Ⅳ 三秒後
気がつくと、友也は診療室のソファーの中にいた。ぐっしょりと冷や汗に濡れている。
「きょうはこれで擱こう」
傍らに鬼藤がいた。
「ひどくうなされていたね」
差し出されたグラスの冷水を受け取って、友也は静かに口に運ぶ。
「何か覚えている?」
黙って首を振る。少し頭痛がする。催眠導入剤のせいだろう。
冷や汗をかくほど何に怯え、何にうなされていたのか、少しも覚えていない。夢とはそういうものか。
半時ほど前、二度目の診療を始めるにあたって、鬼藤から催眠分析の施療を提案された時、友也は当然ためらった。そこまで無防備に自分をさらけ出すのは危険すぎないか。だが、マリオネットである自分を明かした瞬間から、事態はすでに動きはじめている。この出口のない不条理な悪夢に死ぬまで閉じ込められている訳にはいかなかった。何であれ、試されてみよう。自分を破滅させる気なのか、本気で救おうとしているのかは知らないが、彼らに、もしそのつもりがあったのなら、とうに殺されていても良いはずだ。今さらいきなり異形の本性をむき出して危害を加えて来るとは考えにくい。その油断が、いつか命取りになるとしても、それは仕方のないことだ。
だが、その意志とは裏腹に、実際に催眠誘導が始まると、意識の深層に抑し込められていた恐怖と敵意が、言葉の暗示による誘導を妨げ、夢への導きを拒んだため、薬物を服用せざるを得なかった …
いつの間にか雨になっている。正面の大窓を雫が打ち、どこか近くで雷鳴が鳴って、よどんだ空気を震わせた。外は灰色で物の形すら見えない。この世界では、雨粒も雷もみな実物で、降らせる者がいない。
「タイムマシンをどう思う?」
鬼藤が尋ねる。
「タイムマシン?」
友也はただくり返す。
「どんな物だろう … 」
医者は遠くを見つめていた。
「無理です」
友也はつぶやいた。
「無理?」
「時間だけを越えるなんて無理なんです」
ドクター鬼藤が友也を見た。目には少年めいた好奇心が灯っている。
「ご存知でしょう?時間と空間とエネルギーが切り離すことのできない一つの物だということは」
「君の世界でも?」
友也は戸惑う。確かに、この知識はどこから来たのだろう。完全に記憶を失くしたつもりでも、こうして言葉を話し、物を食べ、裸で歩いてはいけないことを知っている。
「失礼、先を続けて」
医者が促す。
「 … えぇ。ですから、誰かが時間を越えようとすれば、それはただ過去や未来へ行くというだけの話では済まなくなるはずです。その人自身を含んだ世界そのものからはみ出すことになってしまうでしょう。そんなの、不可能だと思いませんか?」
鬼藤はどこか満足気に、問い添えた。
「だけど、仮にそれができたとしたら、旅をした本人のアイデンティティーは保たれると思うかい?」
「アイデンティティー?」
「いや」医者はつぶやく。
「独り言さ」
この男が何を伝えようとしているのか、友也にはわからなかった。話が唐突すぎて、これも夢の一幕ではないのかと疑いたくなる。
雨がさらに激しさを増して来た。友也は半分飲み残した昏いグラスを返してソファーから立ち上る。壁時計を見ると、針が12時3秒で止まっている。
「ありがとうございました」
右手でドアをあけ、部屋を後にする。
まだ、意識が多少ぼやけている。
廊下が暗く静まり返っていた。どこで間違えたのか、見知らぬフロアに来ている。人影まばらなナースセンターの前を横切ると、リネン庫や準備室が列んでいた。どこまで行っても人気のない薄闇の廊下をまっすぐ奥へ辿って行く。さらに進むと、階段の踊り場の陰に友子がいた。二つ違いのこの妹には何度か会っている。見舞いに来ても、両親の影に隠れるように隅の椅子に座ったきり俯いていただけで、まだ一言も声を聞いたことがない。
近づいても、後姿でたたずんだまま動かない。友也がそっと腕をつかむと、顔がふり向いた。似ても似つかない化け物だ。甲高い叫び声を立ててナースセンターの方へ去って行った。
踊り場の後の壁に何かが残っている。見ると、嵌め込まれた暗い鏡の中で、瘦せ細ったベスト姿の化け物がもう一人、右腕を吊って見つめていた。