3rd piece Blue sunrise
提出期限の迫ったレポートの最後の一文を書き上げぐっと背を伸ばした。
クリップで留めてノートに挟むと鞄に入れる。気分転換に風呂にでも入ってから寝るかと置時計を見ると夜明けに近い時刻。
午前の講義はなく睡眠を摂るには十分な時間があるためキッチンへ行きコーヒーをドリップする。
香ばしく匂い立つカップに砂糖を多めに入れ、ティースプーンで回しながらミルクを注ぐと焦げ茶と白が螺旋を描き溶け合う。
両手でカップを持ち、フーフーと息を吹きか出て冷ましながらベランダへ出た。春も終わりを告げたが朝方は冷える。
東南を向くベランダからは明けの明星がはっきりと見え空はほんのり明るくなっていた。
マンションの8階に位置するこの場所は遮るものがなく見晴らしが良い。
電線に止まった鳥のさえずりに笑みが零れる。コーヒーカップを握り冷える手を温めながら朝日を待った。
夜明けを眺めるのは好きだ。
鳥より早起きする少女が初めて教えてくれたキレイなモノの一つなのだから。
寝起きは昔から良い方だった。起こされる前に目覚めたし、保険としてセットしていた目覚まし時計が活躍したのも数えるほどだった。
そんな自分より早く目覚めて出会った次の日から朝の安眠を妨害されていた日常が懐かしい。
「もう、7年か。」
冷めかけたコーヒーを口に含み目を閉じる。
あの頃は胸部に感じる息苦しさに目を覚ましていた。そして目を開くと吐息を感じる距離に少女の顔がある。
『はよーアイちゃん。』
『ああ。ってまだ、暗ぇじゃねぇか。』
目を擦ると、ばさりと布団を剥ぎながら腹の上の少女が起き上がる。
『寒っ。』
『んっと、4時過ぎだな。』
闇に眼のなれた少女が目覚まし時計のスイッチを切りながら時刻を発した。
『あと1時間半寝かせろ。』
『ダメだ。一緒に走れ。』
寝返りをする前に腕を引いて起こされ、気まぐれ早朝マラソンに付き合う。
狭い路地裏、32段の石段、整備された県道の横断歩道、心臓破りの坂道より傾斜のある階段を超えた先にある住宅地を阿弥陀籤のように進み、塀の間を抜ければ高台に辿り着く。
彼女の自称秘密の場所の一つ。
朝日を見るときはいつもこの高台だった。
夏の初めに連れてこられ、馬鹿みたいだと鼻で笑った。綺麗なモノを素直に綺麗だと頷くようになったのは夏が終わる頃。自然の情景に何も感じない濁った眼と心を少女が溶かしてくれた。
寒さを増した季節の早朝は靄がかかり、幻想的な朝焼けを東方の天に描いた。
黄、橙、赤、紫、藍、青、水色。光が空と雲にグラデーションを作り、目を奪う。
『知ってるか?火星の朝日と夕日は青いんだ。』
太陽に目を向けたまま、整わない息で少女が口を開いた。
『なんで?』
『大気の短波長の散乱より塵の長波長の散乱の方がでっけぇから赤じゃなくて青になるんだ。だからな、空の色はピンクになる。』
理科で習ったような内容だが専門的すぎて良く分からない。取敢えず、一番の疑問を問う事にした。
『何で、んな事知ってんだ?』
『宇宙人だから。』
当たり前のようにバッサリと返された言葉に間を置いて肩を揺らす。その場凌ぎの冗談か、考えがあるのか何も考えていないのか。
彼女の腹を探ろうと思考を巡らせているが、そっと繋がれた手の温かさにどうでもよくなってくる。ただ、自身を宇宙人と行って笑う彼女は泣きそうなくらい寂しかった。
空は赤から橙に色を変えていた。
『なぁ、青い朝日も綺麗だと思うか?』
何も考えずに口から毀れる。ゆっくりと少女の方へ顔を向けると彼女も視線を合わせてはにかんだ。
『アイちゃんと見れたらキレイだろうな。』
そんなことを言いながら繋いだ手を振って悪戯っぽく笑う少女に、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。早朝に叩き起こされようと不可解な発言に惑わされようと、帳消しにしてしまう。
多くの綺麗なものを教えてくれた少女。陽だまりの様な眩しくて温い思い出だ。
過ぎ去った優しい時間に浸りながら輝くオレンジの朝日を眺めていると、頭上に黒いパーカーが降ってきた。
「何やってんじゃい。朝っぱらから風邪引くぞぉ。」
振り返ると髪を金髪に染めた浅黒い肌の男が窓枠に寄りかかっていた。
このマンションの家主、丸瀬 翔。二つ年上であの少女とは違うかたちで己を救ってくれた人間だった。
すさんで荒れ果てていたとき居場所をくれた。
誰かの勝手で引っ越す必要ないと部屋を与え、バイト先や今通う奨学金など好条件の揃った大学も教えてくれた恩人だ。
「朝日をさ、見てたんだ。」
「ふーん。」
彼の目の前では猫を被らずとも自然な笑みが出た。
「さてと風呂に入って寝るか。」
「今からかぁ?」
己の行動に対してあまり動じない翔はさすがに目を丸めた。
「今日の授業は午後から。」
「若いからいいがのう無茶すんじゃねぇ。夜寝ないと肌に悪いしのぉ。」
「女じゃねぇんだ。気になんねぇよ。」
冗談めいた忠告を笑い飛ばし、被せられたパーカーを押し付けるとバスルームへ足を運んだ。
「その顔色は気にしたほうがええのぉ。」
背中にかけられた言葉にくすぐったいような気持ちになり、急いで部屋から立ち去った。
バスルームを背にずるずると座り込んで上を向く。
「困った。」
破天荒で天真爛漫な少女の優しさに救われた過去と心配性でお人よしな翔の優しさに甘やかされている今。
駄目だと分かっていても依存してしまう。
独りで生きなくてはいけないのに独りだと淋しいのだ。
◇丸瀬 翔
愛路の居候先の住人。2歳年上の社会人。
金髪・色黒・強面で実年齢より10歳は老けて見える筋肉だが職務質問はされたことない。