第三話 【浴室】
今日、麻美はどうしても調べたいことがあった。
このマンションへ引っ越してから二ヶ月。
新しい生活にもすっかり慣れたはずだったが、先日、友人と話した会話のやりとりから『アレ』がずっと気になっていた。
「――ねぇ、健二。お風呂の天井にある窓みたいな奴って何?」
「あー、アレね……」
アレがどうかしたの? と床に寝ころびながら健二は答える。視線はテレビに向けたままだ。
「どうかしたのじゃなくて。アレは何なのって、こっちが聞いてるんでしょ!」
話半分上の空。まるで興味などなさそうな態度を取る健二に向かい、麻美は詰め寄るように語気を強めた。
「どうしたんだよ、そんなに怒って。ただの点検口だろ」
健二は幾分煙たそうに振り返る。麻美は性格上、短気なところがある。が、高校時代から三年以上の付き合いになる間柄、こんなやりとりも珍しくはない。
「点検口?」
「そうだよ。何かあったときに点検するための入り口な」
「何かあった時って、どんな時?」
元来、麻美は細かいことが気になる性格をしている。但し、自身の興味が及ばない範囲であれば全くと言っていいくらい、どうでもいいことも多々あった。
そんな麻美の性格を熟知している健二は、舵を切る。
「っていうか、麻美なんでアレに気がついたの? まぁ、今さらなんだけど」
「えっ、なんでって言われても……。昨日の夜、お風呂で半身浴してた時に、上を見上げたらあったから」
「っておい! 麻美。お前、まさか引っ越してから今まで上を見たことなかったのか?」
「そんなことないよ。いや……と思うんだけどなぁ」
麻美自身、それは不確かな記憶だった。
「へー。じゃあ、なんとなく昨日それに気付いちゃって、それから気になってしょうがないんだ」
意味深なフリ。まるで健二は面白いネタでも見つけたように目を輝かせていた。
「それってあれじゃね? ほら、アイツの言ってた話。ある日、何でもないことが突然気になりだして頭から離れなくなる……」
「ちょっと健二ったらっ! 何気持ち悪いこと言ってんのよ」
手遅れである。既に麻美はその話を思い出していた。
その話とは。
普段、何気なく生活を送っている中で、それまで何ともなく思えていたことが、突然気になりだしてしまう現象。例えば、天井の汚れや、部屋に飾ってある物の向き、壁に貼ってあるポスターの裏側が、どんな状態であったか、など。
特段気に掛ける必要もないことが、何かのきっかけで、ふと頭の中に印象深く刺さってしまうこと。
「アイツは言ってたよね。そういったことが気になりだした時、それがこっち側への入り口だって。そして……」
「――もういいっ! やめてっ!」
麻美は眉根をきつく寄せ、健二の話を遮った。その話の続きなんて、聞きたくもなかった。
なによりも麻美は、「アイツ」の話が嫌いだ。
だって、幽霊とか霊界なんて話、いったい誰が信じるっていうの。
健二も私がその手の話が苦手なことを知っていながら面白がってる。本当にタチが悪い。
麻美は一見すると短気で、気の強そうな性格に見られがちだ。けれども実態は正反対。人一倍臆病な性格だった。
「まぁ、そんなに気になるんだったら、自分で中を確認してみたらいいんだよ。どうせ覗いてみたところで何もないんだし」
その方が心配性の麻美も安心するでしょ――と、健二に皮肉られるかたちでその会話は終わった。
そして今日。
先日から続いているこのモヤモヤ感を、どうにかして断ち切りたい。そう決心した麻美は、行動を実行しようとしていたのだ。
否、たかが点検口の確認。「決心」といえば、随分と大袈裟な響きになる。それでも臆病な麻美にとっては、一大決心に近い大それた行動。究極の選択は結局のところ、やるしかない、に傾いた。
「こんなことになるんだったら、あの時、健二に頼んでおけば良かった」
付き合いの長い健二は別として、大学で出会った仲間には、麻美=気が強い女子のイメージを持たれていることが災いとなった。当然、こんなことを頼める相手もいない。
あれ以来、天井が気になってのんびりお風呂に入れなくなっちゃったんだから。今日こそは……。
既に心拍は上がり、自分が暮らす空間自体が何やら不穏な雰囲気を漂わせている。それは錯覚に違いない。けれども麻美は、完全に否定できるまでのメンタルを持ち合わせてはいなかった。
恐る恐る、浴室の扉を開ける。左手には懐中電灯を握り締めている。
「健二はただの点検口って言ってたけど……」
一歩足を踏み入れた先は、普段通り、何の変哲もない浴室に違いない。しかし、その一点だけはどうしても異質に映る。それこそ、異世界への入り口ではないかと想像できるくらいに。
「女子の一人暮らしに梯子なんてある訳ないでしょ」
誰にでもなく愚痴を零すと、麻美は浴槽の縁に足をかけ、バランスを取るように伸びあがった。
右手は天井を支え、左手に持った懐中電灯のスイッチを入れる。
明かりを確認し、懐中電灯の先を点検口に付けた。気持ちを落ち着かせようと一呼吸する。
唇を噛み、そのまま押し上げようとした、次の瞬間――。
突如、部屋から音が鳴り響いた。
驚いた麻美は、バランスを崩して足を落とす。
そこで耳が拾った音に、なんだよ――と溜息をついた。正体は携帯電話の着信音。
「全くもう。こんな時に電話してくるなんてタイミング悪い奴だな」
間の悪い呼び出しに、口をとがらせる。
とはいえ、臆病な自分を情けなくも感じながら、テーブルの上の携帯電話を手に取った。
「あれ……、切れちゃった」
画面が表示していた番号に記憶はない。そもそも登録のない番号からかかってくること自体が珍しい。
「誰だろ? 全然知らない番号だった」
間違い電話かな? 麻美は首を捻り、携帯をテーブルの上に戻した。
気を取り直し、再び浴室に戻ったところで絶句する。思いがけず麻美は、一歩、後退りをした。
「……どうして、開いてるの?」
僅かだが、点検口の蓋が浮き上がり、横にズレている。中の空間が少し顔を覗かせている。
先程の電話に驚いた時、自分でズラしてしまったのだろうか?
記憶はない。しかし、自分でやったのだと納得しなければ、それ以上の理由が思い当たらない。
そうだよ。私がやった。私が自分でズラしたんだ。
麻美は自身に言い聞かせ、手にした懐中電灯の先端を暗闇に向けた。
「ここからじゃよく見えないなぁ」
やはり、中の様子を伺うには無理がある。仕方なく麻美は、先程と同じ要領で浴槽の縁に立った。
よし、と呟く。二度目のチャレンジということもあり、気持ちの調整も悪くはない。できる気がする。
こういうのはタイミングが大事なのよ。勢い良く、一気にいかないと逆に怖いんだから……。
せーの、で押し上げ、そのままの勢いで蓋をズラした。と同時に麻美は目を細める。
ごくり、と喉を鳴らした。
薄暗く、けれど奥行きはさほど感じられない。視線の先を照らしてみるが、電気の配線らしきものが見えるだけだった。やはり全体像を掴むには頭を押し込まなければならない。
できるのか? と問いかける。
――いや、やめよう。これ以上は意味がない。
麻美が想像するようなスペースがないことが確認できた。それで充分だ。これはただの点検口。何も怯える必要はない。
「ね、私の考え過ぎってこと。健二があんな話をするから、余計に怖かっただけ。ただの点検口でした。はい。これで終了」
麻美はあえて声に出すことで自分を納得させる。
「今度はちゃんと閉めないとね」
疑問も不安も全ては杞憂に終わった。麻美は蓋を元あった状態に戻すと、先程まで背負っていた緊張が、嘘のように解けていった。
「ちょっと汗かいちゃったかな」
鏡の中の麻美は、額に薄っすらと汗をかいていた。けれど問題は解決済み。この先は何の気兼ねもなく、お風呂を堪能できる。半身浴も良いが、今はしっかり湯船に浸かりたい気分だった。
それにしても……。
何故、自分はこんなことであれほど怖がっていたんだろう。
麻美は湯船に肩を沈めながら、ボーっと考えていた。今はもう、天井を見上げることにだって抵抗はない。
いや、そもそも健二の発言が悪い。
あんなタイミングで「アイツ」の話なんてしないで、点検口のことをきちんと説明してくれたら、こんなことにはならなかったはず。麻美は全ての責任を押し付けるように、怒りの矛先を健二へ向けていた。
はっきり言って、「アイツ」のことが麻美は苦手だ。
普段から人に優しい雰囲気を漂わせながら、時に平然と人を恐怖に陥れるような話をする。
無論、怖がっているのは麻美だけなのかもしれないが……。
だから思う。
「こうなったら、健二に文句のひとつでも言っておかないとね」
声に出し、麻美は髪の毛を洗うため湯船を出た。
鏡の前に映る自分を見て、ふと感慨深くも思う。
健二は自分のことを、どう思っているんだろうか、と。
実際のところ、健二と麻美の関係は恋人同士という間柄ではない。
過去にそれらしき関係がなかったのかといえば嘘になる。が、それ以来、麻美の思うような関係には進展していないのが現状だった。
「素直じゃないかな?」
鏡の中の自分に問い掛け、少し苦笑いを浮かべてからかぶりを振った。雑念を洗い流すようにシャワーを浴びる。
と、次の瞬間、麻美は自分の背中に微かな違和感を感じた。
なんだろう?
背後を風のような流れが通り抜けた気がする。
麻美はシャワーヘッドを手に取ると、奇妙な感覚を洗い流すかのように、背中へ向けた。
気のせいかな?
背中にシャワーの温かさを受けながら、鏡の中を確認する。
無論、鏡に映る自分の姿に変化はない。
「ほんと、駄目だな、こんなに怖がりじゃ……」と、臆病な自分に嘆いた瞬間。
「!?」
今度は背中を伝っていく、冷ややかな流れを確実に感じ取った。
麻美は肩を竦ませる。シャワーを浴びながらにして、全身が総毛立っていた。
……今のは気のせいじゃない。
もう一度、今度はゆっくりと見上げるようにして、鏡の中の自分と目を合わせた。
そして、徐々に身体を横に傾け、背後の扉を確認する。
閉まってる……。
麻美は願っていた。その扉が開いている可能性を。
扉が閉まりきっていなかった。だから必然と空気の流れが起きていた。そんな淡い期待を帯びた麻美の行動は、脆くも崩れ去った。
どうして?
そこが開いてなかったら、どこから風が入ってくるっていうの?
どうしたって麻美は、自分が置かれている状況を把握できない。その恐怖に縛られ、身動きが取れなくなっていた。
そして……行き着く。
今、考えられる状況の中で、麻美は自分が考える、一番向き合いたくない事実に辿り着いてしまう。
嫌だよ……、あそこは、あそこだけは……見たくない。
――点検口だ。
可能性はそれ以外に考えられなかった。
わかってる。……けど、だけど、もう、見たくない。見れないよ。
熱いシャワーを浴び続け、それでも震える身体を抱えこむように、下を向く。
そこで絶望的な事実が思い起こされる。
『今度はちゃんと閉めないとね』
それは……麻美自身が口にした言葉。
更には、麻美自身を恐怖のどん底へと導いていく記憶。
間違いなく、閉めたはずなのに……。
変えられぬ現実に、逃げ道を失う。
シャワーを持つ手が震え、床に触れる足裏の感覚が途切れ途切れになる。
恐怖の限界が、口を開けた。
「……んっく」
嗚咽が漏れた途端、麻美はシャワーを投げ捨てた。
「もう、嫌っーーーーーーー!!」
絶叫と共に見上げた視線。
……その先で。
暗闇の隙間から、真っ白な手を差し出し、麻美を見下ろす姿があった。
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【回想】
『金縛り』の経験が僕にはある。
稀に仕事で疲れきった状態で寝てしまったりすると、深夜、ふと目覚めた瞬間に全身が動かなくなる。
それは問題ない。霊的なものとは一切関係のない疲労感の表れだと理解できるから。
問題なのはこっちのケース。
目が覚めたとき、そこが異質な空間だと認識してしまった時。
そこに……彼らがいる。
彼らの存在を確認し、襲ってくる恐怖から逃げ出したいと考えた途端。
僕の身体は動かなくなる。
彼らが何をするのか?
暫しの間、迫りくる恐怖と戦いながら、僕は指先に神経を集中させ「動け」と念じる。
だけど、ね。
金縛りが解けるのは、その少し、先の話。
「そして、その何かに気づいてしまった時、それは彼らも同様に、貴方の存在を近くに感じた時だから注意して――」
健二は、こう続けたかったのに……。
そういえば、麻美の言っていた『アイツ』っていうのは、誰のことなんでしょうね?