第2話「0歳児、誕生する」
「あう、あああー」
耳障りな声が聞こえる。赤ん坊の泣き声だろうか。
それにしても、やかましい。頭の中に反響する不快な声だ。
たまらず耳を塞ごうと、手を動かしてみた。
……しかし手が耳まで回らない。いや、手だけじゃない。今度は必死に身体を動かしてみたが、寝返りを打つことさえできなかった。何なんだ、自分の身体じゃないみたいだ。
「あうああー!」
赤ん坊の泣き声が強くなった。次第に明瞭になってきた視界に、くたびれた若いおっさんの姿が映る。……誰だコイツは。
彼は血に濡れた手で、ボクのことを抱いているようだった。それから涙目で、ボクに顔を近づけてきた。うえっ、よく分からん男に起きぬけにチューされるなんて最悪だ!いや、起きぬけじゃなくても最悪だが。
ボクは彼を押しのけようと手を伸ばした。しかしその手はあっけなく、男に握り込まれてしまう。男の手の中にボクの手がすっぽり収まってしまうなんて……ボクはどうしたんだ、縮んでしまったのか?
それにしても身体が重い。熱が40℃出た時と同じくらい身体が重い。
何とかぼやける視線を動かし、周囲の状況を確認してみた。ボクは今、馬小屋のような小汚い部屋の中にいるようだ。部屋の中には、チューしてきたおっさん、険しい顔をした老けたおじさん、そして表情はよく見えないが、もう一人女性がいるらしい。
頭の中にある仮説が浮かび、ボクは口を閉じてみた。
……案の定、今の今までやかましく反響していた赤ん坊の泣き声が消えた。音の出どころは、ボクの口だったみたいだ。
しかし口を閉じているのが息苦しくて我慢できず、ボクはすぐに口を開いた。なんて難儀な身体だ。
ということは、つまり、ということはだ。ボクは高揚が抑えられないでいた。
ボクは本当に、転生してしまったみたいだ。
女神との会話は、夢でも幻でもなかったみたいだ。小説で読んだ奇跡が、今ボクの身に降り注いでいる。さっきまでは現実味を感じなかったが、ここまでくると理解も追いついてきた。素直に感動してしまう。
万歳でもしてみようとしたが、思いの外腕は伸びず、じたばたと動かしたら、今度は老けたおじさんに手を握られた。
老けたおじさんの表情の険しいこと険しいこと、ボクの腕に血が付いていることから、緊迫した状況なのだろうと推測できる。二人が何か喋っているが、自分の泣き声がデカすぎて全然聞こえない。腹から声出して喋ってくれ。
それにしても、確かにイメージ通りではあるが、本当に0歳からスタートなのか。生まれてから二足歩行しだすくらいまでは、展開的に飛ばされるかと思ったがそんなことはないようだ。正直、もっと9歳あたりからスタートしてくれた方が個人的には好都合だったんだが。頑張って言語を覚えたり、二足歩行を習得したり、そんな苦労をしたくてボクは転生したわけじゃない。
どうでもいい幼少期はスキップする機能がほしかったな。まあ、ゲームや小説のようにはいかないということか。
もう目をかっぴらくのにも疲れてきた。耳を澄ましても聞こえるのは自分の絶叫ばかりだ。ボクはゆっくり目を閉じた。赤ん坊って結構疲れるんだなぁ。前世にはなかった気付きだ。
* * *
生後何か月だろう。カレンダーもないから分からない。
ボクは壁にもたれかかりながら、何とか二足歩行できるまでに至った。初めて歩けるようになった時は達成感で叫び出しそうになったが、壁から手を離した拍子に横転してしまい、鼻血を出しながら大泣きしたものだ。
それにしても、ここまで長かった。毎日毎日壁をつたって歩く練習をして、寝て、食べて……。実働時間は1日30分程度だろうが、それでも赤ん坊の身体には非常に負担だった。頑張ったから褒めてもらいたい。
とにかく、やっと一人で歩けるようになった。膝に手をついて、ボクは天井を仰いだ。
よし、まずは第一歩だ。ボクの夢に大きく近づいた。
ボクの夢というのは決まっている。この第二の人生で、とにかく偉くなることだ。
前世で苦しんだ分、今世では楽しみたい。人から認められたいし、お金も、友達や仲間もほしい。
そのためには、そんじょそこらの幼児どもと同じペースで成長していては遅いのだ。誰よりも早く歩けるようになり、話せるようになって、誰よりも優秀な人物になってみせる。それで、きっといつかギルドとやらの頂点に立ち、たくさんの人から慕われる存在になって、お金もガッポガッポ、友達やファンに囲まれて、最高の日々を過ごすのだ。
前世ではいじめられ、貧乏に喘ぎ、いいとこなしのままパタリと死んでしまったから、今世は楽しみまくりたい。輝かしい未来のことを思えば、なんだって苦にならなかった。
大体、娯楽も何もないし、寝っ転がってるだけじゃ退屈で死にそうだし。次はそうだな、走る特訓でもしようか。
* * *
2歳になった。ボクの身体は日々の特訓のおかげかすくすく成長し、もう走り回れるほど足も発達した。
そして、いい加減『この家には金がない』ということにも気付いてきた。
穀物と水でできた離乳食を食わされていた時代が終わり、最近は煮た芋と焼いた芋とふかした芋をローテーションしてずっと食わされている。ピカチュウでももうちょっとマシなもん食って生活してると思うぞ。
生まれた瞬間にチューしてきたあのおっさんが、今世でのボクの父親だったようだ。同じくボクの出産を見守ってくれていた老け顔のおじさんは誰だったのか分からないが、出産日以降会った記憶がない。
そしてどういうことかは分からないが、ボクを出産した母親は、ベッドに常に横たわっている。身じろぎ一つしない。難産だったようなので死んでしまったのかと思ったが、だとしたら死体は腐敗するだろう。母さんは常に青白い顔で寝転がってるし、植物状態とでも言うんだろうか。
ということで、父さんはボクと母さんの二人をド田舎で養わなければならず、それはもう苦労しているようだ。常にくたびれた顔の父さんは、下着も一枚しか持ってないっぽい。死んでも嗅ぎたくない。
とにかく父さんがこれだけ頑張ってくれてるんだ、ボクもまずい飯を食うくらいは我慢しないと。そう思って、ボクもそれなりに頑張っている。
だがこの家庭は貧乏ながらに、新聞は取っていた。父さんは毎朝欠かさず目を通し、それから出かけているようだ。
暇で暇でしょうがなかったボクは自然と、父さんが置いていった新聞を読むようになった。
「ゴールドギルドの“筋肉野郎ども”……討伐難易度8のスーパーサイクロプス討伐かぁ!すごいなぁ……。」
新聞を読んでいると、本当に異世界って感じがした。
小説がないこの世界でボクが平静を保っていられるのは、新聞のエンタメ性が強いからに他ならない。というかマジでこれくらいしか娯楽がない。今時5歳児でもスマホで動画見たりして時間潰すのに……いや、もうそういう世界じゃないんだけども。
前半の政治やら何やらは適当に読み飛ばしてるけど、新聞には結構色々なことを教わった。この国についてとか、モンスターについてとか。
まずこの世界について。地球と似た環境にあるみたいだが、サイズはこの世界の方が圧倒的に小さいようだ。“ポラリス”と呼ばれるこの世界は、惑星全体が地球でいうユーラシア大陸くらいのサイズらしい。強固な王政で統治されており、奴隷制度も残っている。文化レベルは結構前時代的っぽい。
とはいうものの、城下町には電気も普及してきていると新聞に書いてあった。ま、ボクの家にはそんな便利なものは存在しないけど。
それから、現国王がかなりの有能だということも分かった。数十年前に採用された新しい貨幣“ゼル”の信用が高まったのが1点、最近就任した国王、ジェームス・フィリッポス1世が商業に力を入れている、この2点よりこの世界の経済はかなり発展しているそうだ。
女神が言っていた、王様になった転生者というのが彼だろうな。
朝は優雅にサンドウィッチを食し、昼になれば紅茶を入れてスコーンを焼き、夜になれば賭場場に行き……城下町では、そんな優雅な生活様式が当たり前と化しているらしい。ま、ボクら貧民には今のところ全然関係のない話だが。
そうそう、「モンスター」というのは、凶悪で人間に害を及ぼす、特殊な進化を遂げた動物のことだ。
ワイバーン、ゴブリン、アンデッド……モンスターには様々な種類があり、いずれも出自は明らかになっていない。そして全てのモンスターに共通するのは、生きた人間のみを狙って攻撃する点だ。よっぽと人間が美味しいんだろう。
だから猫とか鳥とか普通の動物の命が脅かされることはないが、とにかく人が殺されまくっているらしい。
この世界を脅かしている一番の要因はこのモンスターであり、国民の死亡原因の約6割はモンスターによるものなんだと。
何か噂によれば、約2年前からモンスターがさらに狂暴化して、ますます手が付けられなくなってるらしい。まったく恐ろしい話だな。
そんな厄介な生物を倒すため、国王はギルド結成を推奨している。
ギルドとは、モンスター討伐で生計を立てる国王公認の団体だ。都会には“ギルドハウス”という建物があり、そこに行って能力値を見てもらい、モンスターと戦えるだけの実力があると認められた人たちに、ギルドを組む許可が下りるらしい。
ギルドにはブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナの4段階があり、モンスターを討伐した成果に応じて階級が上がっていく。6割のギルドはブロンズで、シルバーは3割、そしてプラチナに認められたギルドは歴史上一つしか存在していないらしい。
少年心が疼く。聞いてるだけでワクワクするような話だ!
モンスター、ギルド……そんなのが登場する小説、前世ではたくさん読んだ覚えがある。
きっと、ボクは将来この新聞に載るんだ。女神から授かった力でモンスターをバッタバッタと倒し、そしてギルド界の頂点、プラチナギルドに名を刻むんだ。
ボクの目指す輝かしい未来が、この新聞にあるように感じた。
ギルドのトップになるという夢は元々決まっていたが、そろそろ具体的なビジョンを考えていかなければ。まずは、この片田舎を出てギルドを組むことから始めていくかな。
ボクは外で拾ったイイ感じの細長い石を手に、自室の壁に『目標:ギルドを組む』と文字を刻んだ。
前世の時から、目標は紙に書いて壁に貼って、常日頃から目に見えるようにしてたんだよね。この世界じゃ紙も貴重だから、壁に直で書いたけど。
ということで、これからはギルドを組むことをまず目標に頑張っていこう!
壁に刻んだ文字を見て、決意を新たにしたが、直後に座り込んで腕を組んだ。とりあえず壁に書いたはいいが、ギルドを組むためには、具体的に何をすればいいんだ?
まずギルドハウスに申請に行く必要があるからから城下町に行かなきゃならないし、後は仲間も集めなきゃいけない。どう考えても、現在齢2歳のボクには無理難題だよな。とりあえず、身体を鍛えていくことから始めようかな。
* * *
3歳になった。
この世界の言語も大分身についた。というのも、公用語が英語だったので、多少の予備知識はあったから習得も早かったのだ。
身体もかなり発達してきた。プランクなんか24時間平気でできるくらい、ボクの身体は完成されてきた。
この前、外で試しにブレイクダンスをやってみたら、勢いづいちゃって地下に2メートルほどの穴ができた。ボクはドリルか。
まあ、それまでは、3歳児にしては発達が早くてありがたいと思っていたくらいだった。しかし、そうも言っていられない事件が発生したのだ。
その日、ご飯を食べようとフォークを握り締め……意図せずして、フォークを真っ二つに両断してしまったのだ。
骨が折れるような嫌な音とともに、手の中で砕けるそれを眺め、ボクは言葉を失った。
ボクの内なるゴリラが、この時既に目覚め始めていた。