬱で溜息ばかり零れた。
「はぁ。」
食事を前にしても食欲など沸かない愛路は先ほどから定食の味噌汁を箸で掻き回すだけだ。どうしても梅雨は好きになれない。
「どうしたよ愛路。恋煩いか?女子が熱ぅい視線で眺めてるぜぃ?」
鬱陶しい天気の中、陽気な英仁は何一つ変わらない。同じモノを同じ時間から食べ始めた筈だが彼の皿は空に近い。
「お前が羨ましいわ。」
目を合わさずに愛路が言い捨てると、英仁の手から割り箸がすとんと抜けてテーブルに散らばった。英仁は目を見開いたまま立ち上がり、愛路の額に手を当てる。
「熱は、ねぇな。」
「あのな。」
ベタな事をする英仁の手を呆れ半分で振り払う。
「だってよう。イケメンでお勉強もスポーツも出来て女の子にモッテモテな愛路が羨ましいって何処が?」
答えようと口を開くが能天気や極楽頭など、貶し文句しか浮かばず結局は何も言わずに味噌汁を啜った。今更、気遣う気もないが非のない人間を傷つけるのは気が引ける。
「マーナぁ。」
大声で名を呼びながら近付いてくる人間を見てぎょっとした。雨より湿気よりも鬱陶しいと感じる女が手を振りながら近づいて来るのだ。
「あ、杏ちゃんだ。」
彼女に負けず劣らず鬱陶しい男は嬉しそうに手招きする。先日読者モデルとして雑誌に載ったと騒いだ彼女の服装は大柄のドットがプリントされた七分丈のワンピース。天気に合わせたのかブルー系のアイシャドウは清涼感がありダークブラウンに染め直した髪色に合っていた。
「はい、どーぞ。」
「あ?」
何の前ぶりも能書きも無く花やビーズでデコレーションされ大きなストラップがジャラジャラとついた携帯電話を渡される。
「湊から電話だよぉ。」
「湊?」
言われて受け取った携帯電話を耳に当てると幼馴染の声が聞こえた。
≪電話出ろよ。朝から鳴らしてんだけど。≫
言われてポケットを探るが入っていない。記憶を辿ると翔のマンションに置いて来た事を思い出す。
朝方、半蔵が携帯電話のストラップにじゃれて遊んでいたのだ。取り上げるのも可哀相だと思い、そのまま放置していたら存在自体忘れて家を出てきた。
「忘れた。」
≪オイオイ。≫
呆れた声が電話口から聞こえる。
「別に不自由してねぇし。メシ時だ。用件だけ言えよ。」
つっけんどんに言うと、湊が苦笑したのが雰囲気でわかる。
≪聞きたい事があるんだ。≫
遠慮がちに言われ嫌な予感がした。できれば通話を切ってしまいたい。
≪津山って人知ってる?≫
疑問系ではあるが確定的な口調だ。緊張間が背筋を這う。喉の奥が乾いて肯定する為の返事が出なかった。
黙っていると受話器の奥で溜息が聞こえた。
≪話があるから今夜いつものところで会えないか?≫
「ああ。」
短く答えると通話を切って杏に携帯電話を投げ返した。
「あ、マナなんで切っちゃうの。まだ湊と話したかったのにぃ。」
「うるせぇ。」
何もかも面倒で喚き散らす杏を無視して席を立つと、殆ど手をつけていない定食を返却口に置いて食道を出た。
杏が追って来るが今は彼女の声も聞きたくない。
「ちょっとマナっ。聞いてるの?」
電話を切られたことが余程腹が立ったのか諦めずに横を歩く。
「うっぜぇな。」
「なによ。マナが悪いんでしょっ。」
唸るような低い声を出すが、この程度で怯むほど杏は弱い女ではない。それどころか何故愛路が不機嫌になるのかと激昂する始末だ。
「余計なことしてんじゃねぇよ。」
八つ当たりだとしても知ったことではない。今、誰かを気遣う余裕など微塵もないのだ。
「なんだとぉ!」
何とか自分の意見を通そうと服を掴んだ杏の腕が不快で振り払うと、ダイエットに依存する細い体はよろけた。
「愛路っ。」
追い掛けてきたらしい英仁が制止するように間に入る。
「何やってんだよ。杏ちゃんは女の子だぞっ。」
「だからなんだ。」
冷たく言い返せば英仁はハトが豆鉄砲を食らったように目を丸めた。
「女の子には優しくしなくちゃ駄目だろ。」
一般的に女や子供は守られて当然だと思う人間が多いだろう。故に女や子供に暴力を振るう人間は軽蔑される。だが、それは一般的な価値観だ。必ずしも多数意見が正しいとは限らない。
「くだらねぇ。」
鼻で笑って言い捨てるとその場を後にした。もう二人は追ってこない。
女子供に優しくするような紳士を気取るつもりもない。だからといって誰彼かまわず当り散らすほど子供ではないが、誰にも優しくできるほど大人でもないのだ。
非の打ちどころがないと言われた相手であったとしても馬の合わない事はあるだろう。
明るく社交的に振る舞い仲間内では感情的で少し我儘。高い声で発せられる甘えたな口調。杏の仕草も声も嫌な思い出を引きずりだすから怖いのだ。
それからは昼の事で気まずいのか英仁が隣に座ることも無く比較的静かに過ごせた。午後の講義が終わる頃には気持ちも落ち着き透明なビニールの傘をさして翔のマンションへ帰った。
合鍵で鍵を開け、玄関を通りリビングへ行くとテーブルの下のラグマットに携帯電話がポツリとあった。ソファーの上には半蔵が丸まっている。
湊と逢う約束だが気が重い。
彼が電話で告げた津山という人物は高校卒業時から愛路の保護者的役割を果たしている親族の姓だ。だが前の預かり主から引き渡されるときに顔を合わせただけで家には一度も行っていない。接触を避けたくて携帯電話の番号も翔のマンションも伝えていない。
生活費はバイトで補っているし学費は奨学金で賄っている。自分の親戚だと名乗る奴らの世話になどなりたくないのだ。
どうやって調べたかは知らないが、友人経由で連絡を取ってくるなど姑息だと思った。直接会いに来ようとまともに話すことはないと知っているはずなのに。
愛路を不良扱いし、柊までも汚らわしい売女だと貶した奴らが許せない。愛路から言わせれば彼らの方が醜悪なのだ。
携帯電話を拾い上げて、着信履歴を見ると不在着信数件とメールが1件。着信は登録外の見知らぬ番号と湊からだった。
メールボックスを開くと差出人にクソメガネの文字が映る。開いてみると“何かあったのか?”と一言だけ書かれていた。
何かあったといえばあったが何もなかったといえば何もない。返信の言葉が浮かばず携帯電話を閉じようとしたとき、留守番電話の伝言メッセージが1件あることに気付いた。
嫌な予感がしているのに止めることなく携帯電話を操作してメッセージを再生する。
≪もしもし、靖行です。≫
耳に流れ込む男の声に息を呑んだ。この男の姓は津山。聞きたくなくて電源を切ろうにも指に力が入らない。
≪ご両親の命日も近いし一度、家に帰ってきなさい。あれから6年だ。もう、いいだろう。きちんと話をしよう。≫
携帯電話が指から滑り落ちた。
我を失った女の叫び声が脳内で喚き散らされる。じわりと身体中の傷が熱を持ち始めた。痕の残る傷も消えてしまった傷さえも疼きだす。
思考を止めた脳が逃げろとだけ命令した。
警鐘を鳴らすように繰り返される命令。ガンガンと頭が痛み出し、目の前が真っ赤に染まっていく。
「なう。」
するりと太ももに何かが触れる。いつの間にか起きたのか半蔵がすりよっていた。
身体が震えている。息も荒い。顔を上げると、家中が血みどろに汚れた幻覚が見えた。恐怖に呑まれ目の前が真っ赤になる。
体に力が入らず、ごとんと音を立てて倒れ込んだ。
赤のみの色を映す視界の中で唄が聞こえる。
『まっかだな~、まっかだな~。』
秋の夕暮は釣瓶落としというようにこの時期の日の入りは早い。空が赤く染まる景色は物寂しい気分にさせる。
帰路に就く道端に座って少女は童謡を唄っていた。
く燃え盛る炎のように赤い花と短髪を風が揺らしている。小さな背中は更に小さく消えてしまいそうに思えた。掛ける言葉も見つからず、愛路はそっと隣に座った。
『お彼岸に咲くから彼岸花。墓地に咲くから死人花とか幽霊花とか地獄花って言われて嫌われてるんだ。この花は毒があって、死体が動物に荒らされないように人が植えたから墓にあるだけなのにな。』
綺麗な花なのにと残念そうに笑う少女はこてんと頭をゆらして赤い花に視線を送る。
『花の形が燃えてるみたいに見えるから家に持って帰ると火事になるって迷信もあるんだ。』
いつもの明るさを失くしたように淡々と話す。この花が好きなのだろうか。沢山の本を読む彼女は博識だ。それも知らなくてよい無駄なことばかり詳しい。
興味のない事は全く取り掛かろうとしないので得意教科と苦手教科の成績は天地ほどの差がある。
『人の勝手で汚名を着せられて見た目でデマを流されて嫌われてる。花言葉もな、悲しい思い出なんだって。』
何に対して拗ねているのか、つまらなそうな顔のまま再び唄いだす。
『まっかだなぁ、まっかだなぁ、ひがんばなってまっかだなぁ、遠くのたき火もまっかだなぁ♪』
秋も半ば、冷たい風が頬を撫でた。小さな体が夕闇に呑まれてしまいそうで怖くなり、手を引いて立ち上がる。突然、手を引かれバランスを崩した小さな体を支えて手を掴んだまま歩き出した。
『帰ろう。』
静かに言うと黄昏に元気を奪われてしまったかのように憂いを帯びたまま頷くと少女は繋いだ手を握り返した。
『ねぇアイちゃん。人間って酷いよな。知らないなら知らないでいいのに勝手に考察して決めつけるんだ。好意でも悪意でも、ただの興味でも迷惑でしかないのにな。』
繋いだ少女の手は腕に巻きつき先ほどまでの影を差した表情が嘘のように笑みが戻っている。赤く照らされた少女の笑顔に泣きたくなった。
夜の入り口の赤い空の下、長く伸びた影を踏みながら二人で歩いた帰り道。
『まっかだな~、まっかだな~。』
少女の歌声のする赤い暗闇の視界へ光が差し込んできた。眩しさに眉をしかめ、いつの間にか固く閉じていた目蓋を開くと天井が映った。
随分と長い時間夢を見ていた気がする。
「おはようさん。」
かけられた声に顔を向けると、ベッドの横の座椅子に座る翔と目が合う。
「気分はどうじゃ?」
「……気分?」
愛路の額に手を置き、検温する翔の顔は心配そうだ。何も思い出せないが体調でも崩したのだろうか。そもそもいつの間に寝ていたのか。
「翔…。俺、なんで?」
「覚えとらんのか?」
昨夜は湊と会う筈だった。一度帰ってきてその先を思い出そうとすると側頭部が鋭く痛む。あまりの痛みに身を丸めて痛みを流した。
「ちょっと体調崩しただけじゃ。覚えとらんならええ。」
頭を押さえて唸る愛路の背中を摩る翔の声は静かだった。
重病に罹患したと錯覚に陥るほど優しい翔の態度に不安が過る。いつもは愛路が体調を崩せば貧弱だと言われ市販薬と一緒にデコピンが飛んでくるまでがセットなのだ。
「飯は食えそうか?」
言われて思い出したように腹は空腹を訴えた。昨日の昼食からまともに食べていないのだから当然だ。
「食べる。」
「そうか。じゃ顔洗って待っとれ。」
雑炊に野菜スープと病人食の様な朝食の後、心配する翔をよそに愛路は大学へ行った。嫌な夢を見た後の様な恐怖と気持ち悪さがまとわりついていて他者のいる所で何かしていたかったのだ。
第一、これ以上翔に優しくされると余命宣告をされたような錯覚に陥り不安になる。
愛路を見送った翔は携帯電話を取り出すと電話を掛けた。数回の呼び出し音の後、通話が始まる。
≪おっはよう、翔君。朝食の焼き魚が美味しいのに夏樹は生憎の雨で布団に梅雨籠りだよ。夏樹の好きな洋楽のロックでも流したら起きてくると思うかい?湿気で寝癖爆発だし困ったもんだよ。で、何か用?≫
朝から気分高めのマシンガントークが鼓膜に流れ込んだ。志郎は朝も昼も夜も声の抑揚が変わらない。
「飯の匂いにつられ起きるじゃろうて。今日は大学か?」
≪うん大学。でも翔君の為ならいつでも予定空けちゃうよ。デートのお誘いかな?≫
「おいコラ。」
的確に怒りの感情を抱かせる志郎に翔は低い声を出す。携帯電話の向こうから聞こえる楽しそうな笑い声が余計に癪に障った。
志郎の言動にいちいち腹を立てていては身が持たないと戯言を無視し、深呼吸で気を落ち着かせる。
「愛路ん事、気にしててくれんか?」
≪後藤ちゃん何かあったの?≫
「ちょっと体調崩しとってな、杞憂ならいいんじゃがのう。」
説明のしようがない嫌な予感がぬぐえなかったのだ。
通話を終えた翔は脱衣場へ行くと風呂場で漬け置きしておいたラグマットを洗濯機へ入れた。洗剤をセットし乾燥まで設定すると自身も仕事へ行くために洗面所で身支度を整える。
昨夜、翔が帰宅すると暗闇のリビングで愛路が倒れて吐いていた。
慌てて近寄ると体に触れただけで恐慌状態となり、焦点の合わない眼で怯えた表情で拒絶と謝罪の言葉を譫言とのように繰り返し意識を飛ばしたのだ。
仕方なく、吐瀉物で汚れている服を着替えさせた。
脱がせれば標準より細い体に火傷のケロイド、蚯蚓腫れの様な裂傷痕、薄く残る痣。愛路は傷跡の残る肌を過剰なまでに見せたがらない。全てが事故の傷痕だからではないからだ。
愛路の身に起きた事が両親との死別だけならばとっくに立ち直り前を向いていた事だろう。何故、不幸というものは重なってしまうのか。
ベッドへと運ぶと何度も着信のある彼の携帯電話の電源を落とした。
それからは高熱を出してしまった愛路を看ていた。出来る事は汗の始末と熱の対処くらいで長い夜だった。魘されながら2回程嘔吐して明け方近くにやっと荒い呼吸が落ち着いて解熱し翔も一息ついたのだ。
本当ならば今日一日休ませて安静にさせたかったが翔の心配をよそに愛路は大学へ行ってしまった。何事もなければよいが万が一の為に志郎に頼み予防線を張ったのだった。
「いって。」
考え事をしながらシェービングしていたら、肌が切れてしまった。顎から血が滴る。
仕方なく絆創膏を貼り、翔は寝不足の身体を引きづりながら職場へ向かった。
『The writing’s on the wall.』
◇津山 靖行
愛路の親戚。現在の保護者的立場だが面識は少ない。
(◉ω◉)愛路のトラウマが顔を覗かせはじめ、重い話が続きます。
そして英仁と志郎にはイラッとしたら負けです。




