19th piece Rainy day
「ここでXを代入する。」
「何で?ってかXってなんだ?」
一枚のプリントに並んだ数列の解説をしていると予想外の返答が返ってきた。
「Xは未知数を表す記号だろうが。解んねぇモンを解く為に代入するんだ。」
「解んねぇモンを解んねぇ記号使って無理やり解こうとするから余計解んなくなるじゃねぇか。なんで使いどころも判んねぇ計算式解かなきゃなんねぇのかも分かんねぇ。」
「俺はナッツが解んねぇよ。」
数式一つ説くまでに一般の生徒では思いも寄らない疑問を思いつくとはさすが志郎の弟だ。向上心や勉学の上での思いつきは悪いことではないのだが余計なことばかり考えているから少しも宿題が捗らない。
「なぁ後藤ちゃん。誰が何の為にこんなもん考えたんだ?」
苦手科目である数学を前に項垂れながら夏樹がテーブルに額をこすりつける。
「参考書かネットで調べろ。」
いちいち説明するのも宥めるのも面倒になってきた。
「兄ちゃんなら説明してくれるのに。」
「俺にはナッツが納得するまで説明できる学も気力もねぇ。」
学校の教師や敏腕家庭教師であっても彼を納得させるまで説明するなど至難の業だろう。志郎は時間の許す限り夏樹の勉強を見ているというのだから感心する。法学部ではなく教育学部へ進んだ方が特技を活かせるのではないかと常々感じる。
「ほら、あと半分じゃねぇか。茶でも入れてくっから頑張れ。」
あと半分と述べるよりはまだ半分残っている。本来ならば20分程度で終るようなプリント一枚にかれこれ1時間半。正直に言って疲れた。まだ英語の宿題も残っているかと思うとうんざりする。
「俺、オレンジジュースがいい。」
「んなもんねぇよ。」
「戸棚にジューサーあるじゃん。オレンジもあるじゃん。」
確かにジュースはないがジュースを作る器具と材料はある。兄弟そろって人様の家の勝手に詳しいとは恐れ入る。ヘタをすると愛路よりも詳しいかもしれない。
「面倒臭ぇな。」
仕方ないと立ち上がると玄関の戸を開ける音がした。
「愛路ぃっタオルくれ。」
続いてダルそうな家主の声が響いた。洗面所からタオルを持って玄関へ行くと上から下までずぶ濡れた翔が立っている。
「お帰り。すげぇな。」
「どっかで泳いで来たのか?」
あまりに見事な濡れ具合に真顔で素っ頓狂なことを聞いてくる夏樹。愛路から翔は引っ手繰る様にタオルを取った。
「ド阿呆ぅ。雨に降られたんじゃ。外見てみぃ、滝みとう降っとうわ。」
濡れた頭を拭いただけでタオルは使い物にならなくなった。これだけ濡れていればバスタオルで拭いても同じことだろう。
「なんじゃこりゃっ。」
服を脱ぎ始めた翔の横をすり抜け、玄関の戸を開けて外を見た夏樹は大声を上げた。横殴りの雨が滝のように降っている。これでは傘があったとしても無意味だろう。
「うわっ、すっげぇ。外出れねぇじゃん。」
「明日まで降っとうらしいのう。」
やれやれと翔は脱いだ上着を玄関の外で絞った。想定以上の水が搾り出される。
「帰れねぇじゃん。」
ずるずると夏樹は玄関の戸に力なくよりかかる。彼の雨嫌いは筋金入りだ。何故こんなに嫌いになったかという決定的な理由はないのだか小さな不満が積み重なりいつの間にか大嫌いなものになっていた。
「止むまで待ってりゃいいじゃねぇか。」
翔から濡れた服を受け取りながらさらりと言えば、夏樹は壁に“の”の字を書きながらいじけだした。
「明日まで止まねぇんだろぉ。」
「泊めちゃるから明日帰り。」
「一人じゃ寝れねぇよ。いつも兄ちゃんと寝てんのに。」
志郎と夏樹は今でも部屋を共有している。家の間取りと部屋数の関係で兄弟仲良く同じ部屋に押し込められているだけだ。しかし、幼少より人と同じ空間で寝ていれば突然訪れた一人の夜は寂しいだろう。
しかし18歳にもなった男が一人では寝られないなど情けない話だ。
「安心しい。愛路が添い寝しちゃるって。」
「翔が一緒に寝てやりゃいいだろ。」
夏樹が女の子であれば添い寝くらいしただろうが、己よりも身長の大きな男と並んで寝るなどむさ苦しい事このうえない。
「俺、兄ちゃんと一緒じゃないと嫌だ。」
泣きそうな溜息を吐く夏樹を見て、愛路も翔も脳内に同じ単語を思い浮かべた。志郎の過保護的な弟好きも異常なのだが夏樹の兄好きも筋金入りのようだ。それにしてもいくら年下といえ180センチの大台を超えた男の半泣き姿は中々の破壊力だ。
「てるてる坊主でも作っときゃ。」
適当に言いながら翔は浴室に歩いていった。
「おう、その手があったか。」
ぱっと明るくなった夏樹は嬉しそうにリビングへ掛けていく。
「ナッツ、宿題終ってからにしろよ。」
「後藤ちゃんのジュースが出来るまで休憩。」
嫌で仕方がなかった数列から数分でも逃げ出したいのだろう。棚からハサミやカラフルなチラシを取り出し、てるてる坊主を作れそうなモノを探している。
「仕様がねぇなぁ。」
苦笑を零しながらダイニングテーブルの籠に入ったオレンジを取りながら台所に入り、半分に切る。コーヒーメーカーの隣に置かれたジューサーにグラスと一緒にセットして絞ると夏樹の注文どおり100%オレンジジュースの完成だ。
自分が飲む用と雨で身体が冷えたであろう翔の為に温かい茶を淹れようとヤカンに水と紅茶の葉を入れて火を点けた。
ふと、窓をみるとなるほどバケツをひっくり返したような大雨が降っている。
13階建てマンションの8階では屋根に滴る雨音も地面に叩きつけるような雨音も聞こえない。防音効果の行き届いた室内では雨に気付くこともなかった。
どんよりとした暗雲のかかる雨空が別世界のように見える。
こんな日は、いつだって不機嫌になるんだ。
『雨は嫌いだ。』
拗ねた顔で口を尖らせ、本当に面白くなさそうに記憶の中の少女が呟いた。翌日が雨と知ると決まって彼女はてるてる坊主を作る。
『てるてる坊主、てる坊主ぅ、明日天気にしておくれぇ。』
楽しそうに歌いながら色鮮やかな包装紙をカラフルなリボンで結い、自室のカーテンレールに吊るすのだ。
『いつかの夢の空のように晴れたら金の鈴あげよ。』
彼女の部屋のカーテンレールにはいつくものてるてる坊主がいる。晴れて欲しいという願いが天に通じた数。雨予報の度に吊るしているのならば、その数はあまりにも少ない気がした。
次の日、願いも虚しく雨が降ると大きなハサミでリボンを切り、てるてる坊主をカーテンレールから外す。
『てるてる坊主、てる坊主ぅ、明日天気にしておくれぇ。それでも雲って泣いたならぁ、そなたの首をチョンと切るぞぉ♪』
残酷な歌詞の童謡に倣い、ハサミでてるてる坊主の首を切り落としてゴミ箱へ捨てる。役立に立たないモノは必要ないと言われている様で目を逸らした。
ピ―。
お湯が沸騰したことを知らせる甲高い音で記憶を漂っていた思考が現実にもどる。火を止めて2人分のカップに注ぐと先ほど絞ったオレンジを垂らす。たちまちキッチンは紅茶とオレンジの香りに包まれた。
夏樹のオレンジジュースに砂糖を加えてダイニングカウンターへ乗せると丁度翔が浴室から出てきた。
「てるてる坊主、てる坊主ぅ、明日天気にしておくれぇ。」
リビングにいる夏樹が楽しそうに歌いながらてるてる坊主を作っている。このてるてる坊主も役目を果たさなければ首を切られるのだろうか。
『Give us good weather tomorrow.』
(◉ω◉)てるてる坊主の唄は幼いころから歌っていましたが全ての歌詞を知ったのは大人になってからでした。
井戸から出てくるお嬢さんもびっくりのホラーです。