18th piece Violent hug
「後藤ぉちゃーんっ。」
「ごふっ。」
聞き覚えのある声に周りを見回す余裕もなく前進に衝撃が走った。吹き飛ばされる勢いで突撃されて後方に倒れ、地面と飛びついた者に挟まれて身体が潰れそうになる。
「ぐえっ。」
内臓が圧迫され蛙が潰れたような声が出た。この衝撃には身に覚えがある。痛みをやり過ごし閉じた目を開くと赤いボンボンで前髪を結ったTシャツ姿の少年が映った。ズボンはとある高校指定の制服だが膝まで捲くり上げ見事に着崩されている。
「……ナッツ。」
愛路を押し倒し馬乗りになっているのは天王寺夏樹。志郎の4つ下の弟だ。彼には人に飛びつく癖があり挨拶代わりのようなものだ。
もちろん兄である志郎や翔も飛びつかれるのだが二人とも無様に倒れることはない。全身筋肉の翔はともかく志郎は愛路ほどではないが細身だというのに何故こうも違うのか。数センチの身長差が成せる技なのか納得がいかない。
「飛びつくなっていつも言って…うおうっ」
頭を押さえながら起き上がろうとするとシャツの襟を掴まれる。
「後藤ちゃん宿題教えてっ。よりによって数学と英語なんだよぉ。ハゲとメガネのクソッタレ。」
涙目で語る教師に対する怒りが襟を掴む手に伝わる。軌道がふさがれて目がチカチカする中、前にもこんなことがあったなどと暢気な考えが脳裏を巡る。
「ナッツ、苦しい。」
「あ、悪ぃ。」
首が絞まる苦痛を訴えると悪びれる事無く、パッと手が離れた。兄弟そろってバイオレンスだ。
「なぁ頼むよっ。」
「シローに聞けばいいだろ。」
弟を過剰に溺愛する兄の事だ。分かりやすく手取り足取り解説して解決するはずだ。
「兄ちゃん今日いねぇんだよ。」
言われて今日は夕方から夜遅くまで志郎はバイトだったと思い出す。先月は試験でセーブしていたため、今月はシフトが多めに入っているのだ。
「なぁ、なーあー、後藤ちゃーん。」
「分かったからどけ。」
ここは多くの学生が往来する大学の敷地内だ。通り道の真ん中で夏樹は愛路を押し倒して叫んでいる。通り様に見る者から立ち止まって見る者、何を考えてか携帯電話を向けて写真を撮っている者までいた。いい見世物だ。
周りの状況を見た夏樹がはっとして飛び退く。
「ったく、ナッツも高3だろ。少しは落ち着け。」
服についた汚れを掃いながら立ち上がると数歩離れたところにいる夏樹の表情が曇る。先ほどの元気は何処へ行ったのか。
「ごめん……なさい。」
風船が萎むように項垂れる夏樹の頭を撫でながら携帯電話を取り出しアドレス帳からメール画面を開く。
「俺は翔に連絡しとくからナッツはシローに連絡しとけよ。」
「兄ちゃんはいいぞ。ガキじゃねぇんだから。」
「事前報告しとけっつってんだ。じゃねぇと俺がシローに怒られんだろ。」
嫌そうな顔をしながら夏樹は携帯電話を取り出すと渋々メールを打ち始めた。基本的には放任主義だが弟限定で心配性の志郎。たとえ知り合いの家であったとしても行き先を事前報告しておかないと後が怖い。
翔へマンションで夏樹の宿題に付き合うというメールを送ると携帯電話をポケットに入れた。
「もう一つ講義あるから図書館で待ってろ。」
「えええ!?嫌だ。」
夏樹は眉毛をハの字にして不満を口にする。確かに馴染みのない場所で知り合いもいない中、一人で待たされる事は酷だ。だからと言って講堂へ連れて行くこともできないしサボるなどもっての外だ。
「分かるとこだけでも宿題しとけばいいだろ。」
頬を膨らませる夏樹を小突いて講堂へ向う。少し急がなければ間に合わない。なんでこんなに遠いのだと悪態吐きながら無駄に広い大学の敷地内を歩く。
講堂に入ると満席に近く席を探すのも大変そうだと溜息が出た。座れない事はないが出遅れるといつもこうだ。
「後藤君。」
空席を探すために見渡しながら歩いていると手を振りながら名前を呼ぶ人間がいた。
「席いっぱいでしょ。ここに座らない?」
言いながら鞄をどけて席をつめるのは以前、勉強を教えた英仁の知り合いの女の子の知り合いの女子達だ。確か唯子とヒナという名前だったと思う。
「いいの?」
少し首を傾げて問うと何故か二人とも頬を染めて勢いよく首を縦に振った。折角なので遠慮なく甘えることにする。
「ありがとう。」
礼を言いながら座ると背中に鈍い痛みが走った。夏樹に押し倒された時、打撲でもしたのだろう。全く困ったものだと思いつつ飛びつく癖があったのは彼だけではないことを思い出し、自然と笑みが浮かんだ。
学校の帰り道だっただろうか、あの少女もよく飛びついていたものだ。軽快な足音をたて、特有の愛称を大声で叫びながら。
『アーイちゃーん。』
『ごふっ。』
力の限り叫びながら力の限り飛びつく少女。年下の女の子に容易く押し倒されては男が廃るとなんとか足を踏ん張って留まる。
『飛びつくなっつってんだろぉがっ。』
恒例となった言い返しは馬耳東風で彼女の耳にとどまることはない。
『なぁ、なぁアイちゃん。今日、算数と国語と二つも宿題出たんだ。』
忠告はなかったかのように扱われ、己の身に降り注いだ災難を優先させる少女に諦めの溜息を吐いた。
『そりゃオメデトー。』
『めでたくねぇよ。分数だぞ?』
心なしか潤んだ目で助けを求めるように見上げてくる。小学生のうちから文系になってしまった少女は算数や理科など理系が苦手だ。出来ないと言うより興味が持てないからやらないといったほうが正しい。
『教えてやるから離れろ。』
道の真ん中で抱きついている様は人々の注目を浴びるに十分な図だ。買い物籠を持った中年の女性が口に手を当てて笑いを堪えている。
『やったぁ。早く帰ろう。』
周りなど気にしない少女は全身で喜びを表し意気揚々と歩き出した。
『しょうがねぇな。』
車から庇うように車道側に周り頭を撫でてやると嬉しそうに擦り寄って愛路の手に自分の手を絡めてブンブンと振りながら家に帰った。
今は若葉の季節だが、少女との帰り道は銀杏の葉が黄色く紅葉していた気がする。
繋いだ手の温もりがまだあるようで思い出を刻み込むように強く手を握った。講堂には心地よい講師の声が流れている。
◇天王寺 夏樹
通称ナッツ。志郎の弟。高校3年生。
(◉ω◉)余談ですがナッツの名前は通称が先に決まりました。