第二話 【インターホン】
「あーあ。やっぱり高志にも手伝ってもらうんだったな」
麻里はこれでもか、という具合に背伸びをする。
陽はすでに暮れ、時刻は十八時を回っていた。麻里は頭をゆっくりと回し始める。長時間の力仕事で凝り固まった首周りの疲れをほぐすと、目に止まったチョコレートを一粒、摘まみ上げた。
朝方から始まった引越しも、ここにきてようやく目途が立ってきた。
念願叶っての一人暮らしは、ひと足先に大学生となった彼氏を追いかける格好での上京。
あの……キツイ受験勉強も、高志との生活を夢見たからこそ頑張れたと言っていい。
本音を言えば、すぐにでも同棲したかった。
それでも、流石に卒業前から「同棲します」なんて言ったら、絶対にお父さんは許してくれない。
そもそも、一人で暮らすことにだって大反対された。母を味方に付け、攻略に掛かった期間は半年以上。受験並みのハードルの高さだった。
……全く、娘を愛してやまない父親ってのもね。
麻里にとって、父はとても大切な存在である。
ここまで育ててくれた事、これから生活する上での学費や仕送りなども含め、一家の大黒柱である父の存在は途方もなく大きい。
だからこそ、恐るべきは恋愛のパワーと言っておきたい。父への愛情と同じくらい、高志への愛は深い。それ故のわがままであったと自分に言い聞かせている。
結局は、父の勤務先が都内だったことが幸いし、それを理由に、どうにかこうにか説得できたのだ。
そんな父に対し、麻里は『高志』という彼氏の存在をひた隠しにしてきた。
勿論、母は知っている。正直、母の内緒がどの程度の効力を持つのかは別として、父の口から、直接彼氏の存在を聞かれたことはなかった。
ごめんね、お父さん。私は幸せになることで絶対に恩を返すからね。
幾分都合の良い発想にも思えるが仕方ない。麻里の気持ちは自分でもわかりすぎるほど浮かれていた。
「さて、もう少し片付けちゃわないとね」気持ちを入れ直して、麻里は残りの荷物に手を伸ばす。
――ピンポーン。
インターホンが鳴り、麻里の目は反射的に玄関を見た。
「……あれ? 高志、じゃないよね。今日はバイトで来れないって言ってたし。お父さん達、戻ってきたのかなぁ」
突然の来客に戸惑いつつも、麻里は玄関に足を向ける。
片目を閉じ、ドアスコープを覗き込むが、その先に人の姿は確認できない。
「なんで? 誰もいないじゃん」
何よ、引っ越し早々に気味が悪い。
思いながらも麻里は、持ち前の好奇心が邪魔をする。鍵を開け、チェーンの隙間から外の様子を覗き見た。
目に映る範囲に人影はない。物音もしなかった。
「やっぱり誰もいないや。だけど引越し早々に悪戯なんてあるのかなぁ」
何だか嫌な感じ。
麻里はスマホを手に取ると、高志の番号を呼び出した。
「――もしもし」
声を出した途端、耳元の素っ気ない機械音に肩を落とす。
「このタイミングで留守電って、ある?」
麻里はスマホを放り投げ、ソファに座り込んだ。
脱力し、ふと見上げた視線の先に、薄い笑みを漏らす。そこには、壁に備え付けられた玄関モニターがあった。
「そうだった。ここってモニター付きだったんだよね。全く、私ったら……」
物件を探しているときに、とりわけ父が拘っていた部分が、あの玄関モニターであったことを思い出す。防犯対策は最優先。父の顔がそう繰り返す。
「これだからみんな、私が天然だっていうのかな」
その翌日。
昨晩、電話口で散々事情を聞かされた高志は、バイトの合間を縫って麻里の部屋を訪れた。
まるでデジャヴのような説明を受けた高志は、「近所の人の押し間違いか、新聞の勧誘とかだったんじゃないの」と「何かの間違い」を強調しては麻里を安心させ、「気にすることはないよ」と連呼しては麻里を宥めていた。
「――じゃあさ。オレ、もうバイトに戻らないとヤバいから!」
「えー。ちょっと、もうちょっとだけ。まだ大丈夫でしょ? せっかく来たんだからもう少し居てよぉ」
ここは誰にも邪魔されない二人だけの空間。憧れていた関係のスタートとはかけ離れていたが、それでも麻里は、甘えるように、高志を引き止めようとする。
「ごめん。マジでヤバいから! なっ。明日。明日はバイトが五時で終わるから、夜はずっと一緒にいられるよ」
そう言って去り際にキスをすると、足早に通路を駆け抜けていった。
麻里は若干、取り残された自分に寂しさを覚えながらも、「よし! なら明日は手作りのフルコースでも作っちゃいましょうか」と気を持ち直し、買い物にいく支度を始めた。
ひと通りの買い物を済ませ帰宅した麻里は、玄関の前で立ち止まると、おもむろにインターホンのボタンを押してみた。
「ピンポーン」と悪戯っぽく声に出し、耳を澄ませる。防音が効いているせいか、音は聞こえない。
なんだ、誰かいたら面白いのに。ま、いなくて当たり前。
麻里は少し子供っぽかったかなと自嘲し、鍵を挿す。
が、次の瞬間。
「オ、カ、エ、リ」
――声だ、と思った麻里は、驚きのあまり背後の壁に腰を打ち付けていた。
衝撃で放した買い物袋から、飛び出た中身が散乱する。
何!?
声、じゃなかった?
麻里は呆然と玄関を見つめる。
……空耳、なの? だけど、確実に「おかえり」って聞こえた気もする。
何が何だかわからなかった。
だってそうでしょ。誰もいるわけない。いるわけないのに、どうして声がするのよ。
麻里は首筋を弄るような不快感に身を強張らせる。
額には薄っすらと汗をかき、心臓が驚くほどの早鐘を叩いていた。
ねえ、誰よ。誰がいるっていうの?
存在しないはずの何かがいる。得体の知れない何者かが、自分の部屋に。
麻里は玄関を見据えながら、壁を擦るように身体を移動させ、ゆっくりと遠ざかる。
「――麻里っ!」
反射的に振り返った先を見て全身の力が抜け落ちた。そこには、スーツ姿の男が立っていた。
「おい、そんなところで何をしてるんだ?」
「お父さん」
父の胸に抱えられ、麻里は心底安堵した。
それから数時間して、麻里はようやく本来の落ち着きを取り戻していた。
あの時、あのタイミングで父が来てくれなかったら、自分は今も恐怖に怯えていたに違いない。否、瞬殺の里帰りを果たしていたはずだ。
心配性の父が家中を隅々まで確認し、何処にも人がいないこと、怪しい痕跡もなく、不信な点がないことを確認してくれたからこそ、麻里は冷静を取り戻すことができた。
「今日は泊まっていってもいいぞ。お父さんはどこでも寝れるからな。そのソファで十分だから」
父は声は相変わらず心強い。
「ありがとう」
普段は口煩いのが九割の父。けれどその存在が、今日はとても有難く思えた。
結局、翌日の朝を迎えても不可解な出来事は何も起きなかった。
引越しや、急な環境の変化で疲れていたのかもしれない。
麻里はそうやって自分に言い聞かせる程度に、昨日の出来事を消化することができていた。
朝、仕事へ向かう父からは「まだ入学式まで、数日はゆっくりできるんだから、あまり無理はするなよ。何かあったらすぐに連絡しろ」と、一人になる娘を気遣うように、温かい言葉を掛けられた。
もう、今日はゆっくりと過ごそう。
そう決めた麻里は、お気に入りの洋楽を聴いたりしながら、午前中は時間の経過を気にすることなく、自適なひとときを過ごしていた。
そして、窓から差し込む西日もだいぶ落ち着いてきた頃。
麻里はまだ使い慣れないキッチンの脇に立ち、スープの味見をしていた。文句の付け所もない完璧な味付けもさることながら、頭の中では、その後の展開を予測している。これを飲んだ高志は何と言うだろうか?
――ピンポーン。
その音に微かな違和感を覚えたが、時計を見て確信する。これこそ、待ち焦がれたチャイムの音に違いない。
麻里はIHのスイッチを切り、踵を返す。
おっと、モニターを確認しないとね!
方向転換しながら、父はもちろん、高志からも、しっかり玄関モニターを活用するようにと念を押されていたことを思い出す。大丈夫。今度は忘れてない、と。
だが、麻里の期待値は一瞬で弾け飛んだ。
「……あれ? 高志、じゃないよね」
麻里は怪訝な表情を浮かべ、モニターを睨みつける。
「……誰だろう」
名刺サイズのモニターには、帽子を目深に被り、コートを着た男の姿が映っている。
どう見たって高志には見えない。
「どなたですか?」
麻里はボタンを押し、モニター越しに問い掛けた。
「……………」
反応はない。
「どなたですか?」
もう一度、今度は先程よりも大きな声で問い掛けてみる。
だが、麻里の声が届いていないのか、モニター越しの男に動きはない。それに加え、静止画を見ているような違和感が、麻里の背筋を緊張させた。
なんなのよ、もう。誰なの。
「そもそも、このモニターって何でこんな色してるの? 普通はカラーで映るものじゃないの?」
映像は薄暗く、ダークブラウン一色と言っていい。
壊れてる? だからこっちの声も聞こえないのかな?
麻里は眉間に皺を寄せ、何度も首を傾げながら、相手の反応を待った。
「どちら様ですか? 聞こえてますか?」再び声にしてみるものの、映像の姿は微動だにしない。
「嫌だ。また変なことが起きるの?」
そう声を漏らすと、昨日の出来事が蘇り、目の前の現実に重なった。
昨日、一昨日と連続して起こった不可解な出来事。これで三日連続になる。
思った途端、麻里の脳裏にその音が飛び込んできた。
――ピンポーン。
麻里はしゃがみ込み、頭を覆うようにして耳を塞ぐ。
――ピンポーン。
――ピンポーン。
――ピンポーン。
チャイムの音は繰り返し鳴り響く。
――ピンポーン。
画面の中の男は動かない。
――ピンポーン。
画面の中の男は動かない。
――ピンポーン。
――ピンポーン。
麻里がどんなに耳を塞いでも、チャイムの音は頭に侵入してきた。
「しつこいな! もうっ! いったい何だっていうのよっ!」
麻里は頭を掻きむしり苛立ちを爆発させた。突然、何かを吹っ切ったように、玄関へ駆け出す。
ドアスコープも確認せず二つのロックを外すと、力いっぱいにドアを押し開けた。
伸び切ったチェーンが鈍い金属音を鳴らす。ドアノブを握る麻里の手にも、激しい振動が伝わった。
……が。
先日と同じ。やはり人影らしきものは感じられなかった。ただ、灰色に塗られた通路の壁が見えるだけ。「誰かいるんですか?」と声を出し呼び掛けるも、反応はない。勿論、あの男の姿は、ない。
「どうして誰もいないのよ」
ドアを閉めた麻里は、力なく、やり場のない怒りを吐き出した。
ただ不気味で、不穏な空気が塊となって両肩に圧し掛かかり、その場に腰を下ろした。
悪戯にしてはタチが悪い。いや、悪戯にしては手が込みすぎている。
だけど、これが悪戯や気のせいじゃなかったら、なんだっていうの?
モニターの中には、確かに男の姿が映っていたはずだった。
それがどうして誰もいないのか、あの男はどこへ行ってしまったのか?
疑問ばかりが募り、麻里の脳内に、男の姿を繰り返し再生させる。
……駄目だ。これ以上はもう、頭の中が変になりそう。
息は荒く、溜息も、切れ切れになっていた。汗ばんだ背中に首筋を冷やされる。
いったいあれは誰なの?
なんの目的があって?
なんであたしの家に?
男の存在を肯定しながらも、けれど出口にない現実に苛立ちを募らせる。
答えなどない。あるはずもない。
だからこそ、言い聞かせるようにかぶりを振った。
何もない。何もないよ。
そうやって否定することで、麻里は現実のあるべき場所に帰れるような気がした。
大丈夫。これは気のせいだ、と。
強く、言い聞かせるように念じると、額の汗を拭った。
気がつけば、随分と喉も渇いている。
冷たい水が欲しい。
もうすぐ高志も来てくれるはずだ。
気を取り直し、ゆっくりと起き上がったその先に、ドアスコープがあった。
一瞬、先程までの恐怖が蘇りそうになる。
麻里は唇を噛んだ。
大丈夫。
誰も、いない。
言い聞かせることが現実になると信じて、麻里は穴の先へ視線を移した。
……。
…………。
やっぱり、誰もいない。
胸を撫で下ろした麻里は、後ろを振り返る。
そこには。
「オカ……エ、リ……マッテ、イタ……ヨ」
帽子を目深に被った、あの男が立っていた。
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【回想】
初めは何も怖くなかった気がする。
夏休みを利用して母の実家へ泊まりに行くことが、毎年の恒例行事となっていた。
そして、お盆の夜に僕はそれを見る。隣で寝ていた祖母が、必ず僕を起こすから。
「ほら、見てごらん。あれがお爺ちゃんだよ」
僕は眠い目をこすりながら、仏壇に吸い込まれていく「お爺ちゃん」と呼ばれる『白い何か』を見ていた記憶がある。
――そう。
この毎年の出来事が「現実」だということを、小さな僕はまだ知らないでいた。
その場に残る誰かの念。
何を伝えたいのか。何を気付いて欲しいのか?
麻里さんが垣間見た恐怖。
残念ながら、僕と同じ道へと迷い込んでしまったのですね。
気のせいだったら救われたのに。