最終話 【アイツ】
車で走る帰り道。
ハンドルを握りながら僕は、この二日間の余韻に浸っていた。
八月の連休を利用した一泊二日の小旅行。伊豆の海で過ごした彼女との時間を振り返る。
千葉と埼玉。近いようで遠い微妙な遠距離恋愛。とりわけ最近は会えない時間も多かった。
だからこそこの週末は、少しでも長く同じ時間を過ごしていたかった。
彼女を家まで送った時、時刻は日付を跨いでいた。
明日ではなく、今日。また、仕事が始まる。
この分だと……家に着くのは二時を過ぎるかもしれない。
伊豆を出発してから半日以上が経過し、流石のロングドライブに疲労の色は隠せない。それに加え、彼女を送り届けたことで緊張の糸が切れてしまったのだろう。待ってましたと言わんばかりの睡魔が襲い掛かってきた。
自他共に認める、超が付く程の体育会系男子。体力に自信があるが、それでも起床時間を考えれば三時間は眠りたいのが本音。急ぐべきか否か。旅行の余韻に後ろ髪を引かれる思いと、現実に向き合わざるを得ない自分。
僕はなんとなくふわふわした気持ちのまま愛車のRX-7を走らせていた。
高速道路を降りた僕は、一般道を松戸方面に向かった。
ここからマンションのある市川市までは三十分程度。このペースだと、予定の時刻を少し超えるかもしれない。思った僕は、大きな幹線道路から外れ、信号機の少ない抜け道へハンドルを切った。
少しの区間でも時短になるはずだ。僕は頬を軽く叩き、纏わりつく睡魔を振り払う。
抜け道の選択は思った通りで、深夜の交通量の少なさと相まって良いペースを作り出していた。
「悪くないね」
僕は自画自賛するように声を出し、暗闇を照らすヘッドライトの先へ意識を集中させた。
暫くして、薄暗い電灯が照らすT字路を、川沿いに左折しようとした時――。
一瞬のうちに、信じられない出来事が僕を襲った。
T字路を曲がる瞬間、僕の直感がけたたましい警鐘を轟かせた。
がしかし、前触れを察知したのとソレが起きたのはほぼ同時。
「やばい!」と声が出た瞬間には時すでに遅く、運転席の背後から僕の身体の中に何者かが侵入してきたのだ。
それを感じ取った瞬間。全身の毛穴という毛穴が一瞬にして広がった。
決して大袈裟な例えでもなく、髪の毛から足の先に至る身体中の毛が、一気に抜け落ちてしまったかのような感覚を味わった。
それだけではない。首筋が縮まり、僕の全身が凍えるような冷たさに震え始めた。
けれども僕は、これらの出来事に困惑するようなことはなかった。
……いや、正確には違う。
既に僕の直感は圧倒的な身の危険を感じ取り、コレがなんであるのかを理解していた。
心霊現象に違いない。それも、過去僕が経験したことのない最大級の現象が襲い掛かってきたのだ、と――。
それでも僕は『そこまでの出来事』を想定できてはいなかったし、もっと言えば認めたくなかった。こんなことが本当に起こり得るのかと?
だからだろう。僕は少しでもその場から遠ざかろうとアクセルを踏み込んだ。
原因は先程のT字路にある。そう願ったのだ。
だが現実はそうではなかった。待ってもくれなかった。
ハンドルを握る僕は、どうにか運転に集中しようと前方を睨みつける。が、何故か頭部が後方に引っ張られていくのだ。
上手く説明することは難しいが、急発進の加速時に経験する慣れた感覚ではなく、僕の意識を刈り取る意図が込められた違和感が、一秒ごとに増していった。
――これ以上の運転は危険だ。
そう考えた僕は、路肩に車を緊急停止させた。
ハンドルから手を放し、すぐさまエアコンのスイッチを暖房に切り替えた。
風力を全開にする。無論、窓は閉め切ったままだ。
熱帯夜が続く真夏の夜に、真逆の操作。
普通なら、絶対にそんな真似をするはずがない。が、僕には無理だった。寒くて、寒くて堪らない。身体中の震えを抑えることができなかったのだ。
けれども、そこまでしても尚僕の身体は、通風口から出る暖かさを感じることがなかった。
これ以上はヤバいかもしれないな、と思った。
時間にして数秒。
口を抜け出た溜息と共に、僕は気を抜いてしまった――次の瞬間。
『オマエノカラダヲヨコセ』
僕の頭の中に、その声が不気味に鳴り響いた。
同時に確信する。これは憑依だ、と。
これまでも僕は、幾度となく心霊現象と呼ばれるものに遭遇してきた。
その都度、耐え難い恐怖に襲われながらも、なんとか自分の意識を保ってきた。
しかしこの瞬間は、そんな過去の経験でさえ、何一つ意味をなさないほどの恐怖に直面していた。
心霊現象=怖さ、ではあっても、そこに『死』を意識したことなんてない。
これは全くの別物だ。
とてもじゃないが、心霊現象などという言葉で扱いきれる代物ではなかった。
そうだ。『死』と表現する以外、喩えようのない恐怖。
まさに今この瞬間。一瞬でも気を抜いてしまったら……。
その先に待っているのは避けようもない死だという確信があった。
だから言った。僕はあえて声に出した。
「駄目だっ! 絶対に駄目だ! 自分の意識をしっかり保て! 絶対に負けちゃ駄目だ!」
僕は自身を鼓舞するように叫ぶ。
焦りを、不安を打ち消すように声を発し、また自らの声を耳から受けることによって、僕は自分の意識と存在を感じることができた。
それでも尚、身体の震えは止まらない。
暗い車内。ヘッドライトが照らす道。助けなんて何処にもいるわけがない。孤立無援の不安は増すばかりだったが、僕は決して絶望の沼地に足を踏み入れるわけにはいかなかった。
僕は叫び続ける。
「絶対に負けない! 俺は絶対に負けないからなっ!」
拳を握りしめ、震えを抑え込むように内側から闘志を燃やす。
僕は自身の身体を殴りつけた。
全力で頬を張り、胸を叩き、両腕両足に拳を打ち付けてく。
叩かれている感覚と、激しい痛みが、今この瞬間の自分が生きていると確信できる唯一の証に思えたからだ。
僕はがむしゃらに首を振った。
このままじっとしていても駄目だ!
根拠なんてものはない。ただ僕は、自分が圧倒的に不利な状況下にいることだけは理解できた。
先へ進むしかない。
停滞ではなく、行動そのものが僕に憑依する霊への抵抗であり、生きるんだ、負けないんだ、という意思表示であるように。
思い立った僕は、鞭を打つように自分の足を叩き、痛みを走らせる。
ハンドルを握り、きつく歯を食いしばり、アクセルを踏み込んだ。
信じるしかない。自分の身体が動くことを。自分が、自分をコントロールできることを――。
暗闇を照らすヘッドライトの視界を凝視するように、目を見開き、叫び続けた。
一瞬でも気を抜いたら負ける。脳裏を埋め尽くそうとする不気味な声を打ち消すように、「俺は負けない! 絶対に負けないからなっ!」と気合いを込める。
にもかかわらず、劣勢は変わらなかった。僕は何度も意識を奪われそうになる。その都度叫び続け、身体を痛めつけながら走り続ける。
『死』を隣り合わせに感じながらも、僕は必死に自らの『生』にしがみついていた。
『オマエノカラダヲヨコセ』
――俺は負けないっ!!
一分一秒がとてつもなく長く感じられた。
僕はもがき、抵抗を続けながらアクセルを踏んだ。
万が一でも事故を起こすことはできない。限界まで集中力を高ぶらせ、車を操作していく。
背後に気を奪われてはいけないと、自らが進むべき道を、前だけを見据え、走らせた。
そこまでしても僕は、何度目かのブレーキを踏んだ際、視界の端に気を奪われてしまう。
――!?
バックミラーだった。
そこには不自然過ぎる闇が映し出されていた。
後方の視界は勿論のこと、ブレーキランプの光さえも映らない。
そんなはずはない。思った僕が視線を前方に戻した時、あろうことか、目の前はバックミラーに映っていた世界と同様、漆黒の闇だった。
「うぉおおおおおおおー!!」
雄叫びを上げながら僕は、無我夢中でブレーキを踏み込んだ。
四輪が甲高く、けたたましい音を響かせ車を急停止させる。僕は額をハンドルに打ち付け、その反動で気を失いつつあった。
気持ちが落ちる……というよりは、魂が身体から抜け落ちていくような敗北感。
僕は負けるのか? このまま、何者かに身体を乗っ取られてしまうのだろうか。
……いや、まだだ、と気力を振り絞るように頬を叩く。僕は諦めなかった。
一度、二度、三度と頬を叩いた後、僕の目の前には、灰色に塗られた住宅の壁があった。
……危なかった。
しかし、安堵もつかぬ間、ため息をついた途端、再びあの恐怖が襲ってくる。
自分の中に存在する、何者かの存在。
認めたくはない。否、認めることは死を意味するのだ。
僕は三度気持ちを奮い立たせ、車を再始動させた。
必死に、必死に、自らの『生』にしがみつくように。ただ動き続ける身体と、残された自分の感覚だけを信じて――。
「行くぞ。行くぞ。行くぞ……」
そこから先は、家に辿り着くことだけを考えた。
根拠も確証もない。無事に帰還することができさえすれば、助かるのではないか?
そう願う気持ちだけが、僕の身体を突き動かしていた。
今、自らに起きている現象。
こんなこと、普通の人間に理解しろと言う方がどうかしている。
ただ自分の身体を叩き続け、自身の存在を守るように、名前を連呼しながら走り続ける。
「絶対に負けないぞ! 俺は十羽、黒田十羽だ! 俺の身体は絶対に渡さない! 誰にも渡さない! 絶対に負けないぞっ!!」
自分の『生』の限界を感じながら僕は、走り続けた。
僅かに残る、『生』の切れ端をたどるようにして……。
そして、見覚えのある駐車場に辿り着いた時、僕は身も心もボロボロの状態だった。
痛め続けた身体。
叫び続けて枯れた声。
一切の余力は残されていなかった。
車を停止させ、サイドブレーキをかけると同時に、僕の意識は何かに惹かれるようにして、ゆっくりと沈んでいった……。
瞼を閉じながら……次に目を開けた時、それが僕であることを祈ろう。
それが僕にできる、最後の抵抗だった。
気が付くと、目の前には明るみを帯びた景色が広がっていた。
ああ、そうか。辿り着いたんだったなと、半ば放心状態のまま、その光景を眺めていた。
ぼんやりと回復する意識の中で、僕は記憶に残る出来事を回想していく。
「あれは、現実だったのか……」
僕はバックミラーに手を伸ばした。
鈍い痛みに顔を歪めると、そこには、随分と酷い顔をした男が映っていた。
鏡越しの男に視線を合わせ、続ける。
「俺は黒田十羽。生年月日は……」
生まれてから歩んできた道程。その全ての記憶を辿ることで、そこに映っている男が誰なのか? 知ることができるような気がしていたのだ。
そして、シートに埋もれた身体を起こそうとした時。
「――痛っ!」
僕の全身が悲鳴を上げた。
ああ、そうか。と苦笑いを浮かべながらも納得する。
我ながら、なんてことをしていたのだろうか。
どれほど憎い相手と喧嘩になったって、あれ程の暴力は振るわないだろう。
けれども、その痛みを感じながら僕は、それが生きている証に思えて幸せだった。
「生きている。……俺は確かに、生きている」
ミラーに映る酷い顔の男が呟き、ハニカミながら、ゆっくりと目を閉じた。
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【エピローグ】
あの晩、身体に取り憑いたものの正体は、今でも僕にはわからない。
僕が生きたいと執着した気持ちに根負けして、出ていったのか?
ただあれ以来、僕は霊感と呼ばれるものが、以前より強くなったような気がする。
本音を打ち明けてしまえば……。
今でも僕の中に、あの晩の何者かが眠っているのでは?
と、考えるときもある。
そう。今この瞬間の僕自身が、僕ではない誰かである可能性さえ否定することはできない。
それ程の経験を味わったのだから――。
最初は絶対に信じたくなかった世界かもしれない。
勿論、見たこともない人にとっては、信じることのない偽りの世界でいい。
それでも……。
一度でも『その存在』を知ってしまった時、貴方は戻ることができるのでしょうか?
本当の恐怖は貴方のすぐ傍に存在します。
その入り口は……。
いつも、貴方のすぐ後ろで開いているのだから。
【完】