14th piece Cry baby
悪夢に縛られて動けない。
嫌な事ばかり濁流のように流れてくる。記憶の津波にのまれてしまうと馬鹿みたいに悲観的になり下らない思考が支配するのだ。
地べたに座り左手首を見る。鋭利な切り口は瘡蓋になることもなくパックリと口を開けたままだ。親指でなぞるとあっけなく傷は開き、雨と混ざりながら血が流れる。
死にたいと思ったことは山ほどある。
苦しくて辛くてここから抜け出したいのに自分ではどうにもできなくて泣き叫んでも縋っても誰も助けてくれない。
そんな時、人は死ぬしかないと思い込み命を絶ってしまうのだろう。冷静になれば死ぬほどでもないのに悲しいときは我をも忘れてしまうんだ。
愛してくれる存在も楽しいことも忘れ、不幸に悲観に呑みこまれてふと浮かんだ、終わる衝動を行動に移す。
時間が解決してくれた筈の悲しみに負けるのだ。
「会って知って愛して、そして分かれていくのが幾多の人間の悲しい物語である。」
終わり方を巡らせていた思考を遮った低い声に顔を上げると一人の老人が黒い蝙蝠傘をさして立っていた。
「コールリッジという人の言葉でね。別れのない出会いはないと解釈している。」
真っ白な頭と真っ白な髭。顔には深いシワが刻まれているが優しい雰囲気が老いを感じさせない。
「人は必ず死ぬ生き物。どんなに深い絆で結ばれた仲にも死別だけは避ける事が出来ないからね。男女の誓いの言葉にもあるだろう?」
死が二人を別つまでと語りながら丸い眼鏡の奥の瞳が優しく笑んだ。何故か呼吸が苦しくなる。
「さてと涙のわけを訊いてもいいかい?泣き虫君。」
老人は黒い傘を差したまま前に屈み笑いかけた。質問の意味を理解した途端、頭に血が上る。
「泣いてねぇよ!」
「ふふふ。そうか。泣いてないのか。」
叫ぶように言っても老人は笑うだけだった。子供扱いされているようで面白くない。
「どっか行けよ。話かけんなっ。」
「小さい子が哀しんでいる姿を見て放っておけないだろう。」
「誰が小さい子だボケじじぃ。」
初対面の相手に猫も被らず言い放つと頭にシワだらけの手が頭に置かれ、ぐしゃぐしゃと撫でられる。
「小さいよ。私からしたら君は小さな子供だよ。」
もう怒る気もなく老いぼれの戯言だと聞き流した。
「誰か亡くしたのかな?」
道路に添えられた花を見て老人は察したのだろう。
「ずっと、ずっと前だ。」
もう直ぐ10年になろうかという長い月日が流れた。
「そうか。でも、置いて逝かれるのは悲しいね。」
頭に置かれた手を払いのけて老人を睨みつけた。
「解ったような口利くんじゃねぇっ。」
何も知らずに勝手に理解して世話を焼かれたくない。老人は楽しそうに笑っている。馬鹿にされたのかと目の奥が熱くなる。
「はははっ。大切な人を失う悲しみは知ってるつもりだ。でも君の気持ちなんて解らんさ。痛みも苦しみも辛さも寂しさも感じるのは自分自身だけだ。自分以外は全て他人。解るわけがない。」
手首を掴まれ、びくりと身体が震えた。振り払おうとするが思った以上に老人の力が強く、びくともしなかった。
「だから解って欲しいことがあるなら言わなきゃならん。」
内懐を見透かすような強い瞳に息を呑む。
解って欲しい人がいる。解って欲しい事は沢山ある。だが全てを曝け出して醜く汚れた弱い甘ったれの自分を知られた時、軽蔑され嫌われてしまうことが怖くて堪らなかった。
優しかった人に冷たい目で見られることも嫌われることも。その経験があるからこそ恐ろしくて息が詰まる。
音がする程、奥歯を噛み締めて涙が零れる事に耐えた。噛み締めた唇から血が伝う。
「言えるわけねぇだろ。」
血と一緒に紡ぎだした声は掠れて音にならなかった。
偽の笑顔を剥いでも、偽の自分がいる。猫かぶりをやめてもそこに本性などないのだ。自分を見繕うことばかりしか考えていない。情けなくなって笑えて来る。
「それは苦しいね。でも逝ってしまった者の後を追ってはいけないよ。」
さっと血の気が引く。左手首の深い傷跡が見られている。相変わらずニコニコと笑っている名前も知らない初対面の老人は慈しむように手首の傷を撫でた。
大きな皺だらけの温かい手は手首から離れると顎を伝う血を拭った。
「辛い時はね、男の子だって泣いてもいいんだよ。」
今までの苦労も虚しくあっさりと涙が溢れ出た。小さい子をあやすように背中を撫でる手が優しくて喉の奥から嗚咽が零れる。一度決壊した涙腺を止める術もなく、老人の服に縋り付いて泣いた。
「やれやれ明日はウサギのような目になってしまうねぇ。」
背中を撫でる手が少しだけ乱れた呼吸を整えてくれる。喉の奥がひくひくと痙攣し、頭が痛い。こんな風に人前で噎び泣くのはいつ以来だろう。
嗚咽で震える体をシワだらけの身体が優しく包み込んでくれる。花の香りか甘い匂いが落ち着かせてくれる。
涙が止まっても顔を上げることが出来なかった。雨と涙と鼻水と涎で酷い顔だろう。思わず泣きついてしまった羞恥もある。
泣き止むまで背を撫でていた手が離れ頭を撫でた。
「雨の日の日暮は早い。暗くなる前に家へ帰りなさい。」
家に帰れ、などなんて優しく残酷な言葉なのだろう。待っている家族も居ない。帰るべき家もない。
「俺が、帰る家なんてない。」
もう涙は止まったというのに、震えて掠れた涙声が出て情けなくなる。老人は頭を撫でていた手を頬に移し、俯く顔に残る涙を拭った。
「君は一人かい?」
首を縦に振ることも横に振ることも出来なかった。世話を焼いてくれる人も好いてくれる人もいる。ただ自信がないのだ。
もしかしたら独りよがりかもしれないと思うと怖くて堪らない。独りだと思っていれば独りなのだと確証したとき悲しみも浅くて済む。結局、傷つきたくなくて逃げるのだ。
「逢いたい人はいないかい?」
首を傾げて問われた事に思考が止まった。脳裏に何人かの人が浮かぶ。
「今、頭に浮かんだ人達のところへ帰ればいい。」
否定するように首を横に振った。ネガティブな感情に陥っているときは、なんでもない事でも臆病になる。
老人は困ったように笑うと、よしよしと小さい子にするように数回頭を撫でた。もう子ども扱いされたなど怒る余裕すらなかった。
「いい子だから今日は帰りなさい。」
優しくも否定を許さない言葉に押されて愛路は俯くように首を縦に振った。
「また逢おう。泣き虫アイちゃん。」
耳元での囁きを最後に温もりが離れた。はっとして顔を上げるが誰もいない。河川の道路から延びる階段を駆け降り、団地を抜けて道を駆けるがそれらしい人物は見つからなかった。
老人は確かに愛路のことを“アイちゃん”と呼んだ。そんな呼び名を使う人物はこの世に一人しかいない。
走って、走って、駅前の大通りまで来ても居ない。違う道を行ったのか、一度見失ったものを見つけることが出来なかった。
また涙が流れた。降りしきる雨が隠してくれたが、傘も差さずに濡れた姿は異彩を放ち、道行く人の視線を集めた。
『帰りなさい。』
老人の言葉が繰り返される。幽霊のように消えてしまった影を追うのをやめ、とぼとぼと雨の降りしきる道を歩き出した。
『It's okay to cry…』
◇コウモリ傘の老人
真っ白な頭と真っ白な髭の男。突然現れて突然消えた。
(◉ω◉)お節介おじいちゃんの登場です。
初対面の目上の方に外面の良い愛路が悪態吐くなんてこと普段ならありえないんですが……。