13th piece Mournful day
電車の窓から見える景色は目的地へ近付く程、懐かしさにあふれていた。平日ということもあり席は空いていたが入り口の窓際に立って映り行く景色を眺める。
花粉がつかないようにとおしべを切り取ったカサブランカの香りが時折鼻をついた。強い香りに顔を顰める。
空はどんよりと暗く、霧のような細い雨が降り注いでいた。
「あれぇ、マナだ。」
車両を移動してきた女を見てぎょっとする。初夏を思わせるデザインの服に身を包み、ばっちりとメイクを施した杏がいたのだ。
「偶然だねぇ。何かおしゃれだし。」
杏の視線が愛路の足元から頭へと全体を品定めするように映った。いつもは適当に選んでいる服装が謀ったように黒で統一していたのでおしゃれと判断したようだ。
「花束なんか持ってデート?講義は?」
「うるさい。」
説明するのも面倒で一括して目を伏せる。今日は誰とも話したくない。
「もう機嫌悪いなぁ。あんまりぶーたれてると湊に言うからね。」
「言うな。」
脅すような低い声で言い放つと杏は分からないというように首を傾げた。
「ここで俺に会ったこと、湊にも誰にも言うな。」
「え、何で?」
タイミングを計ったかのように電車が止まり、ドアが開く。戸惑っている杏を残し、ホームへ降りた。
「ちょっと、マナっ。」
慌てて降りようとする杏へ睨むように目を合わせると彼女動きを止めた。
ドアが閉まり呆然とする杏を乗せた電車が走る。見届けることなくホームから逃げるように立ち去り改札を抜けるとビニール傘を差して歩いた。
ここは愛路が生まれた街。
記憶を頼りに歩道を歩くと懐かしい風景が広がってくる。幼い時に何度も通った見知った道。
何も変わらないのだと思っていたが通りから一つ曲がっただけで本屋がなくなっていたり道路が整備されていたりと面影すらないところもあった。
足早に歩き風景の違いから四苦八苦しながら一つの建物の前で足を止める。驚愕に目を見開き花束を落としそうになった。
昔、両親と住んでいた家は取り壊されアパートが建っている。両親の死後、直ぐに売却されたと聞いていたがまさかなくなっているとは思わなかった。心の何所かで何かが崩れた気がした。
気づくと公園の近くを歩いていた。よく遊んだ公園は当時の面影を少しだけ残してその場所に佇んでいる。雨の日の公園は誰もおらず、濡れた遊具が静かに風と戯れていた。
砂場は誰かが作ったトンネル付きの砂山。色の変わったジャングルジム。音を立てるブランコ。そのわきを通ると団地へ抜ける階段がある。
一歩ずつ紫陽花に囲まれた階段を降り、団地を過ぎると河川に面した道路へ抜けた。ここが目的地だ。
少し水位の増した川を眺めながら傘を畳んで転落防止の柵に寄り掛かる。水滴が服に染み込むが気にはならなかった。
小雨に濡れながら10年前の今日も雨だったと目を閉じる。
幼い時から犬を飼っていた。黒い毛色の大型犬。名前はノックス。手足のみ靴下をはいたように白かったのでソックスと付けようとしたらしいが名前を呼ぶときに笑いが込み上げてくるため一文字変えてノックスになった。両親を含めノックと呼んで可愛がった。
小さい頃は母と一緒に散歩をした。小学校に入ってからは一人で散歩をするようになった。
バケツを引っ繰り返した様な雨の日だったが、母の心配を押し切って意気揚々とリードを持って散歩に出かけた。
いつものコースをぐるりと回り、半分ほど来たところで正面から車が来る。元々、人通りが多く車通りは少ない道だったが悪天候のために誰も歩いていなかった。
賢い犬は逸早く危険を察知して子供の体を押し倒し車から守った。
視界を遮る様な雨の所為で小さな子供の体は霞んでいたのだろう。降りしきる豪雨に運転手は車体に当たった物体に気付けず走り去り、道路には一人の子供と一匹の犬が倒れ雨に打たれていた。
風に飛ばされた傘が静かに川に落ちる頃、何とか起き上がった自分は擦り傷で済んだが犬は臓物が飛び出ていて誰の目から見てももう助からないと絶望する。
日が暮れ、心配した母親が迎えに来るまで屍を抱えて蹲っていた。冷たい雨と熱を失っていく愛犬の体の感触は今でも忘れない。
命の恩人が事切れた場所にカサブランカの花をそえて手を合わせた。
「ごめんな。」
命を張って助けたのに来ることが遅くなって。ダメな飼い主で。ダメな人間で。多くの意味を込めた謝罪だった。
愛犬の死から立ち直れず元気づけようと休みの少ない父が遊びに連れ出してくれた旅先で交通事故になり後を追うように両親も亡くなった。
こんなかたちで愛犬が死ななければ両親が死んだ日の悪夢は訪れなかっただろうか。死んでいたのが自分であれば愛犬も両親は死ななかった事だけは確実だ。
しかし家族の死がなければ今の生活はなかった。掛け替えのない人達に出会うこともなかった。それが良かったのか悪かったのかは分からない。
ふわりとカサブランカの香りが鼻孔を擽った。優しい記憶を呼び起こす。
家族を思い出して泣きたくなると誰も来ないような場所を探した。誰か傍にいてほしいと思う反面、一人になりたいと矛盾した感情が渦巻き声を殺して泣いた。
優しくあやしてくれる両親を失って男が泣くなと諌めてくれる友人と離れて悲しい日は一人で泣いていた。
数年前の今日は晴れ渡った青空だった。太陽から隠れるように薄暗い木漏れ日の中、廃れた空き家の庭で植えられた木々に背を預けて膝を抱えてしゃくり上げていた。
『泣いてるのか?』
隠れん坊が得意だと自慢した少女はどこにいても見つけた。
『こっち、来んな。一人に、してくれ。』
嗚咽を隠すため、ギリリと歯を噛みしめた。道すがら付いたであろう新緑の香りがする小さな手がそっと頭を抱いた。
『でも一人は淋しいだろ。』
静かな優しい声とじんわり温かい体温。押し付けられた薄い胸から伝わる心音。安堵と悲しみとが一気に流れ込む感情に任せて涙があふれ出た。
『なんで、俺が、生きてんだって、俺が、一人、死ねばよかったって。』
『うん。』
小さな体に手を回し力の限り抱きつくと少女の息が詰まった。苦しそうだと分かっても手を緩めることが出来ない。今まで溜め込んて押し殺していたものが溢れて止まらない。
『俺が、生きてたって………。』
『でもテルは良かったと思ってる。』
耳を疑うような文脈に思わず少女を突き放した。
『アイちゃんの父ちゃんと母ちゃんが生きてたら家に来なかっただろ。そんなんヤだな。』
素直な感情とはなんて残酷なのだろう。少女は己の欲に忠実だったから余計だったかもしれない。しかし嘘を重ねられるよりましだ。
『アイちゃんはな、テルと家族になるために生き残ったんだ。』
『なんだよそれ。』
少女はあやすように頭を撫でながら笑った。
『アイちゃんの現状を都合よく解釈した。』
『お前の都合だけじゃねぇか。』
溜息を吐きながら抱きつく体に手を回す。
『他人事だと思いやがって。』
『他人事だ。』
歯を見せながら満面の笑みを浮かべると再び少女は愛路を抱きしめた。
『お前なんか嫌いだ。』
『うん。』
突き放しても手を差し伸べてくれた少女。その温もりに依存するまで時間はかからなかった。
泣きたいほど悲しい日は、あの子の影が一層濃くて逢いたくて仕方がなくなる。
息が詰まるような苦しさ。泣いてしまえば楽になるだろうか泣いたとしても、もうあの子は来ない。
優しい思い出に今も溺れているのに淋しくて仕方がないのに独りだった。悲しみに淋しさに押しつぶされそうで手を合わせたまま座り込む。
全てを押し込むため必死に唇を噛みしめると、口元から一筋の鮮血が伝い雨に溶けながら地面に滴った。
過去の悪夢も哀しみも雨に洗い流してほしかった。
『Allow if you please.』
(◉ω◉)少し、暗い話が続きます。