17章:未知の世界への新章(プロローグ)
午後の日差しが差し込んでくる。
京都府立倉華高等学校。
そんな名前の学校、その教室、その窓際で。
「そうして火星を延々と観測し続けた結果から惑星の運動の規則性をまとめたのが、このケプラーの法則。教科書にあるようにケプラーの法則は第一から第三まであって…………」
軽快に響く男性教師の声を、頬杖を突きながらノートに写していく。生徒に対して本気で向き合うかと思えば坊主頭をネタに自虐ボケもかます、個人的にも気に入っている先生だ。
先生の解説に合わせてケプラーの法則に下線を引張り、文章の傍らにある楕円のポンチ絵を四角で囲んだ。
───ふと傍目に、澄み渡る青空を見上げる。
かつて。
このポンチ絵のように世界を見下ろし、星と星の距離や軌道なんかに思いを馳せた人がいたのだろう。
まして視界にすら映らない力を思い描き、その大きさを測ろうとまで考えた人がいたのだろう。
数多の天才が、数多の才を持つ人が、いろんな世界を見てきたはずだ。
それでも。
未だ机上の空論、数式上の仮定の枠を出ない平行世界に体ごと転がり込んだ人間は滅多にいないだろうと思う。
電子の概念が全く別のものにすり替わっているなど知られれば、化学分野や電磁気力あたりの界隈が大いに賑やかになる。
体から電気を放って同じく炎やら水やら出す同級生と研鑽に励んだ、などと言った暁には科学者が知恵熱で脳を沸かすに違いない。
───もっとも。
(まぁ、信じるわけないか)
午後の授業に意識を戻し、今度は面積速度一定の法則に下線を引いた。
2015年4月27日、春の陽気が満ちるこの頃。
この世界に戻って来てから、7ヶ月が過ぎていた。
午後の授業をひと通り完遂し、放課になった。
今の時期は部活動の勧誘活動期間の終盤。チラシを配っている人でごった返していたのが時間を経てまばらとなっており、グラウンドでは体験入部で入ったと思われる新入生の体操服の、白さが眩しい。
そこを一陣の風がそよぐように、活気に満ちた喧騒を金色の髪が尾を引いて駆け抜ける。
髪の流れはひとりの少年の前で止まった。
「おまたせだぜヒロくん!」
「誰口調だよそれ…………」
「ふふん、何を隠そう私こそ気分上々の由梨香さんなのです!」
「随分気分がいいのな」
「当然!ようやっと役員の仕事が落ち着いたからね、これでまたヒロと一緒に帰れるよ!」
「それは良かった。お疲れさまでした」
「にへへ、やった!」
ぽんぽん、と肩に手を置いてやると由梨香の顔がふにゃりと緩んだ。
ふたりは現在高校三年生。そして、彼女───巳島由梨香は倉華高等学校の生徒会長を勤めていた。
勉学の部分で多少の難があるものの、一流企業のご令嬢、学年屈指の元気印、努力にひたむきな姿勢、何事も恐れぬ果敢な行動力。彼女が生徒会長に立候補すれば生徒や教師に不満はほとんど挙がらず、学校創立史上例を見ないほど圧倒的な得票率での当選となった。
四月に入ってから年度替わりに伴う諸々の仕事が重なって生徒会はその処理に追われていたが、本日をもってそれがようやっと落ち着いたというわけである。
「ねぇねぇ、折角だからなにかデザートを食べに行こうよ!疲れた頭とくたびれた心が糖分とクリームを求めている!」
「あぁいいぞ。会長様はお疲れのようだし、折角だから今日は俺が出してやろう」
「ホントに!?」
由梨香の丸く大きな瞳にキラリと星が瞬いた。
「ぃよっし高いの食べちゃうからね!タワーみたいにフルーツてんこ盛りでチョコシロップかかってるやつ!あ、いやシロップはキャラメルにしてチョコチップを…………」
「それでもいいけど、その先しばらくの奢りは消えるぞ?」
「え、それってもしかして前倒しというか先払いというかそういう感じの…………?」
「生憎と財布の中身は有限なんだ。さすがにあれもこれも、ってわけにもいかない」
「えー会長の仕事頑張ったんだよ?」
「そこまで言うなら、もやしくらいなら奢ってもいいぞ?」
「もやしを奢られても虚しいだけだよ…………」
軽く頬を膨らませていたが、すぐに先程までの笑顔に戻っていた。さっきの高望みもただの冗談だろう。由梨香は奔放ではあるが我儘ではない、それを洋斗はよく知っている。
そうして到着した例のカフェ。
値段の割に美味しいと巷の学生の間ではそこそこ人気なのだよ、と由梨香が入店の際に教えてくれた。
「やっぱり、ヒロは生徒会に入るべきだったと思うの!」
由梨香の手元には小ぶりなパフェ、洋斗の手元にはモンブランが置かれる。
その直後、開口一番の発言だった。
「いやいや、俺がそんな所に入ってもなんの役にも立たないだろ」
「ナニをご謙遜なさってるんですかヒロくん。ヒロには世界でもヒロにしかできないたったひとつの特技があるじゃないのさ」
「何ひとつ思い当たるフシがないけど」
「なんだと思う?ねぇねぇなんだと思うのよ言ってみなさいな!」
「これ結構美味いな」
「微塵も関心がないだと!?」
洋斗は素知らぬ顔でモンブランを口に入れる。栗の甘さやほろ苦さが醸す仄かな余韻が心地良かった。
モンブランにすっかりイニシアティブを取られてしまった由梨香は、コホンと大きく咳払いして胸を張る。
「仕方ない私が教えてあげよう。ヒロが持つ世界で唯一の特技───」
由梨香は教鞭のようにピッと立てたスプーンを揺らした。
「それは、私こと巳島由梨香のテンションを上げることだよ!」
「……………………」
「ヒロが生徒会に入ればいつも一緒すなわち私のテンションはうなぎのぼり。それに比例して私の仕事の質アップ。由梨香ちゃん大勝利。さらには学校のさらなる躍進に大きく貢献。やったね!」
「……………………」
「やったねっ!!!」
「いや『やったね!』じゃなくて。それだと俺はただのマスコットだけど会長的にいいのか?」
「あーだいじょぶダイジョブ。書紀とか会計とかは基本生徒会室でスマホゲームやるのが仕事みたいなものだから」
「えぇ…………」
「だから同じスマホゲー要因でも私の活動力を底上げしてくれるぶんヒロの方が優秀ってことだよ」
「つまり俺が生徒会に入っても仕事をすることなく遊んでいればいいって事だな?特に、一切、何も」
「………………………………私にだってヒロの手のひとつやふたつ借りたい時もあるよ?」
「そもそも生徒会に入らないから、大人しく猫の手を借りとけ」
「ふしゃー」
「いやお前が猫かい」
すっかり頬を膨らませた由梨香はパフェを口に運んでさらに頬を膨らませる。ちなみに彼女は一番小さいサイズのパフェを選んでくれているのだが、それはそれで彼女の顔は満足げだった。
そのパフェが半分ほどに減ったあたりで、由梨香はふとスプーンの動きを止めた。
「それで、さ。その…………」
珍しく彼女が言いよどんでいたので、洋斗も手を止めて彼女の言葉を待つ。
言葉を選んでいたようだったが、少ししてから口を開いた。
「この学校に来てひと月経ちそうだけど、どうかな?」
「………………………………」
まず。前提として。
───巳島由梨香は知っている、桐崎洋斗が二年間この世界にいなかったことを。
話を聞く限りでは、どうも真相を明かされる前から違和感はあったそうで、明かされたあとも予感が確信に変わっただけでさして驚きも無かったそうである。常日頃の小さな違和感の積み重ねだけでここまで考えが至ってしまうあたり、由梨香はやはり人をよく見ている。それこそが『いろんな人とすぐに仲良くなれる』という彼女が持つ特技の根幹なのだろう、と洋斗は思う。
そして学校生活についてだが、この世界に戻ってきたのは確かに7ヶ月前だが、創華高等学校の生徒として活動し始めたのは今年度のはじめなので学校生活は正味一ヶ月になる。
当の本人としては、やはり多少なりとも物足りなさは感じていた。
あちらの世界では能力という非現実が間近にあり、新たな仲間、新たな環境に浸りつつ有意義な時間を過ごせていた。それが一度に無くなってしまって、その時の喪失感は決して小さくなかった。
───しかし、それはこちらに戻って間もなくの話で。
「まぁ流石に慣れたかな。それなりに楽しくやれてるよ」
以前に感じていた誰かを失う事への恐れも無く、入学してから一ヶ月でそれなりの友達もできた。
あちらの世界に転がり込む以前の色褪せた生活とは違う。
平凡で、それでいて穏やかな生活を謳歌できている。少なくとも当の本人はそう感じている。
「…………そっか、ヒロがそう思ってくれてるなら大丈夫そうだね」
「…………?」
わずかに物憂げな顔を見せたが、由梨香がクリームをスプーン一杯にすくい、かぷりとかぶりつく頃には元の表情に戻っていた。
その後は、生徒会の仕事が多い、あの先生のテストは難しい、すぐ近くに別の喫茶店ができた、等々に会話を弾ませつつ、40分ほどで由梨香のパフェは空になった。帰り道での約束通り二人分の支払いを済ませて店を出る。
由梨香は先に店から出ていたのだが───、
「こんなかわいい子が日暮れにうろついてちゃ危ないじゃん。なぁ?」
「それ俺らがアブねぇやつみたいじゃねぇか」
「いや、あのーですね。あはは…………」
由梨香が大学生くらいのガラの悪そうな男三人に囲まれていた。
典型的なナンパだった。
由梨香は学園最高級のルックスの持ち主であり、髪色が鮮烈な事もあって街を歩けば嫌でも目立つ。ただ、店を出て数秒でナンパに捕まるのはいくらなんでも速すぎる。
洋斗はあくまでも素知らぬ顔で足を前へ。
「出会って数秒ですぐ仲良しか、さすがだな」
「そんな訳ないし遅いよ何やってたの!?」
「パフェの支払いだっての」
彼の姿を見た由梨香は直ぐに緊張を解いて傍に駆け寄る。
「ンだよ、彼氏いるじゃねぇか」
そんな舌打ちが聞こえてきたが、すぐに口の端が吊り上がった。
「そういやぁよ、俺たち最近金欠なんだ。金貸してくんね?」
「行こう由梨香」
「え、えっと…………」
彼らの言葉を完全に無視して、ナンパに背を向けて帰路につく。由梨香の手を引くと彼女が後ろ側になってしまうので、洋斗は彼女の背中を押してナンパから離れる。
「あれ、シカトしちゃうんだぁ」
背後から声が聞こえた。
「実は俺さ、ボクシングのライセンス持ってんだよねぇ。いいのかよ俺に背中なんて向けちゃって」
「………………………………少し離れとけ」
「ヒロ……………………」
洋斗だけ足を止め、由梨香の背中を強く押す。彼を呼ぶ声には心配の色が滲んでいた。
「まぁいいや一発食らっとけ!」
ナンパの一人がボクシングの構えで大きく踏み込み、洋斗との距離を一気に詰めた。強く握った右の拳を腰に引き絞り、
「怪我、させないでね」
「わかってる」
───放たれる。
踏み込みとともに放たれた右のストレート。
速い。
が。
あの時鏡合わせのように向き合った、『俺』の拳とは重さが違う。
迫る拳に左の手を添えて、流す。
彼には、拳の軌道が曲がったかのように見えただろうか。拳が自らの意思で、少年の顔面を避けたと錯覚しただろうか。
「ちょ…………ッ!?」
不自然な軌道に拳を曲げられて体勢を崩し、頭が混乱している内に腕を取って地に転がした。
「肩と腰の回転が連動しきれてないから突きが軽い。それじゃ相手を削るより自分のスタミナが切れる方が先だぞ」
「つ、ッ!何言って…………」
「あと、いきなり大振りの右ストレートは相手をなめ過ぎてる。距離の詰め方は良かったけど、それで相手が動じなかった時点で疑問くらいは持たなきゃな。じゃないとこんな風に手痛いカウンターを食らうことになる」
立ち上がろうとする男まで歩み寄り、腰を屈める。動揺で揺れる男の目と目が合った。
「ついでにもうひとつ、ここはリングじゃない。力の使いどころを間違えて後悔してからじゃ遅いんだ。気をつけといて損はないぜ?」
「……………………」
洋斗が背を向けて離れても男が動き出す気配は無い。どうやらうまい具合に相手の気力を削げたようだった。
「…………あ、そうだ」
遠巻きに見ていた由梨香と合流してナンパのもとから去る前、ふと思い出したように振り向いた。
「さっきも言ったけど、距離の詰め方は良かったと思う。今どんなスタイル目指してるかは知らないけど、アウトボクシングとかは向いてるかもしれないな」
「あはは、いっつもありがとうね」
「まぁ、こればかりは仕方ないな。由梨香にとってはよくあることだろ?」
「別に嬉しくないよ…………私以外にもかわいい女の子はたくさんいるのになんで私ばっかり…………」
「……………………まぁ、そういう所だろうな」
「?」
傍目から見れば嫌味以外の何でもないのだが、恐らく彼女は自分以外の女の子を本当に可愛いと思っていて、自分にだけナンパが集まることを本当に不思議に思っている。他人の良いところをすかさず見つけ、良いものを「良い」と屈託無く言う───そんな当たり前に思える事を当たり前に、かつ陽気にできてしまうのが巳島由梨香の性格であり、この裏表のない性格こそ彼女が光る魅力なのだ。
「けど良かったよ、今回は何もなく終わって…………」
「いやこれが普通だって」
由梨香を襲うナンパの数が多いという事は、それだけ洋斗がナンパを撃退した数も多いということだ。
といっても彼氏がいると分かった時点で大半のナンパは離れるので、今回のようなケースはそうそう無いが、それでもその容姿もあって、ナンパに遭うときの振れ幅は尋常ではない。
男の子にその辺で摘んだ花をプレゼントされたという微笑ましいものから、『脅しに使うときに人質はかわいい子の方がいい』という理由で身代金目当ての犯罪者に誘拐されかけた物騒なものまで、巳島由梨香のモテ期列伝は数多い。二人がなるべく一緒に下校するようにしているのもそうした有事に備える為、という側面もあったりする。
───そうして二人肩を並べて帰っていれば、当然こういった話題も挙がる。
「私達って高校の最上級生になっちゃったわけじゃない?」
「まだここに来て半年くらいだからな。全くもって実感が沸かない」
「『向こう』の方でも学校には通ってたんだよね?どこかの魔法学校みたいな!」
そのイメージがあながち間違いじゃないあたりに多少のもどかしさを感じつつ───。
「やっぱり場所がガラッと変わって時間がリセットされた気分になってるのかもな」
「うーん、そんなものなの?転校とかしたことないからわかんないなぁ…………」
心機一転、という言葉がある。
ある出来事がきっかけで、そこから気持ちがすっかり変わること、もしくは変えることを指す言葉。『見知らぬ場所に移った事を折りとして気持ちを切り替える』という意味では進学も転校も、さらには転移においても大した差は無いのだ。
…………と、そんな些細な差にさして関心が無かった由梨香は流れるように本題へと引き返す。
「あ!それで本題だけど、ヒロは卒業したら何になるの?」
恐らくほとんどの高校生がぶち当たるであろう悩みの種───ようするに進路の話である。
しかし、その答えを考えるうちについ足が止まりそうになった。
これまでの自分といえば家では武道を続け、中学では自分の心を守るのに必死だった。こちらの高校ではまだ大した変化もないし、『あちら』の高校で培った経験に至っては、生活に対する意識を好転させるには至ったけれども、そのほとんどがこちらで全く通用しない異物である。
(自衛隊とかなら辛うじて活きるものもあるかもだけど…………だけどなぁ)
ふと漠然としたイメージ───銃を手に塹壕に身を潜める姿を想像してみる。だが、そのイメージにいまいち自分が重ならなかった。
将来の夢が重要なものだというのは分かる。夢は先行きを示す旗印のようなもので、人生におけるターニングポイントのひとつである。それが有るのと無いのとでその道行きが明確に変わるのは当然だ。
問題はマップのどこにその旗印を刺すか。
すなわち、その目標を何にするかだ。
その刺しどころを間違えればその将来があらぬ方向に進んでいた、なんてことになりかねない(銃と突貫ルートはそうそう選ばないとは思うが)。だからこそ後悔が無いよう、真剣に考えて決めた上で旗を突き立てたいと思っている。
半端な気持ちで選ぶことはできない。
確かな誇りをもって語れる夢でなければならない。
───『彼女』に負けないくらい、自分も頑張る。
それが『彼女』と交わした最後の約束なのだから。
…………あ、またあの顔になってる。
なかなか質問の答えが返ってこなくてふと彼を見ると、彼はただぼんやりと前を見つめていた。
彼がこっちの世界に戻ってきてから、彼はたまにこういう顔をするようになった。
ただぼんやりしているのとは違う。目は確かに前を見据えているけれど、その焦点がおかしな所で交わっている、そんな感じ。まるでどこか別の世界を見ているみたいな、私が見たことのない不思議な表情だった。
彼が見ているその先を、私はきっと一生見られないんだと、根拠のない確信が胸の中にある。だから、私はこの顔の裏にある気持ちを本当の意味で共有することは諦めざるを得ないとも思った。
それでも。
「……………………………………………………………………………………………………………………ちょっと妬けちゃうな」
「ごめん、今なにか言ったか?」
「ん?私何か言った?」
「え?あぁいや…………」
───そう考えるたび、私の胸の奥にあるものがチクリと痛んだ。
そんな気がした。
そうして歩くこと数十分、桐崎家である道場の門扉前に到着する。ちなみに巳島家はここから少し先に見えている洋館調の屋敷である。
「…………それじゃ、またね」
そう言って目を伏せる由梨香の肩にそっと手を置いて言う。
「おう、また明日な」
「…………うん!また明日!」
由梨香の表情がふわっと花が開いたように彼女の緊張が和らぐのが分かった。自分がまたどこかに行ってしまうかもしれない、という不安はまだ拭いきれていないようだった。
満面の笑みで我が家へと戻っていく由梨香を見届けて、洋斗は玄関を開ける。
───その瞬間、飛んでくるものに対処するのは未だ続く習慣である。
「…………ただいま〜」
飛来した平皿を片手に挨拶する。
「リアクションも無しだと流石に辛いぞ?」
「挨拶も無しに毎日毎日物投げつけられてたら日常にもなるっての。なに?その年になってまだ挨拶も覚えられないわけ?」
「肉体言語って奴だ」
「投擲による遠距離砲撃のどこが肉体言語だクソ親父!!」
「通信技術だよ肉体言語も進化してんだよ!そんなことも知らんとは時代遅れ甚だしいぞ!」
「くッそああ言えばこう言いやがって…………ッ」
あまりの面倒くささにすっかり交戦を諦めた洋斗はブツクサ悪態をつきながら居間に向かう。そして手にした一枚の平皿を触媒として『遠隔式対桐崎龍治肉体言語兵器』を起動することにした。
「ただいま母さん。親父がまた食器投げたぞ?」
「あらあらおかえりなさい洋斗。ちょっと待ってなさいね、今日の晩ごはんはビーフシチューようふふ」
「ま、待て!『母さん』呼びがまだ嬉しいのは分かってるが包丁持ってにじり寄って来る時に笑ってるのはおかしいと思うなぁ!?」
「料理にはちゃんと牛の肉を入れてくれよ?」
「わかってるわよ洋斗。一緒に入れたら他の食材が可哀想だもの」
「洋斗は物騒なこと言うんじゃない!!てか夫の扱いが食材以下なのはさすがにうわちょ辞め───
そんなひと悶着を挟みつつ、なんやかんやでひとりも家族が欠けることなく(ビーフをちゃんと使っている)ビーフシチューを食べることができた。すっかり肝を冷やした様子の龍治だが、恐らく食べ終わる頃には普段通りに戻っているだろう。
つけられたテレビには火元不明な火災がわりと近くで起こった旨のニュースが流れていたけれど、桐崎家のビーフシチューはいつも通り美味しかった。
「…………でも、本当に学校の方は上手くいってるの?いじめとか遭ってない?」
「大丈夫だって、そんな一日二日で大きく変わったりしないから。特別目立つような事もしてないし」
「そう?ならいいのだけど…………」
それでもやはり、三年生になってから別の学校に移った事について多少の不安は残っているようで、例外の日が思い当たらないくらいにほぼ毎日こうした質問が世良の口をついて出てくる。
その都度安泰の旨を伝えているのだが、そのやり取りも鬱陶しくはない。むしろそうした『お節介』がいつも自分を見てくれていることの裏返しに思えて、少しだけ安心したりもするのだ。
「まぁイジメなんぞあったところで反応を返してやらなければすぐ飽きてどっか行くさ」
龍治はビーフシチューの中からごろごろのじゃがいもをすくい取り、取るに足らないといったふうに口に運んだ。
「現に俺も世良をイジってたときはそんな感じだったしな」
「そうなのか?そんなヤンチャしてた風にも…………見えるな」
「おい。とにかく、今じゃすっかり角も取れてるが、出会って間もない頃の世良はとにかく冗談が効かない堅物だったんだ。それでいてドッキリ系のイタズラにはスゲー愉快な反応するもんだから、当時の俺はそれが面白くってな」
「あぁ道理でしつこいと思っていたら、やはり反応を楽しんでいましたかそうですか」
「好きな子にはイタズラしちゃうっていうあれか?」
「そんなところかもな。あと世良よ、スプーンは人に刺すものじゃなくて掬い取るものだぞ。その先っぽの形見て分からないのか?」
「ふふ、やろうと思えば楕円形だって過去を消し去るカタチたり得るのよ…………!」
割と強めにスプーンを突き込む母親とそのスプーンを空になった茶碗で防ぐ父親というよくわからない光景が繰り広げられている。なんやかんやでやっぱり反りが合ってるんだなぁ───と、それを見ながらブラウンソースをすする洋斗だったが、不意に眉をひそめる。
「…………というかそれいつの話だ?まさか大の大人が同年代の女性にそんな幼稚なイタズラしてたわけじゃないだろうけど…………」
「ん?あぁそれは───」
言いかけた龍治を、ブザーの音がかき消した。
家を訪れたのは放課後に一緒に帰ったばかりの隣人巳島由梨香だった。ラフなスウェットパーカーをに身を包み、その手には手を広げたくらいの大きさのタッパーを持っている。
半透明の蓋を開けると、中にはお肉入りの野菜炒めがぎっちりと詰まっていた。
「実はその…………冷蔵庫のお野菜を使い切っちゃおう!って思って全部入れ込んだらとんでもない量になっちゃってね?それでぜひともお裾分けにと持ってきた次第でしてよ?」
「だからっていくらなんでも作り過ぎじゃないか?」
「それはほら、野菜って炒めると水分抜けて縮むって言うじゃない?それを信じた!」
「限界って知ってるか?」
「乗り越えるものだよ!」
下手したら後世にまで残りそうな名台詞が生み出されてしまったが、それが晩御飯の調理過程で使われている時点で台無しである。
「あら、由梨香ちゃんじゃない」
そこへ世良がひん曲がったスプーンを片手に顔を覗かせた。
「こんばんは。すみません、こんな夜遅くに………」
「いいのですよ。そうです、折角だから少し上がっていってはどうですか?」
「い、いえ!晩御飯はもう食べてしまっていますので!」
「そう、でもせめてお茶でも飲んでいかないかしら?」
「そ、それでしたら是非!」
そう言って敷居を跨ぎ、踵をそろえてスニーカーを脱いだ。
そうして家族団欒に花が添えられ、晩餐は一層の賑わいを見せることとなった。
一方、
一帯の高層ビルを眼下に見下ろすとある一室に、とあるメンバーが集まっていた。
その人数、五人。
その中心───四人が思い思いに見つめる中で指を組んで跪く、襤褸布を被った少女。
「今宵、皆さんが招集された理由はひとつです」
少女がその指を解き、皆に向き直る。
「標的の一角───桐崎洋斗の行方がこの世界から消失している、との思し召しです。間違いないですね?」
「…………あぁ、間違いない。標的の姿が無い。微々たる痕跡は残っているが完全に先が途絶えていた」
「その点については私も確認しています。近辺を探りましたが詳細な行方は予測できませんでした」
「ふむ、この二人が言うのだ。私などに追うことは到底不可能であろうな!余程うまく逃げ果せたと見える!『してやられてたぜクソ野郎が』というやつだ」
「し、主の御前でふしだらな言葉は慎んでください!不敬です!」
「おっとこれはすまなかった『天秤様』、減らず口が私の専売特許でね」
「…………んもぅ。以上の経緯もあり、『あちら』へと行方を消した可能性についても同時に調査を行っもらっています。首尾は?」
「んー、一応あっちのゲート使って火種は撒いといたけど、網に掛かるかどうかは流石に賭けかな?これで掛からなければ現状打つ手無っし」
「…………『周囲の人間を巻き込む』という条件は守っていただけましたか?」
「そのあたりは問題なっしんぐ。ちゃんと巻き込みやすい火種を選んで遊ばせといたからにゃー」
「であれば問題ありません。桐崎洋斗の行動パターンを考慮すれば、周囲に火種があれば必ず動きます」
「それも『予測』かい?」
「はい。間違いありません」
「いやー、いつ聞いても高々予測にすごい自信だね?」
「無論です。実際当てていますので」
「全くだよ。それ、ほぼ神域に踏み込んでると思うんだワタシ」
「大体だね、いい加減勿体ぶらずに私に任せてみてはいかがかと思うが?私が一言言えば人間ひとりの発見など造作もないと知っているだろうに」
「その後処理で数十倍の時間はかかるだろうが。いい加減自分が最終兵器だと理解しろ」
「そう睨むなオオカミ君。まったくこれだから人気者は辛い。であればもう戻って良いかね?いい加減オモテでの公務で秘書が火を噴く頃だ」
「…………なら、もう解散か?」
「…………はい。神託では、要件は済んでいるとのことです」
「それでは私もこれにて失礼します。およそ32分後に別件のターゲットが目標地点を通過しますので」
「そんじゃ私も職務に戻りますかねー。いろいろと準備もあるし、ヤンチャな一番弟子の指導に戻らないと患者の身が危ないからにゃー」
五人の人間が散っていく。
集団の名は───『ξίφος』
天秤の下に、この先起こるであろう世界の変革を阻む組織である。
一方、
私も含めて、三人はある部屋に集められました。
他の教室とは一線を画した荘厳な様相の一室───校長室です。
「お主たちにある任務を頼みたいのじゃよ」
集まってまだ間もなく、校長先生が話し始めました。
「元より学生に頼むような案件ではない、無論断るのは自由じゃ。しかし、この頼みを受けるにせよ断るにせよ、ここでの話は他言せぬように。よいな?」
三人揃って首を縦に振りました。同時に、この要件が相応のものなのだと分かって気を引き締めます。
校長先生の横にいた担任の先生が事情を教えてくれました。
「…………近頃、一人の逃亡犯が本校付近で姿を消しました」
この一言で、私は鬼神ノ災禍の再来とも称された例の一件を思い出します。あれだけの混乱は起こらないにしても、住民にとってとても怖い事なのは代わりありません。
「これまでは残されていた痕跡を辿りながら行方を追っていたのですが、ある場所から続いていた痕跡の一切が消えているのです。犯人単独でここまでの隠蔽ができると考えるのは難しいため、共犯者が存在する可能性も含めてそちらは調査を進めているのですが…………気になる点がひとつあります」
「痕跡が消えたその場所が───異界の門の近郊なのです」
「え…………」
ズキ、と。
少しだけ胸の奥が締め付けられます。
あれからそれなりの時間が経っているけれど、それでもまだ胸に刺さったトゲは抜けないままでいます。
「それって、まさか」
「『それ』を可能性のひとつとして考えています。それも現状最有力の可能性として」
「………………………………」
「逃亡犯の取り逃し、そして、こことは異なる異世界の存在…………言うまでもなく、どちらも公にする事はできません。その為警察などの公共機関はあの門を通るわけにはいかない。そして、その公共機関には私達、学園の教師も含まれます」
と、改めてこちらを見回します。
「以上を踏まえ、皆さんの経験、そして相応の戦闘スキルを見込んでの要請です」
その口から出た一言。
「皆さん、『あちら』の世界を捜索し、脱獄犯に関する情報を集めてください」
その一言で、新たな世界への幕が開いたのです。




