35th piece Blue Moon
『はぁ、はぁ、はっ、はぁ。』
いくら体力があったとしても起床直後の全力疾走は辛いものがある。荒い息を何とか整えながら昇る朝日を見た。
毎日というわけではないが気まぐれで起こされて早朝マラソンに付き合わされている。楽しそうに笑う少女は腕に抱きついてきた。
『アイちゃーん。』
『うおう。なんだよ。』
引っ張られ、バランスを崩す。走ったために頬を紅潮させ整わない息のまま少女は話しだした。
『今朝なぁ、すっげぇ夢見たんだ。ウサギさんと宇宙ん中を泳いでたんだ。んで、アイちゃんが地球の近くにいたから抱きついてぇ、一緒に家に帰ったんだ。』
夢が故に支離滅裂した内容。宇宙と地球の間、昼と夜の狭間を縫うように飛行したという。
『気持ちよかったぁ。空が青くてさ、やっぱり飛ぶっていいな。』
まだ夢を見ているかのように目を細め、夢を語る。
夢というものは一日の記憶を脳が整頓するときに見るという。彼女の記憶は何が混じって何を見て生身で大気圏突入という幻想を果たしたのだろう。
『よし、アイちゃん。もう一回飛ぼうっ。』
『は?』
言うが早いか少女は両手でしっかりと手を掴み、高台の絶壁すれすれに立った。
『行くぞぉ。3・2・1・じゃぁぁぁぁぁぁぁんぷっ。』
『お、おいっ。』
勢いよく地を蹴った少女。繋いだままの手に引きずられるように愛路の体も宙へ移行した。垂直落下する無重力の浮遊感に眩暈を覚えた直後、強風に吹かれるような感覚に襲われ地面が近づく。
ほんの2~3秒のはずなのにとても長く感じだ。時間の流れが変わってしまったかのように感じる。死に直面しているのに走馬灯など見えず、頭の中は真っ白で何も考えらえなかった。
ただ怖くてつないだ手を縋るように握る。
天を仰ぐように枝を広げる木々の上に落ち、パキパキと枝の折れる音が聞こえた直後に全身を打ちつけるような衝撃が走り、息が止まった。
『……うっ。』
何とか息を吸えるようになり、固く閉じた瞼を恐る恐る開けると木の枝の間から青空が見えた。
『あはははは。空、飛んだぁ。』
横を見れば少女が能天気に笑っている。
『……信じらんねぇ。』
『アイちゃんと二人だから飛べたんだ。』
『……落ちたって……言うんだよ……バカ。』
自分のものではないかのように体の震えが止まらない。呼吸はパニックを起こした時のように浅く、涙まで滲んできた。
『何、怒ってんだ?』
『……死ぬとこだった。』
『いいじゃん別に。死にたかったんだろ。』
好きな食べ物を尋ねられるくらい軽く言われ、呼吸が止まった。
いつ死んでもいいと思っていた。死にたいとさえ思ったこともある。それなのに、いざその時を迎えようとすると気が狂いそうな恐怖が押し寄せた。
臆病な自分が情けない。体の震えも止まらない。
『アイちゃん。』
『なんだよ。』
『手が痛ぇ。』
言われて手を放した。力の限り握りしめた少女の手には赤い手形が残っている。
今になって体のあちこちが痛んだ。よく見れば落ちる途中にぶつかった木の枝の所為で所々擦り切れている。先ほどから感覚もない右腕は折れているのかもしれない。
起き上がろうとするが力も入らず、意識も朦朧としてきた。
薄れる意識の中で、誰かの叫び声と助けを求める声が聞こえた。大方、落ちた時の音を聞きつけた住民が見に来て地べたに倒れる二人を見つけたのだろう。
助けが来ると心のどこかでほっとしていた自分が情けなくて嫌だった。
生きるのは怖い。しかし、自ら死ぬことはもっと怖かった。
「……みち……愛路!」
誰かが名前を呼んでいる。その声に鈍い痛みを感じて現実へ引き戻された。
がやがやと騒がしい喧騒の中で愛路は花の咲き終わった皐の生垣の上で青空を見ている。何が起こっているのか理解できない。ただ手足が震えて硬直した体が動かなかった。
「愛路!大丈夫か!?愛路!!」
視界に入り込んだ英仁の泣きそうな顔に、止まっていた息を吐き出して体の力が抜けた。
「……うるせー。クソメガネ。」
「愛路ぃ。」
仰向けに寝ていた生垣から起き上がり、眩暈のする額を抑えながら悪態吐くと英仁は気ぬけた声を出しながら涙と鼻水を同時に流した。確か杏の物真似1年もとい妄想拗らせ女の恵留と一方的な初対面を果たし、立ち去ろうとしたところで記憶が途絶えている。
「だ、大丈夫か?手足全部くっついているか?内臓は破裂してな…痛っ。」
腰が抜けたように地べたに膝立ちになりながら愛路の身体を触る英仁に無言でデコピンを見舞った。
一際騒々しい音がする方へ視線を向けると、聞き取れない叫び声で喚く大柄な女子を数人の男子生徒が抑え込んでいた。
意味を解さない女の喚き声に気分が悪くなる。
少し離れた所には複数の男子生徒が座り込んでいた。それぞれ腕を抑えたり腹を抑えたり鼻血を垂らしたり何かしらの負傷をしていた。よく見ると英仁も服が汚れ擦り傷程度の怪我をしている。
英仁の慌てようも無理はない。愛路は恵留の体当たりで吹き飛んだのだ。落下地点に皐の生垣がありクッションになったことは不幸中の幸いだろう。
取り押さえられている恵留は立ち去る愛路を引き留めようと抱きついたつもりだったが、100キロ超えの巨体に男でも耐えられるはずなく抱きついた衝撃で吹き飛ばしてしまったのだ。
慌てる英仁を突き飛ばして駆け寄る恵留を暴力の追撃と勘違いした目撃者の男子生徒が取り押さえようとした。しかし血気迫る男子生徒にパニックをおこした恵留は抵抗し、自慢の巨体で振り払い薙ぎ払い怪我人を増やしながら暴れた末に駆け付けた体格のいい男子生徒数人に取り押さえられて今に至るというわけだ。
危機管理に敏感な生徒達の連携が大参事にしたなんとも不幸な事故である。
ただことではないと目撃者の女生徒に呼ばれた講師の指示で恵留は取り押さえられたまま別室へ連行され、怪我人は保健室へ移動し治療が終わっても英仁の涙は留まる事なく流れていた。
「いい加減、泣き止めよ。」
「……漏らさなかったんだから褒めてくれよ。」
入室してすぐに看護師からタオルを差し出された英仁はメガネをはずして顔を埋めながら泣き続けている。
吹き飛ぶ愛路に手を伸ばした直後、片手で振り払われ転ばされ尻もちを着いた英仁の目に写った光景は軽々と薙ぎ払われる男子達、奇声を発しながら暴れる巨体の女生徒。流血含む暴力行為を至近距離で最初から最後まで見ていた英仁にはトラウマとなった事だろう。
愛路と英仁は擦り傷と軽い打ち身で済んでいたが止めに入った男子生徒の半分は応急処置後病院へ連れられ脱臼に骨折の疑いと重傷だった。
それぞれが怪我の原因を話す都度、至近距離で目に焼き付いた惨事を思い出して英仁の涙が増えていた。
ふざけて手加減された小突きや蹴りは日常的に目にするが、本物の暴力など目にすることも受けることも稀である。フィクションやニュース映像などで目にすることはあるが、暴行現場に居合わせ被害者になるなど一生経験しない人の方が多いだろう。
「おじゃましまーす。」
緩い話し方で中年の男が保健室へ入室してきた。文学部教授の清水 勇だ。
「清水教授。」
「あ、座ってていいよ。災難だったねぇ。一応、お話聞かせてくれるかなぁ。」
まだ午前中だというのに疲労の色濃い清水教授が看護師に用意された椅子に座ってがっくりと肩を落とした。
「あー、いやー。日本語しか話してないのに通じない現象は初めてだよ。」
曰く、ここに来る前に加害者から事情聴取をした。しかしながら会話は支離滅裂で成り立たず、『心が通じ合っている。』『結婚の約束をした。』『周りが好き合っているのに邪魔をする。』『私がいるのに他の女と遊ぶなんて酷い。』などと永遠と泣き叫びながら喚いていたそうだ。
これ以上被害者を増やさないため今もラグビー部数人で保護者が迎えに来るまで見張っているらしい。
いらない情報だが恵留は高校卒業まで柔道部の強豪でありインターハイで圧勝した経歴を持っている。20枚以上の瓦を割れるなどの武勇伝を持ち、ただの超肥満体型でなく筋肉で作られた超肥満体型であったのだ。
汗臭い運動部で青春を送り、大学入学と共に掛け離れていた恋と御洒落の欲求が爆発して方向性を三回転半くらい誤ったのだろう。
「学生の恋愛に首突っ込む気はないけどさぁ、後藤君さぁ、彼女は大事にしようよ。君ならけしからんくらいモテるかもしれないけどさぁ、程々にね?」
「清水教授。僕は誰とも交際してませんし吹き飛ばしてきた1年生も今朝が初対面です。」
誤解を孕んだ話しぶりに表情と顔色を失くした愛路が即座に否定した。
「……どういうこと?」
発せられた文章を数秒かけて解し45度ほど首を捻る清水教授へ、愛路の与り知らない所で起きていた取るに足らない噂話と騒ぐ周りから聞かされた恵留の所業を英仁の添削付きで説明したのだった。
× × ×
色々ありすぎて精魂果てた愛路と英仁は図書室のラウンジで黄昏ていた。
あのあと教授たちへ繰り返される同じ内容の事情聴取に半日奪われた。もちろんだが成績も素行も悪くない愛路の言い分はすんなりと信用されて大学側からお咎めはない。
その後は野次馬根性で説明を求めてくる知人と他人に囲まれ、頼みの英仁は思い出しては泣きべそをかいて役立つどころか騒ぎを大きくした。
志郎が出張らなかったのは駆け付けようとしたところ、これ以上騒ぎを大きくするなと4年の学友が六法辞書のフルスィングで殴って止めたらしい。
騒ぎが収まるまで近づかないようにさせていると桃花から知らされた。数日たった今も顔を見せていない所をみると未だに取り押さえられているようだ。
「例の1年、停学くらったあと自主退学したらしいぜ。表向きは精神疾患で。」
「へぇ。」
どれだけ泣いたのか目元を赤く腫らし、声の枯れた英仁が口を開く。心底興味のなかった愛路は生返事を返した。
「障害で被害届出した奴がいて親が怪我人全員に頭下げて金包んで示談にしたんだとさ。愛路んとこにも来たのか?」
「断った。」
週末を挟んで落ち着くかとおもえば、怪我をさせられた男子生徒の親が烈火のごとく怒り警察沙汰にしていた。いらぬ正義感で自分から渦中へ飛び込んだとはいえ骨折させられたのだから泣き寝入りなどしないだろう。
一番の被害者ともいえる愛路のところにも治療費含む迷惑料を持った中年の夫婦が来たが丁重にお断りした。英仁は謝罪すら逃げたらしい。理由は簡単だ。微塵にも関わりを持ちたくなかったからだ。早々に戦線離脱した杏は賢かった。
「なんかさぁあの1年、杏ちゃんの真似する為に万引きとかしてたらしくて部屋にはお前の隠し撮り写真とかあったってさ。」
「聞きたくない。」
情報の早い英仁はマスコミにでもなればいいと思った。出所分からず信憑性の薄い情報が多すぎるが好き者には真実などどうでも良いのだろう。
「高校までは真面目な体育会系女子だったってさ。初恋キラーやばいな。」
「おいコラ。」
軽口をたたけるほど精神的に回復した英仁を睨む。何度も何日も思い出し泣きをする英仁を見て雀の涙ほどではあるが心配したのだ。
「そりゃ俺だって好みの女の子がいたらちょっとはアホになるけどな。」
「くだらねぇ。」
恋した時とドラックを使っているときの状態は非常によく似ていと言われ依存性もある。
生物学的に言えば心ときめいた時の感情や反応を生みだしているのは脳内物質やホルモンだ。脳内や体内にある種の物質が放出されて精神状態が変化し、我慢のきかないものから愚行を犯してしまう。
恋のときめきが起こる事象すら科学的に説明できてしまうのだから文明の進んだ現代はロマンの欠片もない。
「恋は人を狂わすって本当だなぁ。」
「うるせー、クソメガネ。」
恋に狂った愚者を目の当たりにした二人は、正気を失うような恋をする事はないだろう。
『Believe only one, I loved you.』
Blue Moon
スミレのリキュールをつかった魅惑的なカクテル
カクテル言葉『叶わぬ恋』
(◉ω◉)昔、大柄な友人と駆け出して抱き合うという感動の再開をしたら吹き飛びました。
人ってこんなに簡単に吹っ飛ぶんだと……。
女性関係暴露編のCocktail pianoはこれにて終了です。
次回から新章です。
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