29th piece Laugh at the trouble
「ぎゃはははははは。」
ソファーの上に我が物顔で居座っていた来客は帰宅した愛路を見るなり指をさして大笑いした。
「笑うな。ナッツ。」
「だって、後藤ちゃん。階段から落ちたってだっせぇ。」
夏樹の言うとおり生徒を助ける為とはいえ階段から落ちるなど笑い話だ。病院で下された診断は背中の打撲と右腕の捻挫。一応レントゲンを撮ってもらったが骨に異常はなかった。全治一週間。ただ頭を打っているので一か月くらいは用心するようにとのことだ。
「夏樹、僕たちは後藤ちゃんのお見舞いに来たんだよ。」
どうぞと志郎に渡されたのはお守りだった。厄除けと書いてある。怪我人を前に笑いこける弟が弟ならば兄も兄だ。
「しっかり笑ったり。こん前は額にタンコブ。今度は病院騒ぎの怪我じゃ。まったく怪我しに行っとんかのう。」
どうやらこの場に味方はいないらしい。笑う者と馬鹿にする者と呆れる者の三者三様に囲まれぐうの音も出ない。翔と二人きりで長言を浴びせられるよりはマシだが誰か一人でも労わってくれてもいいだろうに。
愛路は鞄をその辺に置くと一人分の夕飯の並んだテーブルに着きがっくり項垂れた。翔特性のスタミナ料理が目に痛い。
「しっかり食うて怪我治し。貧弱じゃから階段から落ちたくらいで怪我すんじゃ。」
理不尽な説教に押し黙るしかない愛路。例え格闘選手であろうとも子供を抱えて階段から転げ落ちれば多少なりとも怪我をするだろう。スタントマンでも防具無で無傷で済むとしたら人間と呼びたくない。
「後藤ちゃん、あ~ん。」
いつの間にか隣に座った志郎が箸と茶碗を持ち愛路の前に差し出している。
「何のマネだ?シロー。」
「だってその手じゃ食べにくいでしょ?僕の優しさだよ。」
爽やかな笑顔で言われても嬉しくない。その笑顔の裏には優しさなど欠片も存在しない事を愛路はよく知っている。志郎の動力は好奇心と悪戯心が8割を占めているのだから。
「一人で食える。」
遊びに付き合う気などさらさらない愛路は志郎から箸を取り上げると左手で器用に食べ始めた。
「あれ、後藤ちゃん両手利きなの?」
「まぁな。」
実は利き手を負傷したのは初めてではない。家にも学校にも世話をする人などいなかった愛路は自力で何とかするしかなく治る頃には左手でも文字が書けるようになっていた。
箸については小学生の頃にクラスメイトと競って左手で食べる練習をした時期があった。今思えば食事中にお行儀の悪い遊びをしていて教師を困らせた悪童なのだが意外なところで役に立っていた。
善行であろうとも悪行であろうとも人生に無駄なことはないのかもしれない。
「じゃあさ、風呂は俺が入れてやるからな。」
「は?」
夏樹の発言に口に含んだ白米を吹きかけた。何を言い出すのだろう。
「その手じゃ頭洗えねぇだろ。俺が洗ってやるよ後藤ちゃん。」
他者に風呂に入れられるなど寒気がする。子供のように洗われる自分の姿を想像するだけで気が滅入った。
「一人で入れる。」
「ええ~。楽しそうなのに。」
結局はそういう事なのだ。夏樹の原動力も兄と同じく好奇心と悪戯心が8割以上を占めている。仕方のない兄弟だと今夜のノルマである夕餉を頬張った。
「夏樹、後藤ちゃんはお風呂入るなら柊さんに入れてもらいたいってさ。」
「ごふっ。」
弄ることに飽きたのか煙草を吹かしながらボソリと志郎が呟いた。今度こそ咽て口に含んだものを噴出した。
「行儀、悪ぃわ。」
翔が愛路と志郎と順番に固く握りしめた拳を落とした。痛みで息が詰まる。一ミリくらいは首が縮んだだろう。
「星、星が見えた。」
「翔君、手加減してよ。」
二人揃って頭を押さえて唸るように講義するが翔は悠然と煙草に火をつけた。
「手加減してんかったら頭蓋骨割れとるわ。」
「翔兄すっげぇ。俺ももっと体鍛えようかな。」
夏樹はキラキラと目を輝かせて翔の鍛えられた筋肉を触る。志郎と愛路は恐ろしい発言に顔を青ざめさせた。
彼はボクサーや格闘選手と同じだ。歩く人間撲殺機という表現が正しいだろうか。
「効率よう筋肉付けとうならあの筋トレかのう。」
盛り上がるボディシェイプ話を聞きながら愛路は残りの夕餉に手を付け始めた。早く食べて風呂に入り早く寝てしまおう。
× × ×
『アイちゃん、ぷっぷぅ。』
突然目の前に現れた少女は両手で顔を挟み、形容しがたい面白い容貌へと変形させた。
『何してんだ?』
『ここは笑うところだぞ。』
ぷっと頬を膨らまされても困る。第一、今は笑いたい気分ではない。
『笑え。ぷっぷぅ。』
再び少女は睨めっこでもするかのような顔をした。
『だから、なんなんだ?』
『アイちゃん、何かあっただろ。だから笑え。』
『え?』
確信めいた少女の言葉に呆気にとられた。
『取敢えず、笑っとくんだ。』
へらりと笑う少女の笑顔に熱いものが込み上げてくる。悔しくて悲しい事があったのだ。解決など出来なことに悶々と考えて気落ちしていた。
『ほれ、ぷっぷぅ。』
今度は愛路の両頬を手で潰し間抜けな容姿にされた。
『あははははは、変な顔ぉ。』
『うるへー。』
少しだけ気持ちが軽くなって二人で笑った。あの少女は擽ったり、金平糖を口に入れたり、愛路が気落ちしている時はいつも笑わせにきた。
「愛路ぃ。朝じゃ。」
ふにふにと頬を抓む感触と翔の声に目が覚める。懐かしくも優しい夢を見ていた。
「……はよ。」
天井と翔の顔を見ながらボランティア活動は今日で最後だったが怪我の為、愛路は免除された事を思い出す。少し顔を出して挨拶くらいはした方が良いだろうか。雨音の事も少し気がかりだ。
「翔、小学生女子が喜ぶことって何だろうな?」
「唐突になんじゃ?ボランティアで好いた子でもおったか?犯罪じゃぞ。」
聞いた自分が馬鹿だったと起き上がる。背中と腕に痛みが走って再び転がりそうになったが何とかこらえた。
「ちっげぇよ。いい。」
「冗談じゃ。拗ねんなって。」
からかってくる翔に反撃しながら朝食を済ませると身支度を整えて家を出た。電車から降りて改札を抜けるとここ最近の騒がしさはない。さすがに昨日の今日でいつもの女子達はいなかった。見られたかもしれないいじめの現場に後ろめたいのだろう。
しかし少し歩いた先で雨音がいた。
「せ、先生。」
愛路に気付いた雨音は恐る恐る近づいてきた。
「おはよう。竜ヶ崎さん。」
「あ、お、おはようございます。えっと、あの…き、昨日は…。」
小さな声で一生懸命に話そうとしている。よく見れば震えていて手を固く握りしめている。この子にとっては誰かと話すという事すらハードルの高い事なのかもしれない。
愛路は屈んで雨音に視線を合わせた。
「昨日の事なら気にしなくていいよ。」
「……でも。わ、私のせいで。」
こんな時、志郎のように気の利いた言葉が言えたら。英仁のように優しい言葉を言えたら。何をしたところで雨音の現状は何も変えられない。
「君のせいじゃない。」
ぽんと頭を一撫でするとビクついた雨音の頬に朱が差した。
「あ、ありがとう。」
ふと口元が笑った気がした。笑った方が良い。照れくさそうに去っていく後ろ姿を見送っていると肩に手を回された。
「おはよう。女の子を華麗に助けたヒーローの愛路君。心配したぞ、コノヤロー。」
「うるせー。クソメガネ。」
華麗に助けていたら二人とも怪我などしてない。保険医に聞いた話だが英仁が意識を失った愛路を運び大騒ぎとなったその場を治めたらしい。ここは礼の一つも言っておくべきだろうか。
「しっかし愛路軽すぎねぇか?当たるとこ骨っぽかったししその辺の女の子より軽かったぞ。」
脳内に浮かべた前言を撤回する。英仁に礼節尽くしたところで伝わらずにからかわれて終わりそうだ。
「あ、お姫様抱っこで丁重に運んだからな。」
「は?」
英仁の事だから冗談だと妄信したいが、おそらく事実だろう。それなりの騒ぎとなり見物人も多かったはずだ。少なくとも学童の生徒や学童スタッフは集まっただろう。
嬉々として姫抱きをする英仁が脳裏に浮かびふつふつと怒りが湧いてくる。
「爆ぜろクソメガネっ。」
愛路は英仁の向う脛を蹴り上げて大学へと走った。
(◉ω◉)余談ですが女命でアホの子英仁はレディを姫抱きする日を夢見て筋トレしています。
体重が女子の愛路など軽々姫抱きできちゃいます。
学童編のThat childはこれにて終了です。
次回から新章です。
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