第一話 【階段】
「もう少しだな」
ひとつため息をつきながら、時計に目を向ける。
気が付けば、今日も日付は回っている。
まぁこの仕事をしている限り、こうしたことは日常茶飯事。何も珍しくない。
出版に携わる者で、「締切」という期限が存在する以上、それに間に合わせる為に、昼夜関係なく働くことは、ごくごく当たり前のこと。ブラックなんぞどこ吹く風だろう。
仮にこの仕事が日々定時で終わるなら、この世に存在する大半の雑誌は、不定期発行となってしまう。
残業なんてルールは、「締切」と戦う人間にとって、なんの意味も持たない言葉なのだから。
「さて、と。あと二ページ終わらせたとして、帰るのは一時半くらいかな」
製作部で全体のページデザインを担当している佐伯にとって、締切り間近のこの時期に、早々と帰宅できるなんてことはない。これがいつものペースだった。
「これでよし」
予定の作業が終わったところで、再度、やり残しがないかを振り返る。
ひと通りデスクの上に目を通し、明日の段取りを確認すると、パソコンの電源を落とした。
【節電】と張られた紙の横にあるスイッチを全て切り、ひとり会社をあとにする。
車での帰宅途中、コンビニに寄って、随分と遅くなった夕食を買う。
「食べて、風呂に入って……」
今日の睡眠時間も三時間程度といったところか。
佐伯は、そんな独り言を口にしながらアクセルを踏み込んだ。
佐伯は母親と二人で暮らしている。
都心から少し離れた場所にある、集合団地の七階部分。
多少、建物は古くなっているが、部屋の窓から見える景色を気に入っていた。
夜景と言い表すには大袈裟かもしれないが、深夜になって、点々と灯されている街の明かりを見ると、不思議と気持ちが癒されていくのだった。
――あれ、こんな時間に。
団地の中央にあるエレベーターの点検なのであろう。
業者らしき制服を着た男が頭を下げてきた。
「お疲れ様です。今お帰りですか。お疲れのところ申し訳ないのですが、事前にご案内していた通り、今日は夜間点検の日でして……」
そういえば、今朝、出掛けに母がそんな案内が家にも回ってきたと言っていたな。
まぁ、出入りの多い昼間にやるよりは、この時間帯ということか。
「お互い大変ですね」
そう言って、佐伯はねぎらいの言葉をかけると、階段へと足を向けた。
「しかし、仕事帰りに七階まで階段を上って帰宅とは」
学生時代はサッカー部で鍛えた足腰も、長年のデスクワークですっかりと衰えた。
三十歳を目の前に控えた佐伯にとって、七階までの道のりは、容易い「トレーニング」とは言い難い。
足取りを確認するように階段を上っていると、三階のフロアにさしかかった時、ふと、あることに気がついた。
――この階段を上るのも何年ぶりだろうか?
すぐに思い出せないほど前のことだったか。佐伯は、一段一段歩みを進めながら、頭の中で過去の記憶を遡っていた。
けれどこうした時、人間は頭の中の情報に集中しすぎると、目の前の状況がおろそかになる。
こんなところで躓くわけにもいかない。
佐伯はかぶりを振ると、段差を確認しながら上の階を目指した。
そして、次の階へと視線を向けた時、佐伯の意識は『その空間』へと吸い込まれた。
――なんだか薄暗いな。
五階へ向かう踊り場にあるその灯りは、そこだけ電球が古いのか、明らかに本来の明るさではないように感じられた。
そのせいだろうか、佐伯はある場所が妙に気になっていた。
本来、踊り場を折り返した先は、佐伯の立ち位置からはブラインドとなって見えない。
しかし、見えるはずもない、その先の空間が妙に気になる。
――こういうのって、苦手なんだよなぁ。
元来が臆病な性格の佐伯は、怖い物の類があまり得意な方ではない。
が、だからと言って「幽霊」のようなものを見たことがあるわけでもない。
薄暗い灯りのせいだろう。本来の明るさなら、何も気になったりしないはずだ。
佐伯は、自分に言い聞かせながら、踊り場まで進んだ。
――ほら、大丈夫。
本当にそうだったのか、そう願いたかったのか。
佐伯の思いは、視線の先にある五階の灯りを確認する。
「んっ!?」
一瞬、呼吸が止まった。
その先の灯りを確認しようとした時、階段脇に、人影のようなものが映り込んだ。
同時に、背筋を冷たいものが流れていく。
「見間違い……だよな」
自分はいったい何に怯えているんだ。
否定し、背筋に感じた恐怖を打ち消しながら、佐伯は前に進もうとする。
が、その時。
佐伯は見てしまった。
階段に映る自分の影が、二つ存在することを……。
なんだ?
これも、オレの影なのか?
違和感は脳まで駆け上がり、恐怖に直結した。
と、同時に肌で感じる異様な雰囲気。
それは、佐伯が過去に経験したことのない恐怖だった。
それらの全てを感じ取り、佐伯の身体は、凍りつくように固まっていく。
次々と頭の中へ侵入してくる恐怖と、震えだす身体を必死に押さえつける。
そしてもう一度……。
二つの影に視線を集中させた時、佐伯はそれを感じとってしまう。
うしろ、か。
自身の背後に「何か」の気配を感じとる。
何かがいる。
オレの後ろに誰かいるのか?
勢いを増す恐怖に煽られ、佐伯の冷静さが削られていく。
震え続ける身体と、背後から襲ってくる恐怖に打ち勝つため、前に進もうと、強く気持ちを保とうとするが、意に反して、佐伯の足は一歩も動こうとしない。
尚も背後で感じ続ける気配――。
もはや、それが明らかに人間のものではないことはわかっていた。
しかし、その全てを否定するように、佐伯は自分に問いかける。
大丈夫だ! 絶対にそんなはずはない!
振り返ってみろ、絶対に誰もいない!
いるはずがない!
全ては気のせいだ、自分の心の弱さなんだ。と自身を鼓舞するように佐伯は訴えかける。
そして、高ぶる気持ちで恐怖を無理矢理押さえつけ、ゆっくりと、右の肩口から後ろを覗くように振り返った。
ほらな。誰もいない……。
視線の先には、薄暗い灯りと、その灯りに照らされる壁があるだけだった。
「よかった」
安堵の声が溜息と同時に流れ出る。
佐伯は仕切り直しとばかりに、息を大きく吸い込み気分を落ち着かせる。
やっぱり気のせいだったんだ。
胸を撫で下ろした後で、本来の自分を取り戻すように一度目を閉じた。
再び目を開き、階段を上ろうとした佐伯。
……が、その、右頬のすぐ隣には。
視線が合うことを待つように、瞳を大きく見開いた、ソレが待っていた。
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【回想】
暑苦しい熱帯夜も、幾分今日は寝苦しさを感じさせなかった。
「今日は早く眠れそうだ」
僕は、明日の予定を頭の中で整理しながら、眠りについた。
ふと、目が覚める。
どれくらい眠っていたのだろうか、定かではない。意識が現実に接続されると、そこで僕の直感が訴えた。
なんだろう? 何かが変だ。
その「何か」は明らかに違っていた。
これ、オレの部屋だよな?
そう自身が感じる程、それは違っていた。
――空気だ。
部屋の空気がおかしい。
おかしいと言えば不自然な表現になるのだが、確かにいつもとは違う。
冷たい。
否、冷たいというよりは、ヒヤッとした生ぬるさを纏う程度だが、それが重苦くも感じ、夏の夜にしては異質に感じられた。
そして、数メートル先に何かの気配を感じ、僕は、恐る恐るそこに視線を向ける。
そこには、茶色いコートを着て、うつむき加減に僕を見下ろす、年配の男の姿があった。
十九歳の夏の夜。
僕にとって、これが全てのはじまりとなった。
……。
……そういえば。
佐伯さんって、幽霊の存在を信じてなかったんですかね?
だから僕は言ったのに。
「絶対はない」ってことを。